倶楽部メモ(361)
平成19年 4月13日〜 4月20日



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月13日(金)14時49分55秒
タイトル 車両基地
久々に東海道線を利用する機会がありました。下り便が田町を通過したところで一枚。
再来年に予定される東北・高崎線列車の東京直通に際して、車両基地としての機能は
尾久に移転されるらしく、この眺めも遠からず見納めとなるのでしょうか。

現在となっては、画像の様な車両の陣容自体に、懐かしいものすら感じてしまいます。
まだ「富士/はやぶさ」の回送前だった為、構内で見掛けたブルトレは「銀河」用と
思われる一編成のみでした。ちと寂しいですね。




投稿者 てりてり
投稿日 2007年 4月15日(日)20時05分2秒
タイトル Re:車両基地
 ご無沙汰で御座います。雑魚様の書き込みを拝読いたしました。
品川の機能を尾久に移されるのですね。綺羅星の如く優等客車列車が集っていたのも過去の事になりそうで、
少し寂しさを感じますが、これも時代の流れでしょうか。
今や東京駅を発着する夜行列車も4本のみですが、ご指摘の連絡線完成時にはこのメンバーは残っているのでしょうか。
 そう言えば機関車の所属を表わす「品」も今は無くなったと聞き及んでおります(田端でしたっけ?)。
 先日の雑誌を眺めつつ、些か暗澹たる気持ちになってしまいがちになりそうです。
 しかし「民営化」されて早20年。時の経つのは早いものです。
いつまでも過去に引きずられては前に進めないと言う気持ちもあるのですが、こればかりは…。それでは。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月16日(月)14時39分40秒
タイトル
寝台車の展望
> 過去に引きずられては前に進めないと言う気持ちもあるのですが、こればかりは…

ブルー・トレインの場合、24系25形の新番台でも製造が1980年と、既に四半世紀以上
経過してしますから、今後大改正の度に少しずつ寝台特急が淘汰され、それでもなお
需要が見込まれるスジについては「サンライズ」交直流版の様な車両が登場する事に
なるのでしょうね。

以前にも言及しましたが、夜行便としての有効時間帯や、航空便との競合、湘南新宿
ラインの拡充に伴う東海道線のダイヤ事情などを勘案した場合「富士/はやぶさ」は、
繁忙期のみの不定期運転や(特急料金の通算制など)新幹線との連携性を前提とした
東京発着の廃止など、件の連絡線開通時を最初のヤマ場として、遠からず、何らかの
縮小策が講じられるのではないかと想像します。

有効時間帯と言えば、在京時代、寝台特急で九州方面まで往来する際は大概、東京〜
熱海・静岡・名古屋を新幹線で繋いだ事を想起します。食堂車など、気分転換の場が
縮小されて以降、長時間移動に相応しい魅力が覚束ない、と云った印象も否めません。
これは「日本海」についても同様ですが、こちらは特急閑散区間となる酒田〜青森で
昼行特急を補完する側面もあり、事情が少し異なる様です。

そう言えば「ジョイフル・トレイン」では数少ない客車として人気を博しつつ、最近
稼働率が低下気味で動向が注目されている「ゆとり」にしても、この品川から尾久に
ネグラを移して久しいですね。

鹿島鉄道廃止で地元の貴重な被写体が消滅し、写真趣味の対象がますます、鉄道から
風景に移行しつつあります。長距離隧道と非電化区間とに跨る関係上、動力車置換が
困難であろう「北斗星」が、それでも何かしら置換された時「撮り鉄」趣味は終焉し、
以降は専ら「懐古趣味」に走るのかも知れません。




投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 4月17日(火)09時44分56秒
タイトル 元鉄道小僧日記(能代偏)
鉄道マニアの皆様はご存知の通り、能代市というのは昔の馬車組合の影響で奥羽本線が市街地から逸れています。
多分、何も知らない長距離旅客の方たちは
「なんでこんな何も無い駅(東能代)に停車するのか?」と不思議に思うでしょう。
能代駅に行くためには3番線から五能線に乗り換えなければ行けません。
市街地から5kmは離れているので友人とブルートレインを撮影しに行くのも一苦労だった思い出があります。
AM6:00頃から日本海・あけぼの・つがると時刻表とにらめっこをしながらフィルムの準備をしていました。
旧国道7号線踏み切りの脇でシャッターチャンスを狙っていましたが、
駅手前ということでスピードも落ちていたのでオートフォーカスじゃなかった自分にはありがたかったです。
昭和53〜54年頃の思い出です。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月17日(火)18時36分33秒
タイトル
能代憧憬
> 能代市というのは昔の馬車組合の影響で奥羽本線が市街地から逸れています。

同地を境に、下り進行方向が北向きから東向きに大きく変る中、能代の街を通るのは、
いささか迂回気味となり、早々に米代川を渡る必要もあるなど、地理的な要因ゆえと
踏んでおりましたが、その様な事情があったのですか。

> なんでこんな何も無い駅(東能代)に停車するのか?

私も乗換えで下車した事がありますが、たしかに長閑な雰囲気でしたね。奥羽線から
分岐する五能線を見ると、さながら電化路線の様な錯覚すらあり(昨年 3月22日投稿
拙稿「春はあけぼの」の添付画像を御参照ください)東能代駅は謎だらけ、といった
雰囲気でした(^^)ちなみに地域きっての名門と聞く能代高も東能代駅の近所ですね。
同校出身の知人曰く「昔は街中にあったんだけどねぇ〜」

幹線主要駅が郊外にあり、そこで分岐する支線途上に中心街の駅があるという構造は、
青森県八戸市も同様ですが、能代市と異なり、馬淵川を挟んだ位置関係という地理的
要因が大きいと感じます。東能代も、奥羽線上においては、秋田県有数の主要都市の
玄関となるので、八戸市風に、奥羽線駅を「能代」中心街駅を「本能代」とした方が、
遠来の旅客には判り易いのではないか、とすら感じてしまいます。

ちなみに、1901年に青森側から奥羽線が東能代に通達した当時は、実際に「能代」を
名乗っており、1908年に開業した五能線の中心街駅は、当初「能代町」と称しました。
そして翌年、奥羽線駅は「機織駅」中心街駅は「能代」とそれぞれ改称し「機織」が
現行の「東能代」になったのは、1943年と、意外に後の事なのですね。

能代付近の撮影地というと、田圃が広がる雄大な曲線という、私好みの構図と思しき、
東能代〜鶴形の鵜島地区の踏切を連想します。一方、秋田側にも美味しそうな足場が
結構多い様に見受けられ、現在もなお、一日あたり「日本海」「あけぼの」計三本が
撮れるこの一帯は、憧憬の地でもあります。

米代川橋梁の構図が気になる二ツ井町も能代市に合流したのですね。そして鷹巣町は
秋田内陸縦貫鉄道沿線を統合して「北秋田市」………何やら舌を噛みそうです(^^)



投稿者 103列車機関士
投稿日 2007年 4月18日(水)07時56分2秒
タイトル 禁書?「鋼製客車概観」
ご無沙汰しております。皆様いかがお過ごしでしょうか?
最近乗り鉄の方に浮気してまして・・すっかり客車の方は休業状態になっていました
今度は関西の方に普通列車で出かけてみようかと思っております。
そこでお尋ねしたいのですが
大阪の交通科学博物館の図書室に以前客車のドアなどの詳細な記録が記してある
京都大学鉄研の「鋼製客車概観」、あまりにもリアルで返って閲覧すると工作が滞ると
聞き及んでおります。ご覧になった方にお尋ねしたいのですが
どれくらいの範囲を取材したものなのでしょうか?やはり関西を中心としたものなのでしょうか?
もし気合でメモを取れればいいのですがあまりにも膨大でしたら自分のやりたい
編成の物に留めたいと思っております。
画像は無関係ですが最近遊んでばかりなのでそろそろ工作したくなってきました・・
(爆)




投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 4月18日(水)22時44分50秒
タイトル Re:禁書?「鋼製客車概観」
103列車機関士 様
 弁天町の交通科学博物館にあるくだんの資料、私も一度閲覧しましたが、かなりのものですよ。
ただ時間がなかったため、とりあえず一番興味のあったオハ35系の形態分類の記事をちょっと書き写しただけ…
他にどんな記事があったかも良く覚えていないていたらくです。
これからお出でになるなら、しっかり時間をとって、気力・体力を蓄えて臨まれることをお勧めします(笑)。



投稿者 103列車機関士
投稿日 2007年 4月18日(水)23時02分49秒
タイトル やはり・・・
クモイ103殿
ご無沙汰しております。ちょっと文章が変でしたが以前この書物について
ドアの質問をした時話題になった事を思い出しまして・・
そうですか・・そんなに凄いのですか・・門前仲町の模型屋さんが
取材して本にしてくれればいいのですが・・それでは気合を入れて
大好きな配置の少ない客車区の物をメモしましょうかね・・
ちょっと見るのが怖くなってきました(笑)



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 4月19日(木)10時59分44秒
タイトル 元鉄道小僧日記(能代編2)  
雑魚様おはようございます。3/22投稿分の画像拝見しました。
そこまでは(電化か非電化か)覚えていませんでしたが、
能代駅に到着するのは気動車かDE10(?)に引かれた客車だったのは覚えています。
雑魚様がおっしゃるとおり、東能代は能代平野に位置していますが鶴形辺りで山間部を抜けるのにトンネルがあります。
富根駅は平野ですが、二ツ井駅に行く手前には米代川を渡る鉄橋とトンネルなど激写エリアの好ポイントが点在します。
特に冬場は山々に雪が積もり秋田杉のクロっぽい色で墨絵のような写真が撮れます。
能代には5年ほど住んでいましたが、中学一年の春休みに初めて能代から岩館まで五能線乗りました。
米代川鉄橋は長く、八森を過ぎると海沿いの景色が良かったです。
「また行きたいな」と思いつつ帰宅してみると母から「来月から山形に引っ越すとお父さんから電話あって・・・」
山形編に続く



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月19日(木)17時26分1秒
タイトル 急行 「津軽」 の思い出  
> 冬場は山々に雪が積もり秋田杉のクロっぽい色で墨絵のような写真が撮れます。

画像は、確か旧二ツ井町域と記憶しますが、奥羽線から眺めた、二月の白神山地です。
まさに墨絵の如き風情でしたが、元号が改元された頃に訪ねた、厳寒期の小坂鉄道の
印象からすると、米代川本流域にしては外に積雪は少ないという印象でした。

> 米代川鉄橋は長く、八森を過ぎると海沿いの景色が良かったです。

私が初めて秋田県域を訪れたのは、80年代半ば。とは言っても、ワイド周遊券による
北海道旅行の途上、当時は 14系ハザ編成だった「津軽」で通過しただけでした(^^)

当時、在籍していた大学の仲間数名でのグループ旅行でしたが、一部は東能代で下車、
五能線で撮影(確か大間越付近)後「日本海に沈む夕陽」を眺めつつ、青森に移動し、
昼過ぎ青森に入り、市内を散歩していた「先発部隊」とは、函館到着が午前零時頃の
青函連絡船で再合流という段取りでした。

東能代では「津軽」からの五能線接続が悪く、それなら区間便で能代に出て、街中を
散歩したほうが良さそうに思えましたが、始発駅からの着席を優先するという理由で、
寄り道班は、時間を潰すには「何も無い」東能代駅で呆けていた次第です(^^)

青函連絡船で函館到着を知らせる放送が入ると、函館線列車の着席争い、通称「函館
マラソン」を控え 船内が殺気立っていたのは、皆様良く御存知の事と思います(^^)
この時の接続便は、旧型客車(確かカーペット車がありました)による「山線」経由
札幌行の夜行列車(41レ)で、マラソンが特に熾烈を極めましたね。

なおこの時、私は「津軽」による奥羽線乗り潰しを優先した為、五能線は乗らず終い。
翌年、東北を一人で旅行した時、投宿地の五所川原で朝市を見物した後、上り列車で
乗り潰したのですが、非常に天気が良い日で、延々と続く日本海の眺めは格別でした。

東能代到着後は「津軽」で大館に移動。秋田以北では貴重な昼行優等列車の筈なのに、
車内はガラガラで、米代川沿いの田園風景を眺めながらの、本当に長閑な旅でしたね。
大館から花輪線に乗り換え、盛岡から新幹線で帰京……の予定が、左沢線に寄るかと、
ふと思い立ち、仙台で下車。仙山線を山形に向かい、同線を往復。しかし、日没後の
乗り潰しは、思い切り無意味でした(笑)同夜は上り「津軽」に投宿、やっと帰京の
途に就いたのでした。




投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 4月19日(木)23時33分9秒
タイトル 五能線の旅  
もう二十年前になります。あけぼのに乗って弘前へ。
車内では帰省する人と意気投合し酒盛りになりました(^^;しかし東北方面の夜行はなぜかこれが多いような。
弘前では津軽弁で老婆がこの列車森田行きますか?
皆様と同じくたいがいの駅は知っていますがこの時は時刻表で確認しました。
あったよ五能線に陸奥森田って(^^;
お約束の津軽鉄道ストーブ列車に乗った後艫作(ルビはいらないよね)で下車し不老不死温泉。
小雪舞う中露天風呂は入れず旅館の内風呂。|温泉|^;)
露天風呂は最近のテレビで見るとひょうたん型になっていますが拡張したのでしょうか?
日本海を満喫し無事東能代に到着。帰路に着いたのであります(^^)



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 4月20日(金)09時19分35秒
タイトル 元鉄道小僧日記(山形編)  
昭和56年4月、全く初めての山形市の土を踏みました。
引越しは車であったため鉄道には関係ないと思っていたのですが・・・
銀行が用意してくれた社宅というのが山形駅西口徒歩2分という鉄道好きにはもってこいの好立地。
荷解きもほどほどに汽車(東北は汽車と呼ぶ)を飽きるまで眺めていました。
西口地下道から社宅までの2分に何があったのでしょう?それは国鉄官舎群でした。
ですので民間の借家ではほぼ山形駅に一番近い場所に住めたのでした。
現状では西口再開発で国鉄官舎の含めて全て取り壊され高層ビルなどが建設されたようです。
山形駅はターミナル駅的存在で奥羽本線上下の他に雑魚様の日記に出ました仙山線(ローカルだが電化済)
左沢線(あてらざわせん・非電化)の発着駅でした。
特急は、「つばさ」のほかに「やまばと」が運行されていました。
485系の食堂車が連結されている12両編成で、東北新幹線開業前という事で
この地方では特急列車の「格」が最高位だったと思います。
左沢線は地元の人か、よほどの鉄道マニアでなければ読めない路線名だと思います。
山形駅を北上しすぐに、左手に霞城公園(山形城跡)が見えますが、桜の季節のロケーションはなかなかです。
北山形で左沢線は左に、奥羽本線と仙山線は右手に進路を変えます。
そのひとつ先の羽前千歳で仙山線は右に別れを告げます。
山形には4年ほど住みましたが左沢線に乗れなかったのが心残りです。
ところで左沢線終着駅に左沢駅と山形鉄道終着駅荒砥駅をつないで
「山形環状線」計画があった事をご存知の方はいらっしゃいますか?
自分の記憶では曖昧なもので・・・確か何かで聞いたことがあったんですが。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月20日(金)18時25分11秒
タイトル 山形 ウンチク  
> 山形駅西口徒歩 2分という、鉄道好きにはもってこいの好立地。

霞城公園を勘案すれば、山形県内では「一等地」ですね(^^)1980年代の前半ですと、
奥羽線では、電機牽引の旧客列車の後部に気動車が連結されるという、珍妙な編成も
散見され、気動車はエンジンを稼動させていたのか、あるいは、運行上の動力区分は
どの様な扱いだったのか、など、謎だらけの存在でした(^^)

> 特急は「つばさ」のほかに「やまばと」が運行されていました。

確かボンネット車の運用でしたね。嚆矢は1964年に登場した気動車特急で、1965年に
会津若松発着編成が郡山まで連結される様になり、1968年「ヨンサントオ」改正時に
電車化されました。その際、会津若松発着の編成は「あいづ」として独立しましたが、
正確には、改正の直前に一足早く電車化され、ごく短期間ながら「会津やまばと」を
名乗ったそうです。

> 霞城公園(山形城跡)が見えますが、桜の季節のロケーションはなかなかです。

そちらが山形に御住まいの頃、私は、水戸城址に位置する高校に通学していましたが、
後年、霞城公園の佇まいを見て、水戸城址もこんな風だったらな〜と感じたものです。
周囲を常磐線・水郡線・貨物線二系統・茨城交通水浜線跡に囲まれた「鉄環境」では、
決して負けてはいないのですが(^^)

なお、霞城公園ゆかりの山形藩における「最上騒動」で改易処分を受けた、最上氏の
重鎮の中には、のちに水戸藩に家老待遇で迎えられた例もあり、その意味では山形に
何かと縁を感じる水戸っぽの雑魚でした。

> よほどの鉄道マニアでなければ読めない路線名

左沢城を擁した左沢藩ゆかりの旧左沢町は、1959年の漆川村との合併の際、左沢藩を
治めた「大江氏」にちなんで、大江町と改称したそうですね。

> 左沢線終着駅に左沢駅と山形鉄道終着駅荒砥駅をつないで「山形環状線」計画

「改正鉄道敷設法別表第25号」ですね。荒砥〜左沢は、私も車で抜けた事があります。
鉄道を通すには山が深過ぎる印象でしたが、実はこの経路こそ最上川本流なのですね。
では、奥羽線の経路では、どこが支流同士の分水界になるかと言えば、赤湯〜北赤湯
信号所の勾配区間がそれに該当します。この勾配を境に、米沢側は一面銀世界なるも、
山形側は積雪量が少ないという光景を見た事があり、まさに置賜地方と村山地方とを
地勢的に分かつ境界線という印象でした。



 
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