倶楽部メモ(344)
平成18年 9月29日〜10月 2日



投稿者 北オク
投稿日 9月29日(金)22時19分12秒
タイトル A寝台専用列車
皆様、こんばんは。
以前、オロネフ10の所属区と屋根の件ではお世話になりました。

今回、お邪魔しましたのもオロネフ10絡みでございます。
先日、ある雑誌の表紙にオロネフ10を最後尾としたA寝台専用列車らしき写真を
見ました。写真の背景からして昔の東京駅の12番ホームの様な気もします。
この列車の運用や編成などご存知の方おられましたら、ご教示賜りたいと思っております。

オロネ10(オロネフ10)は客車の中では1番好きな車輌でありまして、その車輌
ばかりの列車があったすれば嬉しい限りです。運用や編成など非常に興味が沸きました。

晩年は編成の中間に挟まれ、オハネフ12の様に緩急車として編成の最後尾につくことも
なかったと記憶しておりますが、この写真を見てこのような列車の為につくられたのかなと
感じました。
スロ62やスロフ62で仕立てたグリーン車専用列車がありましたので、その寝台車版と
して、長距離目的の団臨と言う感じがしますね。


投稿者 やえもん
投稿日 9月29日(金)23時38分18秒
タイトル 北オク様へ
皆様、初めまして。
A寝台専用列車の件ですが、関西ではことぶきという臨時列車がありました。
おぼろげな記憶ですが、結婚シーズンの大安が運転日だったと思います。
新幹線博多開業で廃止になったので50.3以前の時刻表で確認出来ると思いますよ。


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 9月30日(土)03時16分11秒
タイトル 松戸電車区電車の墓場、唸るモーター鬨の声
 クモイ103様、鋭い御洞察勉強になりました!
 確かにpassenger car=PC=客車は馬車も同じで使っている地域があるとか、
もっとも英国皇室列車で世界最初の妻貫通幌通路が実現し、世界最初の寝台車は家具製造販売業の兄弟(Pullman)によるもの、
と鉄道は「技術アイデア転用」を重ねて来た訳で(新幹線なんぞ戦闘機技術の注入ですからね・・・=車体振動防止)、
一方船は既に独自の文化・技術の世界を構築し、飛行船を経由して飛行機になった訳で・・・
日本語では機長・船長・艦長と異なっても米国語ではcaptainですものね。
 スチュワーデス(うわっ死語!)がキャビンアテンダント(純正Macことえり変換ですと「当てん檀徒」になります・・・)
のキャビンも和訳ですと「船楼甲板」、一方で鉄道やバス等陸上のものは危険となれば止まれば済み、
原則としては停止して車外に出れば個々に「他人」で、駅も停留所も至近、
船や飛行機は港を出たら後は人生をキャプテンに一任!と言う意味では「集団一致」的気分になるのは自然?ですよね。
 ちなみに車掌を「指揮者」とする翻訳の他、
「酋長」「村長」「主人」「領主」などの言葉・意味で当てている言語もあるとか・・・
どちらかと言えば「まぁ従わなければならない人」、の雰囲気がありますが、
キャプテンは「親分」「統率者」的、「絶対服従」、の空気が言葉に込められている様な気がします。
 山陽鉄道は航路との対抗上、徹底して船舶サービスを・・・それも海外のものを参考としたそうです。
 食堂車の設備構造は米国式と言うより獨逸式ですし、かと言って車体構体はPullman-carに近く、
客室サービスは米英間のそれに乗らせて取り入れたとか。
 この流れなのか、昭和になるまで鉄道省は旅客部門の職員の欧州視察を奨励していて、
かのタイタニックにもYMOメンバー・細野春臣さんの御祖父様が乗り込んで生き残った・・・と言う事になるそうです。
 松戸電車区電車の墓場、唸るモーター鬨の声なんて詠まれた松電区至近に戸定邸(徳川昭武別邸)があり、
晩年慶喜さんは弟さんのこの家に随分遊びに来て写真を撮っておりました。
 この中に鉄道関係は割合多くあるらしく、但し松戸市担当者がケチなのか知らないのか非公開未公開がかなりあるそうです。
 現在は松戸市にそれらカメラ・写真と共に寄贈し一般に公開、土日には観光ボランティアが御案内もしております。
(宣伝して置きます、一応政治的しがらみがあるもので(笑))

 雑魚様の御洞察も腹痛を伴う程面白く拝見させて頂きました。
 日本最初の鉄道マニアに、榎本和泉守武揚(幕府直参旗本=箱館北蝦島政府総裁・後の海軍卿、農商務大臣・文部大臣等)
と言う説があります。
 オランダ派遣留学生の造船・蒸気機関学専攻として名を列ねる彼は、
東洋初のフリゲート戦艦「開陽」の設計造船を実地に学んだ他、ハーグ大学に通い国際海事法を学び、
プロシア戦争の際は見学武官としてベルギーやドイツ・フランスまで足を延ばし、
各地の鉄道工場で見学した他オランダでは鉄道機関区に通って見学(と言う事はハンドルも握らせた可能性が・・・)、
戊辰戦終結後逮捕勾留されたものの明治5年に釈放、同時に北海道開拓使技師として鉱山開発に加わるのですが、
幌内鉄道敷設で米国お雇い人と技術的問題で大喧嘩して困った開拓次官・黒田清隆がロシア全権公使に「抜擢」して
千島樺太交換条約を締結した話は有名です。
 「中古の安物売り付けられて黙ってられっかい!このべらぼうめ!」
(べらぼうめが口癖だった事はオランダの造船所や彼の先生だったカッテンディーケ海軍長官の記述にもあります。
榎本は、神田和泉町現在印刷会社がある辺りで生まれ育った)なんて言ったのでしょうね・・・
それも「元祖鉄」だから言えた?
 榎本「鉄」疑惑の裏付けは現在別途まとめておりまして、
東京農業大学(榎本が文部大臣の時に設置を推進)教授をしていらっしゃる御子孫に確認へ行くつもりであります。
 さて、北オク様・・・小生等は尾客(尾久客車区)と呼んでしまいますが、ロネのみ編成「ことぶき」号、
1972・3改正Dで記述がありました。
臨急客7205列車(京都1835/大阪1917−20/宮崎1256)
臨急客7206列車(宮崎1653/大阪952ー56/新大阪1001)
 御参考までに1975年度大鉄では宮原客車区にオロネ10が12B(2/4/5/30/66/67/88/89/90/91/2014/2050)と
オロネフ10が2B(2001/2002)配置されています。
 さて本日でYS11が旅客輸送から引退します。
 日本輸送機製造式YS−11、柔らかいターボプロップの発動機音とまるで0系みたいな機首デザイン・・・
9600機などの設計で有名なハコ屋の神様・島安次郎氏の次男で、
お兄さんは湘南電車を設計し東海道新幹線実現の立役者となった初代宇宙開発事業団理事長・島秀雄と言う
島文雄さんが設計チーフだったなのかしら?9600機やD51機や401系同様、長持ち機材を作る家系なのですね。
 島家最後の作品403系も本年度で引退、「ものつくり」の精神だけは受け継いで欲しいものです。
投稿者のホームページ

投稿者 雑魚
投稿日 9月30日(土)23時55分9秒
タイトル デラボー
> 雑魚様の御洞察も腹痛を伴う程面白く拝見させて頂きました。

白河駅などでは「入鉄砲に出女」検問で、長時間停車を伴います………って、これは
箱根関所での話ですね(^^)検問といえば、冷戦時代に西独駐在経験がある知人曰く、
飛び地の西ベルリンに至る列車が、東独領を通過する際は、武装した東独の警備員が
乗務したと聞きますが、何やら神妙な気分にさせられる話ですね。

> べらぼうめが口癖だった事

西欧人相手の場合「ブラボー」と、正反対の意味に取られる危険性は無かったのかと、
余計な心配をしております(^^)

画像は「本日」の水郡線の様子です。やはり水郡線はこうでねぇと、という雰囲気が
多分に感じられますね


投稿者 クモイ103
投稿日 10月 1日(日)00時14分7秒
タイトル 船と鉄道、船長と車掌
>雑魚様
> やはり水郡線はこうでねぇと
 撮影成功、ご同慶の至りです(^^)。こういう風景、いつの間にかめったに見られなくなってしまったのですね。

 さて、山陽鉄道の先進性といえばもう一つ、鉄道連絡航路の開設がありました。
 官設鉄道の終点である神戸を起点とし、西へとレールを延ばしてきた山陽鉄道は、
明治31(1898)年、前年に到達していた徳山から九州鉄道の起点である門司(現・門司港)まで、
子会社を使って連絡船を運航開始しました。
そして明治34(1901)年、ついに馬関(現・下関)まで鉄道が開通すると、
直営の関門航路を開設し、本州−九州連絡の大動脈を担うようになったのです。
 その後も、明治36(1903)年に岡山−高松間航路および尾道−多度津間航路を開設、
これは後に宇野線の開通を受けて宇高航路となります。
また同じ年、宮島渡航会社が運営していた宮島航路を買収、そして明治38(1905)年には関釜航路を開設…
と、たいへんな勢いの事業拡大でした。
 これらの航路は、程なく行われた鉄道国有化政策により、鉄道とセットで国に買収され、
以後長く国鉄の連絡航路として発展していきます。
そして今、JR西日本に引き継がれている宮島航路は、鉄道直営航路としての歴史だけでもすでに一世紀を越え、
山陽鉄道の多角経営の姿勢を今に伝えて、なお活躍しています。
<参考文献:鉄道連絡船100年の航跡(古川達郎著・成山堂書店刊)>


>岩崎安房守義将様
 ご指摘の通り、「船長」は絶対権力者。
それは、船長が全員の命を預かり最終責任をすべて一身に負うことと対をなす、古来からの海の掟ですね。
船が危機に陥った時、他の全員が避難するまで、船長は船に残らなければなりません。
宇高連絡船が座礁し、浸水防止などの非常措置をとった後、全員を避難させてから
船長自身も最後に船を離れて無事だった事例もあるようです。
しかし、台風マリーに翻弄され転覆した青函連絡船洞爺丸の近藤平市船長は、
後日引き上げられた船のブリッジで、首から双眼鏡を下げたまま遺体で発見されたということです。

 「車掌」にはそれほどの強いイメージはない…というのも、まことに仰る通りですね。
ただ、一つ思い出すことがあります。
もう10年以上?前でしたか、日豊本線の竜ヶ水駅で、台風による豪雨で土砂崩れの危険が迫る中、
乗客の避難誘導に尽力し大勢の命を救った車掌氏がいましたね。
たしか後日、心労のためお亡くなりになったのではありませんでしたっけ…?
 これは、孤立した災害現場で、「船長」に近い役割を担ったともとれるような気がします。


 このような話と対比しては失礼ながら、深刻な話で長文を終わらせるのも気が引けますので…
 「銀河鉄道999」の車掌さんは、車内の治安維持のため乗客を宇宙空間に放り出すという、
船長も真っ青?のことをしていましたね。
列車といいつつ実態は宇宙船ですから当然か(笑)。



投稿者 突放禁止
投稿日 10月 1日(日)20時20分35秒
タイトル お知恵を拝借させて下さい…
水郡線と言えば…
戦前ですが、西尾克三郎ライカ写真集に掲載されていた8700(ノースブリティシュですね)が印象深いです…
なんて話はさておき、どなたかにご教示していただきたい事があります。
各鉄道管理局あるいは旅客局にあった、 旅客列車編成表はどこで閲覧できるんでしょうか?
優等列車なら時刻表である程度把握できますが、それでも〒マークだけでは取扱便か護送便かで判断に迷いますし、
普通列車全般はお手上げです…
例えば手元にある時刻表復刻版の42年9月号には
京都→宇野623レや大阪→門司225レと言った興味深い列車がありますが、全く編成が判らない状態です。
交通科学館で尋ねても編成表はダイヤ改正があれば古いのは不要の為処分されてしまいほとんど残らないとの事…
先輩方は古い編成をどうやって調べられてるのでしょうか?
よろしくお願いします



投稿者 クモイ103
投稿日 10月 1日(日)20時25分39秒
タイトル オロネフ10と「ことぶき」号
>北オク様、やえもん様、岩崎安房守義将様
 他の話に夢中でこちらが遅レスとなり、今さらで失礼します。
 オロネフ10と新婚旅行列車にまつわる話題は、倶楽部メモ(79)と(82)にまたがって関連投稿があります。
これらを抜き出して一つにまとめられたものが、
「倶楽部メモ(掲示板過去ログ)」の「主な話題」→「特定列車の話題」の中の「新婚旅行列車「ことぶき号」について」
にありますので、ご参照下さい。
 東京駅に出入りする団臨についてはよくわかりませんが、やはりハネムーン列車だったかもしれませんね。
それとも、余程の要人ばかりの大口団体とか?


投稿者 突放禁止
投稿日 10月 1日(日)20時47分50秒
タイトル 連投すみません
以前スハニ35の話をさせていただきましたが、
RM誌別冊の国鉄時代5のP.93に掲載の播但線列車にオハニ40を発見しました。
信号機の柱に隠れていますが台車はTR23、屋根の絞りもありません。
さらに狭窓で真ん中あたりがすりガラスで車体前半分に窓が無いように見えます。
最初はオハニ61かと思いましたが台車と窓のサイズが合致しませんので…
おそらくオハニ40運用中の姿はこれが唯一ではないでしょうか?


投稿者 北オク
投稿日 10月 1日(日)22時57分54秒
タイトル A寝台専用列車の件
>やえもん様、岩崎安房守義将様、クモイ103様
すばやいご回答に感謝致します。

私が写真で見たのが「ことぶき号」かどうかは別といたしまして、過去に当掲示板でも
この列車に興味をお持ちになられ、ご質問された方がいたりして、客車好きは考える事は
皆、一緒かなと思ったりなどしております。
詳しい編成記録なども記載されており、模型化の参考にさせて頂きます。
オロネフ10はハネムーン列車用と言っても過言ではないようですね。

クモイ103様も約5年前にこの件に関し、ご回答されている様に、
今更ながら当倶楽部の奥深さ、膨大な量の書き込みを管理している管理人様には頭が下がる思いでございます。
私が写真で見たのは、「ことぶき号」の関東版かもしれませんね。
行き先が宮崎だとすればかなりの長旅、ハネムーンには少し辛いかもしれません。^^;



投稿者 日野実験線
投稿日 10月 2日(月)01時11分8秒
タイトル 旅客列車編成表
>突放禁止様
旅客列車編成表についてのご質問ですが、残念ながら現在直接これを閲覧するというのはほぼ不可能だと思います。
交通科学館方が言われている通り、ダイヤ改正があれば改正以前のものは不要になりますので性分されるのが常でしたし、
実際に私も46年末47年年始の臨時列車の編成及び運用表をある客貨車区のゴミ箱から持ち帰ったことがあります。
(もう20年以上前のことなので時効ということで・・・笑)
こちらの客車書籍資料館の編成表も80年以降のものなので、客車の黄金時代という訳にはいきませんね・・・。
当時各管理局で作成したのは基本的には自局受持分の客車の運用及び編成でしたので、
他局の付属編成がある場合などは省略されていることもありました。
P誌に執筆されている三宅俊彦氏は膨大な量の編成表を随分前から収集されているようにお聞きしております。
私も編成については諸先輩の古い資料を参考にさせて頂いております。
各趣味誌の編成表及び編成記録を丹念に拾ってみるのが、ます最初のステップではないかと思います。
参考にならないお話で申し訳ありません。


投稿者 日野実験線
投稿日 10月 2日(月)01時26分42秒
タイトル A寝台専用列車の件
>北オク様
横から申し訳ありません。
確かことぶきはオロネフ10X1+オロネ10X4+オロネフ10の6両編成が基本だったと記憶しています。
東京発で「みやざき」という名称で運用されたという記憶があり、P誌ではあのような記載になっていますが、
手元に資料が無くて確認できず、申し訳ありません。
オロネフ10はクラブメモにもある通り、尾久と宮原に2両ずつ配置されていましたが、
なぜかその後で広島配置車が2両オロネフ10に改造されました。
この2両は何の目的で改造されたのか今もって不明です。
尚、尾久配置車はオロネ10と共通運用されていたようで、私は実際に十和田に連結されていたのを確認しています。
以上、余計なお話でした。(苦笑)


投稿者 雑魚
投稿日 10月 2日(月)16時29分26秒
タイトル 「やえもん」 と K-100
> 首から双眼鏡を下げたまま遺体で発見されたということです。

かつて、船長は艦と運命を共にする、というのが、ある種の掟ないしは美意識として
定着していた様ですね。こうした傾向は、旧日本海軍を扱った話の描写において特に
顕著である様に見受けられます。

> 日豊本線の竜ヶ水駅で、台風による豪雨で土砂崩れの危険が迫る中、

竜ヶ水の「竜」とは「流」が転じたものと見る向きもある様で「水が流れる」つまり、
桜島の火山灰が堆積したシラス台地ゆえ土砂災害を招来し易い地勢が、経験則として
定着した結果………という事になるのかも知れません。

鹿児島空港が、1972年に鹿児島市街から現在地に移転した背景には、大規模滑走路の
確保に加え、桜島の噴煙に煩わされ難い管制上の環境を求めた側面があると聞きます。
先に言及があった YS-11型機は先月末日、沖永良部島→鹿児島で運行された JAC便が
最終便となった様ですね。

> たしか後日、心労のためお亡くなりになったのではありませんでしたっけ…?

その様ですね。最終的に過労死と認定されたそうです。

> 車内の治安維持のため乗客を宇宙空間に放り出すという船長も真っ青?のこと

大気圏内のみ飛行する一般旅客機でも、こんな事をしたら、ドエライ事ですねェ(^^)
あの車掌、声が「ジャングル黒ベエ」や「スネ夫」と同じ方でしたので、それだけで
妙に可笑しい印象でした(^^)

さて「やえもん」様のハンドルから、子供の頃見た同名のTV番組を思い出しました。
内容は、さっぱり憶えていないのですが、確かト長調と記憶する「♪やえもん機関車
ど〜こへ行く……」という主題歌は、なぜか良く憶えています。阿川弘之原作による
絵本「きかんしゃ・やえもん」を映像化したものと思いますが、内容を御記憶の方は
いらっしゃるでしょうか?

その数年後に放映された「無軌条機関車」の活躍(^^)を描いた「走れ! K-100」は
比較的印象に残っているのですけどね(^^)「♪汽笛、ピポピポ〜鳴らして〜」なお
今時「K-100」というと「K-1」を遥かに凌ぐ格闘技と勘違いされかねませんね(^^)

画像は、一昨日運転の12系です。水郡線静〜常陸大宮にて。


投稿者 長電ボーイ
投稿日 10月 2日(月)17時18分15秒
タイトル ここでデモ
おしさしぶり
樽見鉄道の客車の廃止について僕は「樽見鉄道の客車を復活しろー。」などデモをおこしたいです。(怒り
ーーーーーーーーーーー)


投稿者 バンブー
投稿日 10月 2日(月)18時38分55秒
タイトル 樽見鉄道の客車列車廃止について
樽見鉄道の客車列車廃止から半年ほど過ぎましたが、
もともと朝夕の通勤・通学用の輸送力確保のために存在した客車列車が
レールバスとなってしまい、その後の輸送状況はどうなのでしょう?
我が地元の東北本線でも、昔は10両編成以上の客車列車が走っていたところに、
現在は2両編成の701系電車が走っていたりして、田舎なのにすし詰め状態で走っていたりします。
確かに乗客の鉄道離れが進んで、昔と比べれば乗客数自体が激減しているのでしょうが、
悪循環をたどっている一途だと思います。
一体この国はいつから効率最優先の悲しい国になってしまったのでしょう?
歴史・文化・人情を大切にした、本当の意味の「美しい国」に戻れるよう願うばかりです。



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