倶楽部メモ(343)
平成18年 9月22日〜 9月29日



投稿者 JIN
投稿日 9月22日(金)21時42分28秒
タイトル 大井の人
こんばんは。
大井工場にいた人は以前よりうちに治療に来ている人で、僕も5年以上知りませんでした。
もう80才以上の方で、15才の時に戦争直前の大井工場に入ったとのことでした。
漆は初めての時はかぶれるけど2回目は大丈夫とか、湿度を一定に保つのが大変だったとか教えてくれました。
同じ漆でも供奉車は若い人でも塗らせてもらえるけれども、御料車はベテランでないと塗らせてもらえなかったそうです。


投稿者 てりてり
投稿日 9月22日(金)22時27分5秒
タイトル 大変のご無沙汰で御座います。
 皆様こんばんわ。JIN 様。大井工場のお召し列車の話題は私も興味が在ります。
以前鉄道ジャーナル誌の連載に「車両(くるま)と共に30年」がありました。
著者の田邊幸夫 様が経験された事を基に書かれていたと思いましたが、
確か寝台車(スハネ30系)のオハ改造が第一回目ではなかったと思いますが、
その方も同じ時代を歩んで来られたのではないでしょうか。
 後の回に確か現御料車の製作の記事があったと思いますが恐らく可也神経を使われたと推察されます。
 私は実際のお召し列車の運転を見た事がありませんが、
今日でも関係者の御苦労は並大抵ではない様で、戦前の運転は想像を絶する厳重な警備であったかもしれません。
聞いた所では通過する駅では何時間も前からポイントをロックし、乗客を追い出したとか。
また、運転手は沐浴をして体を清めたとも言われ、恐らくは役目を務め終わるまで気が気ではなかったのでしょう。
 客車の話題とは関係ない事をお許し下さい。秋が深まりました。季節の変わり目。皆様どうぞお体にご自愛下さい。
 それでは。



投稿者 壁線
投稿日 9月22日(金)22時47分23秒
タイトル 本倉吉
またまた質問です。いつも質問ばかりですみません。
倉吉線の(元祖)倉吉駅は山陰線の上井が(現)倉吉となったときに本倉吉とする案はなかったのでしょうか。
打吹よりもこの方が中心部にあるということがわかりやすいと思います。
尻内の八戸化と同時に元の八戸が本八戸となった例もありますし。


投稿者 雑魚
投稿日 9月23日(土)03時06分22秒
タイトル 打吹
> 倉吉線の(元祖)倉吉駅は山陰線の上井が(現)倉吉となったときに
> 本倉吉とする案はなかったのでしょうか。

山陰線倉吉駅は、前身の山陰西線が到達した1903年から、倉吉線の前身の軽便鉄道が
開業した1912年まで第一次「倉吉」を名乗っています。つまり、元祖「倉吉」駅とは、
旧打吹駅ではなく、現倉吉駅を意味する訳です(岩国駅にも同様の沿革あり)

その一方、ローカル線である倉吉線は地元の短距離移動需要が主流と思われる事から、
広域総称としての「倉吉」はむしろ、遠来の旅客が利用する可能性を伴う優等列車が
停車する郊外の駅に譲り、中心街駅は山名氏ゆかりの城下として歴史的通用度が高く、
山陰随一の桜の名所として有名な公園名でもある「打吹」を冠した方が合理的、との
判断が介したものと想像します。

> 尻内の八戸化と同時に元の八戸が本八戸となった例もありますし。

本八戸駅界隈では、倉吉市における打吹の様な位置付けの地名が、見当たらない様に
感じます。こうした駅の命名感覚で、未だに釈然としないのは「東能代」ですね。


投稿者 長電ボーイ
投稿日 9月23日(土)16時38分20秒
タイトル 樽見鉄道の客車
僕は小学4年生の子供です。
樽見鉄道の客車には思い出があります。
でも、今は廃止になってしまい。ました。
できれば、復活してほしいです。(怒り!!!!!!!!!!!)



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 9月24日(日)00時13分31秒
タイトル 駅名ですが
同じ地名は各地に点在しています。確か駅の<大久保>は三つあったような。
もっぱら旧国名など冠し区別していたような感じですが何か決まりとか過去にあったのでしょうか?
ちょっと気になったのでf(^^;
余談ですが酒席で
大正、昭和と来たら次は十川だよ。でも元号は平成になりました。もう二昔前の話です。(;^^A青



投稿者 長電ボーイ
投稿日 9月24日(日)11時06分29秒
タイトル 外国の日本客車
こんにちは。フィリピンに日本の客車と客車になった、車両があります。
それは、24系(客車)と名前はわすれたが、ディーゼルの車両です。
他にもあると思います。


投稿者 長電ボーイ
投稿日 9月25日(月)15時08分54秒
タイトル 列車+客車
どーも。
列車+客車で走る路線(鉄道)があります。
その1JR四国予土線のトロッコ。
その2銚子電鉄のトロッコ。
その3天竜浜名湖鉄道のトロッコです。


投稿者 雑魚
投稿日 9月25日(月)16時04分23秒
タイトル 週末の葛藤
なんと今週末に12系の水郡線入線がまたあるのですね。今度は日中、常陸大子までの
往復なので、撮影上はかなり融通が効きそうです。こりゃあ「カシノリ」どころでは
ありませんが、当日は、子供の球技大会が開かれるという間の悪さ(^^)どうやって
中座するかと姦計三昧。趣味の「鉄」の為なら、非情をも厭わない雑魚でした(^^)

> 駅の <大久保> は三つあったような。もっぱら旧国名など冠し区別していたような
> 感じですが何か決まりとか過去にあったのでしょうか?(下総守こみやさん)

旧国鉄vs私鉄では、国鉄側に優先権があった様ですが、旧国鉄同士では明確な基準は
無かった様に思います。基本的に「早い者勝ち」で、拠点性が大きくない駅でしたら、
完全な重複も吝かではない、といった雰囲気も見受けられますね。一方、駅と同名の
自治体とは全く関係無い、宗谷線佐久駅や北陸線福岡駅の事例を考えると、もう少し
命名基準があっても良さそうに感じていたのですが………昨今の広域合併にて、訳が
判らなくなりました(^^)

> 大正、昭和と来たら次は十川だよ。

予土線ネタですね(^^)ただしこの論法ですと、次の元号に相当問題がありそうです。
製菓、製薬、製粉………その次に来るべきものは、という視点もあったとか………

> 僕は小学4年生の子供です(長電ボーイさん)

我が子と同じくらいの歳の方が、こうした掲示板に書き込みされているとは、感慨を
覚えますね。私があなたくらいの歳の頃には、信越線(現在のしなの鉄道)の急行が
屋代から河東線(現在の屋代線)に入り、湯田中まで運転していました。

当時の信越線では、新潟〜長岡〜直江津〜長野〜高崎〜上野という客車列車が、実は
一本の列車で運転されており、ものすごく時間がかかる上に疲れますが、普通列車の
乗換えなしで、新潟から上野まで移動する事もできたのです。

> 列車+客車で走る路線(鉄道)があります。

動力車と非動力車の組み合わせという事であれば、山形新幹線になる前の奥羽線では、
機関車が牽く奥羽線の客車列車には、回送のディーゼル・カーがおまけに付くという、
何とも変わった編成がありました。山陰線でも、こうした名物列車が見られた様です。


投稿者 あさかぜ
投稿日 9月25日(月)16時38分51秒
タイトル ありがとうございました。
壁線さま
お返事おそくなりすみませんでした。参考になりました。


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 9月28日(木)02時05分45秒
タイトル ちょっとした雑学
 管理人様、皆様御無沙汰しております、岩崎安房でございます。
 特定非営利活動法人交通文化連盟の隠れた活動の一つに鉄道史研究と言うのがございまして、
交通に直接関係無さそうな「新選組ボランティア」などと言うのも、
鉄道史の関係から裏付研究が出来た事で可能となった経緯がございます。
 日本の鉄道の始まりを調べると時代は「幕末」なのです・・・・
戊辰戦争やら上野彰義隊なんぞ、直接日本鉄道史に関係する話題も多く興味は尽きません。
 その研究でちょっと「あれ?」と思いました事がございまして、貴重な掲示板のお目汚しで恐縮ですが少々・・・
 1889(明治22)年4月27日、官鉄東海道線藤枝駅を発車直後の新橋発神戸行下り第3列車上等客車で、
駆け込み乗車をしようとした旅客が転倒、ホームから転落し翌日死亡した事故がありました。
 直後の5月10日、この3列車を皮切りに東海道線全便に列車便所設置を「命令」、
やがて急速に列車便所と共に貫通幌通路付客車が普及するのですが、
ここまでですと対応の早さは今日JRより迅速で感心!だったのですが、実はこの「死亡旅客」に「答え」がありました。
 死亡したのは宮内省御料局長官・肥田浜五郎(為良/1830年生まれ59才)で、
当時列車便所が無かった事から我慢した肥田長官、藤枝駅到着と同時に便所へ駆け込み、
再び列車へ・・・で転落となったのです。
 肥田浜五郎は元々徳川家幕臣で江川太郎左衛門英龍(幕府鉄砲方)手代見習として勝安房守物部義邦が創設した
長崎海軍伝習所二期生として名を列ねた日本海軍創始からの技術人で、
同期には榎本釜次郎武楊(北蝦島政府総裁・日本初の海軍中将で後の農商務他大臣)
や松岡磐吉(北蝦島政府軍艦蟠龍艦長)が居ります。
 また万延元年1月22日(1860年2月13日)には外国奉行・新見豊前守正興を団長とする遣米使節団に
軍艦・咸臨(船将=艦長・勝安房守義邦<海舟>)蒸気方(機関部士官)として参加、
維新後には海軍に出仕、初代海軍機技総監を経て宮内省御料局長官となっていた「船舶機関の権威」であり、
また日本鉄道創設時には技師として多数の書類の作成や交渉に大活躍した人物でもございます。
 事故当時の官鉄管理者は内閣総理大臣・黒田清隆で、
海軍大臣・西郷従道、文部大臣・榎本武揚、逓信大臣・後藤象二郎と
明治維新前後から肥田の「知り合い」ばかりで、この事故が与えた衝撃は想像に堅く無く、
2週間で列車便所設置!と相成ったのも不思議ではございません。
 海軍伝習所で1期先輩のやはり江川太郎左衛門英龍門下の大砲技師に、
浦賀奉行所与力の中島三郎助永胤と言う方がおりまして、気が合った先輩と後輩だった、なんて記述もありますが、
この中島三郎助永胤は箱館・北蝦島政府で箱館奉行並として官軍と戦い、2人の男子(中島恒太郎・英次郎)と共に戦死され
その慰撫からか今日まで町の名前(函館市中島町)として残った・・・
その同僚に陸軍奉行並・内藤隼人(土方歳三義豊)が居る訳でして・・・
 新選組の、あの土方ですが、この2人は俳句仲間でもあったそうで・・・
 で、新選組と言えば近藤勇藤原昌宜、
そもそも京都守護職松平肥後守御預新選組の基礎は常陸国水戸(二十五万石)藩脱藩浪士と、
御府内試衛館から参加した近藤勇達によって作られまして、この試衛館は市ヶ谷甲良屋敷と言う一角にあったとか。
 その甲良屋敷ですが、徳川家大工棟梁家として家康の時代から活躍した建築一族、維新で本格的に建設業に進出し、
官鉄新橋駅の建築などもこの一族が担ったのであります。
 ちなみに最後の当主・甲良伝次郎は鉄道寮時代に鉄道屋、
それも客車設計施工一筋に歩み、後年「客貨車名鑑」を編集されますが、
伝次郎は「国有化」直後の混乱した車両の整理の第一線で、蒸気機関車の島安次郎らと共に活躍、
ひょんな事から幕末と鉄道が結びついた発見でした。
投稿者のホームページ


投稿者 UNO
投稿日 9月28日(木)18時31分32秒
タイトル 急行「さぬき」の牽引機について
 初めての投稿が質問で恐縮ですが、よろしくお願いします。
 さぬきの牽引機は、どこの機関区が受け持っていたのでしょうか?
 雑誌の編成表などで、EF58−114(広)、EF58−148(東)、
 EF58−18(広)が確認できたのですが、東京機関区と広島運転所が
 受け持っていたと考えてよいのでしょうか。同じ東京−宇野の「せと」では、
 東京のほか、浜松や宮原所属機が牽いた例も雑誌に載っています。
 また、山陽線全線電化で40年秋に東京から下関へEF58が多数移籍
 しましたが、下関所属機が牽いた可能性はあるのでしょうか?。
 さらに、ここの古い倶楽部メモでは宮原のEF61が受け持ったとの記述もありました。
 話が前後しましたが、牽引機をEF58として模型化の参考にしたいと
 考えております。よろしくお願いします。


投稿者 クモイ103
投稿日 9月28日(木)20時28分37秒
タイトル Re:ちょっとした雑学
 岩崎安房守義将様、列車便所普及の逸話、興味深く拝読しました。
一定以上の乗車時間を前提とした公共交通機関には、基本的に便所は無くては困りますね。
 列車の接客設備は、発想としてはもともと乗合馬車(駅馬車)の延長線上にあり、
町に立ち寄って用を足せるところが原点と思われます。
従って、便所を設けることは後天的な発想であり、
設置にあたって大きなきっかけが必要だったのも、無理もないことと理解できます。
 それと全く流れを異にするのが、長い航海中のあらゆるものを自己完結しなければならない船舶でありまして、
はじめから便所はおろか風呂も供食設備も必要だったわけです。
その延長線上にあるのが航空機であり、乗れば機内食が当たり前に出てくるというのは、
船の発想を受け継いでいるように思われます。
 そう考えると、瀬戸内海航路に対抗して寝台車や食堂車を積極的に導入した山陽鉄道は凄いなあ…
と、話が便所から全然違う方向に行ってしまいました(爆)。

 幕末と鉄道…ということに無理矢理戻しますが(笑)、
徳川時代に幕を引いた15代将軍慶喜公が「鉄ちゃん」していたという事実は皆様ご存知でしょうか?
 新人物往来社刊「鉄道古写真帖」(2003.6.8発行)のP.28に、「徳川慶喜公撮影の安倍川鉄橋の上り列車進行の図」
というのが載っています。
大政奉還し政治の舞台から降りた慶喜公は、文明開化の流れの中で欧米から次々と入ってくる最新の科学技術に
積極的に親しんだと伝えられています。
当時としてはいずれも最先端のハイテクだった「鉄道」と「写真」に興味を示したのも、
慶喜公の人となりの一端を示す逸話といえるのでしょう。


投稿者 雑魚
投稿日 9月29日(金)18時40分37秒
タイトル 山陽鉄道の商魂
> 瀬戸内海航路に対抗して寝台車や食堂車を積極的に導入した山陽鉄道

私鉄なるがゆえの山陽鉄道の商魂はかなり逞しかった様で、保育社「国鉄の車両」の
記述によれば、列車ボーイによる接客、夏季の蚊帳貸し出し、主要駅での赤帽の配置、
駅窓口のガラス張り化、入場券発売、直営ホテルの開業等も行われ、更に優等列車の
先駆けである急行の設定も、同鉄道が嚆矢だった様ですね。

並行私鉄との強豪において、方向別複々線という緩急接続に便利な東海道・山陽線で
新快速という、特急並みの高速列車を高頻度で運転しているJR西日本の運行態勢は、
こうした山陽鉄道時代の発想にルーツが求められるのか、とすら感じられます。

> 当時としてはいずれも最先端のハイテクだった「鉄道」と「写真」に興味

もし大政奉還前に鉄道が導入されていたら、大名行列用に供された列車が通過する度、
踏切では土下座が強要され「鉄撮」しようものなら、警手が即 斬殺………とか(^^)
江戸防衛の観点から大井川は架橋が成されず、渡船連絡も考えられますが、それでは
鉄道の運用効率は極めて悪くなりますね(^^)

慶喜公ゆかりの水戸では、雑誌掲載の情報に相違が無ければ、明日、12系が水郡線を
日中に往復します。また、その水郡線や常磐線が映るかも知れない、出身高校ネタを
原作とする映画も封切られます。それやこれやで浮かれ気味の雑魚は、今宵は早くも
ほろ酔い気分なのでした。うぃ〜(^^)



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