倶楽部メモ(340)
平成18年 9月11日〜 9月13日



投稿者 雑魚
投稿日 9月11日(月)11時50分36秒
タイトル 多層建の転線
> 一般に客車列車の併結作業は、まず併結前の両列車が別々の着発線に到着して
> それぞれ客扱い、その後一方が入れ換え運転で引上げ、転線して、待っている
> 他方の編成に連結されます。連結される側の機関車は、もちろん到着後すぐに
> 逃げておかなければなりません。(クモイ103様)

そうですよね。まず、中間部位となる機関車の待避、そして一方の編成の推進を伴う
転線が必要な訳で、その為に必要な緩衝領域の確保を含め、かなり煩雑という印象を
受けます。運転の頻度が頻度ですから、区間牽引機の運転士の乗務にしても必ずしも
効率的とは言えないかも知れませんね。

この事とは多少次元が異なるのですが、佐世保発着の客車便では、早岐での付替えの
手間隙を簡略化して、早岐−佐世保で「プッシュ・プル」運転を行った事例が、間々
あったそうですね。

客車の話ではありませんが、多層建に伴う転線で印象深いのは、朝の水戸駅における
急行「ときわ」「奥久慈」の連結作業でしたね。まず、磐城石川始発の「奥久慈」が
水郡線ホームに到着すると(配線上、常磐線ホームへの直通は不可)一旦降車扱いで
扉を開き、上野寄りに引上げた後、常磐線ホームに転線して、平始発の「ときわ」の
到着を待ちます。そして連結作業が行われる傍らを、特急「ひたち」が先発し、その
数分後、長大編成となったキハが、ゆっくり発車するというものでした。

この「奥久慈」は上菅谷で常陸太田始発の普通列車から一両貰うのですが、その際の
遣り繰りや、水戸到着時のタブレット授受の手順(ホーム上で、キャッチャー代りの
駅員が腕を伸ばしてタブレットを受け取るのですが、慣れていないと怪我をしそうな
荒技でした)など、色々な意味で風情がありました。これに対応する夕刻の下り便は
直接、水郡線ホームに到着、解結作業が直ちに行われて、平行「ときわ」はさっさと
先発するという、あっさりした内容でした。

画像は、二年前に運転された「なつかしの急行・奥久慈」の試運転の様子です。



投稿者 勝村@台湾
投稿日 9月11日(月)12時53分20秒
タイトル 工事の名称
クモイ103様、こんにちは。
大御所などと呼ばれると恥ずかしくて出て来れなくなります。(苦笑)
これからは「日野実験線」というHNで投稿させて頂きますので、宜しく御願い致します。
さて、工事の名称ですが、客車の履歴表の記載では全て
「更新修繕」、「近代化改造」、「体質改善」で統一されています。
従って国鉄内部ではこれらの名称が正式に使用されていたと考えられ、仲間内でもそのように呼んでいて、
最近のピクトリアルの客車特集記事では全てこれらの名称を使用している筈です。
(もしかしたら違う名称を使ってしまっているかもしれません・・・笑)
ただ、趣味誌等に工事名称についての解説が発表されたことがないために、
違う呼び方をされている方がいらっしゃるのも仕方のないことだと思いますが、
できる限り共通の名称を使う様にしたいものですね。



投稿者 日野実験線
投稿日 9月11日(月)13時08分5秒
タイトル 内緒の話
連続投稿、申し訳ありません。
何やら怪しげな題名ですが、ここで皆様と面識を得る事ができましたので、お話させて頂きます。
最近のピクトリアルの一連の客車特集号ですが、私を含め鉄道友の会の客車研究会のメンバーが執筆しています。
何しろ20年以上前に廃車された車が大部分ですし、スハ32系に至っては殆ど6、70年前に製造されたものです。
古い資料やデータを諸先輩から御提供頂き、何とかまとめていると言うのが実情です。
私自身10系を纏める際にはデータの欠落が数多くあり、執筆の依頼に対しても、
このまま発表してよいものかどうか非常に躊躇しました。
10系特集でも実は原稿時には気が付かず、発売されてから気が付いた間違いがあります。
私の気が付かない間違いもあるかもしれません。
もし宜しければ、この場をお借りして皆様のご指摘など頂ければと思います。
変な御願いですが、何卒宜しく御願い致します。


投稿者 あさかぜ
投稿日 9月11日(月)19時33分57秒
タイトル ありがとうございました。
クモイ103様
お返事遅くなり、すみませんでした。
さっそくいってみると、あさかぜ以外にもいろいろな編成がのっており、つい見入ってしまいました。
ありがとうございました。


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 9月11日(月)23時08分55秒
タイトル おわびm(_ _)m
日中線の件過去ログ拝見しました。管理人様がきれいに整理しておらりました。ごめんなさい。
スハ42、NならGMの帰省臨時急行セットの中に半切妻のスハ35が含まれています。
これをタネにするのが良いのでは。私はガッツが無いので台車振り替えただけですけどね。 f(;^^A



投稿者 クモイ103
投稿日 9月11日(月)23時23分22秒
タイトル 日中線の面影
>雑魚様
 確かに言われてみれば、温泉の名を冠した国鉄路線は珍しいですね。
全通を夢見たなら「岩羽線」でもよかったのでしょうけれど、
そうしなかったのは、もしかしたら地元の意向が関係していたのかもしれませんね。
昭和13年といえば、経済は昭和大恐慌の傷跡も癒え、文化は爛熟期を謳歌していた頃ですから、
鉄道省もそれくらいの度量を見せる余裕があったのではないかと、勝手に想像を膨らませてしまいます。

 喜多方駅での日中線の分岐は、架線の切れる所より手前でした。
1990年8月18日撮影、日中線の線路跡から喜多方駅方向を見たところです。
遠くに駅構内の跨線橋が見えます。



投稿者 クモイ103
投稿日 9月11日(月)23時33分34秒
タイトル 日中線の面影2
ついでに同じ場所の反対側です。
写真の下側は、C11が走っていた頃の1974年9月に撮影した同地点。
よく見ると架線柱が…?まあ気にしないことにしましょう(爆)



投稿者 クモイ103
投稿日 9月12日(火)00時30分45秒
タイトル Re:工事の名称/内緒の話
>日野実験線様
 ご教示ありがとうございます。
 正確な用語がいつの間にか忘れられ、各自が勝手にうろ覚えで変化させていく…
というのは、できるだけ避けたいですね。
先輩方や、ひいては歴史上の先人と、共通の言葉でお話が出来なくなってしまいますから。
私も気をつけていきたいと思います。

 ピクトリアル誌の記事、貴重な情報源として活用させていただいております。
執筆はたいへんなご苦労がおありかと存じます。
間違いを指摘…なんてそうそう出来るものではありませんが、何かご協力できるなら存外の喜びです。


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 9月12日(火)03時05分37秒
タイトル 驚愕ですね・・・
管理人様、皆様、毎度お世話になります。
 クモイ103様
 倶楽部メモ拝読致しました。
 スハフ35にも不運の車があったとは・・・
もっとも「在来型一般客車」の名の通り、何でもありが前提の機材群ですから、
特急からローカルまで幅広く活躍し日本の高度経済成長に寄与した、
とも言い換えられますが、座席方向固定のままで・・・御客様も御苦労が(笑)

 雑魚様
 日中線記念館、一度廃止の危機がありましたが熱塩加納村のその後の「方針転換」か何かで
存続→改善工事がなされた筈です。
 日中線の名称について現地の古老と喜多方商工会で同じエピソードを伺った事がありますので、
確度は別として御紹介致します。
 野岩羽線計画が持ち上がった際、喜多方〜米沢間では旧国道121号(米沢街道)に沿ったルートの「大峠線」と、
日中ダムに近い「日中線」の2ルートがあり、結果として鉱物輸送の見込みがあった「日中線」に決定、
それがそのまま路線名称になったというもので、
現在の「大峠トンネル」がある新国道は「日中峠」と近年まで呼ばれていたそうです。
 本来はダム建設や硫黄か何かの鉱物輸送を見込み、喜多方〜日中間で建設されるものが
手前の熱塩で建設が「抑止」されてそのまま廃止となった・・・と言う事です。
 日本のナイチンゲール「瓜生岩子」の御子孫が熱塩温泉で宿を経営されていて、
「会津ムーンライトエクスプレス2」計画の際にお話を伺う機会があり、
それでは当時熱塩に建設事務所や資材基地まで作られ、「日中トンネル」の調査工事も着手され、
米沢延長を前提に熱塩駅裏手に貨物駅・機関区の用地買収があって知り合い等が移転した、との事でした。
 ちなみに日中線が最後まで客車列車を貫いた理由は、この「米沢延長頓挫」が大きく影響している様子で、
地域への感情配慮として原則全線貨物運転路線とされ、
「影」筋でしか無いものの貨物専用便や営業種別も1983年10月23日まで喜多方〜会津加納間で貨物営業を存置、
この貨物便の機関車は旅客便と兼用し「名目上営業」とした為です。
 またこの貨物廃止まで「貨物ダイヤ」があり、
この場合644列車が入換をして貨車を拾う「客載入換」としていたとか・・・
 1984年3月31日限りで廃止となった日中線、7・8度通いました、
と言うお話をしたところ感激して下さってエピソードを伺えた次第で、日中線への熱い思いは未だ消えていない様です。
 同様熱い思いは全国にあったのでしょうが、
私個人の印象では北十勝線(新得〜上士幌〜足寄〜白糠)とここが温度が高かったものであります。

 青列車様、下総守様へ私信
 紆余曲折のレイアウト建設は半分まで参りました。
少しづつですがレポートを弊連盟ページ総合板に載せております、
完成の暁には気動車等御持参頂いてどうかお楽しみ下さいませ。
 なお、こちらで御教示頂いたので威張って(笑)スハニ35をローカル列車に投入します!
 皆様、ありがとうございました!
 草々
投稿者のホームページ


投稿者 雑魚
投稿日 9月12日(火)10時24分52秒
タイトル 遥かなる大峠
> 1990年 8月18日撮影、日中線の線路跡から喜多方駅方向を見たところです。

貴重な「過渡的風景」の画像を有難うございます。こちらは、2002年春の撮影ですが、
駅構内右側の事業所関連の専用線は総て淘汰され、三番線は折返し専用の頭端仕様に
改められるなど、かなりの規模縮小が見受けられます。後方の雪山の陰に、磐梯山の
頂上が一瞥されるのがミソですね(^^)

> よく見ると架線柱が…? まあ気にしないことにしましょう(爆)

これを気にするなという事は、音威子府駅乗降の際に駅ソバを食べるな、と言う事に
等しいのですが(^^)日中線の様な閑散路線でも、こうした「謎の電化区間」は結構
長目に設定されていたのですね。分岐する路線が、本来は非電化の筈なのに、実際は
電化されていた………というのは、車窓風景における、楽しい「サプライズ」ですね。

3月22日に五能線の東能代付近、7月24日に烏山線の宝積寺付近の「謎」を、それぞれ
画像で紹介しておりますので、よろしければ今一度御覧下さい。こうした例としては、
この他、北上線の横手付近、旧川俣線の松川付近、旧赤谷線の新発田付近、大村線の
諫早付近、吉都線の都城付近などが想起されます。

岩崎安房守義将様の四方山話も興味深く拝見しました。結局「日中線」の名称は、経路
選定時の仮称を援用した感覚でしょうか。沿線感情への配慮として、多分に名目的な
客車存置の措置を講じたという話も、同線の閑散振りに鑑みると、寂しい限りですね。

大峠の旧道は現在、部分通行止で通り抜け不可らしく「猫とか、旅とか?」なる頁に
収録されている「国道121号旧道 大峠 1.2.3」の項でレポートが紹介されていますが、
その悪路振りを改めて見るに、日中線が米沢に到達し得る物理的な可能性なぞ、私が
麗しの滝○クリ○テルさんと懇意になる確率と同じ程度だったのではないか、などと
確信するのでした(^^)


投稿者 クモイ103
投稿日 9月12日(火)22時27分31秒
タイトル 喜多方駅
>雑魚様

 喜多方駅のその後の画像、ありがとうございます。随分変わったのですね。
私が最後に訪れた1990年には、日中線ホームもそのままで(線路は無し)
昔日の面影が残っていましたが、今はもう無いのでしょうか。

> 3月22日に五能線の東能代付近、7月24日に烏山線の宝積寺付近の「謎」を、それぞれ
> 画像で紹介しております

 あれは五能線でしたか。立派な複線電化の大幹線に見えます(^^;。
 確かに、電化線から分岐する非電化線が電化されている光景(こう書くと何の事かわからん(爆))は、
あちこちで見たような気がします。
電気車の冒進に備えた安全側線のようなもの…というのは考えすぎでしょうね(笑)。


投稿者 勝村@台湾
投稿日 9月13日(水)00時00分16秒
タイトル 内緒の話(続き)
クモイ103様、ご丁寧な返信ありがとうございます。痛み入ります。
実は、10系特集に一つ大きな間違いがあります。
寝台車特編(667号)集の44頁のオロハネ10の記述と26頁及び表紙の写真です。
解説ではオロハネ101〜5は全て冷房化されたと記載していますが、
オロハネ104は新幹線用宿泊者939−201に改造されるまでB寝台の冷房化は行われなかった模様です。
26頁及び表紙の写真はオロハネ104で、撮影時期の1972年には冷房化が完了している筈なのですが、
B寝台側はAU14ではなく送風機カバーのままです。
当時の運用は2両使用1両予備で4両配置になっていましたので4番は予備の又予備という存在だったのでしょう。
どうも予算が取れずに冷房化改造をしないまま1973年に939−201への改造が行われたようです。
このような例はまだまだほかにもあるかもしれません・・・・(苦笑)


投稿者 村上@行橋
投稿日 9月13日(水)08時03分9秒
タイトル オロハネ104
オロハネ10は小倉から米子へ行く時にのりましたが、山陰本線の夜行列車は色々な所属標記があって楽しみでした。
それにしても冬の山陰海岸の寒さを皆様ご存知でしょうか。
荒波に真横からの吹雪。暖房が効かず何度か目を覚ましたことがあります。
今は隙間風も思い出ですが、冬の客車列車の旅は寒い思いをしながらの旅を思い出します。
ただ北海道の客車は壊れているのかと思うほど暖房が効いていました。
やはり暖房の意識の違いがあるんですね。
蒸気暖房だと窓に結露が着くけど、電気暖房は結露が着かないというのは本当でしょうか?


投稿者 突放禁止
投稿日 9月13日(水)08時34分23秒
タイトル !!!
横から大変失礼します。
クモイ103様からお聞きはしてたのですが…  大変驚きました。    
日野実験線様:はじめまして。件のピクトリアル客車特集、興味深く拝見しています。
客車関してこれと言う資料がない中、大変重宝しており執筆されている客車部会の方々には深く感謝しております。
また大半が廃車されその上公式資料(特に履歴)がバラバラの中まとめ上げるのは根気がかなりいる作業だと思います。
そうした観点からも畏敬の念が絶えません。
さて、お尋ねしたい事があるのですが…        
客車のアコモ改造工事は「更新修繕」「近代化改造」「体質改繕」の3つに大別できると思います。
戦後間もない更新修繕は別ですが、近代化改造と体質改繕はどこで区切るのでしょうか?
やはり予算の違いで工事名称が変わるのかと考えたりもしましたが…
客車によっては近代化と体質改繕を両方実施された車輛も存在してるようですし、どちらか片方だけのも見受けられます。
ぜひともご教示の程よろしくお願いします


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