>「あかつき」の佐世保編成は門司で分割し、そこから先、DD51の牽引でした。
御教示有難うございます。やはり門司が結節点でしたか。国鉄九州総局の前身である
門司鉄道管理局の名称を踏まえた時、関門海峡に面した交直流切替点が、運行管理上、
北九州市内随一の要衝である小倉を凌駕する一大拠点として機能した事は、地勢的に
面白いものを感じます(さながら、山陽線の糸崎と三原の関係に通じる様ですね)
突放禁止様の御教示に鑑みて「国鉄の車両/九州各線」で筑豊線の項を改めました処、
車両は不明ながら、1965年に新大阪〜佐世保で設定された「みどり」が、筑豊線初の
特急との事。また「あかつき」が設定された1975年に特急「かもめ」急行「天草」が
廃止とあります。これが御指摘のキハ82編成という事でしょうか。筑豊線での同型の
雄姿は、一度拝んで見たかったですね。
筑豊線の線形は、筑豊地区〜若松港の運炭が第一義ですが、旅客列車が集中する博多
周辺における「客貨分離」を意図した発想も感じられます。同様に一大産炭地だった
北海道における、札幌と室蘭線沼ノ端以北との関係の如しですね。しかし桂川以東が
福岡都市圏の通勤路線「福北ゆたか線」として整備された今日、凋落した以西区間の
落差は大きく、冷水峠を越えるローカル旅客需要の希薄振りが窺えます。
>
そういえば「ながさき」が時間稼ぎのように大村線を経由してましたね。
「ながさき」は早岐経由でしたか。私は利用した事がありませんが、周遊券を介した
九州の貧乏旅行で、友人達は相当重宝していた様です。当時、長崎発着の大村線便は、
喜々津−浦上で旧線を経由する事が多かった様に記憶しますが「ながさき」の場合は、
どの様な状況だったのでしょうか。
子供の頃、長崎線の写真と言えば、旧線の東園〜大草と思われる大村湾岸を通過する
各種特急の雄姿が憧憬の対象でした。この区間、長崎都市圏から外れる長与以東でも
一時間に一本程度の運転体制ゆえ、上記の筑豊線の桂川以西とは異なり、安泰という
印象を受けます。
数年前、長崎を旅行した際、車両基地の俯瞰が効く駅前のホテルを利用したのですが、
その後の一大再開発により、件のホテルからの基地展望が覚束なくなったとの事です。
当時の長崎駅は、スルー構造の線路を跨線橋代りの平面通路で塞ぎ、臨港線に通じた
線路敷地は、架線を残しつつ舗装で塗り固めた駐車場と化すなど「トワイライト」な
雰囲気でした(^^)現在は、屋内の頭端式構造が確立されたそうですが、函館駅でも
同様の事情なのでしょうかね。往時を知る者としては、ちと寂しい気もしますが…… |