皆様、こん**は。
水郡線のお話、興味深く拝読しております。
私自身はあまり馴染みがないのですが、かつての東北ワイド族(笑)の要衝・郡山駅の話が出てきたので、
蛇足をさせていただきます。(車掌@仙コリ様、ご当地の話題に割り込んですみません…)
郡山駅水郡線ホームのような構造を、時に「欠き取り式」と言ったりもしますね。
古い駅の専売特許かと思っていたら、高架化後の金沢駅でも七尾線ホームがそうなっていますし、
岡山駅などは瀬戸大橋線の増発のためにわざわざ欠き取り式ホームを増設したようです。
考えてみれば、上下移動なしの平面乗り換えを増やせるのですから、
短編成列車が頻繁に行き交う今の時代に合った駅構造と言えるかもしれませんね。
ところで、水郡線郡山側の車種ですが、時刻表1958(昭和33)年11月号ではすでに全列車気動車となっています。
その2年前の1956(昭和31)年11月号では7往復のうち客車2/気動車5でした。
車掌@仙コリ様も言われるように、水郡線の郡山側は輸送量の少ないローカル線であることが、
気動車化を早めた大きな要因でしょう。
当時の感覚として、気動車化はまず短編成列車からというイメージがあります。
当時一般型気動車は10系から20系への過渡期にあり、すごい勢いで増備されましたが、
それらはまず、各地のSL+短編成PCというあまり効率的でない列車の置き換えから充当されていきました。
一方の東北本線はと見れば、客車時代は10両以上の長大編成が当たり前でした。
もう一つの要因である、荷物車・郵便車を含む複雑な広域運用という事情も手伝って、
気動車化の対象にならない典型例だったのです。
また、電化後も長く客車時代が続いたのは、交流区間のため電車化のコストが高かったためと思います。
この点は磐越西線も同じで、ED75やED77という客貨両用の優秀な機関車があるので、
安心して(?)客車運転を続けることができたのでしょう。
客車が元気だった頃の東北筋には学生時代の思い出がたくさんあるので、また長くなってしまいましたm(_ _)m。 |