倶楽部メモ(335)
平成18年 8月17日〜 8月23日


投稿者 クモイ103
投稿日 8月17日(木)22時28分25秒
タイトル Re:郡山界隈の鉄道事情
 皆様、こん**は。
 水郡線のお話、興味深く拝読しております。
私自身はあまり馴染みがないのですが、かつての東北ワイド族(笑)の要衝・郡山駅の話が出てきたので、
蛇足をさせていただきます。(車掌@仙コリ様、ご当地の話題に割り込んですみません…)

 郡山駅水郡線ホームのような構造を、時に「欠き取り式」と言ったりもしますね。
古い駅の専売特許かと思っていたら、高架化後の金沢駅でも七尾線ホームがそうなっていますし、
岡山駅などは瀬戸大橋線の増発のためにわざわざ欠き取り式ホームを増設したようです。
考えてみれば、上下移動なしの平面乗り換えを増やせるのですから、
短編成列車が頻繁に行き交う今の時代に合った駅構造と言えるかもしれませんね。

 ところで、水郡線郡山側の車種ですが、時刻表1958(昭和33)年11月号ではすでに全列車気動車となっています。
その2年前の1956(昭和31)年11月号では7往復のうち客車2/気動車5でした。
 車掌@仙コリ様も言われるように、水郡線の郡山側は輸送量の少ないローカル線であることが、
気動車化を早めた大きな要因でしょう。
当時の感覚として、気動車化はまず短編成列車からというイメージがあります。
当時一般型気動車は10系から20系への過渡期にあり、すごい勢いで増備されましたが、
それらはまず、各地のSL+短編成PCというあまり効率的でない列車の置き換えから充当されていきました。
 一方の東北本線はと見れば、客車時代は10両以上の長大編成が当たり前でした。
もう一つの要因である、荷物車・郵便車を含む複雑な広域運用という事情も手伝って、
気動車化の対象にならない典型例だったのです。
また、電化後も長く客車時代が続いたのは、交流区間のため電車化のコストが高かったためと思います。
この点は磐越西線も同じで、ED75やED77という客貨両用の優秀な機関車があるので、
安心して(?)客車運転を続けることができたのでしょう。

 客車が元気だった頃の東北筋には学生時代の思い出がたくさんあるので、また長くなってしまいましたm(_ _)m。



投稿者 雑魚
投稿日 8月18日(金)09時44分57秒
タイトル 水郡線 と 磐越東線
> 水郡線と磐越東線に関しては郡山近郊においては特に大きな街もなく、

水郡線の場合、福島県内の直営駅は、磐城棚倉と磐城石川のみですしね。余談ながら、
泉郷以北では 国道118号線沿いに北上させ、独自の市街地を擁する須賀川で東北線に
接続した方が、何かと融通が効いた様にも感じています。それ以前に東白川郡域では、
旧白棚線を介して白河に出た方が、地域の旅客需要に合致した印象ですけどね。

磐越東線の場合も直営駅の設置頻度は小さそうですが(三春と小野新町、その他には
船引くらいでしょうか)それでも小野新町までは、区間便の設定において、郡山圏の
面目躍如との印象ですね。興味深いのは、郡山といわきの中間点に位置する小野町が、
県立高校の通学区において、県中区(郡山)といわき区の共通区となっている点です。
夏井川渓谷の人口希薄地帯ゆえに便数が極端に少ない、小野新町以南の状況を見た時、
いわき志向の通勤・通学需要が実際にどの程度あるのか、興味深いところです。

> 時に「欠き取り式」と言ったりもしますね。

富山駅における高山線ホームも、その典型ですね(現在は運休中の「ひだ」もここに
発着します)こうした仕様は、御指摘の様に平面移動が効く点で、バリア・フリーを
踏まえた今後の鉄道駅のあり方を示唆した一形態であると感じますが「間借り先」の
本線ダイヤに干渉する可能性もある事から、運転頻度が大きな大都市圏には、あまり
適さないかも知れません。郡山発着の水郡線車両事情については、車掌@仙コリ様の
御推察通り、ホーム構造の制約も介在しているかも知れませんね。

それにしても、気動車投入が閑散線区における合理化対策であるなら、日中線の例は、
どの様に解釈するべきですかねぇ………(^^)



投稿者 雑魚
投稿日 8月18日(金)10時02分21秒
タイトル 仙台都市圏の場合
> 電化後も長く客車時代が続いたのは、交流区間のため電車化のコストが高かった為

83年頃より以前の東北線黒磯以北における普通電車は「なすの」「あぶくま」などの
急行崩れや快速「くりこま」を除くと、仙台近郊で 417系が朝夕中心に細々と動いた
程度であり、それも岩切以北は専ら利府支線乗入れでした。これは塩釜や多賀城での
旅客需要が、駅の立地や運転頻度において、使い勝手の良い仙石線に収束する傾向が
大きかった為ではないかと想像します。

全くの余談ですが、東北線の小牛田以南で仙台都市圏路線の性格が強まって来た現在、
仙石線を系統分割して、石巻への直通便は松島辺りまで東北線経由で速達させた方が
便利ではないか………などと妄想するも、電源方式が違いましたね(^^)

仙台都市圏では、東北線や仙山線が、広域都市間連絡の趣が強い客車主体の陣容から、
都市近郊型の電車主体に移行した80年代半ば以降、宅地開発に象徴される圏域拡大が
顕著である様に感じます。特に変貌著しいのは仙山線の愛子以東ですね。

84年以前は北仙台−陸前落合に途中駅は無く、仙台市と旧宮城町の境界付近の、割と
急峻な広瀬川の渓谷を過ぎると、急に郊外に来たという印象でした。一方、現在では、
仙台−山形の都市連絡は、高頻度運転の高速バスが主流となり、快速停車駅において、
速達性があまり顧みられなくなった印象を受けます。広域移動手段としての、鉄道の
趨勢において、色々と考えさせられる事象です。


投稿者 クモイ103
投稿日 8月19日(土)20時58分29秒
タイトル 水郡線など
 雑魚様、近年の鉄道輸送を取り巻く情勢変化から今後の展望に至るご考察、興味深く拝読しました。
 欲を言えば、水郡線のルート変更案のお話の中で、現在のルート決定に至った建設当時のいきさつや、
白棚線がなぜ廃止されたのかといった周辺の事情をも踏まえられていれば、説得力があったかと惜しまれます。

> それにしても、気動車投入が閑散線区における合理化対策であるなら、日中線の例は、
> どの様に解釈するべきですかねぇ………(^^)
→過去ログでも触れられていますが、日中線はみな混合列車でしたので、対象外と考えられます。

> 仙台都市圏の場合
→電車化が進まなかった理由についてのお説ですが、
塩釜や多賀城での旅客需要の問題が、東北本線全体の施策に影響するほどの重大問題であれば、
或いはその様なことがあるやもしれませんね。ただ、その辺の判断は私にはできかねます。


投稿者 雑魚
投稿日 8月20日(日)10時40分53秒
タイトル クモイ 103様へ
> 現在のルート決定に至った建設当時のいきさつ

国道 118号線の経路が古くからの街道筋だとすれば、須賀川で東北線に合流する案も
検討されたものと想像します。現在の経路は、阿武隈川の渡河事情を考慮した印象が
ありますね。また、須賀川市域にあっては、川東駅の周辺地区でちょっとした市街が
形成されていますので、その点を考慮したとも考えられます。

> 白棚線がなぜ廃止されたのかといった周辺の事情

磐城棚倉到達では水郡線より先輩格だった白棚線ですが、不要不急路線として線路が
剥されたのは、後発の水郡線に利用者が流れた為です。これは、磐城石川という街の
存在に加え、自動車が普及しなかった当時、鉄道による広域移動志向も作用した為と
考えています。

一方、東白川郡は現在に至るも、広域行政圏・経済圏の双方で、白河市の志向が強く、
同市の高校では矢祭町までスクール・バスを網羅している例もあります。棚倉町自体、
裁判所を擁するほどの要衝ゆえ、あの辺りの水郡線の需要は、色々な流れが錯綜して
いると思いますが、同地の知人の話を踏まえるに、磐城棚倉以南の沿線域では、まず
白河ありき、というのが主たる導線ではないでしょうか。

> 塩釜や多賀城での旅客需要の問題

利府経由の旧線が並存していた当時、貨物線の性格が強かった岩切−塩釜−品井沼が
本格的に旅客線化されたのは、塩釜・松島(当初は「新松島」)の二駅が設置された
1956年と比較的新しく、上記二駅についても、中心街との位置関係では、仙石線より
不利な立地という印象があります。

多賀城市域に至っては郊外地に陸前山王駅を擁したのみで(国府多賀城の開業時期は
2001年)優等・貨物列車が多数往来する手前、普通列車の設定も制限されたであろう
東北線の事情も勘案すると、仙台湾沿岸域の旅客需要面では、仙石線が永らく優位に
あったと思われます。こうした事情から、新幹線開業に伴いダイヤにゆとりが持てた
80年代半ばまでは、東北随一の主要都市の近郊区間にあっても、本格的な電車置換が
見送られたのではないでしょうか。

ちなみに陸前山王と塩釜港(仙石線本塩釜駅の近所)を結んでいた貨物線(1887年に
東北線が宮城県域に到達した当時は本線の一部)では、昭和10年代、長町発着の便に、
内燃車を充当した緩行線運転が行われ、長町・行人塚・三百人町・仙台・小田原東町・
東仙台・岩切・多賀城前(現陸前山王)塩釜西口・塩釜と、緩行線専用の小駅を設け、
一時間に1〜2本程度の運転頻度だったそうです。これが本格化されれば、仙石線にも
少なからず影響したのでしょうが、結局、戦争の激化で立ち消えとなりました。なお、
塩釜港線自体が旅客営業を廃止したのは、現在の塩釜駅設置を受けての事でした。

長くなりましたが、取り急ぎ補足まで。



投稿者 コスモス
投稿日 8月20日(日)12時49分3秒
タイトル ローカル線と混合列車
日中線は貨物扱いがありましたね。会津加納駅には近くの鉱山からの索道があり、ここでも
貨車の扱いがあったそうです。
貨物列車を旅客列車とは別に設定するほどではなかったのでしょう。
1983年(昭和58年)10月で貨物扱いを止めましたが、このとき以前は混合列車だったようです。
機関車は1974年10月(昭和49年)まではC11、以後はDE10でした。鉄道の廃止は1984年3月(昭和59年)でした。

静岡県の清水港線(清水-三保)は1984年3月で廃止となりましたが、ここも混合列車だった
そうです。

飯山線、五能線、倉吉線も客車+貨車の混合列車があったように思えます。

Webの混合列車関連のHPで写真を見ると、機関車の次位は貨車であることが多いですね。
これだと機関車からの暖房用の蒸気供給はできませんね。
かといって客車を次位にして、途中駅の入れ換えを客車も付けたままで
貨車を側線に押し込むようなことはできないのでしょうね。

途中駅での入れ換えがないと思われる肥薩線人吉−吉松間のD51牽引の
混合列車は客車が機関車の次位が定位置のようでした。



投稿者 雑魚
投稿日 8月20日(日)13時35分12秒
タイトル 倉吉線
> 飯山線、五能線、倉吉線も客車+貨車の混合列車があったように思えます。

倉吉線の場合は関金までだった様ですね。1958年に開業した終点の山守駅は、当時の
写真を拝見すると、無人の一面一線という実にあっさりした構造で、岡山県真庭への
延伸計画の途上、とりあえず終点として設置された様な印象を受けます。盲腸路線の
途中で客レが折り返した例としては、樽見鉄道(客車便廃止)や片上鉄道(廃止)も
想起されますね。

なお倉吉駅は中心街から少し離れている事から、倉吉線の前身である軽便線の中心街
最寄駅に「倉吉」の名を譲り、一時「上井/あげい」を名乗っていました。1972年に
駅名を「倉吉」に戻し、倉吉線の中心街駅を「打吹/うつぶき」としたのは、全国に
路線網を擁する国鉄の性格上、幹線上の拠点駅が市名を冠した方が、遠来の旅客には
判り易いという判断が介した為ではないかと想像します。同様の経緯を持つ八戸駅が
旧称の「尻内」から改称したのは、その前年の事でした。


投稿者 クモイ103
投稿日 8月20日(日)21時32分59秒
タイトル 補足ありがとうございます
 雑魚様、早速に詳細な補足を頂き、ありがとうございました。
 昭和10年代に長町−塩釜(港)間で緩行運転があったとは、初めて知りました。
もしそれが発展していれば、京浜東北線の仙台版(?)になり、
後の時代に迎える東北本線電化の方式にも影響したかもしれませんね。

投稿者 雑魚
投稿日 8月21日(月)08時18分54秒
タイトル 塩竈
> もしそれが発展していれば、京浜東北線の仙台版(?)になり、後の時代に迎える
> 東北本線電化の方式にも影響したかもしれませんね。

仙台圏が終焉する要衝、例えば小牛田を交直接続点とする可能性も出た事でしょうね。
かかる緩行運転が施行されたのは、偏に塩釜(自治体の公式表記は「塩竃」です)の
港湾都市としての要衝性、そして城下町・仙台との機能分化に伴う連携性のゆえかと
感じます。中間の多賀城市には、陸奥国の国府・鎮守府としての歴史もありますしね。

旧塩釜港駅の直前における仙石線の高架区間との絡み具合は、両者の「宿敵関係」を
象徴するかの如きですが、仙石線が高架化されたのは1981年で、それ以前はどの様な
状況だったのか、あまり印象がありません。どなたか御存知の方がいらっしゃったら、
どうぞ御教示下さい。

三陸道整備に伴い最近は御無沙汰ですが、あの一帯を車で通過する度、国道45号線の
S字クランクが何とかならないものか、と感じてしまいます(^^)


投稿者 雑魚
投稿日 8月22日(火)14時56分37秒
タイトル スイッチ ・バック 紀行
学生の頃の様な鉄道旅行が覚束ない昨今、車窓展望DVDにて御茶を濁す日々ですが、
御気に入りの一つに「列車通り」シリーズの「奥羽本線/福島〜山形」という作品が
あります。板谷峠のスイッチ・バックが廃止された直前の1990年八月末に運転された
惜別記念列車からの撮影で、編成は、EF71+ED78+12系六両という内容でした。

先日、米沢出身の知人に会ったのを機に、改めて鑑賞した処、そのプチ郷愁的内容に
放蕩を極めた(^^)学生時代の貧乏旅行(主に「津軽」利用)が思い起されて、暫し
余韻に浸った次第です。

映像当時、庭坂−板谷は既に複線区間の上り線のみによる単線運転扱いで、下り線は
赤岩まで改軌が進み、旧赤岩駅は線路が剥されていました。ゆえに見所となったのは
板谷・峠・大沢の三駅で、板谷では当該記念列車の転線の様子が、峠では通常の50系
編成の転線の様子が併せて紹介され、見応えがありました。それぞれエンド交換では
あまり間を置かず、スイッチ・バック駅に接近すると、車掌が車端部に待機する様な
体制だったのでしょうかね。

各駅の配線と転線の経路も興味深いものですが、エンド交換の一端を引上線で行う為、
本線通過列車に干渉する格好となり、ダイヤ編成の際も相応に留意した事と思います。
90年の時点で「つばさ」は未だ仙山線迂回運転を開始していない筈ですが、映像では
なぜか「つばさ」との対向シーンは終始ありませんでした。

このテのDVDを購入する際に気になるのが「天候」で、その良し悪し次第で映像の
印象も物凄く変わる事から、商品情報にも付記して欲しい程ですが(^^)同作品では、
肝心の板谷峠は薄曇りながら、置賜盆地では快晴で、稲刈間近の稲穂が一面に広がる
直線区間を快走する様子は(我が愛機の場合、滑らか再生上限である三倍速で見ると
特に)壮快の一言に尽きます。

画像は早春、福島行の普通列車内から観た関根−米沢の直線区間の様子です。正面に
吾妻連峰を望みつつ、防雪目的と思しき林が延々と並行する様子は、また壮快ですが、
単線区間なのに複線区間の様な「ゴツい」仕様の架線柱が少々謎ですね。


投稿者 雑魚
投稿日 8月22日(火)17時50分29秒
タイトル 更に スイッチ ・バック の話
連投@夜勤待機中です。

前記の板谷峠の各駅や磐越西線の中山宿駅、そして中央線で、スイッチ・バック駅が
次々に廃止されたのは、旅客列車が全面電車化され、起動力確保に必ずしも平坦線が
必要無くなった側面が大きいと考えます。現在、JRの電化線でスイッチ・バックが
残っているのは、信越線の二本木駅、篠ノ井線の羽尾信号所・姨捨駅・桑ノ原信号所、
和歌山線の北宇智駅くらいでしょうか(市街との位置関係における会津若松駅の様な
事例は除きます)旧駅が貨物専用に供される中央線の初狩駅は、用途本位で考えると、
スイッチ・バックに該当するか否か、微妙ですね。

このうち、急峻な斜面での勾配・屈曲区間が続く単線区間を、特急や貨物列車が多数
往来する篠ノ井線や、日本曹達の貨物列車が発着する二本木駅が、スイッチ・バック
仕様を堅持する意義は判りますが、短編成ワンマン電車が主流と思われる和歌山線の
北宇智駅の事例は、少し意外な気がします。

同駅は、大和川と紀ノ川の分水界に伴う勾配区間に位置しますが、短編成の電車なら
本線上の停車で対応出来そうな印象を、通過する度に感じていました。あるいは朝夕
運転される関西線直通の区間快速が隘路なのかも知れませんが、さりとて、こうした
理由から同駅のみ通過、という訳にも行かないのでしょうね。

私鉄に目を向けると、長野電鉄の湯田中駅では、有効長確保の為のスイッチ・バック
構造が、小田急から転入した特急型車両の仕様に適合しない事から、来月に行われる
一面一線化の改修工事に際し、廃止されるそうです。

なお板谷駅は、旧構内が二面三線+側線二本と比較的広大で、引上線の奥に事業所が
あった事から、二本木駅よろしく貨物取扱があったと見るべきでしょうね。この駅は
阿武隈川支流の松川の谷に位置しますが、行政上はなぜか山形県米沢市域というのが、
地図好きの琴線を擽ります(それだけ、松川の谷は往来が困難だったのでしょう)

画像は、その二本木に隣接する、関山の旧駅引込線が分岐する辺りです。御覧の様に、
線路は完全に雪に覆われ、使用されている気配はありませんが、ここを訪ねた2002年
当初の時点では、信号に通電らしきが認められ、もしかすると保線作業車両の留置に
供されていたのかも知れませんね。ちなみに、ここから仰ぐ妙高山の眺めは最高です。


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 8月23日(水)00時10分19秒
タイトル スイッチバックの思い出
中山宿でしか客車での体験はありません。でも旧型客車でした(^^)
会津若松に向かっていたのですが駅に停車しばらく動く様子が無い。
しばらくすると急行(たぶんばんだい)が頭の上を通過していきました。
ホイッスルが鳴ってバック開始側線へ。
そしてちゃんと機関車を頭にして会津若松に向かいました(^^)

去年の11月磐越西線に乗ったおり中山宿旧駅の残骸は残っていました。
あらためて本線から見下ろす旧駅との高低差をかみしめ思い出がよみがえります(^^)


投稿者 雑魚
投稿日 8月23日(水)08時49分57秒
タイトル 中山宿
> しばらくすると急行(たぶんばんだい)が頭の上を通過していきました。

私も同様の経験が何度かあります。元々、急行改め快速やら、貨物やらの運転頻度が
高いので、中山宿は格好の待避駅だったのでしょうね。うろ覚えながら、交換待ちで
客扱いを行わない「ばんだい」も入線した事がある様に記憶します。

一昨年夏、ドライブ序でに旧駅を訪ねたのですが、場所の特定に意外に苦労しました。
本線上に設置された現行駅は、かなり離れますが、元々、周辺人口は多くない事から、
あまり問題にならないのでしょうか(駅名から推すに、かつて宿場があった可能性を
感じますけどね)構内は、ホームと保線車両用と思しき、錆びた線路が少し、残って
いましたが、往時を知る者としては、隔世の感も甚だしいですね。

新駅は旧駅の様な待避・交換機能が無く、その分、閉塞区間が延びた事になりますが、
電車化された分、磐梯熱海駅や沼上信号所まで、逃げ切りが効くのでしょうね。現行
ダイヤでは、SL列車の運転日でもなければ緩急接続の例は無さそうで、基本的には
交換本位の発想で事足りるのかも知れません。

あの辺りの国道49号線を運転していると、勾配の連続から、確かに難所という印象が
実感できますね。中山峠は、太平洋側と日本海側を分かつ、中央分水界の一端ですが、
磐越西線が猪苗代湖に最接近する小坂山隧道の辺りに取水堰を持つ安積疎水は、この
中山峠を隧道で抜き、磐梯熱海で五百川に通じています。この結果、猪苗代湖の水は
太平洋(阿武隈川経由)と日本海(阿賀野川経由)の双方へ流れる事となり、何やら
ロマンを感じます(同じ福島県にある羽鳥湖も同様の状況と思われます)

余談ですが「あずさ」の車窓展望DVDによると、中央線長坂駅のスイッチ・バック
施設跡も、結構「イイ感じ」で残っている様ですね。



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