倶楽部メモ(334)
平成18年 8月 9日〜 8月17日


投稿者 テン
投稿日 8月 9日(水)20時13分52秒
タイトル はじめまして!
はじめまして、テンです。早速ですが聞きたい事があります。
DD54は14系寝台の特急を牽いたことをありますか?ご教授お願いします。



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 8月10日(木)10時45分27秒
タイトル 消えて行く浪漫の小道具
ようやく一段落した安房守でございます。
 旧客、とは国鉄現場では在来型一般車と呼ばれたものですが、
この在来型一般車と言えば忘れてはいけないサボ、行先表示票がございます。
 全盛期には各局1〜2社はあったと言われるサボ業者は、現在2社のみとか、
ウチとお取り引き頂いた会社も既にこの事業を辞めてしまいまして、
ホーロー引き鉄板のサボは新製困難になりつつあります。
 常磐線に3系6本ありました在来型一般車列車、
一番長い列車は確か12か13両、でサボは24〜26枚となり、1枚1kgですから24〜26kg!
これを担いで高架ホームから地平ホームへ運ぶ(上りのがなかなか辛かったのを記憶しています。
 吊り下げ式(客車側面のサボフック用の凸があるもの)が未だ多かった当時、
歩く振動が板を跳ねさせてうっかりすると髪の毛や首の皮を挟むのです!
 もっとも中距離電車もサボでしたから、15両30枚ものも多くて「客車」だけの想い出でも無いのですが、
こちらは差し込み式で凸が無かった分運びやすいものでした。
 秋田・福井は早くに差し込み式に変更されましたが、青森・水戸・長野は吊り下げ式が遅くまで残って板様です。

 在来型一般車列車と他の列車の違いは何と言いましても放送です。
「×番線、○行き急行△が入線致します」で、ドア開けて客乗・・・は今日当たり前です。が、在来型一般車ですと・・・
「13番線は羽越線回り秋田行き急行・鳥海です・・・扉は自動でございません、列車停まりましたら開けて御乗車下さい」
 となります。ホームのそこここからバタンキュッ!と扉を開ける音が響いて、これが「旅」の序曲でした。
 発車の時も同様で
「14番線、金沢行急行・能登発車です!デッキの御客様は危険ですからデッキの扉をお閉め下さい!
・・・3605列車乗車終了っ!」

 篭る人いきれと埃に煙る上野駅地平ホームの暑い夏が、汽笛と共に過ぎていた頃のお話でございます。
 私信で恐縮ですが、下総守様、青列車様、御来訪ありがとうございました!
何分期日が迫った宿題なものでろくに御案内もせずに失礼致しました!またの機会に是非!
投稿者のホームページ


投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 8月10日(木)13時37分8秒
タイトル Re:はじめまして!
>テン様
DD54が活躍したのは山陰方面ですね。
鉄道ファンによれば、DD54のブルートレイン牽引は、昭和47年3月から49年3月までの「出雲」ですね。
47年3月は14系寝台が誕生し、捻出された20系で「出雲」が特急に格上げされました。
49年4月にはDD54は福知山に集結し、米子以西と「出雲」・「だいせん」の運用から撤退しています。
山陰系の14系寝台は「いなば」(のちに「出雲」)ですが、
こちらは50年3月の新幹線博多開業で廃止された14系「あさかぜ」の転用で生れ「サンライズ」化で消滅しています。
したがってDD54が定期運用で14系寝台を牽引したことはないことになります。
投稿者のホームページ


投稿者 テン
投稿日 8月10日(木)15時31分10秒
タイトル 竹中@ノーブルジョーカー様
的確な情報ありがとうございます。
友人がDD54が14系寝台急行いなば、を牽いたと言ったため気になって質問させてもらいました。
本当にありがとうございます。


投稿者 雑魚
投稿日 8月11日(金)15時39分55秒
タイトル デッキ 乗車
> デッキの御客様は危険ですからデッキの扉をお閉め下さい!(岩崎安房守義将様)

私が通学で使っていた列車でも同様の車内放送がありました。優等列車以上に乗客の
出入りが多い為か、車掌がまめに巡回して扉締めを「指導」していましたが、やはり
夏の暑い日は、開けっ放しという状況が、間々見られましたね。デッキも満員の時は、
客室車端部で、壁に掲出された東日本の国鉄路線図を見つめつつ、早くどこか空席が
出ないものかと、悶々としていました(^^)そんな状況でも、無動力ゆえの停車時の
静寂から、乗客の雑談もヒソヒソ声になりがち、というのも、客車特有の風情でした。

こうしたデッキ部分の安全性に関して、作曲家にして箏曲家の宮城道雄が、1956年に
夜行急行「銀河」から転落死した一件が取り沙汰される事があります。真相は現在も
不明ながら、乗降口と便所を誤った可能性が高いとの事。

同様の状況で、TEEから転落死した母親を探すべく、フランスにイタリアと欧州を
広範に奔走した御子息を追跡取材した「海外特派委員報告/鉄路に消えた母」という
NHK番組を、30年ほど前に観た記憶があります。番組の最後の頃、線路際で母親の
遺体がついに発見されたのですが、デッキ乗車は怖いと、子供心に感じたものでした。

あの頃、併せて良く観た「新日本紀行」は、最近「アーカイブズ」で採り上げられる
事が多い様ですが、こちらは蚊帳の外ですかねぇ。ちなみに、いかにも日本の景観を
謳い上げた雰囲気の名曲「新日本紀行のテーマ」は、作曲家の冨田勲さんが、茨城県
常陸太田市東部にあった祖父母の隠居先の夕景から、楽想を得たとの事。日立電鉄の
撮影で何度となく同所を訪ねましたが、確かに今でも、そうした雰囲気を感じますね。



投稿者 雑魚
投稿日 8月15日(火)15時28分17秒
タイトル 「ゆとり」 再び
先月の中旬、那珂市の団体客を対称に「ゆとり」が水郡線経由で仙台まで運転された
ばかりですが、来月早々に、今度は「石川町民号」として再び水郡線に入るとの事で、
嬉しい限りです。週末となる2・3日朝は、水郡線・常磐線の双方で撮影が効きますが、
12系団臨と同じスジとすると、三日の9830回送便は、水戸着は同時刻ながら、二日の
9832便より早い時間帯に水郡線を南下する可能性が高いですね(このスジでは、過去
何度か「肩透かし」を食らっています)どなたか詳細を御存知でしたら御教示下さい。



投稿者 怪鳥Aはなわ
投稿日 8月16日(水)14時58分40秒
タイトル はじめまして 水戸界隈の件
はじめて書き込みをさせて頂きます。
 ホエ7030様、雑魚様、実にうらやましいセッチュエーションだったと推察します。
小生は通学に3年間水戸駅を通過しました。
水郡線からのお上りさんで、DD13、ホヌ30、スハニ32の組み合わせで、荷物室をよく利用させて貰ったものです。
 鉄道模型の方が主で、水郡線の列車を模型化すべく資料を集めています。
しかし、当時(30数年前)はそれほど意識もなく、資料として使えるものは充分に揃えるまでには至りませんでした。
フィルムも小遣いと比べると高額で気軽に撮りまくることはできませんでした。
 今でも解らないことがあるのですが、水郡線の客車列車で夕方2本の常陸大子行きが設定されていましたが、
上りは翌朝の一本だけ夜のうちに回送されていたのかと思えるのですが、ご存じでしたらお教えください。
今後ともよろしくお願いします。


投稿者 雑魚
投稿日 8月16日(水)15時44分39秒
タイトル 水郡線の客車運用
> 水郡線の客車列車で夕方2本の常陸大子行きが設定されていましたが、
> 上りは翌朝の一本だけ夜のうちに回送されていたのかと思えるのですが、

一週間前の書込でも言及しましたが、機関車の扱いは不明ながら、夕方の下り二本を、
翌朝の上りで纏めて「回送」する運用と記憶します。当時、水郡「本」線で、混雑が
最も激しかった便と一本ずれていた事もあり、常陸大宮以南においても、着席機会は
かなり保証されていた様子です。

余談ながら、上記の「最混雑便」が上菅谷で接続する常陸太田行は、常陸太田市内に
通学する高校生でこれまた大混雑でした。最前部の一両のみ、折返し後、上菅谷駅で
急行「奥久慈 2号」に繋ぎ替えとなりましたが、急行の前運用にてあの混雑振りとは、
常陸太田駅にて車内清掃を、きちんと行っていたのか、などと感じたものです(^^)

16:37発の常陸大子行となる客車が勝田方面から推進運転で入線した際、16:11発の
青森行「みちのく」と少しの間「並び状態」となるのが御約束の光景でした。当時の
常磐線にあって国鉄色 583系は、実に重厚な印象で、一緒に眺めていた同級の友人は、
旅情が断ち難かったのか、勤勉の末、札幌の大学に進学し、地元との往復に際しては
この「みちのく」が定番だったそうです。めでたしめでたし………(^^)


投稿者 怪鳥Aはなわ
投稿日 8月16日(水)23時45分29秒
タイトル Re:水郡線の客車運用
 早速のご教示ありがとうございます。
 当方の昭和51年3月10日改正、翌年3月1日訂補の「機関車・気動車ダイヤ」水戸鉄道管理局調製によると
DD13は4両の運用があり、16時40分ころ下る2341レは仕業4、
18時10分ころ下る2343レは仕業3となっています。
後者が翌朝の2342レとなり、DD13の牽引定数26(スハ1オハ6)ホヌがついて満タンのようです。
下りが3または4両の編成とは考えにくいのです。
ダイヤグラムの読み方が不完全なのかもしれませんが?


投稿者 雑魚
投稿日 8月17日(木)09時40分25秒
タイトル 水郡線の客車運用 ・弐
> 下りが3または4両の編成とは考えにくいのです。

かなり曖昧な記憶ですが、下りの四両編成と五両編成、纏めて九両編成を、翌日朝に
水戸に戻す運用だった様に思います。当時の水郡線としては破格の長大編成でしたが、
その長大振りゆえに、当時は常陸太田支線列車の専用駅(上り始発と下り最終に限り、
本線列車も停車したと記憶します)だった常陸津田・後台・中菅谷に加えて、後発の
停留所仕様である野上原や中舟生も通過扱いでした。一方で、やはり九両編成だった
件の「最混雑列車」は、気動車という事で(とにかく雑多な編成で、扉の開閉方法も
まちまちゆえ、操作が覚束ない御年寄りが、途中駅であわや下車し損ねそうになった
事例は少なくない様です)多少融通が効いた為、この二駅は停車扱いでした。

ちなみに私は、ホーム有効長が充分確保されていたにも拘らず、運転士の技量不足か、
停車位置がズレた結果、旧客から「ダイブ」した事があったりします(^^)



投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月17日(木)11時38分44秒
タイトル Re:水郡線の客車運用
怪鳥Aはなわ様、はじめまして。
私は水郡線の逆端に住んでおりますが、水郡線とはあまり縁がなく…
話題となっている常陸大子行き客車列車の運用についてですが、
怪鳥Aはなわ様がご乗車になった時代とは多少異なると思いますが、
客車運用晩年(昭和58年)の運用表・編成表を見ますと
下り2341レ 水21運用 4両編成(オハフ×1・オハ×3)
下り2343レ 水22運用 5両編成(オハフ×2・オハ×3)
上り2342レ 水21運用+水22運用 9両編成
(オハフは45・46、オハは46・47)
となっています。
この時点では牽引機はDE10に変わっていたようです。
昭和55年頃も同様だったようですが、それ以前の運用ついては不明ですが
使用されていた車両については以前ホエ7030様が書き込まれていますので、
過去ログ「倶楽部メモ−204」をご参照下さい。

参考資料:JRR国鉄客車ガイド・国鉄気動車客車編成表

投稿者 雑魚
投稿日 8月17日(木)13時41分56秒
タイトル 「奥久慈 レトロ」 回送
> 客車運用晩年(昭和58年)の運用表・編成表を見ますと(中略)となっています。

御教示、有難うございます。一応、私の記憶通りだった様ですね。

車掌@仙コリ様の地元と思しき郡山界隈における水郡線の陣容を見ると、列車本数や
東北線を間借したホーム構造において、水戸側と比べ寂しい印象があります。しかし、
街としての郡山は、人口において水戸を七万人以上も凌駕し、中核市の指定も受けた
要衝であり、この辺りのバランスが少々謎ですね。もっとも、寒冷気味の地の都市は、
一点集中型で、首都圏の様に他の自治体が衛星圏を構成する素地は小さいとも言われ、
その分、鉄道の近郊輸送需要も比較的小さい、と見る向きもある様です。

その郡山側における水郡線ですが、私が通学で旧客を利用していた当時は、既に総て
気動車に置換済みでしたね。確か、水郡線からの客車引退の契機となったCTC化が
実施された1983年頃までは、東北線の黒磯以北や磐越西線でも旧客列車は健在であり、
そこから分岐する水郡線のこの状況には、ちと意外な印象を受けました。

画像は、その水郡線常陸大子以北を旧客が走った時の貴重な映像です。昨年11月初日、
快速「奥久慈レトロ」の運用に先立ち、磐越西線か磐越東線で使用した高崎の編成を
郡山から水戸へ回送する際のもので、早朝、水戸機が遥々、御迎えに赴いたのでした。

撮影場所は、茨城・福島県境に近い下野宮駅の北方で、国道 118号線からの俯瞰です。
この先、水戸−郡山の概ね中間地点となる矢祭山駅付近の公園を起点に一昼夜かけて
水戸まで移動するという、なかなかしんどい(^^)遠足を高校時代に行った事があり、
その時は、この足場の辺りで、急行「奥久慈」の通過を見かけた様に記憶します。

多分、ホエ7030様も同趣の遠足を経験されていると思いますが、その当時は、線路の
向こう側を走る旧道を経由されたのでしょうね。ちなみに、この遠足を元ネタとした
映画「夜のピクニック」が、近く公開されますが、ロケ地は、原作者が一年生の時に
経験した水戸→涸沼→大洗→那珂湊→東海→勝田→水戸という「循環バージョン」で、
水郡線は(校門付近の掘割区間は映るかも知れませんが)無関係の様子。残念(^^)

さて、今秋も「レトロ奥久慈」は運転して頂けるものでしょうか………



投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月17日(木)19時27分21秒
タイトル 郡山界隈の鉄道事情
郡山界隈における鉄道事情についてですが、東北本線(上下方面)と磐越西線は、近辺に
大きな都市や観光地を抱え、かっては特急・急行が多数運転され、普通列車も長大編成の
客車列車が運転されていた幹線ですが、水郡線と磐越東線に関しては郡山近郊においては
特に大きな街もなく、短編成の気動車が運行する純然たるローカル線となっていますので
そのあたりの理由で水郡線が寂しく感じられる状況となっていると思います。

水郡線に早期に気動車が投入された理由についてはわからないのですが、郡山側における
上記のようなローカル輸送(短編成・中短距離の折り返し)の実情にあわせた効率化と、
雑魚様もあげられている郡山駅のホームの形状の影響もあるのかと考えられます。
文章で表現するのは難しいのですが、郡山駅における水郡線のホームは東北本線のホーム
の南端の部分の幅を半分ほどにして、行き止まりの線路を設置したというか、東北本線の
ホームの端に細い端頭式のホームを継ぎ足したような形状となっていて、○番線とは別に
水郡線ホームと呼ばれています。
(参考までにJR東日本のえきねっと http://jreast.eki-net.com/ から、
駅・店舗情報 → 駅構内図 → か行・郡山 と進むと郡山駅構内図が見れます)
そのような状況の為、客車列車時代に機廻しをどのようにおこなっていたかわかりませんが
いずれにせよ東北本線側にも影響があったものと推測されますので、早期に気動車化された
一因なのではないかと思います。


投稿者 怪鳥Aはなわ
投稿日 8月17日(木)22時12分19秒
タイトル 水郡線の客車運用2
様々なアドバイスありがとうございます。
参考にさせて頂きます。



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