倶楽部メモ(323)
平成18年 5月16日〜 5月23日


投稿者 てりてり
投稿日 5月16日(火)01時09分51秒
タイトル 東北本線列車試験について
 失礼します。話を前に戻すことをお許しください。
はつかり号の前に東北本線の列車試験が話題になりました。
何かで読んだきがと引っかかっていたのですが、先日倉庫を整理していて古い「鉄道ジャーナル」を発見。
ひっくり返してみましたら、1977年2・3月号に「名列車リバイバル」と称して、
「はつかり物語(真船直樹著)上・下」がありました。その2月号の53ページの後ろ部分を引用します。
 *初の東北特急の道* (上野札幌間24時間をきることを必須条件として1958年6月試運転が行われた)
 ところで、この大目標を、実はその30年も前に達成し損ねた話を紹介しておこう。
(燕運転開始・1930年10月1日/中略)
この余波は東北にもおよび、同年11月25日、青森ー平間で当時の言葉和借りれば「北方連絡24時間運転」を目標とした
大幅スピードアップのための試運転が行われたのである。
当時の新聞は「東北にもいよいよ超特急出現」などと華やかに書きたてた。当時の新聞から抜粋してみよう。
 仙鉄局の青森ー平間超特急試運転は15日青森発午前8時01分の上り列車で行われ、
関係者を試乗させて、盛岡着11時22分30秒。
何せ今まで5時間余を要した青森ー盛岡間をずっと縮めて
3時間20分余で壮快に飛ぶというのだから流石素晴らしいスピードアップ。(中略)
この企ても不況や線路転轍機改良のための交換資金不足、仙台発着時間の深夜化などで挫折してしまったが、
これが1934年の大幅スピードアップの原動力になっていることは否定できない。
 とあります。使用車両など詳しいことは不明ですが、確かにあったようです。
最後に参考文献として、
鉄道フアン1965−1;NO91(石井幸孝・ディーゼル特急生いたちの記)・
1969−1;NO91(ママ)(石井幸孝・「はつかり」SLからECまで)
1976−8;NO180(猪口信・東北特急物語)(石井幸孝・ディーゼル特急はつかりの登場):
鉄道ピクトリアル1968−10(特集・白紙改正) 
鉄道共済会東北支部発行(ものがたり東北本線史)
盛岡機関区発行(盛岡機関区写真史)  が上げられています。
今回引用が多く大変失礼しました。何かのきっかけになれば幸いです。  それでは。



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 5月16日(火)01時16分27秒
タイトル 不確かな情報ですが
 管理人様、皆様、おばんでございます。
 確か、「ハイケンスのセレナーデ」は、戦後放送協会で流された「尋ね人・消息」の紹介番組でもテーマ曲として使われ、
かの世代の皆様には親しみがあったとか。
 それで東海道新幹線の車内オルゴール開発
(当初の目的はそうだったとか。後々在来線用にも・・・と考えられていたと・・・)
に際して試作の一つとされたらしい、と言う様な話を何処かで聞いたか読んだかしています。
 ただ、戦争を連想させる曲でもあるとの理由で却下された、とも。
 また「アルプスの牧場」や「鉄道唱歌」もその為に作られたとかで、
編曲は結構有名な音楽家がされたと言う話は鉄道保存協会発足会議の雑談で伺った記憶があります。
 この外に、ビバルディの協奏曲「四季」から「春」や、宮城道雄の「春の海」(お正月の琴曲定番)
など「試作」されたと言う事ですが、肝心の新幹線オルゴールは「明解に」を理由として4単音チャイムになり、
「ハイケンス」「アルプス」「鉄道唱歌」が残った・・・と言う事らしいです。
 それで幹線建設部当時、静岡鉄道管理局の営業サイドから「是非、通過となってしまうもののオルゴールにこの曲を!」
と推薦されたのが「ちゃっきり節」。
 が、運転局だか旅客局だかの幹部がクレームを入れたそうです。
「おい!ちゃっきり節ってのはな、静岡鉄道の広告ソングだぜ」
 未だ鉄道と日本が元気だった時代のお話らしいです。はい。
投稿者のホームページ



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 5月17日(水)23時18分33秒
タイトル 自信ないけど
オルビス化粧品のCM。なんとなくオハネ25ぽいような(^^;シートの色、テーブルの大きさからすると?
車窓風景も写るのですがスーパーイントロクイズ並です。
ただテーブルに付いているはしごが見当たらないのでどうかな?
今の技術なら編集も可能ですね。


投稿者 雑魚
投稿日 5月18日(木)15時15分22秒
タイトル チャイム の音階
>「北方連絡24時間運転」を目標とした大幅スピードアップのための試運転

おお、戦前の東北方面において、この様な試みが成されていたとは、豪気な話ですね。
岩沼以南は、東北線ではなく常磐線という点に、時代が感じられます。それにしても、
これ程に早期から、遠距離列車の経路として機能していながら、常磐線四ツ倉以北が
一部の区間を除き単線のまま残っているというのも解せないですね。室蘭線の非電化
区間など閑散気味の路線が、往時の貨物輸送対策の名残りで複線の侭残っているのを
見ると、やはり釈然としません(^^)

> 肝心の新幹線オルゴールは「明解に」を理由として 4単音チャイムになり、

運指要らずで吹奏できる、いわゆる「軍隊ラッパ」の音階でもあります。してみると、
例えば「正露丸」の曲でも良い………訳ないか(^^)オルゴールにせよ電子音にせよ、
親しみ易さを旨とするチャイムは、ハ長調に変換した場合、上野駅の常磐線特急発着
ホームの様な若干の例外も見られますが、概ね、白鍵だけで弾ける様な平易な旋律を
旨としていますね。逆に、黒鍵のみで弾ける「ヨナ抜き」またはその並行調になると、
純和風で纏まります(^^)

児童向け絵本では「ホロロ〜ン」と表現された小田急ロマンスカーの特急のホーンも
上記「運指要らず」の音階の類と記憶します。沿線の市街化の進展に伴い、私自身は
実物を聴く事は殆どありませんでした。常磐線特急にも、類似のホーンがあった様に
伺っていますが(地元の癖に)こちらは詳しくは存じません。

> オルビス化粧品のCM。なんとなくオハネ25ぽいような

都会在住の女性が松江の友人を訪ねるというコンセプトらしく、額面通り解釈すると
先頃廃止された「出雲」という事になるのでしょうか。なお、松江の大型店には最近
同化粧品の直営店が開店したそうです。


投稿者 103列車機関士
投稿日 5月18日(木)21時19分1秒
タイトル 音に関する事なら・・
客車の話ではないので手短に・・・・
最近鉄道の音で自分の中ではまっているのは京急VVVFと名鉄です。
名鉄の電子ホーンのテーマで「フーガB−Dur」を作ってみたいですね




投稿者 秋カタ
投稿日 5月18日(木)23時00分26秒
タイトル 東北本線列車試験異聞
初めまして。先ほど書き込みありました東北本線列車試験についてですが、
同時期に奥羽本線ならびに羽越本線でも行っております。
川上幸義著「新日本鉄道史 下巻」137ページによりますと、
昭和5年11、12月に当時の仙台鉄道局では管内幹線の運転速度の向上を企画して
「仙鉄の虎の子」だったC51型蒸気機関車を使用し試運転を行いました。

羽越本線での試運転の際の編成記録が残っており下記の通りだったそうです。

C51261-ナヤ16900-スロフ31209-スロフ31212-オシ27703-スユ26026-スロフ31211-スロフ31208-スロフ3123ースロフ31214

奥羽本線・東北本線でもこれに準じた編成が使用され(多少編成の差し替えがあったそうです)
列車重量は305トンとしていたそうです。

奥羽本線では福島発6時15分途中米沢・山形・新庄・横手に停車、
秋田到着は13時17分で正味運転時間は5時間40分。
当時の最速列車であった急行401レは8時間16分かかっていたので大幅な時間短縮となりました。
なお板谷峠では通常の4110型蒸気機関車に変わってD50型蒸気機関車が補助に当たりましたが
空転が予想以上に激しかったそうです。

両線とも30kg軌条だったので枕木の数を増やして高速運転に耐えうるよう対策を講じたそうです。

当時の東北地方ことに奥羽本線は木造客車が幅を利かせており(牽引機関車は8620型)、
今まで見たこと無い新品の鋼製客車(恐らくは東京鉄道局から借り入れ)や大型旅客用機関車C51を見た沿線住民は
「おらが町にも超特急が来る!」と思ったかもしれません。+



投稿者 雑魚
投稿日 5月19日(金)09時42分43秒
タイトル 板谷峠
> なお板谷峠では通常の4110型蒸気機関車に変わってD50型蒸気機関車が補助に
> 当たりましたが空転が予想以上に激しかったそうです。

ちなみに、優等列車が板谷峠のスイッチ・バックの四駅を通過できる様になったのは、
1949年に配線を変更してからだそうですね。それ迄は、乗降需要が殆ど見込まれない
深夜帯に急行の旅客扱い停車もあったそうな。電化された当初の「直流仕様」と云い、
板谷峠の歴史を辿ると、なかなか興味深いところです。

添付画像は旧大沢駅の引上線です。線路がどこまで続いているか、辿りたくなるのが
人情ですが、いつも藪に阻まれて挫折するんですよね。次回は、庭仕事用の剪定鎌を
持参しようかな(^^)



投稿者 秋カタ
投稿日 5月19日(金)23時21分26秒
タイトル 板谷峠の話
仙山線開通までは山形市内の小学校の修学旅行で松島方面に向かうには
奥羽本線−福島−東北本線経由で目的地に向かっていたそうです。
帰りには家族に「峠の力餅」をお土産として買って行くのが当たり前だったそうで
峠の力餅の売り子は昼夜問わず大忙しだったそうです。

板谷峠電化開業直前、4110型蒸気機関車が戦時中からの酷使と戦後の混乱で休車が相次ぎ
9600型蒸気機関車が助っ人として同区間に投入されましたが、
運転台は開放式だったので機関士は煙害に苦しめられたそうです。
因みに現在九州鉄道記念館に保存されている59634号機は当時助っ人として板谷峠で活躍した機関車です
(米坂線での活躍の方が有名ですが)。

戦前期の鋼製客車の投入は、東鉄→名鉄→大鉄→門鉄→札鉄→仙鉄の順だったそうで。
どうも東北地方は冷や飯を食わせれていたような感じです…。


投稿者 雑魚
投稿日 5月20日(土)09時27分53秒
タイトル 峠駅
仙山線が全通したのは1937年、時あたかも日中戦争の発端とされる「盧溝橋事件」が
発生した年で、以後、修学旅行の類も自粛気味だったかも知れませんね(戦時体制下、
修学旅行が制度として正式に禁じられたのは1943年)

> 峠の力餅の売り子は昼夜問わず大忙しだったそうです。

当時は、配線の事情もあって、時間帯ないし列車種別を問わず停車していましたから、
現在では考えられない程の盛況振りだったのでしょうね。画像は、厳寒期の旧峠駅の
様子です。国道13号線に通じる狭隘な小道は、カチカチに凍結しており、製造元への
業務用の往来も一苦労どころではない印象でした。私はこの時、列車で訪ねましたが、
一本逃すと数時間足止めを食うという「スリル&サスペンス」の世界でした(^^)


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 5月21日(日)01時02分55秒
タイトル 交通博物館のページ追加
去る5月14日(日)に、鉄道ファンにとっての聖地のひとつであった東京の交通博物館が長い歴史に幕を下ろしました。
その交通博物館の展示の模様や最終日の様子などをクモイ103様が画像に収めて下さいましたので、
特集ページを作成致しました。
大宮に建設される新鉄道博物館に期待しつつ、在りし日の交通博物館を偲びたいと思います。
トップページの1・2号車の上に入口がありますので、ぜひご覧ください。


投稿者 クモイ103
投稿日 5月21日(日)08時26分19秒
タイトル Re:交通博物館のページ追加
 車掌@仙コリ様、まことにありがとうございます。
 交通博物館の閉館は、鉄道趣味界(?)では間違いなく今年の十大ニュースの上位に入るでしょう。
今回ご無理を申し上げて、私の撮った稚拙な写真を当サイトのコンテンツとしてアップして頂きました。
 過去にこの掲示板でも話題にした交通博物館、私にとっては幼い頃からの想い出の地です。
ご乗車の皆様も、それぞれの感慨をお持ちの方が多いのではないでしょうか。
 閉館が迫った4月はほぼ毎週のように、駆け込み文献調査をしていました。
ふと思い立ってカメラを持参したのが、そのうち最終日を含めて3回。
あくまで「ついで」の撮影なので、被写体の選定は私の個人的趣味でかなり偏向していますのでご了承下さい(笑)。
交博の全てをお伝えするというわけには到底いきませんが、来たくても来られなかった方も大勢おられると思いますので、
雰囲気の一端だけでも感じ取って頂ければ幸いです。


投稿者 雑魚
投稿日 5月22日(月)17時25分31秒
タイトル 万世橋
> 来たくても来られなかった方も大勢おられると思いますので、

私もその一人です(^^)添付画像は今年初め、妙に馴れ馴れしい鼠や家鴨や犬などが
徘徊する千葉県臨海部に家族を連れて行った際の単独行動で、都心をうろついた時の
撮影です。神保町で書籍をしこたま「仕入れ」た後、残された時間は約一時間。さて
交通博物館にするか電気街にするか、迷った挙句、愚かにも、後者を選んだのでした。

「馬鹿だったあの時、何も考えてなかった……」とフォーク・シンガーを気取っても、
結局「でもあんた、何だかんだ言っても『萌え』好きですから………残念!」などと、
ギター侍風に帰結するのが関の山(ちなみに、神田川を見下ろす「三畳一間の小さな
下宿」というのは、どの辺りやら?)

その様な訳で、クモイ 103様による画像は、別の意味で「萌え」でしたね(^^)なお、
来年秋さいたま市に開館予定の「鉄道博物館」で殿堂入りする予定と聞く、常磐線の
両端ボンネット型 485系訓練車の現在の所在が気になるところです。


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 5月23日(火)00時03分52秒
タイトル 朝のドラマ
NHKですけど岡崎から東京に上京するシーンが何回か(^^)
客車内ですが三等車で小さな窓が三つ並んでいる。
昭和十年位で東海道線ならナハ22000かな。
でも外から走る汽車を撮った絵は大井川鉄道(^^;
この時代なら丹那トンネルができて沼津までは電化していたはずだけど大目に見よう(^^;
雑魚様、神田川の舞台は早稲田付近みたいです。
窓の下に神田川・・・なるほどの情景であります(^^)
485ボンネットは偕楽園に行った時水戸駅にいたよ(^^)/


投稿者 雑魚
投稿日 5月23日(火)10時19分24秒
タイトル 神田川
> でも外から走る汽車を撮った絵は大井川鉄道(^^;

民家など、現代風の構築物が映らない構図でのSL走行場面となると、大井川鉄道の
山峡区間に頼らざるを得ないでしょうからね。将来、映像技術が更に進歩し、合成で
昔日の風景を、様々な構図で再現出来れば面白いのですけどね。

> 神田川の舞台は早稲田付近みたいです。

学生街のイメージですかね。早大に進学した同窓生達は、中野方面に居を構える事が
多かった様に聞いていますけどね。

> 窓の下に神田川・・・なるほどの情景であります

……ですよね。そこで「貴方はもう忘れたかしら、万世橋に駅があったのを……」と
替え歌も出来そうです(^^)営業休止(一応、廃止ではない模様)が1943年ですから、
当時を憶えている方は、少数派になりつつありますね。ちなみに「料理の鉄人」にて
名声を博した「神田川」俊郎さん(本名に非ず)は畿内の御出身。

> 485ボンネットは偕楽園に行った時水戸駅にいたよ (^^)/

梅まつりの頃でしょうか。その頃のダイヤ改正を期に転出するのでは、という観測も
あったらしく、先月来、たまたまかも知れませんが、見かけないんですよね。某かの
惜別運転を期待しているのですが。

画像は水戸駅留置の訓練車です。後方高台の校舎は元通学先です。最盛期には国鉄の
旅客線および貨物線それぞれ二系統、そして電鉄線一系統に囲まれており、私の場合、
学問はともかく「鉄分」を涵養するには最適の環境でした(^^)



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