倶楽部メモ(313)
平成18年 3月13日〜 3月17日


投稿者 うめ さん
投稿日 3月13日(月)22時38分32秒
タイトル 懐かしいですね
急行音戸、かいもん、つくし、あげればきりがありませんが 本当に懐かしく思います
飛行機、新幹線も良いのですが 夜行列車は最高でしたね 
消えてゆく街の明かりをみながらの旅は本当に良いものです。
寝台に限らず 4人掛けの席に座り肘あてを枕に眠りながら
よく旅をしたものでした。昔の話ですが 広島に住んでいたころは ふらっと夜行に乗り
大阪に行きトイレだけして折り返しの電車に乗ったのを覚えていますよ 駅弁を食べながら、、、



投稿者 米芋
投稿日 3月14日(火)00時58分48秒
タイトル 樽見に行ってきました
客車列車は終わったと知りつつも、1ヶ月前にMながらの指定を買っていたので行ってきました。
案の定、来たのはレールバス、貨物列車もなかったようです。
既に貨物も終了したので客レも突然なくなったのでしょうか。
久しぶりに当てのないのんびり青春18の旅ができました。
名古屋で「かすが」の駅撮はしましたが、
やっぱり、どんな色に塗り替えられようとキハ58の方がよかったですね。
(客車ネタでなくてすみません。)


投稿者 急行音戸
投稿日 3月14日(火)07時57分52秒
タイトル ありがとうございました
下総守こみやさん、ありがとうございました。
確か、最終的に広セキ持ちの瀬戸&あさかぜは、パンタ付のスハ25で運用されており、
トワイライトエクスプレスの電源車確保のため、と聞いたことがあります。
東京発のブルトレで山口県西部地区(俗に言う下関口)在住の私には『瀬戸・出雲』は縁遠く、
京都在住の際、今は無き『みずほ』で帰郷の際、京都発車後、山崎ですれ違うのを見た程度でした。
とりあえず手持ちの方向幕の白地に『高松行』があることから、それを使おうと思います。
ありがとうございました。

投稿者 雑魚
投稿日 3月14日(火)11時12分32秒
タイトル 初めての夜行列車
> 4人掛けの席に座り肘あてを枕に眠りながら(うめさん)

学生時代に、仲間数名と四国を旅行した際に利用した大垣夜行(165系/345M)が
私にとって初めての夜行列車でした。通学に片道百分を要した高校時代、列車内で
寝る事には多少の自信があったのですが、やはり長時間の乗車では、早々上手くは
行かない事を思い知らされました。深夜にもかかわらず、静岡駅のホームで弁当が
販売されていたのが印象的でしたね。

翌晩は、高松発中村行の夜行快速泊でしたが、急行の間合運用で、指定席相当車が
グリーン車の格下げという破格のサービスで、その晩は熟睡出来ました。同列車は
その後、高知止りの50系客車に置換されましたが、空いている時はロングシートで
カーペット車並みに体を伸ばしての安眠でした。ただしポイント通過時の横揺れで
夜中に何度か床にコケましたけれど(^^)

現地集合・現地解散の為、仲間達は思い思いの方法で移動したのですが「瀬戸」を
利用した友人は、貧乏学生集団における「ブルジョア的行為」を批判され「人民の
階級敵」として、その後暫く妬みの対象になったのでした(^^)

急行音戸様は下関方面の御住まいですか。十年ほど前に、業界団体の研修で鳥取に
行く事がありまして、確か「さくら」でしたか、下関で下車して、時間が許す限り
臨港線を見物し、その後、当時下関始発だった「おき」で鳥取に向ったのが、実に
思い出深いところです。

研修後は週末を利用して出雲市に移動し、斐伊川鉄橋にて、当時二往復体制だった
客車「出雲」やハネ・ハザ混成の「だいせん」の他、国鉄色の「やくも」や急行型
気動車など、今考えると垂涎モノの被写体が次から次へと通過する様子を片端から
撮り捲っておりました。帰途は「出雲」の個室を奮発し、米子駅で購入した、あの
名物駅弁「吾佐衛門鮨」を丸齧りしながら、山陰の夕景を愛でていたのでした。

※BGM)ヴォーン・ウィリアムス「ノーフォーク狂詩曲」第一番


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 3月14日(火)14時06分10秒
タイトル 初めての夜行私は
急行越前でした。旧型客車を一夜の宿とし碓氷峠を(^^;寝台車じゃないのは言うまでも無い。
そして氷見線でオハユニ城端線で10系座席車。富山港線はブルーの旧国でした。学生服着ていたあの頃が懐かしい。
雑魚様マナーで
列車妨害、窃盗、不法侵入、職員への暴言、ホームを走って乗客突き飛ばす。
電車の中でカメラ片手に時刻表開いている奴と目を合わせるな!じゃないと不快になるぞ!間違いない!
さよなら犬吠では往復とも不快な奴が(--#帰りは船橋で乗り捨てた。



投稿者 急行音戸
投稿日 3月14日(火)16時30分57秒
タイトル 初めての夜行私は・・・
『寝台特急みずほ』でした。
自分が、自由に動ける、と言うか、社会人になってからは、もっぱら、クルマでの移動が多く、
夜行を使う機会も、帰省のみとなり、今思えば、なぜあの時ぶらり旅でもしとけばよかったのに・・と悔やまれます。
撮影はチョコチョコしてましたが・・・・・
>雑魚様マナーで・・・・
私は、客車とは関係ありませんが、美祢線の石灰石輸送が無くなる直前に、撮影に言った際、
初めて罵声を浴びせさせられました。しかも、拡声器か、メガホンのようなものでです。
私だけならともかく、地元の農家の方にもですよ!あれには驚きでした。

>急行音戸様は下関方面の御住まいですか。
はい、そうです。私も、臨港線?付近をJR化前後に散策したことがありますよ。
オユが数両、倉庫代わりになってたように記憶してます。
今は無くなっています。あと、「吾佐衛門鮨」は駅弁だったとは知りませんでした。
母が、好きなもので、一度、贈ったところ、気に入り、いつもメーカー?に『お取り寄せ』しているそうです。
確か『米吾』と言うところでしたよね。
ここの『カニ寿司』は駅弁として食べたことがあります。


投稿者 てりてり
投稿日 3月14日(火)19時11分0秒
タイトル 初めての夜行私は・・・
 失礼します。4歳でしたか九州から東京に向かう『あさかぜ(20系編成)』でした。
家族で乗った事を薄ボンヤリと覚えております。
その後はかなり飛んで確か中学生の時の北海道で乗った急行大雪3号(14系ハザ)でした。
今も寝台車は高嶺の花である気がします。
尤もやっと旅行に行けるだけの貯金が出来たと思ったら寝台夜行列車が少なくなってきました(涙)。
 撮影などをしていて不愉快になった事は余り無いのですが、ただ今でも腹立たしい事がありました。
数年前、ある車庫で撮影許可を得てさて仲間と入ろうとすると、全く見知らぬ人間が黙ってついて来ました。
一言仲間に入りたいと言えば良いのですが全く図々しい男でした。
職員に追加を言って彼も入りましたが、ありがとうの一言も無く気が付けば消えていました。
当日は天気も良かったし、さぞかし素晴しい写真が撮れた事でしょうね。
 失礼しました。今でも思い出すと頭にくるのでツイ…。
 出雲も最終列車の出発が近づいております。
チャイコフスキー作曲、交響曲第六番第四楽章で見送るつもりでしたが、ガラッと気分を変えて、
ここはカバレフスキー作曲、『道化師』から「エピローグ」で賑やかに見送りましょう。
失礼しました。それでは。


投稿者 青列車
投稿日 3月14日(火)19時35分44秒
タイトル 初めての夜行…
お邪魔しますm(_ _)m
初めての夜行列車ですか?これは皆様貴重なご体験、興味深く拝読しました。
さて、私の場合生憎列車名がはっきりしません(泣)。
何分にも記憶にある最初の夜行列車は5、6歳頃の、まだ小学校入学前の事でしたので…
ご近所数軒併せての団体旅行(町内会的な集まり)での事でした。
生家の最寄駅を夕刻出発、
全線電化を2年前に達成したばかりの、界隈ではまだ新進気鋭の80系電車による各駅停車で広島を目指します。
普通は上り方面なら徳山、下り方面なら防府で、優等列車に乗り換えるのですが、
この時はそのまま広島まで普通電車でした。広島から乗換えた急行列車は呉線経由(のはず)。
というのも、「この列車は蒸気機関車が牽いています」というアナウンスがあったのをはっきり覚えているからです。
既に電化の終わった山陽線を、それも急行列車をわざわざ蒸機牽引で、しかも瀬野八を登るとは考えにくい話です。
東京行きの「安芸」はまだ日の高い時刻に広島を立ちますので、夜も遅い時間のこの列車には該当しません。
しかも朝になって大阪駅で下車していますので、
列車としては大阪或いは新大阪行きの「音戸」「ななうら」あたりかと思われます。
微かに残る記憶を辿れば、乗ったのは座席車でおそらく1号車。すぐ隣に荷物車らしい茶色の客車がつながっていました。
その客車がスハフ42だったのかナハフ10(または11)だったのかまでは記憶を辿っても判りません
(近代化改装された体質改善車だったのは間違いありません)。
翌朝長い右カーブで窓越しに列車の先頭を見たところ茶色の電機(おそらくEF61)がいました。
呉線経由の大阪または新大阪〜広島間夜行急行、下り方に荷物車が1両以上、1号車に座席車、時は1966年の夏場。
列車特定するには少々情報不足です。

子供時代にはそれほど乗る機会は無かったのですが、
その反動で?大学以降何かと理由をつけては夜行列車、客車列車を利用したものです。
車窓を楽しむ…という点では昼行列車に比べて圧倒的に不利な夜汽車ですが、
夜行列車、わけても客レには独特の味わいがあります。
此処にお集まりの皆様ならこの気持ちお判りいただけるかと思いますm(_ _)m

航空機なら1時間で行けるところを12時間かかっても、夜行バスなら1万円でお釣りが来るところを3万円かかっても、
それでも夜行客レを選んでしまう私って…変ですか?(^^);


投稿者 スイロフ
投稿日 3月15日(水)22時55分21秒
タイトル 初めての夜行・・・
私は高校生の時に乗った山陰本線の「山陰」でした。
時刻表で見つけてどうしても乗りたくなって、「山陰」に乗るために出かけたようなもんでした。
昼前に東京を出て東海道線をトコトコと... 
京都からの「山陰」の車内では興奮してほとんど寝ていなかったような(^^;;)。

青列車様がおっしゃるように、夜行列車は車窓は少々不利ですが、
それでも家の灯りや外灯が流れて行くのをぼけーっと眺めてみたり、
山陰本線ですと夏の夜は海上の漁船の集魚灯の灯りを眺めたり、
それなりに夜を過ごしていました(遠い目)。



投稿者 雑魚
投稿日 3月16日(木)09時00分41秒
タイトル ゆぅトピア・ライナー
我が「嬉し恥ずかし夜の初体験」(多分に語弊がある表現ですね)を契機として
寄稿して頂いた皆様の事例、興味深く拝見致しました。御指摘の様に、夜行では
車窓風景を充分に楽しむ事は出来ませんが、それだけに、翌朝、目が覚めた時に
雄大な光景が広がる時の感慨は一入です。私の場合、初めての北海道は「まりも」
明けで太平洋が、初めての山陰は「だいせん」明けで宍道湖が、それぞれ最初に
目に入り、夜行列車の醍醐味を感じたものでした。

一方、夜間で車窓を楽しめた数少ない事例として、学生時代、能登旅行の帰途に
利用した「ゆぅトピア・ライナー」の事例が挙げられます。当時、非電化だった
七尾線の和倉温泉への行楽輸送を強化する為、北陸線は「雷鳥」が牽引する形で
JR北海道「アルコン」風の改造気動車「ゆぅトピア」を充てた大阪直通特急が
運転された事を、御記憶の方も多いと思います。

この列車、登場当初は週末のみの運転でしたが、車両自体は金沢の所属である為
金曜夜に金沢→大阪、日曜夜に大阪→金沢で回送の必要が生じ、これを一般開放
扱いで設定したのが、臨時特急「ゆぅトピア・ライナー」でした。当時メインの
昼行「ゆぅトピア・和倉」は、旅行代理店が団体用に押さえる事が多かった為か
指定券がなかなか取れず、帰途に大阪行「ライナー」を組み込むべく、木曜夜に
発つ「北陸」で行程を組んだのでした。

急行「能登路」を活用して、当時まだJR扱いだった輪島駅や蛸島駅まで往復し
金沢に戻ったのが夕方。御目当ての「ライナー」は最終「雷鳥」が出発した後の
発車なので、香林坊を散策したり、コップ酒片手に駅近くの飲み屋で時間を潰し
いよいよ乗車。時間帯が時間帯ですし、グリーン車扱いなので、利用者は案の定
私を含めて三〜四名。おかげで進行方向寄り展望席(フリース・ペース扱い)を
終始独占できたのですが、何しろ特急や貨物が雁行する北陸線の事、対向列車と
擦れ違う度に、前照灯パターンと種別の関連を見るだけでも、飽きませんでした。

そのうち、車掌さんが「映画でもいかがですか」と放映してくれたのが、1967年
公開の「喜劇・急行列車」でした。かの渥美清さんが、20系ブルトレの車掌役で
主演する内容で、確か非電化時代の日豊線が登場していましたっけ。

対向列車以外の車窓で特筆されたのは、まず敦賀南方の鳩原ループ線の途中から
一瞥された敦賀市街の夜景の俯瞰です。また大津付近では琵琶湖の湖面に映える
対岸の街の灯火も、実に見事でしたっけ。雄琴付近では「夜の蝶」ならぬ「夜の
雷鳥」がいたかどうかは定かではありませんが(^^)山科から複々線区間に入り
対抗列車は俄然増えて、盛り上がりつつ大阪に到着。その余韻を噛み締めながら、
零時過ぎに到着した、客車当時の「瀬戸」で帰京したのでした。

いよいよ「出雲」も今夕・明晩の運転を残すのみとなりましたね。東京駅などで
エゴ丸出しの愚行に走るマニアの暴挙で、せっかくのフィナーレに水を差される
事などが無い様、草葉の陰から(一応、生きてますが)生温かい目で見守りたく
存じます(^^)


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 3月16日(木)10時13分57秒
タイトル 夜行のセカンドラブ(^^)
夜行165系急行佐渡で小出へ(^^)只見線から会津入り。
日中線が健在で往復しました。熱塩駅は写真撮る人とかで賑わって。
行きの列車に乗った顔が帰りにも同じ(^^;ご丁寧に皆行き帰り同じ席に陣取り。
スハ32に揺られ中山宿でスイッチバックして郡山。
管理人様思い出を語る場を提供していただき感謝です(^^)


投稿者 雑魚
投稿日 3月16日(木)13時22分8秒
タイトル 福島県の事情
> 夜行 165系急行佐渡で小出へ(^^)只見線から会津入り。

その夜行「佐渡」は、もしや「ムーンライト」の原型よろしく、村上直通便では
なかったでしょうか。上越新幹線の上野延伸に伴い廃止された1985年春の改正の
直前に、新潟→上野で記念に乗り納めましたが、前日に、名古屋から乗り通した
急行「赤倉」と共通運用だったのには驚きました。

只見線は新幹線「とき」始発便から急行「奥只見」に繋いで乗り通した事があり、
浦佐−小出が快速扱いとなる為、新幹線乗継割引が適用されなかった事が、妙に
印象に残っています。

日中線は、現役時代を見る事なく廃止されましたが、熱塩駅での機回しの様子は、
写真でも多々紹介され、馴染みがありました。現代の感覚なら、機回しが不要な
気動車でワンマン体制とするのが当然ですが、当時は、気動車自体が結構貴重で、
日中線のごとき閑散路線に融通する余裕は無かった、と見る向きもある様ですね。

起点の喜多方駅もかなり様変わりし、日中線は素より事業所専用線関連も完全に
撤去され、電車急行「ばんだい」が折り返していた頃の印象などは、過去帳入り。
当時、電化区間にもかかわらず、普通列車は旧客や気動車のみだった磐越西線の
車両事情も、現在考えると、隔世の観もひとしおです。

> 中山宿でスイッチバック

推進運転による入替の様子は、板谷峠のそれをも感じさせ、重厚な印象でしたね。
1997年に、従来とは結構離れた本線上に移設されたのは、当該区間の旅客列車が
全て電車化され、起動力の問題が解消された為ですが、数年前に訪ねた旧駅跡は、
ホームの他は、保線車両用に僅かな側線が残るのみと、かなり寂しい状態でした。
その点、板谷峠の各旧駅は(赤岩駅の状況は良く存じませんが)ホーム・架線柱・
線路ともに「健在」ですね。画像は、板谷峠の最高地点となる、峠駅の様子です。


投稿者 うめ さん
投稿日 3月17日(金)02時10分36秒
タイトル 列車好きの少年でした
とにかく列車(汽車)に乗るのが好きな私でしたね。
南は西鹿児島から北は稚内、網走、帯広までで 
乗っていない路線(幹線)は常磐線、那智勝浦〜名古屋、高松〜宇和島、新宿〜長野
それくらいですかね(ちょっと 自慢かな)
特急、急行、普通を含めて 沢山乗りましたが 皆さん方みたいに 型式などは ほとんど分かりませんが、、、
何か クラブとかサークルなどがあれば どなたか教えていただきたいと思います
たしか乗車券(切符)も色々集めておりましたので 実家(広島)を探せば出てくるかも
しれませんが 実家には誰も住んでいないので誰かが整理したかもしれませんが
今度 帰郷したおりに探してみましょう。この年になって このページに出会って本当に嬉しく思います 有難うございます


投稿者 雑魚
投稿日 3月17日(金)09時57分13秒
タイトル 終焉前夜
いよいよ「出雲」最後の出立の日を迎えました。報道を見ますと、餘部橋梁などの
有名な撮影場所は、夥しい数の三脚組で溢れ、下り便の立席区間もかなりの盛況で、
フリー・スペース扱いの食堂車は、記念品販売などで、ごった返している様ですね。
家族連れも少なからずいらっしゃる様で、単なる趣味に留まらない惜別感覚の方も
いるのでしょう。私も何度か御世話になった列車、本当に長い間、御疲れ様でした。

今となっては、本日発車分の切符など確保できる訳もありませんが、先刻、近所の
金券ショップで、この様な切符を発見しました(大嘘)おお、これは………(^^)



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