倶楽部メモ(35)
平成12年 2月15日〜 2月17日


投稿者 伊藤正宏
投稿日 02月15日(火)23時29分11秒
タイトル オハ41形について
本文

みなさん、こんにちは。

オハ41形についてですが、特ロの元スロ51、スロ52形の改造車はデッキの追加工事と
台車振り替え(TR23化)、ロングシート化によりオハ55形を経由せずにオハ41形に改造されいます。
もしデッキの追加だけが行われて格下げ改造がされていた場合、定員で形式をオハ51、オハ53、
オハ55形に分けていたので、新形式になっていたかも知れませんでした(推測ですが...)。

投稿者のホームページ


投稿者 (讃)高松
投稿日 02月16日(水)00時12分15秒
タイトル DF50って?
本文

皆さんはじめまして。(讃)高松と申します。既婚31の男性です。
簡単に自己紹介をします。
小生は奈良県の出身ですが、祖父宅が三重の亀山にありましたので、おのずと子供の頃は、
紀勢本線や関西本線の亀山以東で、客車列車には乗ったり出来る機会がありました。
また、小生が鉄道オタクなのは、今は亡き祖父が、戦前、機関士をしていたらしく、
関西本線や桜井線に乗務していたそうで、その血を引いているのかもしれません。

ところで、質問なのですが、幼稚園の頃、紀勢本線の客車はDF50という機関車が牽引して
いたように思いますが、あのDF50ってどうしてDD51に置き換わったのかが疑問なのです。

余談ですが、紀勢本線はたしかS61年頃まで(最後は50系)、関西本線亀山−名古屋間は、
S57年の電化開業まで、客車はあったと思います。


投稿者 あおぞら
投稿日 02月16日(水)02時13分56秒
タイトル オハ41種車
本文 オハ41の生い立ちで盛り上がってますね(^^)。
昨日鉄道車輛系ページを徘徊していたところ、
伊藤正宏さんの開設されている国鉄型車輛ファイルのページで、
オハ41の種車数種の写真を見ることができました。
まぎれもなくこの種類のどれかですね(^^)。
大キトさんの画像もたのしみにしています。


投稿者 伊藤正宏
投稿日 02月16日(水)06時58分36秒
タイトル Re: オハ41種車
本文

あおぞらさん、こんにちは。

> 大キトさんの画像もたのしみにしています。

現在そのころの格下げ車についてHPアップのために形式・経歴等を整理しているところですので、
私も大キトさんの写真が楽しみです。

投稿者のホームページ


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 02月16日(水)08時53分26秒
タイトル 訂正(オハ41)
本文

伊藤さん、ご指摘ありがとうございます。
車歴表を見直したところ、確かに元スロ51・52形の改造車は、オハ55形を経由せずに
オハ41形に改造されていました。
ここに謹んでお詫び申し上げ、訂正させていただきます。

誤 スロ51→オハ55→オハ41 351〜373 狭窓 700mm
  スロ52→オハ55→オハ41 401〜414 狭窓 700mm

正 スロ51→オハ41 351〜373 狭窓 700mm
  スロ52→オハ41 401〜414 狭窓 700mm

私も、大キトさんの写真と伊藤さんの資料、楽しみにしています。
私のページでも客車形式アルバム(仮称)として、各形式の写真を掲載すべく準備中ですが
こちらはもう少しお待ち下さい。


投稿者 大和路環状線
投稿日 02月16日(水)12時02分51秒
タイトル オハ41その他
本文

★オハ41

広窓のオハ41についてカキコして下さった皆様、どうも有り難うございます。
大まかな全貌が掴めてきたように思います。

広窓車の写真は見たことがありませんので、強い関心があります。
外見は1等車の風貌をとどめているでしょうから、単に見落としてきただけかも知れませんね。
(大キトさんの仰っている画像も楽しみです。(^^))

●あおぞらさん
>高徳線の旧客の話ですが、ロングシートの客車の隣にいたのは、旧特急車の
>スハフ43でした。

四国に残ったオハ41最後の5両は、特ロ(スロ51・スロフ53)を種車とするものだそうで、
スハフ43とは「特車コンビ」になりますね。目にされた方が羨ましいです。

●茂木茂さん
>こんな楽しみ方もいかがなものでしょうか。

同感です。
旧客はその年季の入り方・バリエーションだけで十分魅力がありました。
しかしそれだけに、かえって、腰を落ち着け純粋な部分での「客車の魅力」を
味わえるようになったのは、旧客全廃以降(特に50系の客レ)だったかな。。。
(「生の旧客を見た歴」2年半だった私の場合は、ですが・・・。)

●(讃)高松さん

DF50の置き換えですが、やはり老朽化(昭和31年〜)が最大の理由ではないでしょうか?
(それに絡んで、出力的な問題もあるのでしょう・・・。)

>紀勢本線はたしかS61年頃まで(最後は50系)、関西本線亀山−名古屋間は、
>S57年の電化開業まで、客車はあったと思います。

昭和61年11月改正でしたね。西線は12系2往復、東線は50系2往復・・・。
旧客没後ですが、私も客レで亀山→天王寺を2回だけ走破した思い出があります。
多気を過ぎた辺りで地元のオバさんに「どこまで行くの?」と聞かれて、驚かれました。
「天王寺」・・・そりゃ驚きますよ。(^^;

関西本線と言えば、夕ラッシュ時の名古屋発津行923レ。
宮○俊三氏のお気に入り列車です。(笑)


投稿者 伊藤正宏
投稿日 02月16日(水)16時39分12秒
タイトル 「特車コンビ」について
本文

 大和路環状線さん、こんにちは。

> 四国に残ったオハ41最後の5両は、特ロ(スロ51・スロフ53)を種車とするもの
> だそうで、スハフ43とは「特車コンビ」になりますね。目にされた方が羨ましいです。

 私は初めて四国へ行った昭和61年3月に四国各所に留置されていた「特車コンビ」を
かろうじて写真に収めることが出来た1人です(そのうち、弊サイトで紹介します)。
スハ44系や元特ロの車両は模型の世界だけだと思っていましたので、
その当時は感動したのを覚えています。
 同じように感動したのは、初めて二重屋根車(スエ30形)と国電改造の戦災復旧車
(スエ71形)、3軸ボギー車(スエ78形)に出会ったときでした。
ちょっと前の出来事のような気がしますが、JR化後の変化の早さにはビックリしました。

投稿者のホームページ



投稿者 客車好き電車嫌い人間
投稿日 02月16日(水)18時29分39秒
タイトル 創臨の話
本文 身延線の富士宮は或る宗教団体の本山があるため団臨が多数運転され、
S47年ころの鉄道ファン誌で特集が組まれたこともあります。
古くは従来客車、後に12系が全国から運転され、品川発は古くは従来客車、後にモハ80
昭和45年ころから113系が使われました。
これら列車は創臨と呼ばれたそうですが、現場の助役に言っても通じず
スジ屋だけが使っていたようです。
品川の団体待ち合わせ所がほとんどこの団体用だったことは、信者向けの仏壇屋の広告が
多数あったことと、創臨がなくなったらレストラン街になったことから明らかです。
鉄道ファン誌によると、富士宮または富士駅に到着後は品川まで東京地区の客があれば
乗せなければ回送したと書かれていましたが、どうなのでしょうか?
富士宮駅にはホームに平行な留置線2本くらいと甲府寄りに新たに作った留置線が8本
(1本は機回りか?)あり、乗務員宿泊施設もあったりして、小さな客操並みでした。
甲府寄りの留置線ができるまでは品川に回送していたのでしょうか?
本山との内紛で創臨が廃止され、昨年夏に青春18キップで留置線を見に行ったときは
入れ換え標識は生きているのに線路は錆びていました。
全国の12系が少なくなったのもこの影響が大きいと思います。登りの場合、
品川で時間調整し、東京で時間調整し、東北本線、高崎線、常磐線に乗り入れました。
後に山の手貨物経由になり(品川で機関車付け替え)さらには武蔵野線(梶が谷貨タ経由)
になりました。
品川で時間調整のとき、ちょうど12系が垂れ流しから粉砕方式になったころで、台車に
汚物の粉末が多数付いていたのを今でも覚えています。


投稿者 大キト
投稿日 02月16日(水)19時59分40秒
タイトル オハ41形式画像半減
本文 まいど車掌さん、そして乗車中の皆様、オハ41形式の画像のUPですが比較的時期が若いので
未だ取込んでいないものがあって、4両程に減少しました、すみません、
そこでオハ55など古いものを集めて11枚用意してUPしました、
来週は仕事が忙しくなるので急遽計上した関係で、諸元を書いていません、
そこで乗車中の皆様に諸元を調べてもらって車掌さんのこの号車に書きこんで頂けませんか?、
画像は退色・カビ・などで劣化しているため露光も不足していますので、何とか確認できるまで
調整しましたが、青味がかって車体色が思う様に出ませんでした、
車体色はすべて茶です、では皆様の書込みに期待して下車します。
オハ41356/オハ5310/オハ41357/オハ552038/オハ41358/オハ564/
オハ412371/オハ568/オハ41車内/オハフ521/オハフ531


投稿者 あおぞら
投稿日 02月16日(水)21時00分24秒
タイトル DF50置き換え
本文

(讃)高松 さんこんにちわ。
実家の最寄り駅から連絡船の乗船券を買うとこの文字が切符に印字されてました。
なつかしいですね(^^)。

さて、私も大好きなDF50ですが、やはり老朽化が最大の原因であるのと、
より高出力な機関車の登場で、自然に淘汰されてしまったというところでしょう。
急勾配の連続する土讃本線ではDF50が全力でエンジン回しても一部で
のろのろ運転だったようですが、DE10でもそこそこ走ってたりしますからね。

電気式DLと液体式変速機DLとでどれぐらい効率に差がでるのかはっきりした資料が
手許にないのですが、これらの要因ならびに保守性の不利さなども手伝って、
液体式変速機の性能向上とともに自然に消えていく運命にあったのでしょう。

手許に残っているDF50の写真は豊永付近を単機回送中の写真が2枚、
走行中の車の窓からむりやり撮影したもののみですが、
旧客を従えた編成写真を残せなかったことが残念でなりません。


投稿者 伊藤正宏
投稿日 02月16日(水)21時23分03秒
タイトル Re: オハ41形式画像半減
本文

大キトさん、みなさん、こんにちは。
オハ41形etc.の経歴ですが次の通りとなっています。

オハ41 356 ← スロ51 36
オハ41 357 ← スロ51 41
オハ41 358 ← スロ51 42
オハ41 2371 ← スロ51 2019 ← スロ51 19
オハ53 10 ← オロ35 10 ← オロ30859
オハ55 2038 ← オロ40 2038 ← オロ40 38
オハ56 4 ← スハ32 221 ← スハ32884
オハ56 8 ← スハ32 301 ← スハ32964

オハフ52 1 ← オロフ32 1 ← オロフ31050
オハフ53 1 ← オロフ33 1 ← オロフ31100

このうち、

オハ56形は格下改造車ではなく、
マニ60形のTR11と台車交換してスハ32形を形式変更した車両です。

オハ55 2038は戦後製オロ40形のトップナンバーの改造車で、
折妻形であるのも関わらずTR23台車を履いています。

オハフ52 1は等級帯を消した直後のようで、
オロ35形の緩急車版のオロフ32形の格下改造車です(室内座席はそのまま)。

オハフ53 1はオロ36形の緩急車版のオロフ33形の格下改造車ですので、
1300mm幅の広窓となっています(室内座席はそのまま)。

いずれも貴重な写真を見ることができました。
ありがとうございました。

投稿者のホームページ


投稿者 大キト
投稿日 02月16日(水)21時51分16秒
タイトル 伊藤さんアリガト
本文 早々「豊永泰太郎鉄道画像室」のオハ41形式などの諸元を教授頂き有難う御座います。
早速HPに反映させました。
投稿者のホームページ


投稿者 客車好き電車嫌い人間
投稿日 02月17日(木)18時28分22秒
タイトル 創臨の話(補足)
本文

前回の投稿で気付いた点を補足します。
・富士宮の留置線で入れ換え標識と書きましたが入れ換え信号機が正しいと思います
(半年前に見たので忘れたが、電車も入線するので、そのはずです)。
・身延線は、富士駅から東京方向に向かい分岐していたのにS40ころ大阪方向に向かい
分岐するようになりました。それまではトホホセ下りは機関車を富士で付け替えていました。
身延線の線路を付け替えた理由は創臨の可能性が高いと思います。
・チタの80系は創臨のために最後まで残っていました。定期列車用ははるか前に廃車か
転属してしまいました。
・80系や113系は臨時列車ではなくダイヤに組み込まれていたので厳密に言えば
創臨ではありません。
以上のように、12系の重要な職場(?)だった創臨は戦後の国鉄史に特筆すべき存在でした。
最後の日には富士宮駅に、長い間ありがとうございました、またのご利用をお待ちします、
という垂れ幕をJR東海が壁に掲示したそうです。

ここでお願いがあります。
7年前に岡山の金光駅で、団体用に使っていたホームで線路がはずされているのを見かけました。
誰か、金光駅と天理駅その他についても、私のような記事を投稿してください。


投稿者 (讃)高松
投稿日 02月17日(木)22時37分30秒
タイトル DF50のレス有難うございます。
本文 こんばんわ。
早速のレス有難うございました。



  「客車倶楽部」へ  
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから