倶楽部メモ(794)

平成30年 9月 9日〜 9月13日

紫雲丸事故での被災車両について



投稿者

まるい

投稿日

2018年 9月 9日(日)21時03分57秒

タイトル

宇高連絡船紫雲丸

初めて書き込みさせて頂きます。
鉄道連絡船に関して興味がありまして、こちらを拝見致しました。
さて、昭和30年の紫雲丸事故では
貨車15両と郵便荷物車4両を積載していたとありますが、
郵便荷物車の形式番号は何か資料に掲載されているのでしょうか。
「四鉄史」には積載貨車の一部記載ありましたが荷物車は無かったかと思います。
洞爺丸事故については「洞爺丸台風海難誌」に
各船の積載車番号、発着駅まで記載がありました。
ご存知の方がいらっしゃればご教示頂けると幸いです。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年 9月10日(月)10時34分53秒

タイトル

Re: 宇高連絡船紫雲丸

まるい様 はじめまして。

最初に白旗を上げておきます。申し訳ありませんが、わかりません。
確かに洞爺丸の件では沈没客車の車号を伝える資料がありますが、
紫雲丸については見当たりませんね。
私もこの事に気を留めておらず迂闊でした。
これから調査の課題として気にかけると共に、
知り合いにも声をかけて情報収集していきます。
判明したらご報告しますね。

********************

昭和30(1955)年5月11日、宇高連絡船紫雲丸は
多数の修学旅行生を含む乗客781名、貨車15両、
手荷物及び郵便車4両を積載し、
上り8便として定刻6:40に高松桟橋を出航しました。
当日の備讃瀬戸一帯には早朝から濃霧が断続的に発生していました。
レーダーの監視など警戒に当たっていたものの、
結果的に航海途中で進航困難なほどの濃霧に見舞われ、
下り153便(貨物便)の車両渡船第三宇高丸と衝突・沈没し、
多数の犠牲者を出してしまいました。

実は同船の衝突・沈没は二度目でした。
一度目はその5年前の昭和25年3月、衝突相手はやはり僚船の鷲羽丸でした。
この時は貨物便としての運航で積載車両は貨車16両だったとの事です。

やや話が逸れますが、事故以外で海に沈んだ貨車もあります。
昭和40年前後の時期と思いますが、
新型船の登場で運用を離脱した旧型の青函連絡船を使用し、
危険物を積んだ貨車が車両甲板で万一火災を起こした場合に備えた、
海中投棄の試験が何度か行われました。
火災を起こした貨車にパラシュートをつけて
海水の抵抗力で船外に排出するという仕組みが、
この“犠牲”の上に確立されました。
実際にそれが使われた事例は聞いたことがありませんが、
あらゆる非常時を想定して予め対策を打っておく姿勢は、
今の時代にも通じるものがありますね。

こうしたものを含めた「海に沈んだ鉄道車両」というのも、
調べれば奥深いものがありそうです。




投稿者

ミキスト

投稿日

2018年 9月10日(月)11時16分18秒

タイトル

Re4米坂線の尾灯

クモイ1032様,竹中@ノーブルジョーカー様,返事遅くなり申し訳ありません.
お知恵をいただきありがとうございます.地元での裁量の幅が広かったのですね.
尾灯に関しては大いに納得した次第です.
お世話になりました.今後ともよろしくお願いいたします.




投稿者

まるい

投稿日

2018年 9月10日(月)22時36分28秒

タイトル

Re2:宇高連絡船紫雲丸

クモイ103様
 お返事、また貴重なエピソードを紹介頂きありがとうございます。
国鉄が無くなって30年、それからまた遡って30年前の出来事ですからね。
無理もないかと。
私は当時の交通新聞か、鉄道公報かと考えていますが、
なかなか手が出せずにいます。
 紫雲丸の他、昭和20年の青函航路、第五青函丸事故や
7月の空襲被害の積載車両
(当時は石炭積みトキが多いか、荷物車も?)
の事を考えると溜め息が出ます。
 危険物輸送といえば、曖昧な記憶ですが、
当時は有川桟橋発の貨物便に限定されていて、
トンネル開通後も通過禁止のため貨物便は存続する…
という話があったような。
でも連絡船廃止前に有川桟橋は廃止されてますね。
 客車の話題では無く失礼しました。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年 9月11日(火)00時07分55秒

タイトル

Re3: 宇高連絡船紫雲丸

まるい様

重大な点を見落としていました。

前書き込みで述べた「乗客781名、貨車15両、手荷物及び郵便車4両を積載」
という情報は、元土佐丸船長の萩原幹夫氏が記された
「宇高連絡船78年の歩み」からの転記です。

ところが実は、紫雲丸の車両積載能力はワム型14両だったのです。

ここでまた別の情報があります。
昨日から相談していた知り合いに指摘され気付きました。
昭和29年から36年にかけて、客車ファンの伊藤威信氏が主宰し、
有志の会員が情報を持ち寄っていた
「リクライニングシート」というガリ版刷りの同人誌がありました。
昭和30年5月号に谷沢潤二氏が寄稿された速報レポートに、
「沈んだ貨車は次の通り15両、客車は1両もなし」とあって、
貨車の車号が記されています。

ツム557、ツム461、ツム358、ツム193、ツム1039、
ワ23869、ワム21070、スム1659、トラ730、ト3356、
ワム35639、ト4463、ツ3120、ツム583、トキ16433

前述のように紫雲丸の積載能力はワム型なら14両ですが、
ワムより小さな貨車が含まれていますので、15両載せることができたのでしょう。
逆に言えば紫雲丸の車両甲板は15両の貨車で満杯だったはずで、
とても荷物・郵便車を4両も載せる余地はなかった事になります。

現時点の情報を総合すると、客車は載っていなかった可能性が高い…模様です。


連絡船関係に興味をお持ちでしたら、
「青函連絡船史料研究会」の講演会はご存知でしょうか?
北海道新幹線開業や青函連絡船廃止30周年にちなんだ時期には
メディアにも登場した、元檜山丸船長の西沢弘二氏が主宰する集まりで、
東京・お台場の船の科学館で春と秋の年2回講演会があります。




投稿者

まるい

投稿日

2018年 9月11日(火)01時26分15秒

タイトル

Re4:宇高連絡船紫雲丸

クモイ103様
おぉー、ありがとうございます。凄いですね。
深夜ですがちょっとハイテンションになっております(笑)
 紫雲丸の積載車両数ですが、
古川達郎氏の「鉄道連絡船100年の航跡」では
貨車15両とだけ明記してますね。
同じく紫雲丸型はワム7両×2線とも明記してます。考えれば積めませんよね。
ただ海難審判所(旧海難審判庁)のホームページでは、
「貨車等19両」とも記述してます。
何がどこでどうなったのか、謎です。
 私は「四鉄史」の鉄道公安の項目に記載されている貨車番号を控えてました。
ご教示頂いた番号と比較すると、
四鉄史の番号記載間違いと推測される箇所が多数ありました。
誤ワニ3869→正ワ23869、誤ツム21070→正ワム21070、
ツム358が重複記載→ツム583が欠落、誤ツワ3126→ツ3120、
欠落3両=ツム1039、トラ730、ワム35639、でした。
 確かに「ツム21070」はツム1000か?だけど該当する車番はないな、
また貨車記号の「ニ」は特殊表記符号にもないしと疑っておりましたが、
謎が解けました。
感激しております。
 クモイ103様、ご相談されたお知り合いの方、
そして記録していた趣味の大先輩である谷口潤二氏に感謝致します。
 青函連絡船史料研究会、一度参加してみたいですね。
 重ねてすみません、客車ではなく貨車の話になってしまって(笑)




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年 9月11日(火)21時44分41秒

タイトル

Re5: 宇高連絡船紫雲丸

まるい様

「鉄道連絡船100年の航跡」の主要目一覧表を見ると、
載貨量として貨車14の他に「手押車18」という記載がありますね。
これが関係あるのかな…?

「ツ3120」ですが、リクライニングシートの誌面はガリ版の手書きで、
実際には「ツ」の後ろに小さく「ワ」とも「フ」とも
読めるようなものが見えます。
私は汚れかな?と思っていましたが、
もしかしたら何らかの記号なのかもしれません。

# 「谷口」氏でなく「谷沢」(たにざわ)氏です。
# ぢつは私も、「やざわ」と思い込み変換ミスで
「矢沢」と誤記して先輩に叱られました…orz




投稿者

まるい

投稿日

2018年 9月11日(火)23時32分14秒

タイトル

Re6:宇高連絡船紫雲丸

クモイ103様
ご指摘ありがとうございます。
谷沢氏のお名前を間違ってしまい大変失礼致しました。申し訳ありません。

宇高と関門の就航船には手押車の記載がありますね。
確かに紫雲丸の積載車両数と関係あるかもしれません。
因みに関門航路の自動車航送、積載車両数や
一時期就航した七浦丸にも積めたのか?
など疑問を持ってます。
おっと、また客車から離れてしまいますね、失礼しました(笑)

ツヮは通風車のうち側面シャッターを閉じることができる車両を示す
特殊表記符号だそうです。
そうすると「ツヮ3120」の可能性が高いですね。

紫雲丸事故の水没車両は、沈没の規模から復旧した車両も多いと推測しています。
昭和25年の紫雲丸沈没事故、
また戦時中の青函航路沈没の積載車両と共に調べてみたいと考えています。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年 9月12日(水)21時31分28秒

タイトル

Re7: 宇高連絡船紫雲丸

まるい様

「ツヮ」についてご教示ありがとうございます。
そんな特殊表記符号があったのですね。

貨車の様子について、前述の谷沢氏は次の様に述べられています。

********************
第三宇高丸に積んでいた貨車18両の中 右舷トップのワム7384は衝突の為大破し
ましたが残り17両は無事でした.尚このワムは現在高松駅構内にあります.
第三宇高丸が紫雲丸の右舷へ相当深く突込んだため 紫雲丸右舷寄の貨車は
左舷寄の貨車に○(文字カスレで読めず)り込んだため
また船が真横に(右舷上、左舷下)倒れているので貨車の復旧は考えられません.
********************

これは事故発生からまだ日の浅い時点の情報であり、
その後どうなったのかはわかりませんが、
ある程度参考になるのではないでしょうか。




投稿者

てりてり

投稿日

2018年 9月13日(木)22時39分50秒

タイトル

修学旅行受難の年

 ご無沙汰して居ります。
 やや話はズレますが1955(昭和30)年は
修学旅行をめぐって事故が相次ぐ年だったと聞いた事があります。
この他にも東海道本線田子の浦踏切で
米軍トレーラーと衝突して車両が炎上した事故やバスの事故が発生、
修学旅行を中止した学校もあったそうです。
 紫雲丸で亡くなった人達の合同慰霊祭は6月14日に執り行われ、
梅雨時と思えぬ天候に「あの日がこうであったら…」
と言う思いを持つ人が多かったそうです。
ニュース映画のアナウンスの
「…楽しかるべき修学旅行がそのまま死出の旅に為るとは…」
言葉と重なってしまいました。
 この紫雲丸はレーダーを搭載しているにもかかわらず事故を起こしてしまい、
前年の洞爺丸事故の責任を取る形で国鉄総裁の辞任がありました。
 この船は1950(昭和25)年3月にも衝突事故を起こし沈没、
浮上させて修理をしたのですがまた… 
  『紫雲』は『死運』に通じるのではないか、と言う事で『瀬戸丸』に改名、
1966年まで何事も無く就航、
敗戦後は1991(平成3)年頃まで広島の造船所の浮き桟橋としてあったそうです。
 今、安心して交通機関を使って移動できますが
文字通り命懸けの時代もあったのですね。
 50近い人なら列車の乗り降りの練習をした事もあると思いますが、
60年前は列車やバスからの脱出する練習をしていたとも。
 本題とは無関係の事をつらつらと書き連ねた事をお許しください。

 災害に遭われました方々に謹んでお見舞い申し上げます。
                            それでは。
*参考文献 萩原幹夫 著『宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか』
 日本ニュース・朝日ニュース 他




 
 
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