まるい様 はじめまして。
最初に白旗を上げておきます。申し訳ありませんが、わかりません。
確かに洞爺丸の件では沈没客車の車号を伝える資料がありますが、
紫雲丸については見当たりませんね。
私もこの事に気を留めておらず迂闊でした。
これから調査の課題として気にかけると共に、
知り合いにも声をかけて情報収集していきます。
判明したらご報告しますね。
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昭和30(1955)年5月11日、宇高連絡船紫雲丸は
多数の修学旅行生を含む乗客781名、貨車15両、
手荷物及び郵便車4両を積載し、
上り8便として定刻6:40に高松桟橋を出航しました。
当日の備讃瀬戸一帯には早朝から濃霧が断続的に発生していました。
レーダーの監視など警戒に当たっていたものの、
結果的に航海途中で進航困難なほどの濃霧に見舞われ、
下り153便(貨物便)の車両渡船第三宇高丸と衝突・沈没し、
多数の犠牲者を出してしまいました。
実は同船の衝突・沈没は二度目でした。
一度目はその5年前の昭和25年3月、衝突相手はやはり僚船の鷲羽丸でした。
この時は貨物便としての運航で積載車両は貨車16両だったとの事です。
やや話が逸れますが、事故以外で海に沈んだ貨車もあります。
昭和40年前後の時期と思いますが、
新型船の登場で運用を離脱した旧型の青函連絡船を使用し、
危険物を積んだ貨車が車両甲板で万一火災を起こした場合に備えた、
海中投棄の試験が何度か行われました。
火災を起こした貨車にパラシュートをつけて
海水の抵抗力で船外に排出するという仕組みが、
この“犠牲”の上に確立されました。
実際にそれが使われた事例は聞いたことがありませんが、
あらゆる非常時を想定して予め対策を打っておく姿勢は、
今の時代にも通じるものがありますね。
こうしたものを含めた「海に沈んだ鉄道車両」というのも、
調べれば奥深いものがありそうです。
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