おばんでございます。「ED76109」であります。
マロネロ38様を始めとする先達の皆様方
小生もさすがに「赤帽」氏の世話になったことはありませんし、駅頭でも数度見かけたのみで記憶の中には・・・。
しかし、様々と気になることやら興味あることが。少々、「戯言」させてください。
1 「山陰本線」や「奥羽本線」など、ローカル幹線の主要駅のフォームには
「洗面台」が幅を利かせていた記憶が、小生にはございます。
「鉄」親父にしてみれば、至極当然なのでしょうが、小生がよく連れられて「乗り鉄」していた折には、
「山手線のフォーム」では見ることができない大きな洗面台がフォームにあること自体が、
不思議に思えてなりませんでした。
昭和46年盛夏の「肥薩越えの混合レ」で到着した「吉松」のフォームで、
「鉄」親父の言うがままに「洗面台」で顔を洗いました。
水が冷たかったのですが、D51の煤煙で汚れた顔には爽やかな冷たさ。
「昔はこんなふうに顔を洗いながら、旅したものさ」の一言を聞きながら、小生一端の旅人を決め込んでいました
(生意気なガキでしたね)。
2 前述したように、「鉄」親父は全国に集金旅行を重ねる仕事をしておりました。
ですから、集金が完了した段階で「会社」に電報を打って報告していたらしいのですが、
列車の時間等のために、帰京する「上りレ」の車中から電報を打つことが少なくなかったようであります。
その時は、カレチ氏から「依頼紙」を受け取って文面を熟考。
短い文章で安い料金であげることに注意して、カレチ氏に依頼して電報を打ってもらっていたとのことでした。
しかし、その時は必ずカレチ氏が文面を読み上げて確認するのが規則だったようで、
仕事上のものであれば何も気にしなかったようですが、
プライベート(特に「山」お袋あて)の文面は、カレチ氏がにやにやしながら確認することが間々あって、
その度に閉口していたとの話を聞いたことがございます。
3 小生の鈍行紀行の道すがら、「ハフ」に好んで乗っていたものでしたので、
よく「ニ・ユ」が後ろに「1、2両」連結されていることがありました。
そんな時、駅員氏が配置されていた駅では、殆どと言っても過言ではないほどに、
リヤカー等を傍らにした駅員氏や郵便局員が待機しており、
「小荷物」や「郵便物」をニレチ氏から手交していた記憶がございます。
「荷扱駅」というそうでありますが、「スニ」や「マニ」から降ろした荷物をリヤカーに載せて
駅事務室まで運搬する駅員氏の姿が印象に残っています。
しかし、今では遠い過去のお話となってしまいました・・・。
長々と失礼致しました。以上、30年以上も昔の「昭和の鉄旅」を憧憬する「中年客車鉄ちゃん」でありました。 |