倶楽部メモ(629)
平成22年10月23日〜10月31日

中国の列車レポート ・ 山崎の競争


投稿者 きむたお
投稿日 2010年10月23日(土)21時40分12秒
タイトル 久々の客車乗車
皆様ご無沙汰しております。
中国での生活も半年近く経過しました。

▼ マロネロ38様

オロネ10の件、コメントいただきありがとうございます。
私は残念ながらオロネ10は滑川市・東福寺野自然公園の#89を見たのが最初でして、
当然、現役車両は見たことがありません・・・。
青一色ののっぺりした外観に20系より(東福寺野では隣にナハネ20が連結されていました)大きな客車に見えました。
マロネロ38様は我が故郷富山行きの「つるぎ」or「金星」に乗られたのですね。
編成のほとんどがスハネ30で占められた編成であると資料で読んだ記憶がありますが、実にうらやましく思います(^^)
地元にも縁があり、興味深い編成ですので模型化したいのですが、スハネ30がネックですね。
(金属製は敷居が高いし、セットのみの某社完成品はデッキ周りがイマイチ・・・)
ぜひクロスポイントあたりでキットを発売していただきたいものです。

さてさて、今週は出張で久々に客車に乗る機会がありました。
これも航空機の便の悪い地方(とはいえ、かつては都が存在したところではありますが)に行けたおかげです(^^;;;

10/20、鄭州→洛陽、K557次
YZ25G350786
に乗車しました。

編成記録を付けたかったのですが、ホームへの立ち入りが発車数分前にならないとできない当地ならではの制限と列車遅れ
(鄭州発時で25分延)による洛陽の停車時間の短さからかないませんでした・・・。
乗車した硬座車は18両編成(電源車込み)中の15号車したが、前に連結された14号車は餐車(CA25G892527)で、
石炭レンジからの排煙が良い匂いを放っていました。

当日の列車は指定席が取れず、「無座」の号車指定。
車内はあいかわらず満員で通路もゴミだらけ、
当地の庶民列車の雰囲気満点で普通の日本人ならかなり苦痛な1時間半だと思いますが、
私は客車に乗れた喜びと乗り心地、時折来る前後衝動、
カーブの時に見える遥か前方の電気機関車から続く客車の列に一人感動しておりました(^^;)

写真は上から、乗車した硬座車の車内、食堂車外観(洛陽にて)、
ディーゼル機関の轟音を残して洛陽を後にする同列車(KD25G997952)です。




投稿者 きむたお
投稿日 2010年10月23日(土)22時03分48秒
タイトル 洛陽駅に停まっていた列車
引き続き失礼します。

先の列車を降りた後はあまりホームをうろうろもできないので
出口へ行くまでに対面のホームに停まっていた列車を眺めていきました。

1枚目
その列車もほとんど25G系で組成されていたのですが、一台、餐車だけが深緑色でした。車番はCA25A892259。

2枚目
その列車のサボ。
先に乗ったK557次が上海発ですから約1,000kmを走ってきた訳ですが、こちらはなんと寧波までのサボを付けていて驚き!
まぁ、もっと長距離を走る列車もあるわけですが・・。

3枚目
私が乗ったK557次のサボ。
上海発でずいぶん遠いところから、と思っていましたが、終点の延安はまだまだ先、300kmほどあります。
これは乗車したYZ25G350786についていたものです。

ところで、携帯カメラのショボい画質で申し訳ありません。
一眼レフを中国へ持っていく気になれず、また、コンパクトデジタルカメラに手を出す気にもなれず、
と中途半端な状態が続いています・・・。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年10月24日(日)09時36分27秒
タイトル 硬座車」
きむたお様:
中国の様子有難う御座います。何だか中国は騒がしいですがお気をつけて。
硬座車は3人掛けですか窮屈でしょうね、3+3ですか?
それにしてもPCが残っているのは羨ましいと言うかです。長距離の場合PCが何かに便利
ですから。
「つるぎ」はスハネ30が殆どでした。準急時代はオール30で、スロ50(501-502と
共用?、スハ43は立山のを回していたみたいでした)。

取り急ぎ御礼まで。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年10月26日(火)17時20分43秒
タイトル 陸路国境
きむたお様、XD1様の海外レポート、興味深く拝見しています。両国とも図らずも
一部で騒擾状態が報じられていますね。特にきむたお様は、名目上、我が国に対する
抗議という事なので、どうぞ御気をつけて。

タイ国鉄車販「目玉焼き弁当」画像を拝見しますに、いかにもインディカ米然とした
様相ですね。冷害の末「ミニマム・アクセス」なる言葉が取り沙汰される様になった
十数年前、カレー・ショップで食べた「変わった米の食感」を思い出します。出張で
数日間滞在した欧州では、毎晩、丼飯中心でしたが(投宿先の近所の食堂が、安価な
陣容の割には、特に刺身が美味しい穴場でした)こちらは、ジャポニカ米だった様子。

駅弁といえば、冷凍みかんと独自形状の容器に入った緑茶を揃えるのが定番でしたね。
タイの鉄道旅行では、冷凍みかんは無いかも知れませんが(^^)緑茶に相当する定番
飲料はあるのでしょうか。インドですと「チャイ」が御約束で、空いた容器を車外に
投げ捨てても土に還る様、カップは陶器製でしたが、プラスチック化された現在でも、
車外投棄の慣習は相変わらずとか。

陸路、国境を越えた経験がないので、タイに関するレポートの内、特に国境ネタには
関心を覚えます。地図を概観すると、バンコク〜シンガポールの鉄路は、国境を挟み、
ハジャイからゲマスまで、主要路となるクアラルンプール経由のアンダマン海寄りと、
線路が繋がっている割には、直通列車が存在するのか疑わしいスンガイコロク経由の
南シナ海寄りのルートに別れた格好なのですね。

リンク先「グーグル・マップ」を拝見すると、画像紹介のあった国境駅よりタイ側は
鉄路の表記が無く、あるいは廃線かとも思いましたが、アンダマン海寄りの主要路の
パタンブザール界隈でも同様の表記でしたので、タイに関しては、鉄路表記それ自体
無頓着なのかも知れませんね。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月26日(火)23時10分9秒
タイトル 伝説の追い抜きとウヰスキー工場
 おばんでございます。「ED76109」でごさいます。

 いよいよ修学旅行が2週間後と近づき、本日管理職を引率団長とした「引率者会議」が開催され、
添乗員の方々も加わっての最終確認が実施されました。小生は、前述の通りの対応(あ〜あ)。
マロネロ38様からの御教示に係り、「美術部」を中心とした女子生徒たちが「なにわの海の時空館」へ向うとのこと。
彼女らの報告が楽しみであります。
さて、京都方面の自主研修の先生方が待機場所の一つに選んだのは、「山崎の美味しいうどん屋」と
「撮り鉄」名所である「ウヰスキー工場見学」。
すると、添乗員のチーフ氏から「先生、『山崎』と言えば『鉄名所』。『戦前の燕の追い抜き』が有名ですね。」と一言。
どうやら添乗員氏も「同士」のようで、別の意味で楽しみができたのであります。
しかし、小生恥ずかしながら、「燕の追い抜き」のことはあまり存じておらず・・・。
「鉄勉強」と、様々な資料、関係サイト等に当たりまして、以下のようなことを知り得ることができました。
本当に「釈迦に説法」でありましょうが、お付き合い下さい。

-----------------------------------------------------------------------------------------------

 戦前「新京阪鉄道新京阪線」で使用されていた「デイ100」は、「燕」と同じ「超特急」での運転があり、
昭和5〜10年ころに「山崎駅付近のトカホセ」の並行区間で併走する「燕」を追い抜いたという逸話が残っている。
「トカホセ」をほぼ併走する「新京阪線(現在の阪急京都線)」は、
乗客の少なさから大型の「デイ100」が単行で運転されていた。
当然、「新京阪線」は、「大阪・京都」の乗客増加のための取組みが必要となったことから、
同線では高規格路線と「デイ100」の高速運転を売り物としたのである。
「大山崎」辺りで超特急「燕」を追い抜いたという「伝説」は、これに伴う逸話である。
実際、当時の鉄道写真家「西尾克三郎」氏らによって、「新京阪の急行電車」が特急「櫻」を追い越す様子が
写真として記録されており、「デイ100」が国鉄の特急を追い抜くのに必要な運転性能であったと判断される。

-----------------------------------------------------------------------------------------------

 小生の想像では、「新京阪線」は車両の性能と比較して、ダイヤには十分な余裕が存在しており、
「追い越し」を意図的に演出することで「新京阪線」の存在をアピールすることを狙ったのではないかと推察致します。
先達の皆様方からの御教示を頂きたいところであります。
しかし、元関東人には、大変魅力的に写る関西の鉄道。
僅かな距離とはいえ、「マルーンの阪急電車」に乗ることが楽しみになりました。

 長々と失礼致しました。
以上、「母校の都大会準優勝」で「センバツの夢」が「中くらい」となってしまった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年10月27日(水)09時01分3秒
タイトル 山崎
▼ED76 109様:
>「撮り鉄」名所である「ウヰスキー工場見学」

………という事は、当該工場の上階に「長居可能な」見学者用のフリー・スペースが
存在するという事でしょうか。更にウイスキー飲み放題だったら、至高の環境ですが
調子に乗って杯を重ね「何もできない、何も撮れない」状態に陥る事 必至です(^^)

>「追い越し」を意図的に演出することで「新京阪線」の存在をアピール

京阪電鉄との経営統合の契機となった昭和金融恐慌ないし世界恐慌が発生した当時は
途中の沿線自治体が全て郡部で、人口集積が小さく(その後、終戦までに市制施行が
行われたのは、吹田と高槻のみ)京阪間の都市連絡需要に重点を置く必要に迫られた
事情があった様ですね。現京都本線の沿線自治体のうち、郡部のまま残っているのが
府境の島本・大山崎両町に限られる事を考えれば、隔世の感覚も一入です。

京都本線は、その島本町域で新幹線に密着並行しますが、さすがに新幹線には戦いを
挑まなかったでしょうね。ここは何と言っても、1964年の高架移行工事の際に、開業
直前の新幹線線路を阪急電車が拝借した経緯がある区間ですし。

> 僅かな距離とはいえ「マルーンの阪急電車」に乗ることが楽しみになりました。

子供の頃、阪急の「栗色一辺倒」は、地元で多く見られた旧客と相俟って垢抜けない
印象でしたが、今となっては「伝統を固守した落ち着いた色調」と、好感しています。
阪神電鉄が、キハ35系を思わせるツートン・カラー基調なので、尚更、際立ちますね。

最近、JR西日本では、費用削減策の為か、単色塗り直しが目立ちますが、ある意味、
かかる感覚を先取りした様でもありますね。その意味では、東武鉄道の「クリーム色
一辺倒」も好感していましたが、こちらは残念ながら、淘汰されてしまいました。




投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年10月27日(水)10時52分18秒
タイトル 国境など
雑魚さま

 ご感想、ありがとうございます。

 私の場合、たまたま幸運だっただけかもしれませんが、警戒は感じられたものの結果的には治安の問題はありませんでした。

 弁当のお米は、もろにタイ米で食感は違います。炒飯やぶっかけご飯なら、まあ慣れることは出来ると思います。
 日本の高級新米は、おかずなしでお米だけを味わうというのもありでしょうが、タイではそれは(日本人には)なかなか。

 あっ、Googleの地図では東側/スンガイコロク界隈で、確かに運営されていないマレーシアの線路の方が強調されていますね。
なんででしょ。タイ側がルーズなのかな。
 小さな水色四角の駅のマークはタイ、マレーシア両方ともあるのを見ていましたが、線路のマークを見落としていました。

 西側国境を汽車で越えたこと、一度だけあります。車窓から国境の壁が見えました。
壁はありますが、日本人も地元の人も、かなり自由に通過できます。
もちろん警戒はありますが、一昔前のベルリンの壁とはだいぶ違います。
 この界隈もレポ出来れば良いのですが、うーーーん、機会があるかなぁ?



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年10月28日(木)14時27分47秒
タイトル 山崎の競争
有名な話しですが、西尾克三郎さんから直接伺った事が有りました。P6は41.6tsも
有りましたが、150kwx4でしたから馬力はあった訳です。
戦後は2両編成の特急が塗り分けから「お稲荷さん」と呼ばれていました。
昭和30年の正月だつたと記憶しますが、臨時準急「ゆのくに」に乗車中に,山崎でP6の
急行と競争しましたが、「ゆのくに」がC59127(重油専然)だったので、蒸気の上がり
が良いのか逆に追い抜いたものでした。
当時金沢行「ゆのくに」が京都−米原間無停車で、特急「はと」より1分遅いだけでし
たから冬期にC59127が威力を発揮していた訳です。

ED76109先生:
修学旅行無事に終えられますように--Have a nice trip!!



投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月28日(木)22時14分57秒
タイトル 何も足さない、何も挽かない
 失礼致しております。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >調子に乗って杯を重ね「何もできない、何も撮れない」

  「萩原健一」さんと「小栗旬」さんが競演している「CM」の一コマに、
深緑の中の踏切を、「新快速」がすれ違うシーンがありましたですね。
小生、見学の先生方に「電車の撮れる場所があれば、教えて下さいね」と声をかけたところ、
「先生は本当に『鉄ちゃん』だったんですね(!?)」と言われてしまいました。
試飲を重ねた挙げ句に、小生が醜態を・・・といったことがなくてよかったのかもしれません。
同僚の偵察情報に、どうぞご期待下さい。

  >府境の島本・大山崎両町

  上りの「トワイライトEXP」ですと、「山崎」通過の際に「大阪車掌区のカレチ」さんが
「ただ今、『山崎』を通過致しました。列車は『大阪府』に入って参りました。」の案内放送が入る辺り。
大阪郊外とは想像つかない「ローカルムード」であり、
「東山隧道」の長さとも併せて「関西圏の鉄道」の魅力にはまりそうです。

 >新幹線線路を阪急電車が拝借した経緯がある区間

  「国鉄」が「新幹線の道床」を安定させる目的で、「阪急」の協力を仰いだとのことでしたでしょうか。
「RJ」で写真を拝見致しましたが、「独特の架線柱」を走る「マルーン電車」は違和感があったように記憶しております。
しかし、「震災後の関西の鉄道」はすっかり「JRの一人勝ち」のイメージがございます。

 マロネロ38様
 >臨時準急「ゆのくに」に乗車中に,山崎でP6の急行と競争しました

  いつも、歴史あるお話に感動と羨望を禁じ得ません。
「デイ100」と「C59」との競走でありますか・・・。ライヴで体感してみたい衝動に駆られます。

 >修学旅行無事に終えられますように--Have a nice trip!!

  重ね重ね、様々なご配慮に係り、心からお礼申し上げます。
出発までまだ「10日」ございますが、小生「道祖神」に取り憑かれたようであります(笑)。
生徒たちに「旅」の醍醐味を体感させられればと考えております。

 長々と失礼致しました。以上、「添乗員氏」との「鉄話」という楽しみができた「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年10月29日(金)19時00分10秒
タイトル 修学旅行憧憬
▼ED76 109様:
> 大阪郊外とは想像つかない「ローカルムード」であり、

前回の投稿で掲出した島本〜高槻の、見晴らしの良い直線区間は、市街地が連続する
京阪間にあって、名神高速道の天王山隧道ともども、ある種の清涼感すら感じますね。
その島本駅が 2008年の開業と新しいのは 然もありなんです(二面四線構造が基本の
京阪間にあって、緩行線のみの一面二線構造駅は、ここと桂川の二箇所ですね)

>「東山隧道」の長さとも併せて

政令指定都市の代表駅を出た途端、比較的長大な隧道となる辺りに、盆地ならではの
雰囲気が窺えますね。かかる京都の地勢は、駅前の京都タワーに登ると良く判ります。

先日の畿内出張でも昼休み方々、タワーを再訪しました。ここは、ちょっとした鉄撮
スポットですが、12:18発「トワイライト〜」が 大阪駅に向けて発つと、西大路駅の
辺りでの擦れ違いであろう 12:24着の札幌行の同列車が、入れ違いにすぐ現れる辺り、
感慨深いですね(上・中段画像参照)こうした寝台特急同士の擦れ違い事例としては、
西鹿児島発着で日本一の運転距離を誇っていた頃の「富士」が有名でしたっけ。

塩小路通りを挟んだ京都駅ビルの東側、併設ホテルの一部と思しきバルコニー構造の
チャペルが、タワーから見下ろす位置関係で、私が訪れた時は丁度、結婚式の真最中。
居合わせた修学旅行中の女子高生の一団が望遠鏡を覗きつつ「あ、キスしてる!!」と、
大いに盛り上がっていました(^^)硬派の坂東武者ゆえ(^^)自身は神式で済ませた
私は「羨ましくなんかないやい!!」と、望遠鏡でなく、望遠レンズを向けるのでした。

この日、駅ビル西側(伊勢丹)の吹き抜け階段(下段画像参照)では、府内中学校の
吹奏楽部が一堂に会した演奏会が催されており、少し見物していましたが、各校とも
女子生徒が主体で、正に映画「スイング・ガールズ」の趣でした。少数派で熱演する
男子生徒に「昔取った杵柄」よろしく、感慨を深めて参りました。ジャズ、やるべ!!

以上、戦前の不祥事とやらで、出身校には修学旅行が無い(その代り、映画のネタに
用いられた迷物行事あり)雑魚でした。





投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月30日(土)07時08分30秒
タイトル 寝台特急同士の擦れ違い
 おはようございます。昨晩はゆっくりとお休みいただけましたでしょうか。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >12:18発「トワイライト〜」が・・・。

  小生が、「広島行」で良く乗車したのが「上り札幌木曜発便」でありました。
よって、「下り12時大阪発」の頃のダイヤでしたので、「山崎・高槻」間ですれ違うことが多かったですね。
件のカレチ氏は「車内からご覧いただける『トワイライトEXP』はここの区間が唯一です」と案内されておられましたが、
「羽後牛島」で夜間「すれ違う」のではありませんでしたか・・・。

 >こうした寝台特急同士の擦れ違い事例

  小生が実際に「昼間」に体験した例としては、上記のものに加えて
「宮崎駅構内(上下・富士)」、「薩摩高城(上下・はやぶさ)」。
あとは「桜島・高千穂」が「金谷辺り」ですれ違っていた記憶がございます。
かかる事例は、長距離列車の削減とともに減っている「昭和の残影」でありましょうか。
「上りトワイライトEXP」では、「京ヶ瀬」で「日本海3号」とすれ違うシーンが印象に残ります。
まだ、明けきらぬ暁の中、寝ぼけ眼でベッドから窓を見つめていると
「ピー」という「EF81」のホイッスルとともに、ブルーとグリーンの車体が静かにすれ違う・・・。
小生の「鉄」想ひ出のワンシーンであります。

 >西鹿児島発着で日本一の運転距離を誇っていた頃の「富士」

  「富士」が「宮崎折り返し」になってしまったのが「昭和55年の秋」。小生が「高校3年生」の時でした。
「旧客鈍行」ではなかったのですが、何とか「制覇するぞ」と意気込んでありました。
しかし、「空いているだろう」と見込んだ夏季休業末の「8月下旬」でも、
「五反田・目黒のみどりの窓口」は「1枚もないよ」とのつれない返事。
得意の「大崎」でも「残念ながら・・・」とのお答え。
後刻、当時の「校内誌」に「1年生の一般生徒の制覇記」が掲載され、
「鉄」仲間たちと「総括させろ!」と息巻いていたことを思い出しました(笑)。

 長々と失礼致しました。
以上、「福知山線の件の現場」行に「現代社会の生きた教材にしたい」と
「公民科の先生方2人」を引率することになった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年10月30日(土)11時45分12秒
タイトル 羽越線 など
▼ED76 109様:
>「下り12時大阪発」の頃のダイヤでしたので「山崎・高槻」間ですれ違う

風情を感じる話ですね。件の区間は、並行する名神高速が天王山を隧道で抜けるなど、
淀川の谷が狭まる「袋の締り口」で(新幹線から対岸の京阪本線の送電線が少しだけ
見えたと記憶します)東日本では一緒くたに捉えがちな、京阪地区の府境の必然性を、
改めて感じる意味では、車窓風景に留意するだけでも、社会科の学習たり得ましょう。

>「羽後牛島」で夜間「すれ違う」のではありませんでしたか…。

隣近所の拠点・秋田駅ではない処が絶妙ですが、複数の貨物線が分岐した名残りから、
側線が広く取られている様で、そうした意味では、使い易い構造なのでしょうか。

>「京ヶ瀬」で「日本海 3号」とすれ違うシーンが印象に残ります。

羽越線の新発田以南は単線のみですから、駅で交換という事になるでしょうか。直接
県都・新潟に向う導線から外れている事もあってか、当該区間は阿賀野川橋梁と云い、
水田地帯と云い「撮り鉄」垂涎の構図が其処彼処で確保できますが、現行ダイヤでは、
日中、食指が動く被写体がありませんね。学生時代ですと 165系三両編成や村上以北
直通の旧客列車、そして上野〜秋田の特急「いなほ→鳥海」と、ネタは満載でしたが。

>「富士」が「宮崎折り返し」になってしまったのが「昭和55年の秋」

当時健在だった「はやぶさ」の存在に鑑み、来るべきものが来た、という印象でした。
日豊線の全線電化がその前年で、電機牽引になった事で、20分程度、速達化されたと
聞きますが、当時の鉄道誌に「富士」の運行時間の長さを考えれば、然したる意義は
見出せない、という趣旨のコメントがあった様に記憶します。

>「鉄」仲間たちと「総括させろ!」と息巻いていたことを思い出しました(笑)

全共闘時代の母校が公安の重点監視対象になっていた(らしい)事とは無関係ながら、
ワイド周遊券使用で、ユース・ホステル宿泊が基本だった、学生時代の旅行において、
夜行急行の自由席や「大垣夜行」普通車と相場が決まっていた周遊区間までの往来に、
新幹線・昼行特急・寝台車を利用すると「人民の敵」と、白い目で見られましたっけ。

>「現代社会の生きた教材にしたい」と(中略)引率することになった

首都圏に比べ平野部が狭く、並行私鉄との競争がより厳しかったJR西日本にあって、
尼崎を結節点とした「アーバン・ネット・ワーク」の構築は、JR東日本「湘南新宿
ライン」よろしく、新規導線の確立と、それに伴う潜在需要の喚起において、大きな
アドバンテージだったと思われます。特に、並行する阪急が網羅しない三田界隈にも
梅田以遠への直通導線を齎した福知山線の変貌は、相当画期的だったと思われますが、
かつて日常的に旧客便を利用されたユーラシア鉄道は、如何、御感じでしょうか?

それだけに、福知山線から学研都市線に直通する快速の事故は、せっかく構築された
インフラが、運行管理上の問題から、大きく水を差された様にも感じられ、犠牲者や
負傷者が多数、発生した事と併せて、何とも残念な事となりました。同窓会の先輩も
犠牲になっており、改めて犠牲者の御冥福と負傷者の御快癒を祈るばかりです。

その一方、近鉄と阪神が直通体制を組んだ事も、往年の「市営モンロー主義」からの
脱却を含め、私鉄版「アーバン・ネット・ワーク」が機能し始めたと云う感慨が強く、
物理的制約を無視した個人的願望ながらも、近鉄特急の姫路直通を夢見る雑魚でした。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月31日(日)07時33分55秒
タイトル 「旧客鈍行」雑感あれこれ
 失礼申し上げます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >当該区間は阿賀野川橋梁と云い、水田地帯と云い「撮り鉄」垂涎の構図が其処彼処で確保できますが

  昭和57年の秋、「新津〜青森」の「833レ」制覇が思い出されます。
「新津」を出ると「阿賀野川橋梁」に向かい、右にカーヴを切る「10両編成の旧客」の先頭は、
雑魚様御贔屓の「ローズピンクのEF81」。
小生、定番の最後尾から飽きることなく眺めておりました。
そして、「京ヶ瀬」は通過(!!)。周囲は朝靄の静寂の中、収穫を待つ水田が一面に広がる田園風景・・・。
遙かなる「青森」を目指す旅立ちに相応しい風景が記憶に残ります。

 >日豊線の全線電化がその前年で・・・

  前述させていただきましたが、昭和53年の盛夏に「富士」に乗り損ねた結果、
「西鹿児島〜門司港」の「530レ」を制覇することができました。
その際、「宮崎」までの牽引機は「DF50」。
「青井岳」辺りの急こう配を紫煙をなびかせながら「オハ系客車」をのんびりと牽っぱっていましたっけ・・・。
しかし、この時は西鹿児島発が「5:20」ころであり、灼熱の「オハフ」で1日を過ごし、
終着門司港着が「21:30」ごろ。
小生、高校一年生だったとは言え、「門司港のフォーム」で
「地球が自転している感覚(笑)」を初めて意識した旅でありました。

 >夜行急行の自由席や「大垣夜行」普通車と相場が決まっていた

  御意(笑)。「山陰紀行」の帰路のブルトレ以外(お陰様で、『出雲2号』と『瀬戸』以外はとりあえず乗れました)は、
大抵「旧客鈍行」で往復が定番。
ですから、前述しましたように、「上野口のEC特急」は「鳥海(いなほ2号にも乗れました)」と「あさま」、
「ひたち」にしか乗車しておりません。
帰京の際は「仙台始発の平から上野行に化ける旧客」、「仙台発黒磯行旧客から乗り継いだ湘南色上野行115系」、
「長岡始発の湘南色上野行115系」そして「松本始発のスカ色新宿行115系」がほとんど。
ですから、帰京翌日は「大学の授業で『船を漕いで』ばかり」でありました。
しかし、今考えれば「もったいない」の一言であります。

 >福知山線から学研都市線に直通する快速の事故は・・・

  小生に同行される先生方は、「現代社会」の授業で「都市の人口集中」や「一極化」の影の部分の凡例として、
興味を持っていらっしゃるようです。
「旧客やDCばかりだった福知山線」が「快速が疾走する通勤線」へと変貌した様子とその結果の悲劇は、
ある種ストーリー性を持った教材足り得るようであります。
改めまして、当該事故に係る犠牲者全ての皆様方に、哀悼の意を表させていただきます。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
「客車倶楽部」へ  
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから