倶楽部メモ(610)
平成22年 7月 3日〜 7月 7日

混色編成 ・ 大雨災難 ・ 富士川橋梁流失


投稿者 雑魚
投稿日 2010年 7月 3日(土)12時45分45秒
タイトル 珍ドコ列車
▼クモイ103様:
> 激しい混色編成の嵐が吹きまくった、地元京浜東北線の103系電車

常磐線の取手折返し快速でも、同趣の混色編成を見た記憶があります。それとは別に、
千代田線直通用の 103系が、快速の先頭に配置される事も日常化していた様でしたね。
なお、こうした混色の、更なるイタズラ画像が「MAD 電車」なるサイトにございます。

> 昭和35年夏の急行「霧島」「高千穂」に組み込まれた青大将色にハァハァ

1990〜91年でしたか、山陽線で運転された「珍ドコ列車」の作風は如何でしょうか?
当時の記録画像を改めると、電源車付き24系や12系、14系(含「シュプール」色)に
加え「マイテ」「ホリデーパル」などの「ジョイフル・トレイン」が動員され、更に
茶色「ゴハチ」がプッシュ・プルの一端を担っていた様ですね。

イベント運転と割り切ればそれまでですが「無節操の美学」を追求するJR西日本の
心意気や風流が感じられた一幕でした(^^)当時は「やくも」が、岡山でなく広島を
始発とする、かなりレアな運行事例もありましたっけ。

運転趣旨は異なりますが、身近な「珍ドコ」で思い出すのが、郡山工場から大宮まで、
わざわざ、田端操車場や武蔵野線を大回りした「鉄道博物館」展示車両の回送ですね。

添付画像は、日光線の修学旅行集約臨を撮りに赴く途中、東北線蒲須坂付近の踏切に
屯していた「同業者」から事情を聞いて偶然撮れたものですが、最後尾に連結された
ボンネット車は、乗務員訓練編成として稼動していた常磐線から郡山に回送される際、
ほんの数十秒差で撮り逃がす、という「トラウマ」があっただけに、溜飲が下がる事、
この上無い思いでした(^^)




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 7月 3日(土)13時23分2秒
タイトル はぼろ
如何して稚内まで延長のスジにしなかつたのか?1975年1月号時刻表を見ると
4805D 札幌17.05→幌延22.42
4802D 幌延6.20→札幌12.07

これで幌延−稚内間を当時の上り「宗谷」306D並みの60分ジャストで走っても、下りの
「はぼろ」が稚内23.50頃、上りの稚内発が6.10頃になるので、利用客の時間帯的な考
えもあったのかと?
一方留萌本線、羽幌線区間でのスピードアップが不可能だったのでしょうか?

またこの時代宗谷本線には「利尻」、「最果て鈍行」とともに、旭川−名寄間にPCが有っ
たのですね。上り322レなど札幌行−−−更に「遠軽」−名寄本線経由−旭川−札幌の
「紋別」とか北海道国鉄全盛時代。
ED76109先生:
昨日は何方かのご機嫌悪かったでしょうね???先生の方はどうだつたのか????



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 7月 3日(土)19時45分59秒
タイトル Re: 珍ドコ列車
雑魚様

お話を振られたので白状しますが、
実は前書き込みで「恥じらい」云々と書いてJR東日本のラインカラー貼り替えにも言及した後、もっと続きがありました。
往時の国電や現在の東日本に比べ、昨今のJR西日本の113系や115系の節操の無さは…
といった趣旨の文面をくだくだと書いてみたんです。
個人的感覚による批判めいた書き込みは如何なものかと思い留まり、削除しました。

私の屈折した嗜好としては、所詮混色編成はイレギュラーなのであって、止むに止まれぬ矛盾を内包するゆえの、
当局あるいは担当者の苦悩がにじみ出るところに美しさを感じるのです。
開き直った開けっぴろげの態度では興を削がれてしまいます。
従って「珍ドコ列車」に象徴される西日本の「無節操の美学」とは、私の嗜好は一線を画すものであります。

なお、かかる「無節操の美学」の背景には、
もともと関西地区が首都圏と比べて路線カラーの感覚が希薄な事も寄与しているのではないでしょうか。
私の感覚からすれば、現在進められている地域別の単色化の方がむしろすっきりすると思うのですが。


常磐快速線にも大混色時代がありましたね。これはたしか国鉄末期の昭和60年前後ではなかったでしょうか?
TVの刑事ドラマでアリバイ工作のネタに使われたとの話もあって、
これなど京浜東北線で大混色時代があった昭和40年代半ばでは考えられなかった事ですが、
一般社会の「鉄ネタ」に対する認知度が上がっていたんでしょうね。

写真は、そんな屁理屈をこねる事も無かった平和な時代、昭和53(1978)年12月に野辺地駅で偶然出会った回送列車です。
おそらく盛岡工場から青森運転所への出場回送と思われます。
(後追いで編成全体も撮りましたが、ご覧の通り…orz)




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 7月 3日(土)20時39分46秒
タイトル 「留萌・羽幌」からの直行便
 失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >如何して稚内まで延長のスジにしなかつたのか?

 小生の勝手な見解を述べさせていただきますと、
「留萌本線」の「遠別・羽幌・留萌」からの「札幌直行便」の役割を担っていたのであり、
「稚内」への「PC利尻」及び「DC宗谷」とは次元が異なる列車だったと推察致します。
「留萌本線」から「稚内」へ向う場合は「逆編成」となりますので。
昭和48年JTB6月度時刻表によれば、
「4802D幌延6:20→札幌11:57、4805D札幌17:00→幌延22:37」。
まさしく「留萌・羽幌」と「札幌」を結ぶ「日帰り直行便」だったのでありましょう。

 >旭川−名寄間にPCが有ったのですね

 昭和48年早春、件の「鉄」親父との初渡道の折に「士別」まで世話になりました(士別に宿を取りましたので・・・)。
「C55」の後尾が眺められるとあって、最前部の「スハフ」に陣取りましたが、車内は「撮り鉄」の先達方でほぼ満員。
カレチさんも気を遣って、「撮影の邪魔になっては」と最後尾の車掌室へ移動していました。

 >更に「遠軽」−名寄本線経由−旭川−札幌の「紋別」とか北海道国鉄全盛時代

 遠軽駅勤務だった「遠軽高の保護者の方」のお話では、
「昭和50年ころまで、上川行は混合列車だったので、冬はダルマストーブだったんですよ。」とのことでありました。
蒸気暖房が貨車の連結位置の関係で使えなかったからでありましょうが、
「D51牽引の混合レ」で通学とは羨ましき限りであります。

 長々と失礼致しました。
以上、「網走」への出張は「道東Vキップ」で、「スーパーおおぞら」と「DCオホーツク」に乗り鉄予定の
「中年客車鉄ちゃん」でございました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 7月 4日(日)13時42分58秒
タイトル 混色の原風景
▼クモイ103様:
> 開き直った開けっぴろげの態度では興を削がれてしまいます。

下世話な連想に陥りかけましたが(^^)要するに「恥じらいの文化」に通じる機微を
慮って何ぼのモン、という感覚でしょうか。編成の非統一性といえば高校時代、毎日
水戸駅で眺めていた水郡線の気動車が、私にとっては原風景ですね。急行型、近郊型、
通勤型が一緒くたになり、塗装も橙色と肌色を基調としつつ、急行型とそれ以外では
パターンが逆転(程なく「首都圏色」が普及しました)していたのが、印象的でした。

この組み合わせは、ひたちなか海浜鉄道で再現が可能ですが、残念ながら、こうした
編成による運用をまだ目撃していません。これに「スカ色」を加えたものなら、今春
水戸「コミケ」に合わせ運転された「冥土」もとい「メイド・トレイン」に供された
模様ですが(画像参照)私の原風景とは、やや異なっています。

> 昨今のJR西日本の113系や115系の節操の無さ

昨年、一昨年と湖西線を訪れる機会があり「湘南色」からいわゆる「西日本色」への
移行が少しずつ進んでいる 113系の状況が窺えましたが、線区限定の独自塗装ないし
中間車に運転室を設けた「切妻顔」など、バリエーションがかなり増えた様子ですね。
これに、御指摘の「単色化」がどう絡むのか、全体像は良く存じませんが、在来車を
これからも使い続けようとする、JR西日本の意向を示したもの、とも感じられます。

> おそらく盛岡工場から青森運転所への出場回送と思われます。

今なら超人気被写体になるであろう事、請け合いですね。一両だけの「こだま色」は、
サロでしょうか。人口一万余の町にあって野辺地駅が要衝たり得たのは、大湊線への
連絡性の産物と思われますが、半年後に東北新幹線が新青森に延伸した後は、JRの
路線網から孤立する形になる大湊線の趨勢(特に青森直通枠が存続できるか否か)と
相まってどの様な事になるか、石勝線開業直後の富良野よろしく、少なからず葛藤が
あるのではないか、と想像しています。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 7月 5日(月)10時15分49秒
タイトル 混合色
ひたちなか海浜は205+2005+222ですか?アイデアマンの吉田社長もいろいろ苦労して
居られる様ですが、205は冷房期間が過ぎたら少し休ませるそうです。先ごろのエンジン
修理でDMH17Cの新しい部品が無いので苦労したとか。
国鉄時代の混合色はキハ55+26?(26が準急色)を一度姫新線で見た記憶があります。
遠かったので型式しか解りませんでしたが---酷かったのは38豪雪直後の「こがね」
でした、55+26+55+26+キロハ25---にキハ20の増結が2両ばかりぶら下りで、これに
米原から小松まで乗せられました。常連だった「ゆのくに」はウヤ「立山」は超満員
でしたから---なんとかキハ20の真中辺りに座れましたけれど。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 7月 5日(月)23時41分9秒
タイトル 大雨お見舞い申し上げます
 北の大地で26年目の夏を迎えました「ED76109」であります。

 何やら、突然の豪雨のようで、首都圏の都市機能はかなりのダメージと、TVニュースは報道しております。
そういえば、小生も「雨」等で「鉄旅」を止めさせられたり、「運休」で足止めを食ったりと色々とございました。
今回は、そんな観点からの「戯言」を述べさせていただきます。

 1 小生が中学3年生の夏であった「昭和52年」は、冷夏で8月の中旬に一週間以上に渡り、雨が降り続きました。
 高校受験の勉強会の中休みが1日あったことから、旧客鈍行の「乗り鉄」へと、
 早朝の「常磐線の始発仙台行PC」に乗るために、「上野の20番線フォームのスハフ42」に・・・。
 しかし、しとしと降る雨は一向に止む気配はなく、「赤ベコ」のホイッスルも、太平洋の眺めも今一つの感・・・。
 肌寒い「日立木」で「平から上野行に化ける鈍行」で折り返しましたが、
 やっと「勿来」の辺りで、美しい夕焼けが見られてほっとした記憶がございます。

 2 先達の皆様方の中に、ひょっとして遭遇されたのではと思われますのは、
 「昭和57年8月」に発生した「富士川橋梁流失」の一件であります。
 これは、大雨の影響で増水していた「富士川」に架かる「富士川鉄橋(下り線)」が、
 夜半過ぎに流失してしまったというものでありました。
 しかし、実は橋梁流失の直前に「富士」を発車した「トカホセ下り」をひた走る夜汽車が・・・。
 件の「EC大垣行鈍行」であり、夏休みでほぼ満員(大部分が「鉄」と覚しき面々)でありました。
 もし、1〜2分の差で「富士川鉄橋」を通過していたのであれば、大惨事は免れ得なかったとの新聞報道を、
 小生記憶しております。
 その後、「山陰鈍行紀行」の帰路、「上りさくら」で通過しましたが、
 静かな流れには想像もできないようなコンクリート橋梁の傷あとに、小生背筋が寒くなりました。

 3 平成5年の夏は全国的に冷夏が酷い年であり、8月になっても「梅雨明け」にはならなかった記憶がございます。
 小生、その時はのこのこと「九州乗り鉄」に向いました。
 「北の大地」から「トワイライトEXP」と「山陽本線のEC鈍行」を乗り継いで西下していたのですが、
 「白市」で乗り換える「下関行」が「小郡行」とあって嫌な予感が・・・。
 「広島車掌区」のカレチ氏に聞けば「本由良の盛り土が流されて、暫くダメだわ」との一言。
 ここまで来たのだからと、諦めて「新幹線」で「九州入り」となりましたが、
 「肥薩線」「日豊本線」「吉都線」と軒並み不通の状況。
 単純に「西鹿児島」から「EC鈍行」で帰道することになりましたが、
 「薩摩高城」で滝のような豪雨で抑止となってしまい、小生初めて「雨」に恐怖を覚えました。
 しかし、その3日後に「遠軽」であの「竜ヶ水土石流」のニュースを聞くことになるとは・・・。
 これにも小生、背筋が凍る思いが致しました。


 長々と失礼致しました。以上、学生時代は「雨男」と言われ続けていた「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 旧狩勝線を楽しむ会
投稿日 2010年 7月 6日(火)01時44分28秒
タイトル 富士川橋梁流失
こんばんは。久しぶりに投稿します。旧狩勝線を楽しむ会です。
最近は主に保存の20系客車の修繕を行っている毎日です。

「ED76109」様が記載した富士川鉄橋ですが、数日前から夏休みを利用して、
自転車にて伊豆半島を一周しようと旅立っていました。
ところが、御殿場付近で大雨にみまわれてテントにて雨の一夜になりました。
翌朝はさらに雨がひどく、時速20キロ以下で走行する自転車でも顔にあたる雨が痛く、
伊豆は断念して親戚の住む富士へ目的地を変更し非難する状況でした。
その日は親戚の家にて強制的に宿泊をさせてもらいました。
さらに翌朝は良く晴れていましたが、もう伊豆はあきらめて富士川までサイクリングしに出かけたときに
鉄橋流出の現場を目撃しました。
そのとき撮影した写真がありましたのでアップします。
写真の左に流出したトラスが見えます。当然列車は不通でした。

「ED76109」様、機会があったらまた新得に遊びにきてください。
それでは失礼します。

投稿者のホームページ



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 7月 6日(火)10時16分50秒
タイトル 福井震災後の大雨災難
戦後父が夏休みに北陸へ連れて行ってやると言うので,福井震災後の不通区間
徒歩連絡(北福井=仮駅)----森田間でしたが、大阪早朝の「北福井行」が、新潟鉄工製
の新品オハフ33で良い気になっていたら、米原近くから篠つく雨で刀根辺りでは,沿線
の川が「真中が盛り上がる」様な水量で敦賀で抑止。

長い事停車後「大阪へ引き返します」との事で、金沢,富山,糸魚川方面へは高山線
経由で」と「事故返」のスタンプをカレチが乗車券にポンポン。
米原で東京行の汚いオハ35に乗り換え岐阜につくともう夕方で、富山行は無しなので
仕方なく駐在所に紹介してもらって、泊まった宿屋が風呂も無い有様。
翌日早朝岐阜駅へ行くともう長蛇の列で、やっとナハ21000系に座れて始めての高山本線
の旅。

カマがC58だとは解っていたが、途中「飛騨金山--19分停車」なんて駅員の案内歓呼に
びっくり、高山でアイスキャンデーを買ったら昔ながらの丸い「アイスケーキ」。
飛騨古川?辺りからまた降り出して富山では相当な雨量。乗り換えたローカルのオハフ
30が越中大門辺りで後部座席で「雨漏りが始まり」、おどけて傘をさす人が居て大笑い。
カレチがバツが悪そうな顔をして謝るでもなく見ていたのを思い出します。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 7月 6日(火)11時24分2秒
タイトル 大雨
▼ED75 109様:
> 何やら、突然の豪雨のようで、首都圏の都市機能はかなりのダメージ

昨夜は、車で赴いた都心の商業施設での現場仕事でした。特に移動上の不具合も無く、
往路(正午前後)の首都高三郷線を除けば、然したる降雨にも遭わずに済みましたが、
報道によると、局地的なゲリラ豪雨だった様ですね。

> 肌寒い「日立木」で「平から上野行に化ける鈍行」で折り返しましたが、

地元が常磐線沿線という事情もありますが、学生時代、同趣の列車旅行に赴いた際は、
岩沼まで北上した後、往路は海、復路は山と抑揚をつけるべく、東北線に繋ぎました。
四ツ倉以北の単線区間を「もどかしい走り」で抜けた後に経験した、複線の東北線は、
非常に快適な印象でした。

>「昭和57年 8月」に発生した「富士川橋梁流失」の一件であります。

翌日の報道映像は衝撃的でしたが、然したる人的被害が無かった点、単線並列構造の
下流側が流失した事で全面不通を回避した点が、せめてもの救いでした。この区間の
複線化は1910年だそうで、その後長らく単線並列構造を維持したのは、単に付替えの
手間を省略した為か、あるいは、かかる事態を想定した危険分散策の産物か、事情は
判りませんが、老舗幹線の風格を感じさせる構造ではあります。

>「薩摩高城」で滝のような豪雨で抑止となってしまい、

断崖地を背に海際ギリギリを行く上田浦の前後に象徴される地勢から「肥薩おれんじ
鉄道」は、鹿児島線でも特に保守面での御苦労を伴う区間を継承した感がありますね。
あの辺りで連想されるのは、1997年、熊本・鹿児島県境付近で発生した大規模土石流
災害です。転換前の鹿児島線でも、少なからず影響があったと記憶します。

首都圏や九州で大雨報道が相次ぐ今般、同地域でも要警戒態勢と見受けます。折しも、
沿線の一自治体において市政を巡る混乱が大きく報じられていますが、夏本番を控え、
せめて防災体制は確立して頂きたいものと、1986・1998年に那珂川の水害を経験した
立場としては、切に感じるのでした。

なお、1998年の水害では、東北線が長期不通に陥った為、三往復体制の「北斗星」は、
二往復が常磐線迂回、残る一往復が仙台以北のみの運転という変則振りでした。

> あの「竜ヶ水土石流」のニュース

NHK「プロジェクトX」で脱出劇が紹介された件ですね。断崖のシラス台地と云う
同地区が宿命的に抱えている問題が顕在化した典型ですが「安全な土地選び」という
サイトによると、同地区を含めて「りゅう」の発音を伴う古来の地名は「流」つまり
治水面で御苦労の多い土地柄との可能性があるとの事。我が地元にも「龍ヶ崎」なる
街がありますが「暴れ川」として悪名高い小貝川の旧流路が、関東鉄道竜ヶ崎駅から
直線距離で 1km程度にまで接近していた辺り、然もありなんですね。

平成大合併に呼応してか、駅の命名感覚も少しずつ変わっている様に見受けられる中、
古くからの地勢を反映するこうした地名も、程度問題ですが、疎かには出来ませんね。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 7月 7日(水)00時19分0秒
タイトル Re:大雨災難
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 旧狩勝線を楽しむ会様
 >機会があったらまた新得に遊びにきてください

  ありがとうございます。
 色々と計画しており、機会があれば「レンタカー」ででも使って「新内」を久しぶりに訪問しようかと考えております。
 「スーパーおおぞら」で新得まで。そして、「レンタカー」で狩勝峠からの眺めも併せて楽しめれば・・・。
 もう、18年経つのですね。

 マロネロ38様
 >乗り換えたローカルのオハフ30が越中大門辺りで後部座席で「雨漏りが始まり」

  昔々のエピソードがお伺いでき、いつも楽しませて頂いております。改めてお礼申し上げます。
 しかし、「北陸本線」なのにという思いと、「まだ戦災の跡が残っていたのか」という思いが交錯いたします。
 あたかも「コントの一コマ」のようでありますね。
 そういえば、マロネロ38様のホームである「神戸」では、昭和初期に「阪神大水害」に遭遇されており、
 報道写真等での「三ノ宮駅前」や「神戸電鉄」の惨状が印象に残っております。
 「阪神電気鉄道の地下区間」に「泥水」が流れ込んで難渋した写真に、都市型災害の恐怖を強く感じました。

 雑魚様
 >1998年の水害では、(中略)三往復体制の「北斗星」は、二往復が常磐線迂回

   以前にも記述させていただきましたが、
 「鉄」親父たちが9月の連休を利用して本道を訪問した帰路に「札幌」から乗車したのが、件の「北斗星6号」。
 「鉄」親父の話では、「快晴だったから、客レからの木戸や広野辺りの太平洋や阿武隈の山並が良かったなぁ。」
 と「刺激的な事」を小生に言いたい放題。
 さらに、「鉄」親父は「有珠山噴火に係る山線迂回運転のカシオペア」にも乗車しており、
 「今度は、日本海やループ線を眺める『迂回北斗星』に乗りたいもんだ」と一言。
 しかし、あの強運では、いつか「実現」するのではと、小生変な期待を寄せております。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 スイロフ
投稿日 2010年 7月 7日(水)00時28分39秒
タイトル Re: 富士川橋梁流失
 当時、私は舞鶴にいて、月に一度くらい東京へ行き来する生活をしていました。
あの台風のときは舞鶴にいて翌朝東京に行く予定でした。ところが朝になったら鉄橋が流れたというニュースが…
当時東京との行き来には東海道本線を主に使っていたので、これは全く他人事ではなく背筋が寒くなりました。
 その日は北陸線回りで「越前」に乗って東京に行き、東京から舞鶴に戻る時は既に単線運転が始まっていたので
大垣夜行に乗り、富士川の手前で下り線から仮設の渡り線で上り線に移り、
鉄橋をゆっくり渡ってまた仮設の渡り線で下り線に戻るというのを体験しました。
このときもやっぱり背筋が寒くなり、人的被害が無くて本当に良かったと思いました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 7月 7日(水)15時10分11秒
タイトル 「北斗星」 大迂回
東京に続き、昨夜は福島県でゲリラ豪雨があり、郡山駅周辺でもかなりの浸水被害が
発生した様で「カシオペア」「北斗星」も、運転抑止ないし休止だったのでしょうか。

▼ED75 109様:
> 快晴だったから、客レからの木戸や広野辺りの太平洋や阿武隈の山並が良かったな

時期的な差異はありますが、道内区間を除いて車窓から明瞭に海が見えるのは、本来
塩釜〜松島くらいですから、確かに常磐線経由になれば、オトクな感覚はありますね。
もっとも、車窓から海がマトモに見えるのは、大津港・久ノ浜・末続の前後に限られ、
その他は福島・宮城県境付近で辛うじて、という程度で、距離の割に今ひとつの感が
否めませんね。鹿島臨海鉄道にせよ、ひたちなか海浜鉄道にせよ、茨城県内沿岸部の
鉄道は、得てして「見えそうで見えない」傾向がありますね。

> 有珠山噴火に係る山線迂回運転のカシオペア

山線経由ですと「カシオペア」に限らず、札幌や手稲で編成が逆になり、その辺りの
調整でも、御苦労があった事でしょうね。

> 今度は、日本海やループ線を眺める『迂回北斗星』に乗りたいもんだ

上記「山線迂回措置」が行われた十年前、水害か土砂災害かの詳細は失念しましたが、
岩手県内の東北線で不通区間が発生した為「北斗星」が、青森以南で「あけぼの」の
経路を辿る例もあった様です。

詳しい同乗記が「ぽてけろ日記」2000年04月分に掲載されていますが、新津手前から
目覚めの放送が入り、新津0746着48発、長岡0830着38発、六日町0915通過、越後湯沢
0929着31発、水上1004着06発、高崎1054着55発、大宮1215着17発、そして終着上野は
定時より三時間遅れの1239着という内容だったそうです。

札幌発が17時過ぎである事から、羽越線のみならず、小樽の前後でも日本海の眺めを
楽しめた筈で、これに、風光明媚な上越国境の山紫水明が加わり、更に車内販売用に
新津で「SLばんえつ物語弁当」が積み込まれた事をも考えると、利用者によっては、
遅延の弊害を大きく凌駕する一大特典だったのかも知れません。

東北新幹線の八戸延伸の際、並行区間の転換先が、深夜列車の対応に難色を示した為、
寝台特急を羽越線経由にする案も検討された様ですが、新津以北が単線主体とあって、
速達性や異変発生時の融通性に大きな制約あり、として却下された経緯もあるそうな。

1997年に磐越道が全通して以来、新潟方面の往来は専ら自家用車となりました。来春、
北関東道が全通すれば尚更ですが、上越線の水上〜宮内は改めて車窓風景をしみじみ
楽しみたいと考えています。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 7月 7日(水)21時52分46秒
タイトル Re:「北斗星」大迂回
 ルーティンワーク的にお邪魔しております。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >札幌や手稲で編成が逆になり

  往年の「はと」や「つばめ」、「はつかり」のように「三角線」を走りましたが、
 ルートは「札幌-(千歳線)-苫小牧-(室蘭本線)-岩見沢-(函館本線)-手稲」であります。
 ほとんど1日がかりの大仕事でありました。
 また、「北斗星ニセコ号」に乗車した経験で推察すると、
 「下り」は「小樽」で「DD51」の1両を最後尾に連結し直して、
 プッシュプルスタイルで札幌到着後に逆編成にして「札サウ」に回送。
 上りは、プッシュプルスタイルで「札ナホ」まで回送し、
 先頭の「DD51」を小樽方に連結して「重連」に仕立てたはずであります。


 >岩手県内の東北線で不通区間が発生した為「北斗星」が、青森以南で「あけぼの」の経路を辿る例

  仰るとおり、「山線・奥羽・羽越・上越線回り寝台特急北斗星2号『上野行』」だったようであり、
 小生であれば感涙にむせびながら(!!)上野の13番フォームに降り立ったことでありましょう。
 冗談半分でありますが、「新幹線延伸」で「北斗星」及び「カシオペア」の廃止が決定した暁には、
 件のコースで「半年間」の惜別運転を希望いたします。
 「津軽海峡・日本海」の海原、「谷川岳」の下を走る「ループ線」・・・。
 小生、何があっても「乗り鉄」したいものであります。
 まさしく「遅延の弊害を大きく凌駕する一大特典」にほかなりません。

 >更に車内販売用に新津で「SLばんえつ物語弁当」が積み込まれた

  平成10年の冬に利用した「トワイライトEXP」が、「4時間半の遅延」で運転されていた時、
 「新津」から「菓子パンとお茶」が配給された経験がございます
 (車内で配布していたのはなぜか「JR東日本の新津駅員氏」)。
 さらに、「金沢」から注文を取った「幕の内弁当」が配布されるなどの大騒ぎ。
 結局、終着「大阪」で「遅延のお詫び放送」が流れるフォームで、
 助役氏らに「清算窓口にご案内いたします。」とエスコートされました。
 小生にとって、最初で最後の「VIP待遇」でございました。

 長々と失礼致しました。
以上、つい数分前、鉄道林から聞こえてきた「ED76」もどきの「731系」の汽笛に、
切ない旅情を感じた「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
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