倶楽部メモ(604)
平成22年 6月 2日〜 6月 6日

初のEC急行 ・ 昭和35年臨時あさかぜ


投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 6月 2日(水)20時09分44秒
タイトル Re: RE青大将客車
千キウ様

 補足ありがとうございます。スハ44系品川車の塗色については、ものすごく断片的な情報しか無く、お手上げ状態です。

 ご指摘のように昭和35年末には「臨時あさかぜ」がありました。
これに使用されたものはぶどう色だったと思いますが、残念ながら車番がわかりません。
 比較的早い時期における青+裾帯(以下「いこい色」と呼びます)の証拠写真としては、
新人物往来社刊「別冊歴史読本80 鉄道シリーズ14 懐かしの東海道本線」P.7に、
昭和36年2月18日に品川駅で撮影された下り準急「いこい」のカラー写真があります。
EF58 119(ブルトレ色)の次位にいこい色のスハフ43、2・3両目はぶどう色に青帯の1等車、
そして4両目以下に少なくとも3両のいこい色が連なっていることが確認できます。これも車番は不明です。

 時期がずれますが、昭和38年6月1日の在来型客車最後の「みずほ」に使用されたスハフ43は19、22、24なので、
この3両はぶどう色だったでしょうね。

> 【磐越西線管理所】
>  スハニ35 10(1両)
> 国鉄鋼製客車Iのスロハ322059の左車と思われます。60−8−19という事で増号車の準急ひばらでしょうか?

 P.134ですね。ここに写っている車両は青大将のようですから、少なくともスハニ35 10ではないと思います。
スハニ35 10〜12は特急運用に就いたことがなく、青大将などの特殊塗色にはならなかったでしょう。
スハニ35 10は、過去にここでも話題となった日中線用と思われます。
 写真をよく見ると、問題の車はスロハのハ側に連結されていること、
またデッキ脇の吹き寄せ幅がスハニ35(275mm)にしては狭く見える事から、
これは吹き寄せ幅200mmのスハ44ではないでしょうか。

 同じ「国鉄鋼製客車I」のP.223にあるいこい色のスハ44 7は昭和37年3月29日撮影、
あまり根拠のない推測ですがスハ44 1〜8は全部いこい色だったのでは?と思っております。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 6月 2日(水)20時58分46秒
タイトル Re: トカホセEC急行スタートの年でもあります
ED76109様

 東海道急行における153系の台頭劇は、客車急行との関連で見ていくと時代の流れが反映されていて興味深いですね。
 お説のように35−6改正から現れた153系急行は、
36−3改正で「なにわ」を客車から置き換えると共に「金星」を新設、
7月には「はりま」を80系から置き換えと着実に数を増やし、36−10白紙改正で一気に花開きました。
この時「金星」は客車列車に変更されています。

 その36−10改正では、客車急行は寝台主体で座席は電車急行に任せるという棲み分けが打ち出されました。
 その考え方はその後38年6月に上野−新潟間の上越急行にも波及し、
客車による寝台急行「天の川」と165系電車の座席急行「越後」が雁行する体制が出来上がります。
客車急行が寝台以外に相当数の座席車も連結しているケースを含めれば、
上野−仙台間、上野−長野間で類似の体制が次々と構築され、
私が時刻表を眺めるようになった昭和40年代後半には「基本パターン」と認識していたものです。
 しかし新幹線を含めた昼行列車の速達化などで、距離の短い夜行急行は需要が減少していきました。
上野発長野行きの夜行急行があった事など、今の状況しか知らない人には想像できないかもしれませんね。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2010年 6月 2日(水)23時03分48秒
タイトル 初のEC急行
ED76109様
臨時まで含めると初の電車急行は昭和34年4月9・10の両日、
東京大阪間に運転されたことぶきですね。所要時間は9時間45分
(下り)と鈍足だったようです。
皇太子ご成婚記念列車としては151系による準急ちよだが有名ですが
ことぶきとともに臨時客車急行として八千代というのが存在したらしいです。
ただし当時の公社時刻表を見てもこれらの列車には愛称は記されておりません。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 6月 3日(木)00時42分29秒
タイトル 多謝返礼であります
 ルーティン・ワーク的にお邪魔しております。「ED76109」でございます。

 いつも、小生の足りぬ部分に係る様々な補足、お礼申し上げます。

  クモイ103様
  >上野発長野行きの夜行急行があった事

  昭和49年の黄金週間、小生の伯母が実家のある「田中」にある診療所に入院したことから、
 「鉄」親父と見舞いに行くことに。
 しかし、「上野23:58発PC妙高5号」及び「上野0:22発EC信州6号」では、
 最寄りの「小諸」や「上田」が早暁の到着であったことから、適切ではないと
 「上野6:17発321レ」に乗車した記憶がございます。
 「妙高」にせよ、「信州」にせよ、「長野到着」が「5:00前後」とあっては、
 子ども心に「ダイヤに無理がある」と小生、小生意気な口を利いたものでありました。

  ヒゲ無し雷鳥様
  >臨時まで含めると初の電車急行は(中略)ことぶきですね。

    「ことぶき」が運転された3カ月後、「すばる」が「東京・大阪」に「夏季臨時列車」として、
 修学旅行用に設えられた「155系」で運転されております。
 どうやら、本業である「団体列車」の間合いのダイヤで運転されたようであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 6月 3日(木)11時18分44秒
タイトル アルプス
▼ED75 109様:
>「昭和36年10月改正」に伴い、EC化された「なにわ」、「せっつ」に加え、

幼少時、子供向け図鑑では 153系は「なにわ型」と紹介されていた記憶がありますが、
嚆矢は「せっつ」だったのですね。私の世代ですと 153系に関しては、1980年以前の
新快速運用が最も印象的でした。急行としての晩年は「比叡」運用かと思いましたら、
1982年から廃止の1984年までは、大垣の 165系が充当されていたのですね。

▼クモイ 103様:
> 上野発長野行きの夜行急行があった事など(中略)想像できないかもしれませんね。

1985年に、モノクラス 169系による夜行の定期急行「妙高」を利用した事があります。
長野〜直江津が普通列車として延長されていましたが、長野新幹線を主軸とした現行
体系下では、確かに隔世の感も一入ですね。

一方、首都圏からの距離が長野とほぼ同等の松本を主要目的地とする「アルプス」は、
夜行定期便が2002年まで存続しており、並行新幹線の有無が、大きく作用していると
感じます。その意味で、主要目的地への移動が「こまち」のみならず「はやぶさ」と
かち合う事になる「あけぼの」の趨勢を、改めて案じてしまうのでした。

私が「アルプス」を時々利用したのは、金曜夜の度、新宿駅の「アルプスの広場」が
ハイカーなど行楽客で盛況を博た1980年代の後半でした。当時、下り「アルプス」は
定期の 9・11号が夜行便でした。どちらも南小谷行でしたが、前者がみどり湖経由で
信濃森上から普通扱い、後者が飯田線接続の為か辰野経由で、大糸線内は普通扱いと、
微妙に棲み分けていましたね。

かくして、昼行便を含め「アルプス」と縁が深かった大糸線も、近年は中央線特急の
直通が減りましたね。信濃大町駅前で聞いた話では、バスで長野に出て新幹線に繋ぐ
パターンが主流になりつつあるそうで、時代を感じます。

掲出画像は、大糸線の列車から見た北アルプスです。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 6月 4日(金)17時14分16秒
タイトル 「替え玉」だった「153系」
 中間試験最終日に「半ドン」を決め込んだ「ED76109」であります。

 雑魚様
 >153系に関しては、1980年以前の新快速運用が最も印象的でした

 昭和49年の盛夏、「高校野球での甲子園見物」の折に「三ノ宮・明石」で利用した記憶がございます。
しかし、正直「古ぼけたクルマ」の印象が強く、あまり良いイメージはありません。
 様々な歴史を「鉄」勉強しておりましたところ、「153系」の意外なエピソードがございましたのでご披露いたします
(一部、「マロネロ38様」が以前掲示板で仰っておられましたが)。

 1 実は、「こだま・つばめ」で運用されていた「151系」が故障した際、
  予備車が少なくかつ関西地区に配置がない(全て「東チタ」配置)などの要因から、
  代走で「こだま」等に運行することが何度かあったようであります。
  そのため、「クハ153」の種別表示に「特急」表示が追加されております。
  しかし、当然ながら外観や車内設備も「急行形」そのものであり、「153系こだま」は
  「こだま」をもじった「かえだま(替え玉)」、または「にせだま(にせ「こだま」)」と揶揄されたようであり、
  「事故ばっかりでがっかり」の新聞記事で有名になった「DCはつかり」を彷彿させるものでありました。

 2 昭和30年代後半、運転全区間が「EL」で牽引されていた「夜行寝台急行列車」の電車化計画がございました。
  それが「153系の寝台電車化」計画であります。
  「153系の座席車」を「ネ」に改造して夜間に運転させる計画がそれであります。
  しかし、「東海道新幹線の開業」を控えていたことから、設定列車の削減が予想され、
  その後の転用先(「夜行急行電車」を運転できる直流電化区間がない)の問題から、この計画は中止されました。
  このため、「寝台電車計画」は急行用から特急用に変更され、「583系」の誕生へとつながってまいります。

 3 「サハシ153」は「二等ビュフェ合造車」であり、「食堂」という概念から新しきコンセプトが計画されました。
  それは、ビュフェでの「すしコーナー」の開設であります。
  これは、実際に寿司職人が乗務してすしを提供しようというもの。
  利用客から好評を博したほかに、「冷蔵ケース」・「電気酒燗器」など、
  当時としては最新の供食設備が採用されたのであります。
  昭和36年12月には、新開発の「電子レンジ」を搭載して、営業列車でテストが行われました。
  結果は良好であり、「サハシ165・451・455」
  そして、「新幹線0系」などのビュフェに正式採用されたのでありました。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 6月 5日(土)09時20分20秒
タイトル ブルーライナー時代の153系
ED76109先生:
多分京都−姫路の新快速初期の、青系に塗り替えて、自動販売機をつけた「ブルーライ
ナー」時代に乗車されたのだと存じます。明石までは確か京都−大阪−三ノ宮−神戸
−明石-でした。
「ブルーライナー−」というCMを流していた時代だと存じます。
急行格下車で設備は良かったですが、くたびれていたのは事実です。やがて117系に
とって変わられましたが、トイレや洗面所付き、冷房付き(モハはダクトが下水道
みたいな感じで通路天井を走っていた)でした。

「替え玉」は大阪駅で撮影していますが、此処が客車掲示板なので出すのを遠慮して
います。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 6月 5日(土)10時57分58秒
タイトル 食堂車
▼ED75 109様:
> 正直「古ぼけたクルマ」の印象が強く、あまり良いイメージはありません。

当時の停車駅は、京都・大阪・三宮・神戸・明石・加古川・姫路のみかと記憶します。
新大阪すら通過する事で、畿内ローカルの都市間輸送に特化した位置付けが窺えます。
この「ブルーライナー」塗装は、阪和線快速用 113系にも継承されましたね。

>「こだま」をもじった「かえだま」または「にせだま」と揶揄されたようであり、

いわゆる「遜色急行」の嚆矢と云えるでしょうか。私自身、特急と急行の一大差異は、
ボックス席で見ず知らずの乗客と膝を突き合わせずに済むか否か、でした。それゆえ、
東北・北陸・九州で見られた「月光型」の昼行特急運用は、微妙なものを感じました。

>「東海道新幹線の開業」を控えていたことから、設定列車の削減が予想され、

新幹線開業年に、山陽線電化が完成している事から、首都圏対山陽地区の旅客導線に
供する発想は無かったのか とも思いましたが、8年後に岡山まで、11年後に博多まで
新幹線が延伸している事から、せっかく設定しても短命に終ったのでしょうね。

>「サハシ153」は「二等ビュフェ合造車」であり、

サハシは「佐渡」「よねやま」「妙高」「信州」「アルプス」など、165・169系の便、
そして「あづま」「まつしま」「いわて」など、451・455系の便にも設定されました。
東北線急行での、ビュッフェ営業の印象は希薄ですが「信州」の蕎麦は有名でしたね。

> 実際に寿司職人が乗務してすしを提供しようというもの。

富裕層も多々利用したであろう、太平洋ベルト地帯路線ならではの現象と見受けられ、
その一方、上記の上野発着便では、麺類など軽食系の内容が主流だったとも聞きます。

今、敢えて「鮨ビュッフェ」を復活させた場合「回転寿司」仕様になるのでしょうか。
動く列車の中で「かっ○寿司」よろしく「新幹線型トレー」が注文品を載せレールを
スライドして来たら、傑作ですね(^^)

食堂車が衰退した背景事情として、何点かが「ウィキペディア/食堂車」で取り沙汰
されていますが、個人的には、列車の高速化と在来線昼行便の系統分割で乗車時間が、
食堂車利用を必然ならしめる状況では無くなった事が大きく作用したと感じています。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 6月 5日(土)16時54分38秒
タイトル ここ十年間の累積廃止距離
少し古い報道で恐縮ですが、国交省の集計によると、2000年以降の十年間で、鉄道の
廃止区間の累計距離が 600q超(新幹線の実距離に当てはめると、ほぼ東京〜岡山に
相当します)に及ぶ旨、正月明けの産経ニュースにて報じられています。廃止区間は
ちほく高原鉄道(140km)を最長に、可部線 非電化区間(46q)と続くとの事ですが、
盲腸線を中心とした支線格が広範に淘汰された状況が窺えますね。

主因として過疎化、燃料の高騰、車両・施設の老朽化が挙げられますが、2000年春の
規制緩和で、地元の同意が廃止要件ではなくなった事も、大きく作用している様です。

典型的な車社会の農村に住み、ここ数年、日立電鉄に鹿島鉄道と、地元で路線廃止を
目の当たりにした立場からすると、かつての「乗って残そう」と云ったマイ・レール
意識が希薄になった印象があり、路線廃止を巡る強硬な反対感情も窺えず終いでした。
主たる商業集積地が市街地駅前からバイパス沿道に移行した事で「面的な移動機能に
限界がある」日常導線としての鉄道の存在意義が小さくなった事情もある様です。

一方、長距離特急として名を馳せた大阪〜青森の「白鳥」が、金沢・新潟で系統分割
された事に象徴される様に、新幹線を除けば、優等列車も短距離化傾向がありますね。
折しも政権が変わり、週明けの組閣人事を受け、運輸ないし道路行政がどうなるのか、
注目される処ですが、高速道路の料金割引は相当大きな影響が出ている様で、例えば、
先のGWでは、観桜名所である青森県弘前の街が、例年に無くマイ・カーで大渋滞を
招来した為、市内の路線バスやタクシーが、思わぬ皺寄せを受けたそうです。

貨物街道たる函館線ですら、新幹線延伸に対応して「トレイン・オン・トレイン」が
取り沙汰された事を考えると、移動手段としての鉄道は遠からぬ将来、主要都市圏の
自己完結的な路線網と、それらを相互に結ぶ新幹線ないし高規格幹線のみ、実効的に
機能するだけの状況に陥るかも知れません。

正に「ブルトレ」の存在意義とは相反する状況ですが、そもそも、車両が老朽化して
いるのだから、社会的使命を全うしつつあると捉えるべき、という事かも知れません。
そう考えるとますます、今冬ダイヤ改正で、新青森駅絡みの趨勢が気になるのでした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 6月 5日(土)20時19分52秒
タイトル サハシの寿司
急行「よど」で一度食べましたが、味は普通でしたね。北陸本線のサハシは「蕎麦」
でした。
後は幕の内定食みたいなメニュウも有りましたが。
大阪−赤穂線経由−博多になった電車急行「つくし」は和食でしたが、冬のさなかに
冷たい「幕の内弁当」を食べさせられて閉口しました。播州赤穂から車販で積み込む
「赤穂義士勝鬨弁当」(大層な名前でしたが、所謂"カツ丼”)の方が暖かくて良かっ
たです。



投稿者 長リハ
投稿日 2010年 6月 6日(日)10時03分24秒
タイトル 昭和35年臨時あさかぜ
クモイ103様

ごくまれにお邪魔致しております長リハと申します。

> 昭和35年末には「臨時あさかぜ」がありました。
これに使用されたものはぶどう色だったと思いますが、残念ながら車番がわかりません。

鉄道ピクトリアル誌778号「スハネ30形連結の急行列車運転史」に
昭和35年12月27日3009レ臨時あさかぜの編成記録が掲載されています。
スハフ43に限りますと、1号車スハフ4320東シナ、7号車スハフ4323大ミハ、12号車スハフ4318東シナです。

たまたま手元に当該誌がないので不確実ですが、
千キウ様ご指摘の写真はこの編成そのものではなかったかと記憶しております。



投稿者 クモイ103  
投稿日 2010年 6月 6日(日)19時34分49秒
タイトル Re: 昭和35年臨時あさかぜ
長リハ様

 フォローありがとうございます。当該のピク誌は私も持っていながら見落としていました。情けない…

 情けなさついでにもう一つ、同じくピク誌の719号P.55に、その3日前にあたる昭和35年12月24日の3009レの編成がありました。
スハフ43は19・21・24(全て東シナ)です。
長リハ様ご指摘の記録と合わせると、スハフ43 18、19、20、21、23、24の少なくとも6両はおそらくぶどう色だったでしょうね。

 ちなみに、同じページにある昭和37年1月13日の1004レ「みずほ」のスハフ43は18・19・23で、くだんの6両に含まれています。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 6月 6日(日)23時14分46秒
タイトル 鉄旅の魅力たるや如何に・・・
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >急行格下車で設備は良かったですが、くたびれていたのは事実です

  座席のモケットがくすんでいたこともそうですが、よく「揺れたこと」が印象的でした。
車内の混雑度は高かったのですが、「100km以上の速度」ですっ飛ばして左右に身体が揺れて・・・。
保線状況だったのでしょうが、昭和49年ごろの「トホホセ」や「高崎線」と相壁の「横揺れ」でありました。

 雑魚様
 >「白鳥」が、金沢・新潟で系統分割された事

 小生の「鉄道の魅力の一つ」であった「長距離列車」の削減は、
将来の「新しき鉄道」の姿の一つであると自分を納得させております。
「中距離の都市間移動」に特化された「白鳥」の分割は、まさしくその象徴でありました。
「長距離=新幹線若しくは航空機」という流れは、もう止まらないでしょう・・・。

 >主要都市圏の自己完結的な路線網

 当地では「札幌・函館」、「札幌・旭川」、「札幌・帯広、釧路」といったところ。
あとは、「空港接続」の「札幌・新千歳空港」でありましょうか。
「北の大地」から眺める首都圏の「湘南新宿ライン」と関西圏の「アーバンネットワークの新快速」が
まさしく該当するものでありましょうか。

 >社会的使命を全うしつつあると捉えるべき

 平成12年に乗車した「上り富士」のカレチ氏(広島車掌区)が、
「飛行機や新幹線に皆乗りますけん、あと10年の命(九州ブルトレ)やね。」
とポツリと呟いた言葉が印象的でありました。
その時、利用した「1号車」は小生以外の乗車はなし。
座席利用では「5時間以内」が限界であるということを、何かの資料で読んだ記憶が・・・。
前述の「白鳥分割」と一致するように思われ、
「トワイライト」や「北斗星」のような「鉄旅の魅力」を体現できる列車であっても、
淘汰されていく運命であることを理解するしかないのでありましょうか・・・。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
「客車倶楽部」へ  
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから