倶楽部メモ(602)
平成22年 5月28日〜 5月30日

田町・両国・原宿 レポート ・ 東北新幹線新愛称名


投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月28日(金)09時51分2秒
タイトル 田町 レポート (01)
竹中様による今月14日付の「品川近況」と比べて、更なる状況の変化が窺えますので、
報告申し上げます。25日の様子ですが、十日間で、かなり撤去作業が進捗した様です。
東京で「トワイライト・ゾ〜ン」感覚というのも、妙な話ですね。




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月28日(金)10時12分0秒
タイトル 田町 レポート (02)
線路が剥がされた品川駅10番線から眺めた様子です。新型「成田Exp.」を田町車セで
見掛けるのは初めてでした。行止りとなった留置線では、車体がはち切れそうですね。




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月28日(金)10時51分58秒
タイトル 両国 レポート
墨田区内の関係先にも赴いたので、三月改正の際、新聞輸送列車の廃止を巡り活況を
呈した両国駅にも立ち寄りましたが、千葉県内の各方面系統の拠点駅(1910年までは、
業平橋〜曳舟が休止状態だった東武鉄道の列車も、亀戸経由で乗入れました)として
君臨していた当時の面影は、皆無ですね。

すぐ傍に総武快速線の東京隧道の開口部がありますが、快速線が地上に建設できれば、
両国駅やその界隈も、従来の拠点性を維持できた事と想像します。この「両国」なる
名称は、隅田川を挟み、武蔵国と下総国が相対する地勢に由来するそうで、個人的に
旅情を感じる駅名の一つです。




投稿者 くらやみのまろ
投稿日 2010年 5月28日(金)22時20分38秒
タイトル マイネロフ37260増結の「鴎」編成について
ご無沙汰しております。
当方、最近は地元を走る「北斗星」の撮影兼編成記録をとることが多くなっていますが、
今回はそれより70年前のお話について絡ませていただきたく思います。

マロネロ38様
いつも、大変興味深いお話を楽しませていただいております。
昭和15年8月の1032レ「鴎」、展望車連結時代にマイネロフ37260(マイネロフ37)が増結されたことがあったとは驚きです。
「富士」にマイネ37100(マイネ37)や木製一等寝台車が増結されたことがあったのは存じていましたが、
「鴎」でも似たような事例があったのですね。

また、「鴎」の二等車は、「レイル No.23」等の記事によると、二等車はスロ30960(オロ36)が2両連結とされていて、
同誌に掲載の写真ではスロ31120(オロ40)の張上屋根車も使用されていたようなのですが、
同じ特急の「富士」「燕」の二等車には、乗務員室付のスロ34(スロ30750・スロ30770)が使用されていて、
それが「鴎」では乗務員室のないスロ30960(オロ36)とされていて、不思議に思っていました。
しかし、マロネロ38様のお話では、スロフ31100(オロフ33)が連結されていたとのことで、
それだと合点がいく気がいたします。

そうすると、マロネロ38様の乗車された「鴎」は、大体以下のような編成となるのでしょうか?
 1 スハニ35750(スハニ32)
 2〜5 スハ33650(オハ35)
 6 スシ37800(スシ37)?
 7 スロフ31120(オロフ33)
 増8 マイネロフ37260(マイネロフ37)
 8 スイテ37050(スイテ37)?
実に魅力的な編成だと思いますが、異なっている点などがあれば、ご教示いただけたら嬉しく思います。
投稿者のホームページ



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月29日(土)08時07分27秒
タイトル 突然ですが、「2レ」に乗って参りました。
 おはようございます。「ED76109」でございます。

 往年の「鴎」号の話題の中、先達の皆様失礼致します。
実は小生の叔父が逝去いたしまして、急遽「26日の2レ」で帰京。
そして、昨日最終の「スーパー北斗21号」で自宅に戻ってまいりました。
「安い往復キップ(札幌・東京フリーキップ)があるので。」と親類には誤魔化しましたが、
「『北斗星』も安泰ではないべし」の想いが立ち、
叔父の御霊も許してくれるだろう(「鉄」の身勝手な哀願であります)との思いで・・・。
 それでは、いつものように「戯言」させていただきます。

 1 「撮り鉄」の先達の皆様方の数多いこと。
小生は「1号車5番下段(オハネフ24 2・札サウ)」で、
のんびりと「ハイケンス」を聞きながら、「旅」を堪能していたのであります。
しかし、「札幌駅5番フォーム」先端部に4名の先達の方がいらっしゃったのを皮切りに、
「苗穂の直線」で「3名」、「千歳付近」、「勇払原野」にお一人ずつと、
「撮り鉄」の先達のお姿は絶えることを知りません。
翌朝は珍しく「仙台」辺りから起き出したのですが、「越河の急坂」辺りで3名、「金谷川の橋梁」辺りで5名と、
平日の早朝とは思えぬ盛況ぶり・・・。
「栗橋のカーブ」辺りから、撮影ポイントの至る所には「複数のカメラ」を構えた先達の方々が、
望遠レンズを設えておられました。
結局、「うえの〜」の件の放送(駅員氏の肉声でした!!)を聞きながら機関車見物と相成ったのですが、
「星ガマのEF81 88」を取り囲まんばかりに20名程度の方々が・・・。
小生が確認できた「撮り鉄」の方は、「札幌」から「71名(うち、「鉄」姫様も3名ほど)」。
あたかも、「北斗星廃止前夜」のような雰囲気でありましたが、
そろそろ「星ガマのラストラン」が近づいているからと、小生理解致しました。

 2 叔父の葬儀には、「出水(鹿児島県)在の従兄」も出席して「25年振りの再会」を喜び、想い出話に花が咲きました。
従兄は、昭和40年4月から東京の某大学に通っていたことから叔父宅に下宿しておりました。
現在では「青春18」で「九州内」を「鉄」する「乗り鉄」。
「貧乏学生だったから、いつも混んだ『霧島』の自由席で帰省していた」とのエピソードを聞きながら、
「鉄」親父も交えての「鉄」話。
 特に印象的だったのは、昭和32年に「鉄」親父を含む叔父達が、「さつま」で「出水」まで向った折のエピソード。
叔母と従兄たちが「西出水」で叔父達を出迎えたのですが、3人とも顔はすすだらけで真っ黒であり、
真夏の車中2泊の汗まみれでくたくただったのか「あの時は、どう見ても指名手配の顔にしか見えなかった」と大笑い。
「鉄」親父たちは「夜中の3時過ぎに「出水」に着いて、
待合室ではなく「鹿児島行の始発の鈍行」でとにかく横になっていた」とのこと。
当時「出水」の駅務掛だった叔父が「鈍行のカレチ」氏に頼んで、「西出水」で出迎えの従兄たちと駅員氏が、
「鉄」親父たちを「たたき起こして」、汽笛が鳴り動いている客車からフォームに降ろしたくだりは、
昔の想い出話に3人で爆笑いたしました。

 3 「浮間舟渡」近くの祭儀場から、「埼京線」で「大宮」へ出で
「はやて〜スーパー白鳥〜スーパー北斗」の直近コースで帰札。
小生、途中の「野辺地」で「上りフォームの乗車案内板」に偶々目がいきました。
しかし、鉄線で括られた案内板は「上りスーパー白鳥 ○号車指定席」の1枚のみ。
小生が「トホホセの旧客」で通った折は、「特急はつかり」や「特急ゆうづる」、「急行十和田」、「急行くりこま」等々、
幾重にも案内板が掲示されていたもので、時代が流れたことを改めて実感致しました。
 しかし、下りのフォームに視線を変えると「25系×3」に新鋭機「ブルーのEF510」が待避しておりました。
「試運転」だったのでしょうが、初めてライブで「北斗星色のEF510」を目の当たりにして、少し元気を回復。
「新幹線」次第の「命」はいえ、まだまだ「北のブルートレイン」健在なりを確認でき、
次なる「旅」への期待が少し膨らみました。

 長々と失礼致しました。
以上、「『はやぶさ』が何で新幹線に使われるのか。納得出来ん。」
と呟いた「鉄従兄」を持つ「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月29日(土)10時01分52秒
タイトル 1032レ鴎
食堂車ですが、私が乗ったのは確かに冷房車でしたので、マシ38連結の日だったのかも
知れません。夏場はマシ38の日とスシ37(丸屋根)の日と交互に使用されたらしいです。
たまたまマシ38の日だったので初めて鉄道省の冷房車を経験しました。

それ以前に泉佐野の親戚へ行ったときに南海の冷房車に一度乗っています。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月29日(土)10時07分57秒
タイトル 原宿 レポート
▼ED76 109様:
>『はやぶさ』が何で新幹線に使われるのか、納得出来ん。

寝台特急の代表格としての歴史を考えれば、然もありなんですが、鳥類としての隼の
敏捷な猛禽類という属性を考えれば、新幹線への「転用」は、理に適っている様にも
感じます。但し、新青森延伸を渡道前の暫定開業と捉えるなら、今回は「はやて」に
留めて置き「はやぶさ」は津軽海峡越えに取って置いた方が良かった、とも思います。
何しろ「はやぶさ/8823」は「海底人」でもありますから(^^)

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駅レポート・シリーズの第三弾は、最近は休止気味なるも、かつては客車が発着した
原宿駅の側部乗降所です。近年の使用頻度低下の一因において、鉄道、特に在来線の
遠距離移動における、相対的地位の変化を反映した側面もあるものと感じます。

画像は、上段が平塚→日光、下段が氏家→横須賀で運転された、遠足用の集約臨です。
特に上段は「宮廷ホーム」との組み合わせにおいて「こだま色」時代の クロ157形を
中間車に組み込んだ御召編成を彷彿とさせます。この種の列車、東海道線では、かの
根府川で折り返す事も、間々あるのですね。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月29日(土)16時20分23秒
タイトル 「初雁」の方が----
「隼」=旧陸軍1式戦闘機を思い出すので----最も旧国鉄の列車名には旧軍用機や軍艦名
が沢山付けられていましたが。
昭和29年1月の毎日新聞?「読者の会議室」に岡山県の学生:山崎俊一氏が「国鉄のニック
ネーム」の題で、−−−「国敗れて国鉄航空艦隊ありき」と書いておられます。

私は「初雁」の方が東北行きの列車名としてはお似合いだと想います。



投稿者 仙コリ
投稿日 2010年 5月29日(土)16時54分43秒
タイトル 新幹線愛称名
東北新幹線の新列車名としての「はやぶさ」には私も違和感いっぱいで驚きました。
マロネロ38様のおっしゃられるとおり、東北特急の愛称名としては「はつかり」が代表格であり
JR東日本の愛称募集には私も「はつかり」で応募し、応募数ではトップだったようなのですが、
なぜか愛称名には7位?だったかの「はやぶさ」が選ばれたようです。
まあ東北人としては「はやぶさ」が地元に来てくれるのはうれしくもありますが、慣れるまでは
時間がかかるでしょうね。

ところで時を同じくして新幹線愛称名として「さくら」「はやぶさ」と寝台特急の愛称が復活し、
伝統ある列車名としてみても「つばめ」も使用されているので、このさい東海道新幹線最速列車
の愛称名として「富士」が復活すればいいのになどとも思ってしまいます。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月29日(土)17時28分20秒
タイトル 大自然、侮り難し
▼コスモス様:
> 上野ー青森間で数分〜10数分の短縮では、たいした意味にはならない

1979年の日豊線全線電化で、西鹿児島発着の「富士」が全区間、電機牽引となった際、
20分程度の時短効果が発生した事に対して、確かRJ誌でしたか、長距離夜行列車の
末端区間でのかかる事象には、然したる意義が無いと評していました。当時、全区間
走破に24時間ほど要していた「富士」では「昼寝開放」は無かったのでしたっけ?

>「売っぱらったのは、どこのどいつだい、おまえかよ!」

最後は「満足かい? この、クハ野郎!!」と詰………ってはいけません(^^)

▼高速貨A様:
> 近い将来には樹木で覆われて撮影不可能になってしまうのでしょう。

似た様な例としては、鹿島鉄道の廃止間際、浜〜玉造町の 国道355線との立体交差を、
霞ヶ浦や筑波山を絡めて、玉造西小学校付近から俯瞰するという、鉄道誌でも比較的
御馴染みの構図が、樹木の繁茂で確保できなくなっていた、という事例がありました。

意外に侮れないのが叢ですね。上段画像は、2006年に「烏山山あげ祭り」を滝付近で
捉えたものですが、翌年、同じ場所で同じ被写体を狙うも、足回りが相当隠れる程に、
雑草が伸びていたのでした。やはり奉仕作業(除草)は重要と改めて思い知らされた
PTA下っ端会員の雑魚でした(^^)

> 安全強化のため、各地の空港展望台が高いバリケード・フェンスで囲われたり、

鉄道では、山陰線余部橋梁での「みやび」転落事故を受け、根府川の白糸川橋梁でも
防風柵が設置され、撮影には全く適さなくなった事例が典型ですね。東北線の撮影で
度々通った氏家前後でも、道路が密着並行する区間に柵が設けられ、中段画像の様な
水平レベルでの構図確保は、現在では不可能となりました。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月29日(土)21時11分47秒
タイトル 薩摩隼人の意地のようです・・・
 本日、2度目の乗車をお許しください。「ED76109」でございます。

 雑魚様、マロネロ38様及び仙コリ様

 小生の従兄の話の詳細は、以下のようであります。

・「はやぶさ」は「隼」なのだから、「鹿児島」との関係性はあっても「東北」との関係性はない
 (やはり、「東北」と聞くと「薩摩隼人」の血が騒ぐようです)。

・初めて「鹿児島」と「東京」を結んだ特急列車なのであるから、
 「東京」からの「直通新幹線(現在のところ設定の予定なし)」の名前としてなら満足できる。

 前述しましたが、「霧島」の自由席で1日以上かかって「東京と九州」を往復した従兄にしてみれば、
当時スマートな「20系」であった「はやぶさ」は憧憬的な列車だったようであります。
そういえば、「平成9年の11月」に「西鹿児島」から「はやぶさ」が撤退した時、
すでに「航空機」が「東京」への主要交通手段であったにも拘わらず、
「鹿児島」では「惜別の情」が強かったという話を小生見聞した記憶がございます。
従兄だけの感情かもしれませんが、「50〜70代の薩摩の方々」には
「はやぶさ」は独特の思いがあるのかもしれません。

 >「富士」では「昼寝開放」は無かったのでしたっけ

 「にちりん」等の補完的な存在だった「日豊本線内の富士」は、
昭和40年代は「宮崎→西鹿児島」が「自由席(ハネのみ)」でした。
その後、50年代になって「立席特急券」で「下関→西鹿児島」
及び「特急券のみ」で「西鹿児島→大分」が乗車可能だったと記憶します。
参考までに「はやぶさ」は「長崎編成のみが博多←→長崎」が自由席扱い。
「西鹿児島←→博多」は指定席扱いだったと記憶します。
しかし、資料等は確認できていませんので、先達の皆様方の御教示をお願いしたいところであります。

 長々と失礼致しました。
以上、「薩摩隼人」の誇り高き「従兄」に、郷土愛を感じた「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月30日(日)10時33分33秒
タイトル はやぶさ
ED76109先生:
矢張り鹿児島行に似合う様ですね。昭和40年9月にC6133牽引の、上りを西鹿児島駅西方の
踏み切りで撮影しています。客車の一両目がナハフ21です。
「さくら」の新幹線鹿児島中央行は、関門トンネル旅客列車開業のダイヤ改正(昭和17年)
に急行に格下げになり、鹿児島行になったので縁があることはあるでしょう。

東海道。山陽新幹線も「のぞみ」→「富士」にした方が適しているようです。「のぞみ」、
「ひかり」は元々鮮満連絡急行列車名で、当時は「ひかり」の方が格上でした。
「富士」−「ひかり」。「急行7-8レ」-「のぞみ」の連絡のスジでした。



 
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