倶楽部メモ(601)
平成22年 5月23日〜 5月28日

青大将「つばめ」「はと」 ・ マロネフ3812 ・ 貫通路塞ぎ板


投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月23日(日)23時28分8秒
タイトル 乗ったことは無かったですが、やはり憧憬の列車ですね
 おばんでございます。
ようやく暖かさから汗ばむ陽気となって参りました「北の大地」在である「ED76109」でございます。

 「クモイ103」様の後追いのようで恐縮でありますが、「青大将」が「こだま」に化けて(!)50周年であります。
小生は、「こだま」に「6ヶ月」で乗車したようでありますが、全く記憶の欠片すらありません。
(さすがに、「鉄」赤ん坊ではなかったようで・・・)
しかし、様々なエビソードがあったようでありますので、少々「戯言」させていただきます。

 1 「つばめ」と「はと」が揃って「トカホセ」に登場したのは、昭和25年の5月であります。
  「へいわ」が「つぱめ」に改称されたのが、同年元旦のこと。
  そして、「つぱめ」の人気に応えて「はと」の運転が開始され、
  「つばめ」が「東京(大阪)9:00→大阪(東京)18:00」、
  「はと」が「東京(大阪)12:30→大阪(東京)21:30」という「9時間運転」。
  「特急は9時と12時半発」というパターンが長年親しまれていたのは先達の皆様には「釈迦に説法」でありましょう。
   この時「つばめ」と「はと」の列車番号は言うまでもなく、「1・2レ(つばめ)」と「3・4レ(はと)」であり、
  「つぱめ」は「大ミハソ」所属・「大阪車掌区」担当、
  そして「はと」は「東シナ」所属・「東京車掌区」担当でありました。

 2 「つぱめ」と「はと」は、女性に縁がある特別急行列車でありました。
  と申しますのは、同25年の6月1日から「つばめガール」及び「はとガール」が乗務を開始して、
  「イ」及び「ロ」の接客に当たりました。
  当時の流行作家であった「獅子文六」氏は、「東京12:30」発の「ちどり」なる架空特急に乗務する
  「ちどりガール」と「シのウェイトレス」を主人公にした「7時間半」という小説を発表しているおり、
  彼女たちの存在が世間の注目を集めたことは周知の事実であります。
  当然彼女たちは「国鉄職員」であり、「接客乗務員」として女性が登場したのは、国鉄では最初のことでありました。
   また、「名古屋電化」が完成するまでの間、「浜松」では「ハーモニカ娘」が
  「EF58←→C62」のための「5分停車」を利用した「ハーモニカ」販売をフォームで実施。
  また、その時間を利用して「ラジオ体操」の音楽を流して、
  乗客が体操で長旅の疲れをほぐしたという「逸話」もございました。

 3 同35年6月1日から登場したのは「ECこだま」であり、当時としては常識破りの車内設備が整備されました。
  それは、当時「日本一の豪華車両」と称された「パーラーカー」。
  「イテ」の展望デッキの代わりに取り付けられたのは、「一枚あたり天地1m、左右2mという大きな側窓」であります。
  車内は「4人用コンパートメント」が前方に、後方は14人乗りのオープンスペース。
  当然、紅茶とクッキーのサービス付き。
  そして、各座席に「電話専用ジャック」が取り付けられており、自席や自室で通話ができたのでありました。
   しかし、料金は当然高く、当時の料金等は「東京・大阪」で「一等乗車券2,360円、一等特急券1,920円、
  そして特別座席料金1, 800円」の「合計6,080円」。
  当時の「東京・大磯の二等通勤定期券(3ヶ月)が6,060円(現在は「3ヶ月のG定期」が「208,100円」!!)
  ということで、まさしく、庶民には縁遠い「特別列車」だったのが理解できるものであります。

 資料 「鉄道史を彩る15の名場面 昭和を走った列車物語(平成13年・JTB刊)」
        「赤い腕章 国鉄車掌物語(昭和52年・鉄道図書刊行会刊)」

長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月24日(月)14時16分18秒
タイトル 2レと浜松駅のラジオ体操
ED76109先生:
大変懐かしいお話で---実は昭和27年7月末に親父と北海道旅行の途上大阪から2レの
スロ60に初めて乗車し、浜松で「ラジオ体操」をしました。ホーム中ほどから神戸寄り
に体操の先生が壇上に上がってイチニ-----で。最初の両手を上げている場面を陸橋
階段に上がって撮影して居ます・時計が丁度13.20を指していて-----。親父が体操
している後姿も。すぐに降りて私も体操に参加しましたが、スロ60の乗客が位置的に
多かった様です。

1番ホームに茸妻と丸妻のオハ35連結の普通列車、2番に2レ「つばめ」が写ってい
ます。
この体操は翌昭和28年8月に終了したとの事ですが、体操の先生は「立山朝吉氏」
でした。

手前味噌で恐縮ですが、この写真は相当経ってから「週間朝日」に採用され、後に
大阪の「民族科学博物館」に収納されたと朝日新聞社から通知を貰いました。
あんな愚作がと冷や汗三斗でしたが。

3−4レが品川持ちなら当然戦前の「かもめ」を襲名する所ですが、「平和」の名前を
消すのが嫌だったので平和の象徴「はと」になったのか?戦前の1032レ「かもめ」に
家族で乗車して東京見物に行った(親父が東京生まれの東京育ち)経験から不思議に想い
ました。

そのとき神戸から乗車の「増8号車」が、後のマイネロフ37→マロネフ38の「ロ」なる
珍車だった事も遠い昔の思い出です。 この車は確か急行201-202レ(函館−室蘭本線
経由−稚内)に使用されていたのでは???



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月24日(月)19時47分36秒
タイトル マイネロ本州転用と1等車連結区間の縮小
マロネロ38様

> この車は確か急行201-202レ(函館−室蘭本線経由−稚内)に使用されていたのでは???

新製時マイネロ37260ですね。
この車はお説のように当初北海道で使用されましたが、
昭和9年12月東海道・山陽筋以外の1等車連結中止により、4両中3両が本州に渡ったとのことです。
そして「臨つば」に使用の後12年7月から「かもめ」の最後尾に使用、
昭和15年スイテ37050(後のスイテ37→マイテ58)の落成で任を解かれたとのことです。

昭和9年の1等車運転区間縮小では、上野−青森間の常磐急行も対象となりましたが、
それまで1等を利用していた要人のために、2等特別室を備えたマロネ37480(→マロネ38)が登場したのでしたね。
また、門司−鹿児島間急行1・2レのマイシ37900も連結が中止され、
マロシに格下げの上、例の「大社急行」に転用されたのでした。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月24日(月)20時45分28秒
タイトル またまた後追いでありますが
 失礼致します。ルーティンワーク的にお邪魔しております。「ED76109」であります。

 マロネロ38様及びクモイ103様

 小生にしてみれば、「鉄」勉強でありました。「クモイ103」様には比べものになりませんが・・・。

 特急「鴎」の最後尾に連結されたのは、「1・2等寝台車マイネロ37260」であります。
本来であれば「イテ」が連結されるべきですが・・・。
これは、「昭和5年」に「函館・旭川」の急行用として設えられましたが、
同9年に「東京鉄道局」へ転属してきたものであります。
(「鉄道史を彩る15の名場面 昭和を走った列車物語(平成13年・JTB刊)」より)
 ちなみに「鴎」のダイヤは、「東京13:00→大阪21:20→神戸21:57(1031レ)」と
「神戸8:23→大阪9:00→東京17:20(1032レ)」。
当時は、「燕」が「東京午前発・神戸午後発」であったことから、
「東京・関西」を往来する乗客が同時間帯に運転される「富士」「桜」の特急券(いずれも「下関」発着)を
購入しにくかったという事情が「鴎」のダイヤに考慮されたとのことであります。

  >浜松で「ラジオ体操」をしました

 小生、小学生の時に「PF」(?)の特集か何かで、「ラジオ体操」の話を初めて見聞した記憶があるのですが、
「経験者」のお話を拝聴できたのは・・・。
「特急」とは言え、長閑なエピソードに思わず微笑んでしまいます。
「鉄」親父は、「はと」も「つばめ」も無縁だったようですが、
「ハーモニカ」は「名古屋電化」以降も販売されていたようで、
「山」お袋への「土産」に買い込んだこともあったとのこと。
「子どもへの土産で買った人が結構いたぞ。」との話を、
小生「桜島・高千穂」の車中で「鉄」親父から聞かされたことがございました。

 長々と失礼致しました。以上、「トカホセ旧客特急時代」に想いを馳せる「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月24日(月)21時17分43秒
タイトル マイネロ37260→マロネフ38 10番台
ED76109様

> 特急「鴎」の最後尾に連結されたのは、「1・2等寝台車マイネロ37260」であります。

「1・2等寝台車」ではなく「1等寝台2等車」ですよ。2等部分はオロ35と同様の転換クロス座席でした。
マロネロ38様がご乗車になったのはこの部分ですね。

 ちなみにこの部分は戦後の連合軍接収時に別の設備に改造されてしまい、座席車としての設備は消滅しました。
そして接収解除後の復旧工事では、当時の2等寝台車不足を反映してツーリスト型寝台が設けられ、
座席は復活しませんでした。
この時同時に1等の区分室寝台は折り畳み式洗面台を撤去して2等扱いとなったため、
全室2等寝台(但し区分室式と解放式の合造)の「マロネフ38 11・12」が誕生したのでした。
 しかし、結局これがまがりなりにも「戦前製1等寝台」で最後の定期運用を担うことになります。
昭和37年1月23日、金沢発米原経由東京行き上り902レ急行「能登」でした。
同日の下り901レからは、新鋭オロネ10が運用に就いています。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月25日(火)20時34分20秒
タイトル マロネフ3812
クモイ103様
私が乗車した1032レ「鴎」は(昭和15年8月)もう展望車が連結されていました。シーズン
なので「増8」にマイネロフが連結されていたのでしょう神戸で満員になりましたので神戸
乗車客割り当てだったみたいです。
私は1両前の後のオロフ33に乗りたくて仕方無かったのですが--
マロネフ3812は金沢駅で「能登」に連結されていたのを此処の写真館に出して居るはず
ですから御笑覧下さい。
有難う御座いました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月25日(火)21時13分25秒
タイトル Re: マロネフ3812
マロネロ38様

2つ前の小生の書き込みで
> 昭和15年スイテ37050(後のスイテ37→マイテ58)の落成で任を解かれたとのことです。
…と書いてしまいましたが、その後も増号車として連結されることがあったのですね。

> 私は1両前の後のオロフ33に乗りたくて仕方無かったのですが--
オロフ33の豪勢な1300mm広窓のゆえでしょうか。
広窓・狭窓の問題は、新幹線の時代になっても引きずっていましたね。
N700系では狭い窓が少し間隔をおいて並んでいるため、そこはかとなく区分室の並んだイネ車を思わせます。

> マロネフ3812は金沢駅で「能登」に連結されていたのを此処の写真館に出して居るはず
当サイトの5号車「客車列車写真館」の「2004年 2月 戦前型客車特集」ですね。
貴重な記録で、模型化の参考にさせて頂いております。

ところで、以前から機会があれば伺おうと思っていたのですが、
このマロネフ38の貫通路に施された塞ぎ板は、何色だったのでしょうか?



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月26日(水)10時33分28秒
タイトル 貫通路塞ぎ板
マロネフ3812のは確か「黒色」でした。(外側の幌ですね)?
それからピクトリアルの「日本の客車」と比べられたら解りますが、マイネロフ37時代より
もボーイ室の窓が1個増えています。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月26日(水)21時23分58秒
タイトル Re:貫通路塞ぎ板
マロネロ38様

ご教示ありがとうございます。
これで心おきなく塞ぎ板の製作に取り掛かれます(といって何時になるやら…)。




投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2010年 5月26日(水)22時53分40秒
タイトル 貫通路塞ぎ板
ご無沙汰しております。
表題の件ですが、客車幌蓋取付列車として使用列車が指定されていたようで
所属、運用番号、装置指定車両、所要数、常備数を定め、運用表に基づいて
取り外ししていたようです。

ところで幌蓋はいつ頃まで運用されていたのでしょうか?
最後尾貫通路は鎖が2本はられていた光景しか記憶がありません。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月27日(木)10時03分59秒
タイトル マロネフ3812
大変上手に製作されていますね。幌の蓋ぐらいはすぐに作れるでしょう?
何だか昭和15年に家族で神戸から1032レに乗った時を思い出しました。古ぼけたW屋根
でも、窓ガラスはピカピカに磨いてあり、内帯もニスの匂いがしたし、通路に松脂の
粉を撒いて掃除した良い匂いがしました。矢張り役所ながら「鉄道省の看板列車」の一つ
だった証拠です。
今のJRと比べると、役所ながら鉄道省の方が「輸送に対する意気込み」がありました。
時間表(当時の)を読んでも「実質的サービス」がJRより格段に上でした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月27日(木)20時42分1秒
タイトル Re: 貫通路塞ぎ板
ヒゲ無し雷鳥様

 正式には「客車幌蓋」というのですか。
デッキのゴミ箱にも運用があると聞いたことがありますが、こういうものにもやはり運用が決まっていたのですね。

> ところで幌蓋はいつ頃まで運用されていたのでしょうか?
 この急行「能登」以外で同様の幌蓋をつけた例を知りませんが、「能登」については、
国鉄鋼製客車史第2編 スハ32形(スハ32600)の一族(上)に昭和35年10月23日撮影のマロネフ38 12の写真があって、
幌蓋がついています。

 本来開けっ放しの貫通路を塞いだ例としては、登場当初の特別急行「あさかぜ」のマロネフ29があり、
優等列車で優等車両が編成端となる場合、という共通項があります。
ただ「あさかぜ」のは凝ったデザインの観音開き扉のようですが、
普通急行である「能登」はちょっと格落ちという事なのでしょうか。
いずれにしても特殊な例のようですね。


マロネロ38様

 お褒めにあずかり恐縮です。ピンぼけでアラが見えないだけですが…。
幌蓋の工作は、Hゴム?のような小窓の縁の表現方法に悩みますが、何とか作ってみたいと思います。
 この車両の模型を作った動機は、前に書きました通り「元戦前製一等寝台」で最後の定期運用であり、
私が生を受けた時点で唯一残っていたものだからです。
一度こういうのに乗ってみたかったですね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月28日(金)09時09分9秒
タイトル あけぼの
▼黒磯運転所様:
> あけぼのは秋田に早朝の到着というダイヤ、中小駅に停車したり、立ち席特急券が
> あることを考えるとそれなりに需要はあるのではないかと思います。

鶴岡以遠において、首都圏発着の高速夜行バスが競合しない停車駅を挙げると、実は、
余目・遊佐・八郎潟・森岳・碇ヶ関・大鰐温泉のみで、一方、金浦・西目・浪岡には、
バスのみ独自に停車します。

また「日本海」は、畿内〜東北の移動において、庄内以遠で競合する高速バス路線が
無いという強みがありますが、北陸新幹線の金沢延伸時における北陸線の経営分離が
存続の隘路になると見られており、車輌が同じ青森の24系となると「あけぼの」との
連座性も窺えるなど、つい、悲観論に走ってしまいます。

画像は先日、上野駅にて眺めた発車間際の「あけぼの」です。私の様な「心配性」の
御仁も多いのか、さしたる「必然性」が無い時期にしては「撮り鉄」が目立ちました。
ちなみに「ゴロンとシート」のロゴ・マークとは、斯くもコミカルな作風なのですね。
寝具が無いというだけで、指定席特急料金で利用できるこの制度は、実に魅力ですが、
泥酔した挙句に自宅玄関で寝る事が稀にある立場としては、布団の有難さをしみじみ
感じるのでした(^^)




 
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