倶楽部メモ(594)
平成22年 4月26日〜 5月 1日



投稿者 荒野の素浪人
投稿日 2010年 4月26日(月)15時55分33秒
タイトル 蒸気機関車時代の奥羽本線623レ(大館→青森)の編成
皆さん、こんにちは。荒野の素浪人と申します。よろしくお願いいたします。

さて、私は、蒸気機関車時代の奥羽本線、つまり、まだ、旧線時代の秋田・青森県境の
矢立峠越えの区間をまたいで秋田−青森間で運転されていた蒸気機関車(C61、C60、
D51など)牽引の旅客列車(普通列車)の編成について知りたいのです。
この旧線時代の矢立峠越えの区間では、ハドソン(C61、C60)が投入されてからも、
大部分の蒸機牽引の旅客列車は、D51やDF50を補機として連結して峠を越えていたと
いうことは有名ですよね。
しかし、1960年代後半の時点で、大館駅を朝一番の下りの始発列車として発車していた
青森行きの 623レについては、ハドソン(C61、またはC60)の単機牽引・補機なしで
運転されていたという話を、かつて、陣場駅で勤務されていたことがあるという大館市
在住の国鉄OBの方からお聞きしました。ちなみに、この 623レの大館駅発車時刻は、
朝5時台であったとのことです。
この 623レの編成について、当時のことを記憶されている方がいらっしゃいましたら、
ぜひ、情報を提供して下さいませんでしょうか。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 4月27日(火)00時44分12秒
タイトル 本当に「戯言」ですが・・・
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 ユーラシア鉄道様
 >武田尾

  懐かしき「鉄」風景であります。右側の「DD51牽引」の客レは「12系」でありましょうか。
 「昭和60年の時刻表」で「721レ」となっている「客レ」が、
 昭和59年当時は「出雲市行(412.1q・所要時間14時間5分)」となっておりました。
 「武田尾」はフォームにも「ハエタタキ」が見られるとともに、山間にあるカーヴの小駅の居住まいが良いですね・・・。
 当時、「東京」に在していた小生にしてみれば、旧客レはほぼ「全滅」の状況でありましたが、
 関西圏は「大阪発着の旧客長距離レ(出雲市行・浜田始発大阪行)」が存在しており、羨ましき限りでありました。
 懐かしきグッドショット、ありがとうございます。

 荒野の素浪人様
 >旧線時代の矢立峠越えの区間

  初めまして。札幌在の「ED76109」でございます。
 東京産なのですが縁ありまして、札幌市内の高校に勤務しております。
 小生、いつも「当てずっぽう」と「過去の記憶(最近はとみに衰えております)」で
 先達の皆様方に「ご迷惑」をおかけしておりますが、先達の皆様方に「たたき台」のつもりで私見を記させて頂き、
 小生も「懐かしき旧客レ」について知りたいと思うところであります。

  まず「矢立峠」が、「昭和45年11月〜同46年9月」までの「交流電化前の新線移行時期」には、
 御指摘の「C61」牽引の「客レ」や「荷レ」が単機牽引・補機なしで運転されていたことは事実であります。
 それでは、同43年〜同44年ころ(1960年代後半)の旧線で、なぜ「当該レ」が単機で・・・。
  これには、「ドキュメント 感動の所在地1(ネコ・パブリッシング刊)」の「奥中山1967」の章に、
 「C60牽引の盛岡発青森行(535レ)」が記述されており、参考になると考えます。
 「朝一番の区間運転の鈍行レ」である「535レ」は、
 「客レは通常補機が付く奥中山越え」にもかかわらず、「オハ35やオハフ33にスニが付いた現車6両」であるために、
 「C60」が「通常は単機で牽引」されていたと記述されております。
 「623レ」は全くの未確認ですが、「535レ」と同様のケースと想定できるのではないでしょうか。
  小生が、後年(昭和50年代)に「福島からの421レ〜1421レ」や「新津からの833レ」、
 つまり「矢立峠越えした長距離鈍行レ」は、「ハザが8、9両」に「ユやニが2〜3両」が付いた
 「10両以上」の編成で運転されておりました。
  短距離の「客レ」であれば、「ニ」や「ユ」が連結されていないケースもあったと想定されることから、
 あくまでも小生の勝手な推理ですが、「535レ」と同じような編成であったのではと考えられます。
 形式等に疎い部分がありますので、他の先達の方々からの御指摘等をいただければと思います。

 長々と失礼致しました。以上、気分だけは「黒いトランクの鬼面警部」もどきの「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 荒野の素浪人
投稿日 2010年 4月27日(火)14時33分28秒
タイトル Re: 本当に「戯言」ですが・・・
「ED76109」様、こんにちは。富山県の「荒野の素浪人」であります。

>まず「矢立峠」が、「昭和45年11月〜同46年9月」までの「交流電化前の新線移行
>時期」には、御指摘の「C61」牽引の「客レ」や「荷レ」が単機牽引・補機なしで運転
>されていたことは事実であります。それでは、同43年〜同44年ころ(1960年代後
>半)の旧線で、なぜ「当該レ」が単機で・・・。
>これには、「ドキュメント 感動の所在地1(ネコ・パブリッシング刊)」の「奥中山19
>67」の章に、「C60牽引の盛岡発青森行(535レ)」が記述されており、参考にな
>ると考えます。「朝一番の区間運転の鈍行レ」である「535レ」は、「客レは通常補機
>が付く奥中山越え」にもかかわらず、「オハ35やオハフ33にスニが付いた現車6両」
>であるために、「C60」が「通常は単機で牽引」されていたと記述されております。
>「623レ」は全くの未確認ですが、「535レ」と同様のケースと想定できるのではな
>いでしょうか。

小生は、12年前(1998年)の9月に、奥羽本線の矢立峠越えの区間の旧線跡と大釈迦峠越え
の区間の廃線跡の探訪旅行に行ってきたのですが、その際の事前調査で、兵庫県明石市内に
お住まいの年配の鉄道ファンの方(1960年代後期から1971年頃にかけて、旧線時代の矢立峠
越えの区間などで蒸気機関車を撮影されたことがあるそうです)から、1967年10月のダイヤ
改正時と1968年10月のダイヤ改正時の奥羽本線の秋田−青森間のダイヤ表のコピーを送って
いただきました。
1967年10月のダイヤ改正時の奥羽本線の秋田−青森間のダイヤ表を見てみると、例の 623レ
については、(旧線時代の)矢立峠越えの区間である陣場−碇ヶ関間のところには、補機の
連結を示す△マークが付いていなかったことから、おそらく、この 623レが、1968年10月の
ダイヤ改正時直前までは、旧線時代の矢立峠越えの区間におけるハドソン(青森機関区所属
のC61、またはC60)の単機牽引で補機なしの旅客列車であったということです。その他の
普通列車については、矢立峠越えの区間(陣場−碇ヶ関間)の箇所には、補機の連結を示す
△マークが付いていたことが、1967年10月のダイヤ表から確認できました。

ただ、新聞・書籍やネット上などで公開されている、旧線時代の矢立峠越えの区間にて撮影
されたC61やC60牽引の普通列車の写真を見てみると、客車6〜7両ぐらいの編成であって
も、D51やDF50が後部補機として連結されていることが大半でありますね。
客車6〜7両ぐらいの編成ならば、25‰の急勾配などが連続していた旧線時代の矢立峠越え
の区間であっても、ハドソンの単機牽引・補機なしで峠を越えることも不可能ではなかった
はずですが、なぜ、旧線時代の矢立峠越えの区間では、客車6〜7両前後の編成の普通列車
であっても、ハドソン(C61やC60)牽引の場合には、D51やDF50が後部補機として連結
されていた列車が多かったのでしょうか。

となると、1967年10月のダイヤ改正の時点においては、例の 623レは、おそらく、ハドソン
(C61やC60)牽引であっても、客車5両ぐらいの編成であったので、単機牽引・補機なし
で運転されていたのかもしれませんね。



投稿者 荒野の素浪人
投稿日 2010年 4月27日(火)14時44分52秒
タイトル 補足
ちなみに、1968年10月のダイヤ改正時の奥羽本線の秋田−青森間のダイヤ表を見てみると、
例の 623レは、(DL)と書いてあったことから、おそらく、DD51牽引に変更されたとの
ことです。ただし、機関車の運用上の都合により、青森機関区のC61やD51、あるいは大館
機関区のD51が牽引する場合もあったらしいとのことです(1970年11月の矢立峠越えの区間
の新線への切り替えを経て、奥羽本線の秋田−青森間の電化開業に伴う1971年10月のダイヤ
改正の直前まで)。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 4月28日(水)00時17分24秒
タイトル さらに「戯言」ですが・・・
 失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 荒野の素浪人様
 >客車5両ぐらいの編成であったので、単機牽引・補機なしで運転されていた

  正解にはほど遠いようで、申し訳ありません。
 ただ、「感動の所在地」を再読しますと、当該の「535レ」が「C60の回送運用で重連となる」旨が記されております。
 ひとつの仮説としては、申し上げたように「現車6両程度であったこと」がありますが、
 もうひとつの仮説は「補機の中には、回送運用であったものがあった」ということが想定できるかもしれません。
  直接関係はありませんが、かつての「山線」の「上目名始発のDC」が
 「厳冬期はキハ22の単行では、20パーミルの勾配を上り切ることが困難であった」ことから、
 「2連」で運転されていたという逸話を「元上目名の助役氏」から聴いたことがございます。
 全くの素人考えですが、一定の牽引量を超過している場合は機関車の性能よりも、
 安全性を重視して「補機」を連結させたのかもしれません・・・。
 「感動の所在地」の続編には「矢立峠の話」もあることから、
 休日に「道立図書館」へ出向いてリサーチしてみるつもりであります。
 しかし、「奥中山」にしろ、「矢立」にしろ、SLたちの雄姿は「遠き昭和の思ひ出」であり、
 「昭和は遠くなりにけり」といった心境であります。

 長々と失礼致しました。
以上、ここしばらく「矢立」も「奥中山」も全く無縁となってしまった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 4月28日(水)11時17分10秒
タイトル 風景素材としての電柱
▼ED76 109様:
>「武田尾」はフォームにも「ハエタタキ」が見られるとともに、

私にとって「ハエタタキ」とは、駅構内に限定されない、上段画像(長野電鉄)または
下段画像(上毛電鉄)の様な作風を意味します。それはさて置くも(^^)旧武田尾駅の
画像にある「構内ハエタタキ」も、気がつけば見掛けなくなり「枯れ木も山の〜」では
ありませんが、電柱の多さに何となく「賑わい」を感じていた者としては、頭上空間が
妙にあっさりした最近のローカル駅に、物足りなさすら感じるのでした。その意味では、
日立電鉄沿線の田圃も、電柱が撤去された後、急に広々とした雰囲気となりました。

以上、蒸気列車の記録写真は「ハエタタキ」の有無で 好みが分かれる雑魚でした(^^)






投稿者 ED76109
投稿日 2010年 4月29日(木)21時58分8秒
タイトル 昭和30年代の通勤風景
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 「矢立峠」については、あまり詳しいことは確認できずでありました。
様々な機会を見て、何かつかめれば今後報告させていただきます。

 さて、話題を変えて。
本日、「道立図書館」で収穫がなくがっかりして帰宅し、自宅でボーと「NHKアーカイブス」を見ておりました。
すると、昭和30年代後半「高崎発上野行」の「旧客レ」による「通勤風景」が放映されておりました。
映像はまさしく「通勤地獄」の言葉がピッタリ。
なぜかと言えば、牽引機である「EF57(?)の後部デッキ」は立錐の余地もない「人混み」ができており、
10両編成程度の「オハ」や「オハフ」はデッキどころか、
多くの乗客がフォームから走る列車に「車外の手すりにしがみつく」鈴なり状態。
時速80キロ程度で疾走している列車から降り落とされないよう、必死の形相でした。
さらに、線路傍の「架線柱」や「ハエタタキ」に激突せんばかりに人混みが膨らんばかり・・・。
昭和48年の冬に「上尾事件」が発生してから、40年弱の年月が流れたことを考えると、
小生「湘南新宿ライン」が走る現状に一種の感慨を覚えるとともに、
大らかな時代だったのだということを再認識いたしました。

 長々と失礼致しました。
以上、「上尾事件」当時は小学生だったにもかかわらず、「『籠原』から急行型をラッシュ時間に走らせる『北局』が悪い」
と一端の生意気なことを口走っていた「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 4月30日(金)12時58分22秒
タイトル 急行型 アコモ
▼ED76 109様:
> 牽引機である「EF57(?)の後部デッキ」は立錐の余地もない「人混み」

そこまで酷くありませんでしたが、学生時代、朝、各方面から水戸に集まる便、夕方、
水戸から各方面に発車する便で、限られた時間帯に旧客便が集中していました。私も
日常的に利用しましたが、車端扉やボックス席は、ラッシュ時には実に不適な構造で、
空調も無い為、夏季は扉を開放する例も見受けられ、こうした状況が転落死亡事故を
招来し、電車や気動車への置換の契機になったと聞きます。1983年でしたか、旧客が
廃止された当時、惜別感情以上に、当然の事とすら感じました。

>『籠原』から急行型をラッシュ時間に走らせる『北局』が悪い

急激に膨らんだ通勤・通学需要に対して、財政難もあって 近郊型(115系)の増備が
覚束なかった様ですね。また、争議における運行上の駆け引きの結果、ラッシュ時に
急行型車輌が一時間以上の間隔を置いて続行するという、高崎線としては相当異常な
事態となり、利用者から、大顰蹙を買った点も重大要因と言えるでしょう。こうした
戦術は報道でも批判された様ですが、事態は更に悪化、翌月の「首都圏国電暴動」を
招来するに至り、当時の学生運動に象徴される様に、不安定な世相だったと感じます。

上記暴動事件での混乱振りについては「ウィキ」に詳述があります。窮余の策として、
青森行の夜行急行「津軽」を、宇都宮まで普通列車扱いで「開放」しようと試みるも、
赤羽到着の時点で、暴徒化した利用者の手前、早々に運転不能に陥ったそうです。

1980年代までは、普通列車が旧客主体だった東北地方の主要幹線でも、首都圏ほどに
通勤通学圏が広域化していなかったにせよ、混雑時には融通が効かない客室仕様への
不満は少なくなかったと思います。特に仙台圏は、地元仕様の近郊型 417系の置換が
意外に進まず、朝夕のみと只でさえ数少ない電車便が、岩切以北は利府支線に流れる
構図は、奇異にすら思えました。

一方、樽見鉄道の本巣以南では、確か2006年春まで、朝の輸送力を確保する観点から、
本巣以南で14系客車が設定されていました。これは、利用者のほぼ 100%が大垣まで
乗車という、一元的な利用導線を前提としたものだったかと想像します。

2007年、留萌線秩父別駅にて、たまたま朝の通学便に、交検で急行型が充当された為、
積み残しが発生したのは、記憶に新しい処ですが、当該列車が単行だった事、しかし
増結は、経費上、大きな制約を伴う事、混雑は深川寄りの限られた区間である事など、
落とし処をどこに求めるか、難しい問題ですね。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月 1日(土)07時54分50秒
タイトル キハ54の単行通学列車
 おはようございます。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >留萌線秩父別駅にて、たまたま朝の通学便に(中略)積み残しが発生したのは

  小生、偶々本件発生時に「教育庁勤務」であったことから、詳細な報告を見聞できました。
結論から申せば、「ラッシュに不慣れな高校生」が「キハ54の後部に乗車した想定外のグループ客」の方に進まず、
「前部デッキ付近」に固まっていたこと。が原因でありました。
「深川西高校」と「深川東高校」の校長さん方(お二人とも小生と同一校での勤務経験あり)が
視察で後日「石狩沼田」から添乗された際、「東京のラッシュとは比べ物にならない」と仰りつつも、
生徒のためと「増結」を要請されたそうであります。
しかし、「JR北海道」の返答は、「車両運用上、増結車両は網走からしか手配できないので事実上不可」。
「道教委担当者」は茫然自失だったとの逸話がございます。
小生も各地の「鈍行紀行」の折、地元の高校生らが「彼らの指定席」に座っていた「鉄(小生のこと)」を一瞥して、
デッキ付近に固まってしまったことがありましたので、件の一件はお互い様の感がいたしました。

 >高崎線としては相当異常な事態となり、利用者から、大顰蹙を買った点

 「115系」の代用で「165系」が走ること自体が問題だと、小生当時の「小学校の担任」に訴えて、
「お前が将来国鉄に入って改善しろ。」と笑われた記憶が(笑)・・・。
今回、雑魚様の如く様々なサイトを精査したところ、昭和31年2月に「阪急宝塚線」に係る「庄内事件」
という列車争議事件があることを知りました。
「電車通せんぼ事件」との別名もある本件は、「阪急宝塚線」の輸送力が「十三・梅田間」における
「同神戸線」や「同京都線」とは著しく劣ることに不満があった乗客たちの実力行使であったとのこと。
小生は「通勤地獄」とは無縁であり、論評できる立場ではありませんが、
改善されたとはいえ、まだまだ「ラッシュ」は厳しいものであることに変わりありません。

 長々と失礼致しました。
以上、「阪神電気鉄道」の車内の雰囲気の方が、「阪急電車」の車内の雰囲気よりも落ちつけた、
元「東急目蒲線」沿線住民であった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月 1日(土)10時20分53秒
タイトル 庄内事件
ED76109先生:
庄内事件はその前に淀川鉄橋梅田寄りで旧型車の車軸折損?脱線事故が起きており、かねて
から雑多な小型車が併結の宝塚線乗客の不満が大爆発を起こしたからでした。小林米三
社長が「電車を通してください」と線路を埋めた乗客に頼んだら「オーバーを脱げ!着た
ままじゃ失礼だ」!とか、「孫の代まで同じ電車に乗せる気か」!と怒鳴られたりしたの
です。
その上に大勢が梅田駅長室に「慰謝料を出せ」と押しかけて、流石のケチの阪急も幾らか
出して納まったのでしたが。
私は大阪駅前の書店へ行く際に、梅田駅で「従業員の態度が悪い労組の委員長を出せ」!
と怒鳴っていたのを聞いています。
この事件がきっかけで、18m車体新造+台車機器は旧型流用の1200型が出現しました。

キハ54も車体新造+旧型台車機器流用でしたが、キハ22とは併結不可能だったのでしょ
うか?
北海道教育委員会はJR北海道に「うまく誤魔化された」みたいですね。ED76109先生が
居られたら「馬鹿言うな」で------



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月 1日(土)18時03分19秒
タイトル 普通列車の 「座席指定」
▼ED76 109様:
>「ラッシュに不慣れな高校生」が(中略)想定外のグループ客」の方に進まず

思わず腕組みしてしまう様な話ですが、私自身の経験として、朝の通学列車の中では、
たまに利用していた旧客はさて置き、座席配置にバリエーションを伴う近郊型なので、
決まった面々が決まった席に座る事が多かった様に見受けられ、仲間で固まりがちな
高校生は、尚更だったのでしょう。

更に早朝の便ですと、行商指定もないのに「座席指定」を主張する、大荷物を抱えた
茨城で云う処の「ばっぱやん」または「おばんつぁま」が睨みを効かせていた様です。

> 車両運用上、増結車両は網走からしか手配できないので事実上不可

札幌周辺で目にするキハ40の単行を、区間便として充当する事は出来ないのですかね。
深川〜留萌で交換駅は峠下のみですが、朝の上り一番列車が、峠下で交換する以外は、
問題の上り二番列車が深川に到着するまで、下り列車の設定が無いので、石狩沼田で
折り返す程度なら、何とか割り込める様にも思えます。

> 昭和31年 2月に「阪急宝塚線」に係る「庄内事件」という列車争議事件

京都線や神戸線と比べ、車両面で旧態依然の侭だった宝塚線の輸送力不足への不満が、
一列車の運転中止を契機に爆発した、という事の様ですね。発生から数時間で事態を
収集できた点で、十余年後に発生した「上尾事件」「首都圏国電暴動」との比較から、
その危機管理の手法が評価されるという側面もあったとか。






投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月 1日(土)21時32分50秒
タイトル 庄内事件-2
雑魚様:
私は神戸本線沿線住人ですが、事件の日の夕方に梅田駅でまだ騒いでいたのを見ました。
「労組委員長を出せ」!を聞いたのもその時です。数時間で治まったなんて事
ではありませんでした。翌日にも駅長室へ怒鳴り込んだ連中が居たとも聞いています。

実際に「危機管理の手法評価」とは何処の資料でしょうか?現実に梅田駅長
室前の騒ぎを見ている私には信じられません



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月 1日(土)21時51分37秒
タイトル 「地元高校生」の痛い視線
 失礼致します。本日、二度目の乗車となります「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >キハ22とは併結不可能だったのでしょうか?

  「キハ40」との併結はよく見ます。
 冬季に「釧網線」や「石北線」で、多客期(正月明けの頃)に
 単行が2連となった「DC」に「遠軽時代」に利用したことが・・・。
 「新得時代」には、添乗指導で「帯広始発のDC」で「新得」まで「キハ40」に乗車したことがございますが、
 中間の運転台で「喫煙していた生徒たち」と仲良くなりました。
 旧客には、「車掌室」がなく「手ブレーキ」と「座席」だけが後部デッキ付近に設置された「車掌席」のようなものが
 あった記憶がありますが、現在件のような状況では「JR北海道」からすぐにでも「添乗要請」がありそうです。

 雑魚様
 >決まった面々が決まった席に座る事が多かった様

  小生が高校時代利用していた「井の頭線」でさえ、何両目の何番目のドアから乗る
 「立教女学院の美女」が今日乗らないのは・・・といったことが話題(!?)になったことから、
 列車が限定される場合は尚更であろうと推察できます。
 高校・大学の頃、早朝始発の「長距離鈍行レ」に「通勤通学の時間帯」に乗っていると、
 大抵「いつもの席を占領している鉄ちゃん(小生のことです)」を目にするたび、
 「舌打ち」せんばかりに「デッキ」や「通路」に立つ地元の高校生や通勤客の方々が。
 小生、そのたびに心の中で手を合わせていたものであります。
 考えてみれば、小生も「上野発仙台行の221レ」に乗るたび、
 「水戸」へと通う「通勤通学客」の方々に顰蹙を買っていたように記憶しております・・・。

 長々と失礼致しました。以上、「黄金週間」とは全く縁のない「中年客車鉄ちゃんむでありました。



 
 
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