倶楽部メモ(585)
平成22年 3月 3日〜 3月13日



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 3月 3日(水)11時39分56秒
タイトル 四国三郎
▼マロネロ38様:
> 若しかしたら吉野川の逆流を心配したのか?

吉野川の別称「四国三郎」は「坂東太郎」こと利根川「筑紫次郎」こと筑後川に次ぐ
暴れ川という意味合いもあり、第十堰(高徳線板野駅と徳島線石井駅を直線で結んだ
中間点)付近での可動堰計画が一大葛藤に発展した事を思えば、然もありなんですね。

一方「坂東太郎」こと利根川に注ぐ霞ヶ浦も、常陸川水門や利根川河口堰の設置前は、
汽水性がありましたから、平坦地における大規模河川は要注意という事なのでしょう。
湊線は津波が到達する当日も運転していたという事ですが、その予想規模によっては、
現在「サザエさん」OPに登場している中根駅の前後区間の風致地区一帯も、容易に
警戒対象域になり得るかと感じます。

> 土讃線の阿波池田−高知間、これも山の中が多い線区ですが。

アマゾン川の海嘯「ポロロッカ」を思わせる様な、津波到達に伴う逆流の発生映像を
一瞥しましたが、これが平坦域で減衰せず山間部まで及ぶと、大歩危・小歩危などの
谷間の地形で増幅される可能性がある、という事なのでしょうかね。

その山間部に位置する阿波川口駅の辺りで合流する銅山川は、名前の通り、別子銅山
周辺域(旧別子山村)が源流域で、途中の金砂湖付近では、瀬戸内海まで直線で僅か
数kmという位置関係です。ゆえに、分水嶺となる法皇山脈を貫き、慢性的な水不足に
苛まれた四国中央市域に導水する計画も古くからあり、愛媛県による関連事業の案が
徳島県との葛藤に発展した事もあるのだとか。

別子銅山といえば、80年代半ば、四国を初訪問した際、予讃線列車の車窓から見えた、
既に線路は剥がされるも、電柱が残っていた専用線跡(1977年廃止)が印象的でした。
電化されたのが1950年、その五年後までは一般旅客営業も行っていたとの事で、記録
映像から推すに、凸型電機が客車を牽いていたのかも知れませんね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 3月 4日(木)12時35分29秒
タイトル 函館本線
▼大山@ノーブルジョーカー様:
> JR北海道のねらいは並行在来線(江差線、函館本線)の廃止なのです。

広軌台車に狭軌貨車を載せるという、前代未聞の仕組みを導入する必然性を考えれば、
やはり、そうなるのでしょうか。運用面で青函隧道区間とは一線を画す五稜郭以遠を
非電化で残したのも、そうした思惑の産物と思いますが、かかる貨物便が長万部から
室蘭線経由を自走する事になれば、室蘭や苫小牧を志向する新幹線連絡便にも鑑みて、
長万部〜東室蘭が非電化で残るのは、運用体系上、中途半端な印象も受けます。

もっとも、道央での電機運用は十数年前に廃止されていますし、日本海に注ぐ河川が
内浦湾岸ギリギリを流れる秘境駅・小幌の前後に象徴される急峻な海岸が続く区間は、
長万部町が僅か六千程度である事を含め、沿線人口が希薄ですから「鉄冷え」以来の
室蘭における人口減も勘案すると、電化を必然せしめる程ではないかも知れませんね。

一方、少なくとも市街と新幹線駅を結ぶ意味で、函館〜新函館(渡島大野)は存続と
思われますが、経営分離が確定している江差線は、五稜郭〜上磯で、近郊輸送需要が
大きい事から一元的な取扱いが難しいと考えられ、これらの地域を擁する北斗市では、
財源確保や新函館駅の命名も相まって、悩ましい日々が続くものと拝察します。

函館界隈は、北海道開拓史における最初の一歩というべき要衝ですが、道南地方では
唯一かつ突出した人口集積があり、道内外の遠隔移動が新千歳空港中心となった現在、
もし函館という街が無ければ、それだけで道南の鉄道体系は、大きく違っていたかと、
無意味な反実仮想に耽ります。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 3月 7日(日)00時29分3秒
タイトル 懐かしき「想ひ出」話です
  失礼致します。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >もし函館という街が無ければ、それだけで道南の鉄道体系は、大きく違っていた

  初任地の近くにあった「様似」のようなローカル駅のようにはなってはいないでしょうが、
 人口が「約5万人」の「稚内」と同じような存在だったと仮定すると、
 「函館」は「スーパー北斗」が3往復程度発着する「寂れた港町(?!)」の様相を呈していたのでしょうか。
 「函館」の方々は、「札幌を内地と呼ぶほどの矜持」を持っておられ、
 言わずもがな「北海道の玄関」を自負しておられます。
 昭和63年3月に「青函隧道」が完成して、「青森」との新たな結び付きを模索したのですが、
 青函フェリーの衰退と相まって現状は厳しいものがございます。
 ですから、北海道新幹線が「函館」の新たな起爆剤となる期待感を持っているのであります。

 さて、今回は過去の「想ひ出話」を少々「戯言」させていただきます。

1 「トカホセ」を下って、そろそろ「小田原」が近づくと車窓の右側に「D52」の塒がありました。
 「箱根の嶺」の要衝であった「国府津機関区」の機関庫であります。
 「丹那隧道」が完成するまでは、「トカホセ」として「1000分の25パーミル」が連続する難所を
 サポートしておりました。
 昭和41年頃(?)の冬、「鉄」親父に連れられて「御殿場線」の「旧客レ」の乗り鉄をしたようで、
 アルバムにスナップ写真が数枚残っております。
 当時は「品川始発の旧客鈍行熱海行」で「国府津」へ向かい、「D52牽引の旧客レ」で「沼津」へ、
 そして「東京」までは「霧島のシ」にお世話になったようでした。
 小生、「D52」が停留していた「国府津機関区の機関庫」は何度か眺めた記憶がございます。

2 昭和45年の秋頃に「八高線」を走っていた「D51」のサヨナラ運転がありました。
 近所の酒屋のご主人が「SL」に凝っていて、「鉄」親父も交えた面々で撮影行に赴いた経験がございます。
 現在では、「東京」からの「特快」が乗り入れる「八高線」も、当時は「キハ30」が走り回っていたローカル線。
 「高麗川〜越生」辺りの丘陵でカメラ片手に「D51」を追いかけましたが、小生は小学2年生の「俄撮り鉄」。
 ピンボケ写真しか撮れませんでした。
 しかし、線路際を行き交う「撮り鉄」の方々は必ず「こんにちは」と挨拶を交わすとともに、
 列車の接近には「汽車がきたぞおぅ。」のかけ声が自然に沸き上がったり・・・。
 秋晴れのハイキングのような愉しい1日であったことを覚えております。

3 平成9年秋以来、「碓氷峠」から鉄路が消えてから、久しくなりました。
 小生は何度となく、「EF63+EF62の補機」にお世話になって「横軽」を行き来したものでありました。
 しかし、乗り心地ははっきりしており、「峠を下る上り列車」は協調運転の関係か、
 パンクしたタイヤで「ガタガタ下る」ような感覚を味わいました。
 「ECあさま」にせよ、「EC信州」にせよ、乗り心地に変化は無し。
 平成9年の春に、「上田」から「上野」まで「最終あさま」で「横軽」を下りましたが、
 あたかも乗り心地は「ケーブルカー」のよう。
 しかし、今となっては、あの「ガタガタ」感が懐かしく感じられてなりません。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 3月 8日(月)20時34分37秒
タイトル スロハフ3015
ED76109先生:
田中車両〔現近畿車輛}で北海道用にたった3両だけ建造された円屋根車の一両ですが、
敗戦直後の1945-8-29に函館本線七飯−渡島大野間で「脱線事故廃車」になっています
。調べてもどの様な脱線だったか不明ですので、若しご存知なればご教示賜れば幸い
です。

以前ご教示賜った「網干事故」のスロ30755→スロ346ですが、探していた「日本一の機関士
三十五年の体験を語る」(故)名越一男著昭和25年1月発行が出てきまして、名越氏が
問題の116レに糸崎から乗車して、倉敷あたりで検札の時に職員パスを忘れていて、カレチ
に責められて岡山から糸崎鉄道学校に引き返し、難を免れた事が記述されています。

翌朝網干で下車して検分されたらしいですが、手荷物車スニ30661→スニ3096か?(17年
事故廃車)?−が「−−問題のニ等車に手荷物車が完全に入り込んでマッチ箱の引出しの様に
手荷物車が入り込んでおります。これではニ等車の人は助からないと−−−」(原文)
結局ニがロに食い込んで押しつぶしたのでしたが、事故復旧直後に通過した時に見たのは
追突したC53(C5377)だけで、客車や手荷物車は姫路へでも移動したのか?見た記憶は
ありません。  この事故で皇室から救恤金が下賜された事も名越氏の著書で知りました。

実はこの薄い本ですが、名越氏から直接買ったものです。国鉄退職後に大阪駅等でご自分
で販売に廻られていて、父と大阪−金沢間が戦前並に復活した602レのオロ35(復興整備車
)に乗車したら,売りに来られたのでした。今なら鉄道関係出版社が放置して居ないですが。

所で初任地の近くの様似−−「広尾と中を取り持つ国鉄バス」??---いやこれは脱線でした
失礼。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 3月 9日(火)10時28分47秒
タイトル 峠の先の高原
▼ED76 109様:
>「函館」は「スーパー北斗」が3往復程度発着する「寂れた港町 (?!)」の様相

その場合「♪遥々、来たぜ、函館ぇ〜」は、札幌からの視点となりそうですね(^^)

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碓氷峠の御話がありましたが、私はやはり、横川→軽井沢の登坂側に旅情を感じます。
坂を登り切ると、急に、浅間山麓の軽井沢の高原が広がる様子は、やはり劇的ですね。
また、信越線の跡に併行して九十九折が連続する国道18号線の旧道を登坂した場合は、
鉄道で移動した場合以上の感慨を覚えます。

これに準ずる印象を覚えるのが磐越西線の中山峠です。登坂を終えた沼上信号所から、
上戸駅の先、猪苗代湖が広がるまでは、2〜3kmの「緩衝区間」がありますが、その後、
磐梯山の威容の下、猪苗代盆地が急に広がる様子を含め、劇的な風景の変化は、何度
訪れても飽きず、地元に近い郡山に御住まいの管理人様が羨ましい処。惜しむらくは、
磐越西線が最も湖岸に接近する箇所が隧道となり、列車からは湖の眺めが、今ひとつ
覚束ない点でしょうか。

こちらは、アプト軌道の代わりに、スイッチ・バック方式の旧中山宿駅という名物が
ありました。同駅ネタを検索していた処、小学館漫画の「楽屋オチ」に度々登場する
名物編集者・江上英樹さんの個人サイト“I Love Switch Back”へと辿り着きました。
概観した印象として、かなりの本格派と見受けます。

碓氷峠や中山峠に比べれば相当地味な存在ですが、水郡線の磐城棚倉〜磐城浅川でも、
久慈川水系に位置する棚倉の街から郡山方向に延々と続く登坂を終えると、阿武隈川
水系の平坦地が広がります。那須連山も遠望される様になり、茨城から来ると、漸く
福島県に来たと実感します。過去のRJ誌の水郡線関連の記事でも確か、この区間が
地形的に珍しい例として紹介された記憶があります。

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今月五日付の朝日新聞サイトでは「撮り鉄に警戒せよ」と題して、先の「あすか」の
騒動を引例の上、今週限りの「北陸」ボンネット「能登」に対する「葬式鉄(こんな
呼称があったのですね)」対策を報じています。一部の突出した狼藉が、恰も 愛好者
全体の傾向の如く目されかねない世論を突き付けられた印象で、気分の良いものでは
ありませんが、何はともあれ、無事に済んで欲しいものです。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 3月 9日(火)22時25分21秒
タイトル 「庶野」という「難読停留所」
 失礼申し上げます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >敗戦直後の1945-8-29に函館本線七飯−渡島大野間で「脱線事故廃車」になっています

  当方においても、確認ができません。
 週末に得意の「道立図書館」に出向き、リサーチ致します。少々、お待ち下さい。
 なお、この付近においては「平成8年12月4日」に貨物レ脱線事故が発生しており、
 「藤城線」を利用した「上下単線運転」が「七飯・大沼」にて実施された記録が多数ございました。

 >広尾と中を取り持つ国鉄バス

  家族ネタで失礼申し上げます。
 「様似」から「広尾」まで、現在も「JR北海道バス」が「えりも岬」を経由してのんびりと走っております。
 愚妻は沿線の出身であります。
 道中、「庶野」という「難読停留所」もあり、「目黒」から「上目黒」へと「黄金道路」を進み「広尾」へと、
 恰も「246号(昔は玉電、現在は新玉川線(?))」を走るが如くであります。

 雑魚様
 >横川→軽井沢の登坂側に旅情を感じます

  前述しましたが、昭和49年の晩秋に「移動教室」が実施され、
 「目黒区」の「保養施設」が「中軽井沢」にあったことから、「EC信州」にお世話になったことがございます。
 その際、小生たちのクラスは「最後尾のクハ」に乗車して、
 「横川の儀式」を担任の先生を含めて「全員で参観」した経験があります。
 窓を全開にして「ケーブルカー」のような乗り心地を体験しました。
 しかし、小生は紅葉の美しさよりも、「峠を下るECの乗り心地の悪さ」が強く印象にあります。
 壊れた「スプリング」に座るかの如き「音と振動」は、小生「隠れた横軽名物」と考えております。

 長々と失礼致しました。
 以上、「ロマンティクな響き」の「難読停留所名」に縁があった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 3月10日(水)15時11分31秒
タイトル 軽井沢 シンドローム
▼ED76 109様:
> 窓を全開にして「ケーブルカー」のような乗り心地を体験しました。

169系での碓氷峠越えと云えば、私の場合は 1985年夏の急行「妙高」の下り便ですね。
夜行(長野〜直江津は普通列車として延長)ゆえ熟睡していた処、突如、妙な振動で
目が覚め「せっかく気持良く寝てたのに〜」という程度の感慨でした(^^)

10kmに満たない水平距離に対して、高低差が 500m余という地勢は、改めて考えると
物凄い事ですが、峠区間が馬車鉄道でリレーされていた当時、実測を伴った経路案が
スイッチ・バックやループ線を駆使した上で、実に五例にも及んだのは、圧巻ですね。
旧松井田町域にあっても、郊外の一地区に過ぎない横川が、運輸上の一大拠点として
機能したのは、正に峠対策の所産であり、現行の一日当りの平均乗車人員数 300余は
新幹線開業以前から、それほど劇的には変わっていないと思われます。

それゆえ、元々の輸送需要が希薄な横軽区間における普通列車のバス転換についても、
関西の有名私大の系列ゆえ、広域から生徒を集めていたと思われる安中市内の高校に、
峠を越えて通学していた生徒の父兄が、法廷で異を唱えた事はありますが、その他は、
然したる混乱は無かった様ですね。

碓氷峠ほど急峻ではなかったとしても、同じ浅間山麓域で、中央分水界を越えていた
草軽電鉄は、設立区分が国鉄より遥かに脆弱だった事を併せ考えれば、特筆モノです。
廃線跡に近い経路を採ると思しき「白糸ハイランド・ウェイ」や「日本ロマンチック
街道」は十年前に運転した事がありますが、どこをどうすれば一般鉄道を通せるのか、
雄大な高原の風景と相まって、暫し感慨に浸ったのでした。国鉄・JR以外で、本州
中央分水界を越えた鉄道は、1986年開業の野岩鉄道や1994年開業の智頭急行を除けば、
この草軽電鉄だけなのですね。

保養地としての軽井沢の観光開発が、西武主導で行われたのに対し、この草軽電鉄は
1945年以降、東急グループの傘下に入っており、軽井沢でも、東急系の小田急電鉄と
西部系の伊豆箱根鉄道が競合した「箱根山戦争」の構図が窺えたのですね。もっとも、
草軽電鉄の後身となるバス会社は、昨年秋に東急傘下を離れています。

こうした経緯の名残りか、一時期、西武秩父線の軽井沢延伸計画が存在したそうです。
西武秩父駅が頭端式構造でないのは、その為なのだとか。当時、どの程度の実現性が
あったのかは判りませんが、関係者は、経路選定の段階で頭を抱えていたでしょうね。
案外、海瀬〜岩村田で小海線を間借りする事も想定していたりして。

なお、西武秩父駅の立地は、開業の15年前から直通を行っていた東武への配慮ゆえか、
秩父駅乗り入れに難色を示した秩父鉄道の意を呈した結果ですが、現在は西武電車が
長瀞や三峰口に直通している訳で、隔世の観も一入です。

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本日昼のワイド・ショー番組で、今週金曜夜の上野駅で予想される「葬式鉄」による
マナー違反・狼藉を憂う一幕がありました。記事を引用した産経新聞では「能登」に
群がる「葬式鉄」の様子が写真で紹介されていましたが、残り三日という事で、既に
混雑が先鋭化している様です。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 3月11日(木)10時49分18秒
タイトル 横軽
私は戦前一回(家族で東京見物、神戸→特急「鴎」今から思えばマイネロフ37のロ)上野から
早朝の小山。新潟行快速で碓氷峠越)、戦後は長野行普通列車でED42x2に牽かれて峠越え
で、新線になってからは乗車していませんでした。

横川を出てあの丸山?信号所からラック区間に入る時の「ガクン」のショックが印象的でした。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 3月11日(木)22時32分21秒
タイトル 「草軽」ですか・・・
 失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >草軽電鉄は、設立区分が国鉄より遥かに脆弱だった事を併せ考えれば、特筆モノです

  小生の「山」御袋が、昭和30年代に乗車したようであります。
 前述させていただきましたが、「マッチ箱のような小さな客車が、もの凄い速さで勾配を下るのは正直こわかった」
 と言っておりました。
 昭和26年頃に公開された「カルメン故郷へ帰る」に登場した「草軽電鉄」は
 長閑な高原を颯爽と走るシーンが印象的であります。

 マロネロ38様
 >横川を出てあの丸山?信号所からラック区間に入る時の「ガクン」のショック

  いつも、小生の知り得ぬ「想い出」をありがとうございます。
 写真でしか見たことがないのですが、「熊平信号所」の長閑な風景が印象的であるように思います。
 しかし、資料等を見ると、数度にわたる「地滑り」や「山津波」で幾度も長期間の不通に憂き目に。
 多くの犠牲者を出すなど、厳しき自然との対峙していた鉄道員の方々の苦労に襟を正す思いが致します。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 3月12日(金)20時31分0秒
タイトル 宇高航路暫定延命
鉄道と直接の関係ではないのですが、周辺ということで…
しばらく前に話題となった宇野−高松間フェリーは、国道フェリーと四国フェリーの2社が
それぞれ航路の事業廃止届けを取り下げ、とりあえず延命したとの事です。
しかしこれは当面の暫定的なもので、長期的な事業継続の見通しは無いようです。
以上、話題のフォローでした。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 3月13日(土)08時14分36秒
タイトル 「昭和の香り」が消えていく・・・
 おはようございます。昨晩はゆっくりとお休みになられましたでしょうか。「ED76109」であります。

 7時からの「NHKの全国ニュース」を拝聴しておりましたところ、
「全国ダイヤ改正」に係る「様々な話題」を取り上げておりました。
そのことに係り、「戯言」させていただきます。

 1 「上野」と「金沢」での「14系PC北陸」や「475系ボンネット能登」への惜別シーンは、
  「EF64」のフォイッスルがもの悲しげであります。
  「ボンネットの姿が大好きだった」と話された先達の学生さん、「御苦労さまの一言です」と語った先達の少年。
  なお、当該列車は週末や多客期の「臨時レ」への格下げとのこと。
  当地の「利尻」や「まりも」のようにならないようにと、祈るばかりであります。

 2 「大糸線のキハ52」がファイナル・ランを終えました。
  独特のエンジン音が魅力的とあって、録音をする先達の方が取り上げられておられました。
  「地元の風景に溶け込んでいた姿が魅力的だった」との感想を述べられる先達の方やお手製の「小旗」を手に
  「悲しい」と一言話した幼稚園児の男の子。
  しかし、あの「ガラガラ」というエンジン音の響きは独特の不思議な響きであり、
  小生もエンジン音を聞きながら、夢の中で「姫川の流れ」をもう一度拝みたいものであります。

 3 両国駅の列車線フォームにあれだけの人波が見られたのは久しぶりだったのではありませんか。
  「スカ線色113系による荷物レ」のファイナル・ランは、
  惜別の調べが奏でられた「ヴァイオリン」の音色が流れる中で始まったようでありました。
  早春の光溢れるフォームでは、ベテランの先達の方々の姿が目立ち、重厚なカメラが並んでいたよう・・・。
  房総の沿線では、新聞店の方々が「最後の作業ですね」と仰りながら、
  紙テープで括られた「夕刊紙」の束を額に汗しながら下ろしておられました。
  ラストシーンは、「内房線の小駅」を左カーヴに消えていく113系。
  思わず「お疲れ様」の思いが込み上げてまいりました。

 長々と失礼致しました。
 以上、「本日の上り北斗星、トワイライト等」は平常運転の予定との一報を確認致しました
「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 3月13日(土)10時25分42秒
タイトル 北陸、能登
アレだけ惜しまれて消えてゆくのなら以って瞑すべしと言うかーー
「北陸」は戦前からあった、上野−長野−金沢−大阪(戦後長岡経由)の601-602レの後身、
「能登」は列車名だけは東京−米原−金沢の急行のを貰って居ますが「北陸」が寝台急行
になった時に、上野−金沢間に設定された「黒部」に近いスジの列車です。

両方とも利用者が30%台なので廃止?とはJR西の逃げ口上みたいな気がします。

583系がもう3編成あれば現行「きたぐに」の如く、寝台と座席両方使用で急行「能登」
を毎日運転できたのに----と想います。 若し国鉄だったら強引な廃止をしなかったでしょう。
風見鶏閣下の国鉄分割は完全な大失敗だと想います(故橋本龍太郎首相がそう言っていたが)

北海道などなんだか大正時代の鉄道地図に近いみたいで、「これでよいのか」?と思い
ますね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 3月13日(土)11時40分18秒
タイトル 昨日の報道について
○ リアルタイム(日本TV)

夕方の放映という事で、両国発着の新聞輸送列車が特集されていました。恥かしながら
当該列車が今改正で廃止される事を、全く存じませんで、序でに調べて見ると、千葉で
二分割された夫々の編成が、内房・外房線の定期旅客便に連結され、安房鴨川で、再び
相見えるという、なかなか凝った陣容だったのですね。

両国が総武「列車線」ターミナルとして機能した当時の名残りである 臨時 3〜5番線も、
これで完全に用途が無くなり、いずれは再開発に供されるのでしょうか。総武快速線が
東京に達して久しい1985年に、両国止まりの「あやめ」を利用しました。今となっては
貴重な体験でしたが、あえて両国で折り返した必然性とは、これ如何に?

同番組では「北陸」「能登」のラスト・ランを控え「葬式鉄」の狼藉に対する懸念から
先日の「あすか」の一件を紹介していました。また、日時や場所は不明ですが、構図が
確保出来ないからと、若年男性が駅員に罵声を浴びせる過去の映像も紹介され、余りの
傍若無人振りに、気分が悪くなりました。

○ 報道ステーション(TV朝日)

金沢を「能登」「北陸」が相次いで発車する時間帯での放映で、一部始終を中継した為、
最も見応えある内容となりました。当日、金沢駅での「人出」は 1,500人程度との事で、
先の「あすか」の件を憂慮したJR西日本の意向もあってか、警察も動員されたらしく、
皆さん、整然と振るまっていらっしゃった様です。昭和の風情がまた一つ消えていくと
感慨深げに語った古舘アナのコメント「冷凍ミカン」云々は、結構 ツボでしたね(^^)

○ ニュース 23(TBS)

金曜枠で23時半からの放映だった事から、上野駅での「能登」出発を中継するのかと
期待しましたが、冒頭で紹介されたのは「北陸」発車シーンのみでした。不定期便に
降格されるだけの「能登」は、軽視されたという事でしょうかねぇ。

○ ニュース・ジャパン(フジTV)

こちらも紹介されたのは、上野側の「北陸」のみですが「撮り鉄」による喧騒振りを
最も詳しく紹介していたと思います。真横に構えた三脚を線路ギリギリまで翳したり、
匍匐体勢で規制線を越えたり、あの手この手の撮影は傍から見ると涙ぐましい程です。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 3月13日(土)12時53分20秒
タイトル 先刻の報道について
続きまして、先刻(正午前後)の報道では、TBSが今朝の上野駅、FNNが今朝の
上野駅と金沢駅、NHKが昨夜の上野駅と今朝の金沢駅を紹介していました。需要が
最盛期の三割以下となった事が廃止の理由と紹介されていたのは、ここも同じですね。

我々の様な「確信層」ないし「核心層」はともかくも、夜行列車と競合するであろう
航空機や高速バスの昨今のサービス内容を思うと、宿泊要らずで目的地に到達できる
利点を以てしても、料金・居住性・車両更新など諸々の面で、抜本的な内容の一新が
行われなかった(と云うより、鉄道の物理的な特性から行い得なかった)夜行列車の
相対的な地位低下は時代の必然であり、その意味で、今回の廃止・不定期便格下げは、
社会的使命を全うしての勇退と、頓に感じるのでした。

画像は先月、泊り掛けで東京に出張した際の一コマです。図らずも、我が地元ネタの
広告看板と一緒に写った「能登」は、ありし日の「ひたち」を髣髴とさせる様でした。




 
 
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