倶楽部メモ(533)
平成21年 6月23日〜 6月27日



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 6月23日(火)21時59分51秒
タイトル PC「宗谷」と「天北」には「グリーン席」がありました
 失礼致します。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >この渓谷は、空知・上川の支庁境界

 この辺りは微妙な地域であります。「納内」から「伊納」にかけては、殆ど住宅が展開している様子はなく、
雑魚様の仰せのとおり「旭川北東部」や「東川」、「東神楽」の方がベットタウン化が進んでいます
(有名な「旭山動物園」がこの辺り)。
旧来の「旭川電軌東旭川線・東川線」沿線が、比較的人口が集中する地域であります。

 >当時健在だった宗谷線の昼行客車急行

 まさしく「宗谷」と「天北」ですね。
昭和60年3月に「利尻」の間合いと併せて、「14系(札サウ)」で運転された「ブルートレイン」。
「利尻」と同様に「札幌・旭川」を「ED76」が牽引すればと期待しておりましたが、
「DD51(築)」が「札幌・稚内」(宗谷)と「札幌・名寄」(天北)、
そして「DE10(旭)」が「名寄・稚内(音威子府・南稚内は天北線経由)」(天北)で活躍しておりました。
「札幌・稚内」の所用時間は、「宗谷」が「6時間半」であるとともに「天北」が「7時間」程度。
そして、なんと言っても特筆すべきは「グリーン指定席」であります。
これは、「ハネ」後部に作られた「4人掛けのミニカルテット」で、確かカーテンで通路とは仕切られており、
2段寝台として使用できた記憶が・・・(宗谷支庁選出の道議さんの御用達だったはずであります)。
 前述しましたが、小生は昭和61年の早春に「下りPC天北」と「上りPC宗谷」を利用して、道北の旅を満喫。
日本離れした風景が堪能できた懐かしき「PC急行」でありました。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 6月23日(火)22時11分52秒
タイトル 36年前の時刻表との差は・・・
 連投失礼致します。「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >夜行客車嫌いのJR各社

 小生の手持ち資料であります「昭和48年JTB時刻表6月号・山陽本線(岩国・門司)」の上下のページには、
「夜行優等列車」が所狭しと列挙されておりますが、
「平成21年JTB時刻表7月号・山陽本線(岡山・門司)」の上下のページには、
「夜行列車」はおろか「1本の優等列車」すら運転されておりません。
時代の推移であるとは言え、正直ショックでありました・・・。

 失礼致しました。以上、ただ嘆息のみの「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 6月24日(水)10時05分9秒
タイトル グリーン席
ED76109先生:
本当に在ったのですか!時刻表には出ていませんでしたね?
道会議員様御席とは、議員は何処でも特権階級意識が強いですね。
多分「利尻」と共通運用だったと想いますが-----其処までするなら14系北海道型の
オハフ15を仕切って半分(トイレ側)を指ロ、片方指ハにしたら良かったのに----

閑話休題----エレキバンCMに「比布」ホームで例の会長と女優希木樹林がCMを
やっているバックに急行「礼文」が通過するのがありました。
あのキハ54127-129は今何処を走っているのでしょうね?



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月24日(水)13時42分27秒
タイトル 石北峠
▼マロネロ38様:
> 本当に在ったのですか!時刻表には出ていませんでしたね?

当時、道内時刻表には表記があったと聞いています。

> 議員は何処でも特権階級意識が強いですね。

議員特権と言えば、20年ほど前になりますか、目的地を通過する新幹線特急に誤って
乗り合わせた国会議員が、本来の下車予定駅で臨時に停車させたとして、下車理由の
公益性を巡り、物議を醸した事がありましたね。

> 多分「利尻」と共通運用だったと想いますが

下り「天北」と上り「宗谷」が共通運用で、残りはハザのみのモノクラス編成でした。
ちなみに私は稚内を二、三度訪ねていますが「利尻」または「天北」の移動ですので、
海の彼方に利尻富士を望む、あの御約束の風景を実際に見た事が無いのです。

> あのキハ54 127-129は今何処を走っているのでしょうね?

急行用に転換式腰掛が充当されたキハ54は、当時、特別快速「きたみ」と共通運用が
組まれていた様です。現行「北見」にも当該車両が充てられますが、ワンマン運転の
単行仕様だそうな。意外な気もしますが、先述の伊納駅での撮影後に利用した昼行の
急行「大雪」興部行(遠軽から各駅停車扱い)が、一般仕様のキハ40単行だった事を
考えれば、まあそんなものか、とも思います。

分水嶺越えの途中駅での旅客扱いが廃止された事から、一駅間距離が30km近くに及ぶ
上川〜上白滝の所要時間は、一日一往復の各駅停車便で所要一時間前後と、壮大です。
元々は、旧池北線の経路が北見・網走への主要経路だった事も頷けますが、その当時、
富良野・陸別を経由しての札幌〜網走の移動には、どの程度の時間を要したのやら?



投稿者 ナハネフ120
投稿日 2009年 6月24日(水)19時02分34秒
タイトル Re: 愛称サボの入れ方>>
クモイ103 様
ご回答を有難うございます。
当時、一般的な乗客がサボを確認することは今よりも重要で、誤乗車の防止にも役立つため、
「名+名」または「急+急」ではなく「名+急」/「急+名」にするようなルールがあるのかなと思っておりました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 6月25日(木)07時09分53秒
タイトル 「PC宗谷及び天北」のグリーン室
 おはようございます。「ED76109」であります。

 「PC宗谷及び天北」のグリーン室につきましては、
「RJ・平成12年5月号別冊 列車追跡リバイバル 懐かしの国鉄列車」の中に
「北の道」の項において取り上げられております。
 当時の北海道総局が開発した座席の様で、「札幌・旭川・南稚内・稚内」の4駅のみの販売で、
「マルス」にはデータ入力をしていなかったとのこと。
ですから、「旭川車掌区のカレチ」さんも、利用の有無は確認できなかったようであります。
 作りは、臙脂のシートが向かい合わせ4人掛け。
窓際と中央側にニスで塗られたテーブルが設置されており、グループ客やビジネス客を対象とした構造だったとのこと。
料金は一部屋で「36,800円」也でありました。
 雑魚様御指摘のように、道内時刻表や件の「4駅」のみでポスター掲示された程度であり、
ほとんど認知されないままだったようで、如何にも国鉄末期の象徴的な施設だったと言えるのではないでしょうか。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 6月25日(木)14時47分21秒
タイトル 喫煙席
▼ED76 109様:
> 臙脂のシートが向かい合わせ4人掛け。窓際と中央側にニスで塗られたテーブルが
> 設置されており、グループ客やビジネス客を対象とした構造だったとのこと。

この「特別室」とは、趣旨も構造も異なりますが「銀河」で御馴染みだった、開放式
A寝台の車端部、確か通路を挟んで乗務員室の向かいに位置する形でボックス一個分
設けられていた「禁煙席」に通じるものを感じますね。

ちなみに、九州ブルトレの「昼寝区間」では、開放式A寝台を「G車扱い」で供する
措置もあったと記憶しますが、リクライニングが効かないアコモで、需要がどの程度
あったものやら………



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 6月25日(木)17時44分55秒
タイトル 戦前と戦争初期の昼寝区間のロネ開放
戦前は朝になると(概ね7.00)ロネの空いている下段が開放されていました。
列車や区間などにより違ったでしょうが602レのスロネ37(W屋根)が金沢→
大阪間開放で、両親と2回ほど乗車した覚えがあります。
尤も父が601-602レに社用で度々乗車していたので、ボーイさんやカレチさんと
顔見知りだった事もありましたが。601レの場合は開放したのかどうか?知りません
。それに昼寝区間は読書灯の電球を取り外していました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 6月25日(木)21時29分24秒
タイトル Re: 戦前と戦争初期の昼寝区間のロネ開放
マロネロ38様のお話を読んで、以前から疑問に思っていた事を思い出しました。
昭和20年代頃?までの寝台車を見ると、定員標記が2つ書いてあって、
例えばマロネ37(スロネじゃありませんよね…)では
> 二等 42
> 寝台 28
という2段の標記なっていました。
これが昭和30年頃?には
> 寝台数 28
だけになっています。
この変化が、マロネロ38様の言われる「昼寝区間のロネ解放」と関係ありそうに思うのですが、
この時期を境に、何か寝台車に関する旅客営業上の扱いが変わったのでしょうか…?



投稿者 コスモス
投稿日 2009年 6月25日(木)22時00分50秒
タイトル 水郡線の客車団臨
雑魚様からご発言のありました水郡線の団臨ですが、DJ誌によれば27日(土)に高崎から
田端操経由で常磐線に入り、水戸で休憩したあと夜に常陸大子まで送り込み回送されます。
我が地元では荒川沖で10:22〜11:15停車ですから土浦通過は11:20ごろでしょう。
28日の本番は上りが土浦8:40となっていて、29日の高崎への戻りは土浦11:09です。
今回は12系編成にオハ、スハフとオヤも含まれるそうです。高崎12系にオヤがあったとは
知りませんでした。この団臨は矢祭町民号だろうとおもわれますが、同町のHPでは見つけられませんでした。



投稿者 bell
投稿日 2009年 6月26日(金)06時33分12秒
タイトル 検査時期について
赤まんと様、おはようございます。
先日、コメントされていらっしゃいました日本海の電源車 カニ24 116についてですが、
『21-6秋田総合車セ』と車端部に記載されておりましたのでご報告申し上げます。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 6月26日(金)08時22分49秒
タイトル マロネ37の表記
確かに2等42,寝台28の表記がありました。
昼間は下段に3人掛けの計算だったのでしょう----602レの場合2人ぐらいの利用
でしたが----。尤も601レなら「これから夜行区間になる」ので,断っていたかも
知れません。
30年代頃寝台28になったのはその頃「昼寝扱い中止」?だったかも知れません。

昭和40年に「しろやま」のオロネ10に大阪から伊集院まで
乗りましたが、この時は開放はありませんでした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 6月26日(金)15時07分52秒
タイトル 関西で北海道は値打ち物?
ED76109先生:
神戸の鉄道用品店へ行ったら、差込式の「遠軽→←名寄」のホーロー〔黒地に白字}が
なんと5万円。(→は上下に平行〕,北見行が3万5千円、「洞爺行」3万円、廃線の
サボは高いですね。多分買値は10-30%ぐらい?でしょうか。
その店は古い趣味仲間の紹介で行ったのですが、「黒姫」の小サボ〔ホーロー}が
1万円で売れました。いずれ売値は3万−5万でしょうね。
「かんなべ」の相場を聞いたら7千円ぐらいだそうで、「スキー臨」のサボは高い
みたいです。
その店はサボ、駅名表示板、鉄道時計などの「用品専門」で形式図や図書類は安い
ので、今度はその方の良い業者を探すつもりです。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 6月27日(土)20時19分3秒
タイトル サボは高価なものが多いようです
 失礼致します。」「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >差込式の「遠軽→←名寄」のホーロー〔黒地に白字}がなんと5万円

  小生も、前任校の卒業担任の記念品で生徒達から「すずらん号(深川・明日萌)」のサボを頂戴しました(5千円也)。
彼らの話では、「『函館行』とか『旭川行』を買いたかったのですが、高価で手が出ませんでした。」とのこと。
関係サイトを見ると、「紺地のホーロー製」で「札幌行(小樽経由)」(山線旧客の遺品でしょうか)で6万円程度。
「D51」のプレートで30万円程度であります。

  小生が、これらのような「備品」関係で記憶に残るのは、以下のようなものでしょうか。

 1 窓のテーブルの下に備え付けられていた「センヌキ」の表示。
  「フタのかどを引っかけて」の言葉とともに、「ビンを上へこじる」のイラストが付いていました。

 2 「ネ」に備え付けられていた「ハンガー」。
  大抵、「所属局」の表示が入っていましたが、昭和53年にお世話になった「日本海」のハンガーは
  「大鉄局」ではなく、「九鉄」のネーム入り。「門ハイ」の広域運用の産物だったのですね。

 3 「北斗星」や「トワイライト」のロイヤルに備え付けの「洗面具一式」。
  家族で帰省した折には、「4レ・3レのロイヤル」を使うことが多かったのでいつも持ち帰っておりました。
  件の一式は、グリーンのバッグに「北斗星のロゴ」の入った「ビニール製」。
  そういえば、小生「トワイライト」は「Bコンパート」しか乗ったことがないので、
  「トワイライト」の「洗面具一式」はどのような色のバッグに入っているのでありましょうか。
  先達の皆様からの御教示をお願いいたしたいところであります。

 長々と失礼いたしました。
以上、「宝塚記念」でのリベンジを誓う「JR」ならぬ「JRA」フリークの「中年客車鉄ちゃん」でありました。


 
 
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