倶楽部メモ(503)
平成21年 3月21日〜 3月22日



投稿者 きむたお
投稿日 2009年 3月21日(土)10時25分40秒
タイトル 「日本海」のナハネフ22
▼ 滉淬 様
> 20系日本海についてなのですが、最後尾は基本的にナハネフ20・21でしたが、
> 同22・23が使用されたことは無かったのでしょうか。

こんにちは。
ずいぶん前の書き込みに対してのお返事で恐縮ですが、
ちょっと前の雑誌を眺めていると1枚の写真が目に止まりましたので・・・。

雑誌は「鉄道ファン」の478号で、同誌の特集写真の中に、1969年1月撮影のDD51が牽引する「日本海」の姿があり、
DDの後ろにナハネフ22が見えております。
確かに、「日本海」が20系客車だったのは昭和43年10月〜50年3月のあいだで、
受け持ち区の盛アオには昭和46年になってやっと配置(46年に504・505、48年に1・19・20、49年に13・17・18)
ですからレギュラーな運用ではなかったと思われますが、全国規模の国鉄時代のことですから、
たびたび見られたことではないのでしょうか。
また、当サイトの「20系客車誕生50周年写真館」の「関西発着列車」の中に急行音戸様撮影の宮原の写真がありますが、
こちらに見える「日本海」もナハネフ22のようです。

ちなみに民営化後の臨時「日本海」ではナハネフ22・23による運転でした。

添付写真は本文とまったく関係ない、94年12月23日、水橋→東富山にて撮影した臨時列車です。
中間にオハ14 701をはさんでおりますが、編成記録をつけていないのが非常に悔やまれます(T_T)




投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 3月21日(土)13時32分21秒
タイトル Re:「日本海」のナハネフ22
滉淬様・きむたお様

きむたお様の書き込みを拝見して、再度手持ちの資料を見直してみたところ、「食堂車の付いた客車列車編成記録」
(鉄道ファン昭和52年6月号掲載)に該当する記録が残っていまして、それによると、昭和50年1月5日
下り「日本海」の機関車(EF58103)次位が「ナハネフ2217」となっています。
こういった記録にも残っていますので、「日本海」に「ナハネフ22」が使用されていた事は間違いないようです。
当時の運用・盛アオの配置状況を見ますと、きむたお様の書き込みの通り昭和46年以降、盛アオにナハネフ22
が配置され、基本的には「ゆうづる」用として使用されていますが、大は小をかねる(定員的に)?で「日本海」
においても使用されていたと思われます。
ただ、「日本海」が20系から14系化された昭和50年まで盛アオにナハネフ20が配置されていますので、
(運用離脱後に廃車)基本的には最後まで「日本海」の所定はナハネフ20であったと思われます。
どなたかさらに詳しい情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらフォローいただけると助かります。

参考資料:「食堂車の付いた客車列車編成記録」(鉄道ファン昭和52年6月号掲載)
     「鉄道ピクトリアル2005年7月号(20系固定編成客車特集)」



投稿者 滉淬
投稿日 2009年 3月22日(日)00時17分49秒
タイトル 20系日本海
きむたお様、管理人様

拙質問に御丁寧に回答頂き、誠に恐縮です。有難う御座います。

存在していたのですか。定期三本帯時代のナハネフ22に日本海運用歴があったのですね。
ということはナハネフ20が21であった時もありましたのでナハネフ22が23であった可能性も
否定出来ないということなのでしょうか。無論あくまで22は代用であったようですが・・・

しかしこうなると20系日本海は牽引機共々かなり種に富んでいるといえますね。
電源車のマニ20・カニ21、そしてナハネフ三種。ナハネフ23も入っていたとすれば
実に客車だけで八通り編成があったということになります。

文献迄御提示頂き、誠に有難く存じます。今後共宜しく御願い申し上げ奉ります。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 3月22日(日)07時06分56秒
タイトル 「復活はつかり」を受けた「復活おおとり」
 先達の皆様、おはようございます。「ED76109」であります。

 さて、標題の件に係りまして、20日朝に「復活はつかり」で「上野」を出発した200名の先達の方々が、
津軽海峡線の「臨レ」で21日朝6時30分「函館」到着。
一昼夜の疲れを見せずに、喜々として「国鉄特急色183系」4両からなる「復活おおとり」に乗車。
一路「網走」を目指して6時50分に出発し、同日20時過ぎに「網走」に到着予定という報道が、
21日付「北海道新聞夕刊」の社会面を飾りました。
 昭和48年6月の「JTB時刻表」では、「おおとり」は「11時45分発の15D」であり、「青函5便」による接続。
「青森」で繋いだのは「ゆうづる3号(15M・上野21時45分発)」というダイヤであります。
なお、「はくつる(5M・上野22時30分発)」が「青函5便」を挟んで「おおぞら3号(5D・函館11時40分発)」と
「急行宗谷(305D・函館11時50分発)」も接続した、豪華なラインアップでありました。
 「道新」の記事では、早朝の「函館」で数百人の「撮り鉄」の方々に囲まれている「復活おおとり」の姿が
紹介されておりました(特に規制等はなかったようです)。
小生は、「おおとり」はもちろん、「函館」へ直通していた「宗谷」も制覇しておらず、悔しい思いをしております。
 「復活運転」には賛否両論でありましょうが、「昭和の鉄」を感じさせてくれる企画に関して、
脳天気な小生は「アッパレ!」の一言であります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 秋田のHO
投稿日 2009年 3月22日(日)08時44分57秒
タイトル [ナハネフ20]
もしかしたら、ですが、
「20系日本海」当時の常連客の中には、同じ「B寝台」でも、
編成端の[ナハネフ20]は寝台区画が少しゆったりしている感じがして・・・、
という事で、[ナハネフ20]を指定して切符を取得していた「通」の方がいらっしゃったかもしれませんね〜。
実際に、[ナハネフ20][ナハネフ21]の寝台区画の少しゆったり感を御存知な方がおられましたら、
お話を伺ってみたいものです。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 3月22日(日)11時12分17秒
タイトル ナハネフ20
最初は下り「日本海」に大館−弘前間昼間自由席に乗車が昭和46年,寝台は
「あけぼの」上野−秋田で昭和51年2月でした。寝台間隔が750mmだったので
感覚的には「ゆったりさ」がありました。寝台幅が同じ520mmでしたが。
「あけぼの」の時は朝起きて(横手の手前だったが)車掌室の2枚窓が一面に氷結
していて電気機関車の赤い色がボーッと映っていたのが印象的でした。
カレチが寒いので逃げ出したらしくて空っぽでしたが^^^



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2009年 3月22日(日)12時30分50秒
タイトル Reスロハ3267
昭和20年以後皇族乗車に利用された車両はスイロネフ、
マイネ、マイロフ、マイロネフ等ですが、昭和21年
7月に高松宮が山陽訪問する際にスロハ3260が1・
4レ他関係列車に増結されて以後、同年11月の賀陽宮の
三河訪問の際は132レ増結のオロ359、同年12月の
閑院宮竹田宮神戸訪問の際は5レ増結のスロハ3217、
昭和22年1月の東久邇宮草津訪問の際にスロハ3267が
登場し1・4レに増結されて、以後皇族用車両増結の際は
同車が多用されました。
ひょっとするとこれらロ車の中にもネの設備を持ったものが
いたのかも・・・いやむしろ持ってなかったからこそスロハ
3267が重用されたのかもしれません。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 3月22日(日)14時14分32秒
タイトル 「日本海」 牽引機
滉淬様の御質問について、管理人様・きむたお様の御回答内容を踏まえ、その後更に
調べたところ「阿房列車ピクトリアル」というサイトの「寝台特急・日本海」の項に、
1974年11月に大阪駅にて撮影したという「ゴハチ」牽引編成の画像があり、最後尾が
ナハネフ22である由、解説がありました。特定の情報元への一元的依存を反省。

北陸特急にあって、直流機牽引とは これ如何に? と思えば、件の写真の撮影時期は、
湖西線の開業直後ながら、優等列車が米原経由のまま残っていた移行期間で、米原〜
田村は、相変わらずDL連絡だったたのですね。ただし「ゴハチ」が充てられたのは
湖西線経由に変更される直前の一年間のみ。それ以前の東海道線区間では、EF65が
充てられたそうです。

なお「日本海」では、DD51が、上記「交直接続リレー区間」のほか、1971年までは
糸魚川〜青森、翌年までは糸魚川〜秋田を牽引していました。1969年には新潟以西の
電化が完了していましたが、EF81の登場がその前年なので、直ちに遣り繰り対応が
出来なかったものと想像します。

それにしても、明治時代に東京電燈と大阪電燈が、それぞれ異なる規格の発電機器を
導入した事に由来する商用電源周波数の境界線が「静岡・糸魚川構造線」に符合する
事情があるとは云え、北陸線の交直切替が糸魚川〜梶屋敷で行われるのは、糸魚川の
立ち位置も相まって、地勢的に少し中途半端な観が否めません。

秋田以北がED75牽引となった1971年の部分電化に伴い、秋田・青森県境の矢立峠は、
新線に移行しましたが、その直前、大館機関区所属の蒸機による名物・三重連運転を
記録した「新日本紀行」が、数年前「NHKアーカイブズ」の枠で再放送された事は、
以前、申し上げた事と思います。旧線の急勾配を喘ぎながら通過する無骨な蒸機群と、
高規格の新線を軽快に通過するDL牽引「日本海」の映像比較は、正に時代の変遷を
如実に体現した印象でした。

なお羽越線では、1972年に交直流纏めて、白新線と共に一括して電化開業しています。
交直流が切替る村上が、平野部を主とする新潟都市圏の北端という事で、旅客需要が
大きく一段落する事情から、まず村上まで直流電化ありきと考えていた手前、意外な
印象でした。しかし電化後も、羽越線直流区間の普通列車は永らくの間、殆どが客車・
気動車で、信越線から電車を捻出する余裕が無かった様に見受けられ、そう考えると、
然もありなん、ですね。

画像は、村上市岩ヶ崎地区から、三面川河口越しに、瀬波温泉方向を眺めたものです。
同河川の橋梁を境に、風景や地形、そして人口分布が一転する辺りに旅情を感じます。




投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 3月22日(日)14時46分6秒
タイトル ナハネフ20とナハネフ22
ナハネフ20とナハネフ22の話題?になっているので、ナハネフ20とナハネフ22の見分け方について
皆様に質問というか確認なのですが…
側面から見れば、窓割りの違いはもちろん車掌室側のドア位置の違い等で簡単にわかりますが、正面からの
画像だけで見分ける方法はあるのでしょうか?
雑魚様のご紹介サイトでも平面ガラスだとナハネフ20、曲面ガラスだとナハネフ22のような記述となって
いますが、平面ガラスだったのは元ナハフ20のうち1・2・3・51・52の5両だけだったはずなので
ナハネフ20については3両のうち2と3は平面ガラス、4は曲面ガラスであると認識していたのですが、
間違いでしょうか?



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 3月22日(日)15時29分3秒
タイトル おおとり
▼ED76 109様:
> 津軽海峡線の「臨レ」で21日朝 6時30分「函館」到着。

ちなみに「臨レ」は、どの様な編成内容でしょうか。現在も、青森と函館結んでいる
フェリー航路にも夜行便があり、JRの管轄からは外れますが、これを活用できれば、
更なるリアリティーの演出に与したかも知れませんね(^^)ただし、青森・函館とも
駅とフェリー港が少々離れているのが難点ですが。

> 喜々として「国鉄特急色 183系」4両からなる「復活おおとり」に乗車。

この編成、昨年七月末の拙稿で言及した様に、苫東道路の陸橋から、地震の影響から
どの程度遅延しているのか判らない、下り「カシオペア」「北斗星」を狙っていた際、
函館方面に向けて走り去ったという、余りにも悔しい思い出があります。あの時ほど、
沼ノ端〜植苗での千歳線「上下線 分離区間」を恨めしく感じた事はありません(^^)

1986年まで80系が充当されていた「おおとり」は、渡道を重ねた学生時代、道内では
唯一の食堂車つき編成という上格の存在でした。一運用が札幌〜千歳空港(当時)を
往復する大技な「おおぞら」函館直通が、1986年秋に廃止された後も「おおとり」は
一年余り残っていましたが、対本州の遠距離移動体系が、1980年開業の千歳空港駅を
中心に確立されて以降、かかる直通便の存在意義は、どの程度あったのでしょうねぇ。

ちなみに「ライラック」が、室蘭〜旭川の直通を廃止したのは、千歳空港が移転した
1992年の事でした。

>「昭和の鉄」を感じさせてくれる企画に関して、脳天気な小生は「アッパレ!」

更なる懐古趣味として旧稚泊航路を時限復活させ、サハリンでは、国鉄から転出した
キハ充当の列車に繋ぐ、という企画は、荒唐無稽が過ぎるでしょうか。



投稿者 きむたお
投稿日 2009年 3月22日(日)16時13分7秒
タイトル ナハネフ20 4の丸妻面の窓
▼ 管理人様

> 平面ガラスだったのは元ナハフ20のうち1・2・3・51・52の5両だけだったはずなので
> ナハネフ20については3両のうち2と3は平面ガラス、4は曲面ガラスであると認識していたのですが、
> 間違いでしょうか?

当方もちょっと気になって、いろいろ思いをめぐらせていて、
いつぞやのジャーナル誌に20系日本海の乗車記録があったなぁ・・・と。
で、いろいろ調べて辿り着いたのはジャーナル別冊の「青い流れ星NO.2」でした。
この中にデビュー直後の「日本海」に大阪から青森まで乗るのがあり、
この列車のハネフがナハネフ20 4であり、パノラミックウィンドーであるのが確認できました。
当方も管理人様がおっしゃるとおり、その由来から、
ナハネフ20 2、3は平面ガラス、4は曲面ガラスということで間違いないと思います。

また、最後尾から見た際の見分け方ですが、車掌が腰掛けるイスの幅が異なるようです。
やや高い位置から撮った写真だと背もたれの上辺のアルミの枠が見えるので判断材料になるのではないでしょうか?
あくまで形式図からの推測ですが(^^;;;

いかんせん、当方も20系については、物心つくかつかないかのときに東京の親戚が乗って帰っていった「北陸」を
見送った以外は晩年の臨時列車しか知らず、雑誌を見て回るしか能がなく、現役時代を知る方には敵いません。

↓は93/1/31のシュプール回送ですが、ナハネフ22車掌室のイスの背もたれが見えます。




投稿者 蜂屋
投稿日 2009年 3月22日(日)17時42分40秒
タイトル 非電化の旧客
皆様今晩は。
連休は各地で注目の列車が設定されておりましたが、地元に近い久留里線旧客に通いました。
ここ2年は風っこでしたが,待望の旧客が入線しました。検査上がりの狭窓はピカピカ。
検査上がりの試運転スジのため久留里折り返し、DE10PPとなり客車は2Bの可愛らしく贅沢な編成でした。
今年は県知事選挙が有り、知事が代わります。来年の春臨時が気になります。
天気に恵まれた3/21のカットより。




投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 3月22日(日)19時04分15秒
タイトル Re:ナハネフ20 4の丸妻面の窓
きむたお様

ナハネフ20 4の丸妻面の窓についてフォローありがとうございます。
鉄道ジャーナル別冊「青い流れ星ブルートレインNO.2」私も持っていました。
ナハネフ20 4の画像を探してもなかなか見つからなかったのですが、手持ちの資料にあったとは…
間違いなく曲面ガラスですね。
また、最後尾から見た際の見分け方もご教授頂きありがとうございます。
かなり難しい方法のようですが、とても参考になります。

実は話の流れからナハネフ20と22の見分け方が丸妻面のガラスの差異であると勘違いされてしまう方が
出てしまう事を危惧しましてあえて書き込ませていただいたのですが、はっきりと確かめる事が出来まして
良かったです。



 
 
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