倶楽部メモ(427)
平成20年 5月31日〜 6月 1日



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月31日(土)16時01分42秒
タイトル 高島線
▼himeikanai様:
> 東横線は銀一色の車輛が横浜で国鉄の上を悠々と横断し

幼少時における東横線と云うと、私自身も「銀色一辺倒」の印象が強かったのですが、
当時は「青ガエル」やそれ以前の3000系も、まだまだ「大所帯」だったのでしょうね。
社名の「東京急行」から「急行しか走らない高速路線」などと勘違いしておりました。

横浜側に続いて渋谷側でも四年後を目処に、来月開業する地下鉄副都心線の渋谷駅に
集約される予定で、跡地がJR湘南新宿ライン・埼京線のホーム移設に供される点は、
歓迎すべき事ながら、あの独特の風格を感じる東横線のターミナル駅が無くなるのは、
元東横線沿線住民として、寂しい限りです。

画像は、桜木町を発車直後の根岸線列車から横浜方向を眺めたものです。東横線跡は
何に転用されるでもなく、高架橋が、ほぼ全区間で残っています。正面の「中線」は、
鶴見に短絡する高島線(東海道貨物支線)で、私も、今春に廃止された「ゆとり」の
前身「サロン東京」を充てた臨時快速「サロン横浜博」で、乗り通した事があります。
週末特急「はまかいじ」編成の田町車セ回送にも供されるそうですね。その後「MM
21地区」の整備で、東高島〜桜木町の一部が地下化され、試乗当時とは印象が大きく
変わりました。

> 153・155系時代の日光集約臨の乗客となり(中略)東京上野回送線を通過しました。

四日前書き込んだ拙稿「品川駅にて」の撮影足場となった臨時ホームでは、その当時、
盆暮の上野駅の混雑緩和の為、ここを始発とする東北方面臨時急行が設定されたとか。
ただし、東京〜上野の列車線ではなく、山手貨物線を経由したそうです。

> 羽田空港の場面で、当時の東京の空の広さに大変感激しました

廃止後、架線柱が撤去された日立電鉄跡の沿線で、同様の所感がありました。況して、
後発的な高層建築群が林立する東京では、なおさらの事でしょう。




投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月31日(土)18時37分7秒
タイトル Re:30レ
 そもそもEF5841様が時期をお示し下さっていませんので、勝手に憶測するのもナンでしょうけれど(^^;、
米原電化後ということは、昭和30年7月20日以降ですね。
同年8月号と全線電化直前の翌31年11月号の時刻表復刻版を見ましたが、
いずれも米原−東京間に「30レ」はありませんでした。
 そもそも当時の東海道本線の列番体系からいって、もし30レがあるとしたら、
20番台をとる東京−中国地方間の急行列車の5往復目(下り東京発車順が5番目となるもの)の上りである筈です。
しかし当時20番台の急行は21-22レ「安芸」と23-24レ「せと」の2往復しか存在せず、
のち31-11改正で25-26レ「出雲」が加わりますが、そこまででした。
 列車番号も立派な“泥沼”ですよ。興味のある方はどうぞご一緒に…(笑)

 「つばめ」「はと」を牽引するEF58の運用は、各時代を通じて専属でなく他の列車とつながっていたようです。
そのため、全線電化で青大将となってからは、毎日必ず青大将機が牽く普通列車も存在しました。
 なお、青大将のゴハチは両数に余裕があり、特急と関係ない運用もアルバイトしていた様です。
鉄ピク1958年2月号の読者短信欄に、昭和32年12月29日朝、前橋発東京行き612レ(東京から沼津行き3623レに継送)が
秋葉原−神田間の安全側線に乗り上げたという事故が報じられていますが、この事故機がしっかり青大将のEF58 64でした。
ちなみにこの列車、東京区のゴハチが高崎線に乗り入れる唯一の運用だったようです。



投稿者 仙コリ
投稿日 2008年 6月 1日(日)02時20分56秒
タイトル Re2:30レ
それでは、私も列車番号沼に…(笑)
すでに皆様が書いておられますが、「はと」の牽引機関車が東京−米原間の折り返しだった時期は、
米原電化(昭和30年7月20日改正:これ以前は電化は名古屋まで)から東海道本線全区間電化完成
(昭和31年11月19日改正)までのようで、当時(31年改正直前)の牽引機関車(EF58)の運用が
「鉄道ピクトリアル:アーカイブスセレクション5:国鉄ダイヤ改正1950」に掲載されていて、
3レ 特急「はと」の折り返し運用は 40レ 急行「筑紫」であったようです。
ちなみに上り 4レ の折り返し運用は東京発京都行普通列車127レとなっています。
また、当時(31年改正直前)の米原発東京行の普通列車は 332レ 334レ の2本となっています。
謎の30レについてはわかりませんでしたが、謎解きの参考?になれば幸いです。
投稿者のホームページ



投稿者 「ED76109」(廣瀬正幸)
投稿日 2008年 6月 1日(日)08時32分4秒
タイトル Re.思ひ出すことなど
 先達の皆様。私の戯言にお返事頂き、心からお礼申し上げます。
 雑魚様
 実は、私の実家は東急東横線「学芸大学駅」から徒歩15分程度、東急目蒲線(こう書かせて下さい!)の
「武蔵小山駅」から10分程度の目黒区内にあります。
そして、母方の実家は茨城県の下妻。(親父は婿養子なのです。)
ですから、「青ガエル」や「3000系の3両編成」には自分なりの思い入れがあります。
6年前に祖母の葬儀の折、子どもたちの時間つぶしのために神保町の本屋街に連れて行く際、
「鉄」親父から「目黒線と地下鉄で行きゃいいよ!」と言われて、小生は「はぁ?」。
北の大地の人間にとって、ワンマン運転の6両編成の都営地下鉄には、正直様々な意味で複雑な感慨を憶えたのでした。
また、昭和46年の春に祖父の葬儀のお礼に、「鉄」親父と下妻へ参りましたが(「古河」からバスで2時間程度のところ)、
上野から乗車したのは「113系(115系?)」仕立ての「急行なすの(だったと思うのですが)」、
車内改札のカレチさんに「親父」が「急行料金を払う理由」を尋ねていたことが記憶に残っています。
(ドアの隣にある二人掛けに座ったことが全てでした・・)

 himeikanai様
 北の大地在住の「ED76109」(廣瀬正幸)と申します。
出水の親類宅への移動に、「桜島(旧称「霧島」、ほとんどハザにしか乗っていません)や
「はやぶさ(ほとんど満員で2回しか利用していませんが)」に親しんだ結果、この「世界」に足を踏み入れてしまいました。
昭和46年の際は、「銀河」と「なは(82系、集中豪雨のため「熊本止まり」でした。)」で九州入りしました。
しかし、「なは」は集中豪雨の土砂崩れのため、不通となった「糸崎・尾道間」を避けて「伯備・芸備線経由」で運転。
6時間遅れの深夜0時に熊本に到着したものの、接続列車がなく、
前述の集中豪雨で14時間遅れの「はやぶさ(しかも出水止まりでした)」に熊本から立席で乗り込み、
早暁の4時過ぎに出水の親類宅に転がり込んだ体験をしました。
これからもhimeikanai様の汽車旅の思い出を伺えれば幸いです。
 よろしくお願いいたします。
 以上、BSの「昭和の機関車館」の映像に感動しつつも、映像の中の「蝿たたき(!)」や
「ちらっと写った金鳥、ナショナルの電灯の○○(○○は何のことかお分りですよね?)」に感慨を憶えた
「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月 1日(日)09時38分30秒
タイトル 130レ ならば:-
詳しい方に教えてもらいましたが、大阪12.42発三島行130レならば昭和30年8月に
ありました。米原15.22着15.34発、三島着22.36
これだとしても3レが米原着18.49で翌日に機関車が東京へ帰る事になりますが、こんな
無駄な運用していたか?です。4レ「はと」は昭和31年11月18日(電化完成前日)にもう
EF58(茶色)でしたからもうロングランしていたのではないかと想います。
また「つばめ」、「はと」はEF58でしたから「3A仕業のEF56、EF57」も
疑問が残ります。「つばめ」復活の最初はEF57だった写真を見ましたがこれは
SG付きだったからでしょう。(戦前製だからSGとは言わなかった??)
どうも30レの3レ帰り運用は謎ですね。



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 1日(日)12時15分58秒
タイトル お詫び
手元に資料が無い中で記憶で書き込み、30列車の件、ミスをしました。
まず持って皆様方に混乱を生じさせたことをお詫びします。
30列車 > 330列車 の間違いでした。
ただ、この330列車、面白い列車で、青大将の牽引する普通列車であることのほか、
名古屋>大府間、武豊線のC11が補機(回送)がぶら下がる代物でした。

戦前の列車番号、ひと桁(1−10)が東京ー下関間の特急、急行に、
10桁(11−20)が東海道本線の特急、急行に割り当てられ、その後が東海道・山陽直通列車という按配でした。
東海道本線内、山陽本線内の区間列車は、それぞれ、100番代、200番代が割り当てられ、
同一方面の列車で同じ列車番号使用による過誤を防いでいました。

関門トンネル開通時までは、九州線内1桁代の列車がありましたが、
九州が独立していたがために富士と同じ、1・2列車がありましたが、問題になりませんでした。
因みにその1・2列車、門司港ー鹿児島間の急行列車で、5両編成ながら1・2・3等制です。
ハフ・ハ・ロハ・イシ・ニと何とも模型化しやすいコンパクトな編成でした。
このイシ、東海道・山陽本線以外の1等車廃止に伴い、スロシ38としてはるばる北海道に渡ることになります。



投稿者 仙コリ
投稿日 2008年 6月 1日(日)14時59分55秒
タイトル Re:お詫び
EF5841様
コメントありがとうございます。
やはり330列車の間違いでしたか。
誰にでも間違いはありますし、おかげで?この話題が発展しましたので、お気になさらないで下さい。

ところで、この330列車ですが、昭和31年11月19日改正直前(昭和31年11月号の時刻表復刻版)
には、名古屋6:10発−東京14:39着の列車となっています。
総合的に考えると、昭和30年7月20日改正時点で下り「はと」(米原18:49着)の折り返し運用は
330列車であったのが、途中で330列車が運転区間短縮で名古屋始発となってしまったため、
折り返しの運用が急行「筑紫」(米原23:07発)に変更になったと考えればよろしいのでしょうか?

また、この時点の330列車の時刻のまま米原始発にすると米原発が4:00頃になってしまいますし、
折り返しの時間がありすぎますので、折り返し運用だった頃の330列車は夜行であったと考える
べきでしょうか?

残念ながら昭和31年11月号より前の時刻表を所有していないので、どなたか検証していただけると
助かります。
投稿者のホームページ



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 1日(日)19時43分13秒
タイトル 3A仕業
仙コリ様、ご厚情ありがとうございます。

「3A仕業」の件、罰一ですので主張しませんが、
青大将時代(昭和31年11月19日から昭和35年5月31日)のいずれかの時代、
東京>大阪(3列車)、大阪>京都(○○列車)、京都>米原(○○列車)、
米原>東京(○○列車(330列車か?))であったかと承知しております。
後日、実家へ帰省のおり確認します。

一方、「1A仕業」の場合、東京>大阪(1列車)、大阪>東京(○○列車 夜行急行)でした。

EF57 コロ軸受でなかったことから焼付けを起こし易く、
米原電化時にはこれが問題となりロングラン仕業からはずれました。
このため、大阪電化時に上越のEF58とバクルことになりました。



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 1日(日)19時57分15秒
タイトル 冷遇された「かもめ」
かもめ(京都ー博多)当初は5・6列車でしたが、最後は201・202列車となりました。
このように、急行並みの扱いとなったのは、「はやぶさ」が定期列車となった時と認識してよいか、
ご教示頂けると幸いです。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 6月 1日(日)20時08分21秒
タイトル Re: 3A仕業
 昭和31年11月19日改正時の330レは、米原始発7:00→東京終着17:43というダイヤでした。
この列車の始終着時刻は、昭和36年10月白紙改正の直前まで変化がありませんでした。
当時のダイヤは白紙改正時以外は「挿入式」ですから、一旦設定された列車のダイヤは簡単には動きません。
 勝手な推測ですが、おそらく「はと」消滅の35-6改正前まで、
ずっと「はと」の返しのカマが牽引していたのではないでしょうか。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 6月 1日(日)20時18分40秒
タイトル Re: 冷遇された「かもめ」
 「かもめ」が5-6レから201-202レになったのは、お説の通り「はやぶさ」が新設された昭和33年10月改正時だったようです。
鉄道ピクトリアル第288号(1974-1)「国鉄急行列車・愛称変遷史」[18]([17]と誤植されている)(寺本光照氏筆)に、
そのような記述があります。



投稿者 仙コリ
投稿日 2008年 6月 1日(日)21時05分51秒
タイトル 330レ
330レについて、またまた私が勘違いしてしまったようで…
米原折り返しという事が頭から抜けずに、昭和31年11月19日改正前であると思い込んでしまいました。
EF5841様も「この330列車、面白い列車で、青大将の牽引する普通列車…」と書かれていますので
昭和31年11月19日改正後の話ですよね。
ということで、運用を推測すると3レ「はと」の大阪着が20:00、330レの米原発が7:00ですので、
その間に大阪から米原への運用についていたようですね。
ちなみに昭和33年11月の時刻表で該当しそうな列車を見てみると、
大阪21:50発の青森行513レ(米原0:20着)
大阪23:15発の直江津行533レ(米原1:41着)
があげられると思います。
他に大阪発の急行列車や門司発東京行112レ(大阪13:32発−米原2:12着)がありますが、これらは
米原で機関車交換はしていないと思いますので。
投稿者のホームページ



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月 1日(日)21時35分49秒
タイトル 513レ
出張や個人的往来で度々利用した列車です。
EF58の青大将は記憶にありません。茶色ばかりでしたが-----
急行501レのハネが「極端に取り難い」ので、513レの「ロ」で2人分か4人分占領
して仮眠して行ったです。最初はオロ31でしたがそのうちオロ41になり、(仙アオ)
最高の並ロに乗れました。これで大阪から高岡まで501レハネ下段よりも¥100-安かっ
たのです。
533レはELが如何だったか記憶にないですが、スロハ38が連結されていました。533レ
かもしれません。(青大将)、もしかしたら急行501レも考えられませんか?
330レ昭和25年10月の復刻版では名古屋6.00−東京14.53ですね。



投稿者 仙コリ
投稿日 2008年 6月 1日(日)21時59分56秒
タイトル Re:513レ
マロネロ38様
早速の情報ありがとうございます。
よく考えると大阪−宮原間の客車方向転換のための塚口経由三角線を使用した回送にかかる時間を
考えると、513レへの運用は時間的に難しそうですね。

確かに501レ急行「日本海」(大阪23:00発−米原1:18着・機関車交換)も考えられますね…
といいますか第1候補でしょうか。

(EF5841様が大阪>京都(○○列車)、京都>米原(○○列車)と書かれているので、またまた
墓穴を掘っている可能性もありますが…)
投稿者のホームページ


 
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