懐古知新様。
「カッターナイフの背中で車番をゴシゴシ...」私もやります。
走らせていればなおのこと、車番など見えませんから、何番だろうが関係ないのですが...。
私は同じ車番が連なるのが我慢ならず、全ての車番を変えます。
カッターを使うのは主に銀文字で、旧客の白文字はさらに掟破り、
GMカラーを筆先につけてよくしごき、上塗りし、乾いたあとトミーのインレタのハ゛ラ数字を転写、
というとんでもないことをやって、1971年ころの「日南」フル編成を仕立てました。
大分、都城配置の車番に変えて、ナハ11の一部はナハ10 900番台にしたりして暗い自己満足です。
夏前に友人経由で70年代後半の客車編成ホームページを知り、そこからこの掲示板にたどりついた私ですが、
「日南」後部は宮崎車だったようで、もう後の祭りです。
国鉄時代は他区からの借り入れ等しょっちゅうだったようですから、まあ、いいかと。
そんなわけで、インレタ採用のトミーは大好きです。
好みの番号がない場合、10のケタまで転写し、末尾をバラ数字転写で、なんて芸当も我ながらスンナリいけるようになり、
勝手にほくそ笑んでいます。
KATOは電車の場合、再生産で車番を変えてきますが、客車は全く変えないですね。
じつに不服です。
尾久やら宮原の車ばかり。
オハ35はさすがに佐倉や福知山に設定していますが。
電暖なしの車番も増やしてほしいなあなんておもいます。
1960年頃の京都周辺。
日野実験線@台湾様ご指摘のとおり、ほとんど電暖車出没の機会はなかったこととおもいますが、皆無ではないはず。
なぜか尾久の車が1両ぶら下がって...なんて、いかにもありそうです。
「完全主義」はある程度守りながらも、国鉄全盛期、まだまだ客車が輝いていた時代。
いまでは考えられない運用だって存在したはず。
模型の世界は、言ってみれば何でもあり、の世界。
たまたま大宮工場、大船工場のキャパがそのときだけ一杯。
高砂に入場する1両としてイレギュラー運用、とか...。
強引でしょうか...。
と言いながら、私もたぶん統一するべく「ウェザリング大会」でしょうきっと。
いい加減KATOキハ82の車番、カッターこすりで変えないといけないなあ。 |