皆さま、こんにちは。今日も暑い一日になりそうですね。
さて、「ひたち」の485系の運用が話題になっていますが、
485系の「ひたち」が走り始めたころの思い出を少し記してみたいと思います。
485系の「ひたち」が登場したのは、多分、まだキハ81の11D・12Dが運転されていた
昭和47年の夏の臨時「ひたち」が最初であると記憶しています。
「ひたち」51〜の名称で、上野〜平間を1日に2往復か3往復くらい運転されましたが、
このとき充当されたのは、両端がクロ481−103とクハ481−19の仙センの9連でした。
その後、同年10.2のダイヤ改正でキハ81が「くろしお」に転用されることになったのに伴い、
9月末(多分27日)から11D・12Dが暫定的にEC化され、
9011M.9012Mとして盛アオの485系12連に置き換えられましたが、
このときの481−209,210を先頭とする編成のヘッドマークは、手書きの紙を貼り付けたものでした。
この改正から、「ひたち」は仙センの受持ちで5往復体制となり、区間も原の町、仙台へと伸びました。
この時点では、「あいづ」は未設定でしたので共通運用はあり得ませんが、
運転区間から見れば仙セン受持ちも納得できます。
「ひたち」の受持ちが水カツに変更されたのは、昭和60.3.14の改正からで、
この時、ご承知のように鹿カコや門ミフなどから赤スカートやヒゲ無しのクハ481などが大量に転入して来ました。
訓練車編成の赤スカートクハ481−17も、この時はるばる門ミフからやって来た一員です。
>日野実験線様
お久し振りですが、お元気でご活躍のことと存じます。
相当昔になりますが、平からオハユニ61やオハニ36が入っている磐越東線の列車でご一緒し、
福島客貨車区や福島機関区、オヤ33が居た松川などへ行ったことを思い出します。
添付されているノーシル・ノーヘッダのオハ35の所属は高タカでしょうか? |