倶楽部メモ(352)
平成18年11月24日〜12月 5日



投稿者 クモイ103
投稿日 11月24日(金)19時03分17秒
タイトル Re: オロフ33 等級帯と外部塗装について
DD5433様

 当HPのトップから、「3号車 客車資料館」に入りますと、
管理人様が作成された「国鉄一般型客車(旧型客車)の外部塗装色および等級帯の変遷」
という一覧表がありますのでご参照下さい。
なお、それ以上の詳細な質問も大歓迎ですので、またここに書き込んで下さい。
# 管理人でもないのにえらそーな文章になってしまいました…(汗)



投稿者 車掌@仙コリ(管理人)
投稿日 11月24日(金)19時29分24秒
タイトル Re2: オロフ33 等級帯と外部塗装について
DD5433様

オロフ33の等級帯と外部塗装についてですが、オロフ33は1939年(昭和14年)にスロフ31100形として登場し、
最後は1965年(昭和40年)にオハフ53に格下げ、または1967年(昭和42年)に廃車となっております。
等級帯と外部塗装の変遷については、クモイ103様からも書き込んでいただいたとおり、
当サイトの「3号車 客車資料館」を参照していただきたいのですが、
1939年(昭和14年)から1967年(昭和42年)まで現存していましたので、年代によって
外部塗装は「ぶどう色1号」 → 「ぶどう色2号」
等級帯は「青」 → 淡青色(青1号) → 淡緑(淡緑6号)
と変化していますので、作成中の模型の年代設定によって外部塗装と等級帯の色を選択すれば良い事になります。



投稿者 クモイ103
投稿日 11月24日(金)20時27分52秒
タイトル Re3: オロフ33 等級帯と外部塗装について
車掌@仙コリ(管理人)様

出過ぎた書き込みで大変失礼しましたm(_ _)m。

オロフ33といえば、戦後復活の特急「へいわ」→「つばめ」にも使用された形式ですね。
1300mmの広窓と車掌室付近の狭窓の対比が印象的です。



投稿者 車掌@仙コリ(管理人)
投稿日 11月24日(金)23時59分0秒
タイトル Re4: オロフ33 等級帯と外部塗装について
クモイ103様

そんな事はありません。
いつも、無精な管理人に変わりコメントをいただき、大変感謝しております。

さて、オロフ33は戦前は特急「鴎」に使用され、戦後はクモイ103様もお書きになっている
「へいわ」→「つばめ」「はと」の初期(昭和24年9月から昭和25年4月)に使用されていたようで
この頃が最も活躍した時代のようですね。

その後昭和30年代には準急「くろしお」(直前の話題の南海サハ4801と併結)
等に使用されていたようです。

という事で、戦前の特急「鴎」の時代であれば「ぶどう色1号」に「青帯」
戦後の特急「つばめ」等の時代であれば「ぶどう色1号」に等級帯は「淡青色(青1号)」
昭和30年代前半までは同様に「ぶどう色1号」に等級帯は「淡青色(青1号)」
昭和30年代後半の晩年であれば「ぶどう色2号」に等級帯は「淡緑(淡緑6号)」
となるようです。



投稿者 DD5433
投稿日 11月25日(土)00時32分11秒
タイトル オロフ33 等級帯と外部塗装について
車掌@仙コリ(管理人)様 クモイ103様 有難うございました。
詳細にご教授いただき大変参考になりました。
これで悩まずに模型作成に専念できます。
窓がこれだけ大きいと内装も作りたくなりますね。
凝り出すと限がありません。



投稿者 紀州
投稿日 11月26日(日)16時01分53秒
タイトル 南海線内サハ4801代走の暖房
こんにちは、久しぶりにお邪魔いたします。
尼港線さま、クモイ103さま。
南海線内を国鉄からの借り入れ車がサハ4801の代走をする場合の
冬季の暖房について書き込みされている掲示板をご紹介いたします。
現在は休止されているようですが、kisyuu様管理の和歌山の鉄道掲示板に
このような書き込みを発見いたしましたので貼り付けておきます。
2002.9.28のモハ561さまの書き込みを参考になさって下さいませ。

(注:以下参考サイトのアドレス等は管理人により修正してあります。)

「JA3PLB & FamilyWeb」
アドレスは http://park10.wakwak.com/~kisyuu/index.html
ここから該当ページには
→「Train」
 →「掲示板」
  →「過去の記事リスト45」
と参照して下さい。



投稿者 クモイ103
投稿日 11月26日(日)21時29分0秒
タイトル Re: 南海線内サハ4801代走の暖房
紀州様
 南海線内での国鉄客車の暖房に関する情報、ありがとうございます。
 暖房は無し。難波行きでは、和歌山市から余熱で乗り切る。
難波発では、住之江検車区でストーブを使って予熱していた…ということですね。
知られざる現場の苦労といった所なのでしょうか。
 短区間のみの無暖房としてはEF10時代の下関−門司間がありましたが、
南海本線全線となると運転時間もそれとは比べものになりません。
はたして余熱がどれくらい持ったのか気になりますね。



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 11月28日(火)03時17分5秒
タイトル 暖欠
 管理人様、皆様、寒くなりましたが如何お過ごしでしょうか?
 さて、元日食乗務員の交通文化連盟某専務理事に確認しましたが、
プルニエ定食???知らないですヨとの回答でしたが・・・
 上野口食堂車は485系電車は「ひばり」が1981(昭和56)年9月末、
「はつかり」は1982(昭和57)年11月14日まで営業しておりました。
 常磐線経由の定期列車食堂車は「はつかり」と同日に廃止された11M・12M「みちのく」でした。

 さて、話題に暖欠の事がございましたので・・・
 平成元(1989)年3月28日運転の「足尾エクスプレス」の交渉の際に問題となりましたのがこの「暖欠」。
 25〜27日まで上野〜会津若松〜新津〜上野と周回運転に
在来型一般車4B(スハフ32+オハ47+オハニ36+スエ78)を引っ張りだし、
この「返却回送」を兼ねて足尾線最終日に在来型一般車を入れると言うプランに高崎運輸部は原則協力的でしたが・・・
 会津ムーンライトエクスプレスでは編成順序が大宮方からスハフ32+オハ47となりましたので、
上野〜黒磯間EF5889機を指定し電暖を確保(電暖ヨロと要請しましたら89機が回って来たのですが・・・)、
逆転となる会津若松〜新津間は蒸暖装備のDD51745機、
新津以降は逆転しまたまた電暖付EF641000番と往路9227列車若松到着まで
オハニとスエは冷えましたが問題になりませんでした。
 しかし、足尾は往路でスエが編成前となり5889機の電暖が届かない(スエとオハニには電暖引通が無い為)事となり、
尾久で発車前に機関車を上野方へ移し、前夜から「暖めて」おく「予熱措置」を講じ、
高崎には「DE101705機を除く機関車でタム」と要請しましたが・・・
 当日、高崎線を快走した足尾エクスプレスは高崎構内へ・・・
高崎〜桐生間は編成後ろにDEをぶらさげて行く(ここで蒸暖を入れて暖める作戦)事なのに・・・
近付いてくる茶色の内燃機関車・・・あれあれ!蒸暖抜きの1705機!蒸暖だけに冗談じゃ無い!(笑)
 ここから旅客と乗員の「寒さとの戦い」が始まるのです・・・
 伊勢崎通過時点で車内は息も白く・・・参加者は盛り上がっていますからスハフ・オハは暖かいものの、
オハニやスエでは手が凍えて「列車内Nゲージ鉄道模型」に挑戦していたファン団体もかじかむ〜と辛そうで・・・
そして外は冷たい雨です。
 足尾線水沼では外気と車内気温がほぼ一緒(11度C/スエ)となり、参加者を急遽オハに避難させて・・・
 結果、桐生に戻り伊勢崎あたりで5889機の電暖が効いてくれるまで約6時間寒い列車の旅になりました。
 これはその後平成4(1992)年3月29日運行の「わたらせエクスプレス」(在来型一般車3B)でも同じ事になりまして・・・
事情聴取(と言うか抗議)の結果、「鉄道マニアの団体がわざわざボロいのを使ってくれるんだから
イベント機(つまりDE101705機)を出してやろう」との親心、
営業サイドからの「1705を除くでタム」は「1705でタム」と誤認されたのが悲劇の原因でした。
 夏ならまだしも春先3月の山間部は冷えますから・・
もっとも平成2(1990)年5月の「ドリーミング・ムーンライトエクスプレス」では電暖繋ぎ管が現場に無く、
「私物」を持参して行き、勿論「取付方法も分からなかった」のでウチ(北海道鉄道研究会)のメンバーが付けてました。
 冷房は我慢出来ても暖欠は「生命に関わる」課題、団臨で旅客が多く乗っていたからしのげたものの・・・
ちなみに「暖欠」となって団臨の急行・グリーン料金を返済した「営業事故」もあり、
81型和式が急速に消滅したのはこれも一因と言われております。
 以来、ウチには「もっと稀少価値」な蒸暖繋ぎ管が「常備」されております。
投稿者のホームページ



投稿者 ナロ10
投稿日 11月29日(水)20時43分52秒
タイトル 青大将スペシャル
久しぶりに投稿致します。
本屋で「鉄道画報」という書籍を立ち読みした所、面白い記事がありましたのでお知らせ致します。
青大将スペシャルと言う内容記事の中に特急「つばめ」の編成記録があり、
電化開業前の11月17日の2レの展望車が特急用特別色に塗り替えられたマイテ3921が使われている記録がありました。
他にも電化直後の塗装状況なども記載されておりますので、興味のある方は御覧下さい。



投稿者 尼港線
投稿日 12月 2日(土)13時34分44秒
タイトル Re: 南海線内サハ4801代走の暖房
紀州様

ご教示、ありがとうございます。
お礼が遅くなりました。

さっそく、リンク先の掲示板を拝見しました。
子供の頃は南海沿線在住でしたけど、キハ5501はよく知っていても、サハ4801はさて、見た記憶あるかどうか…
という世代ですので、「謎」が一つ解けたような思いがしております。
上り下りとも、国鉄借り入れ車は「余熱利用」だったのですね。
それでも約1時間強の運転時間に対しては厳しいような気がしますが、南海としては精一杯の対処だったのでしょう。
寒さのあまり堺や岸和田あたりで、隣りの電車に「逃げた」客もいたかもしれません(笑)



投稿者 紀州
投稿日 12月 4日(月)19時42分32秒
タイトル 紀勢線を走るサハ4801の思い出
尼港線様 みな様

私は昭和30年代後半の紀勢線をかすかに記憶しております。
母の実家が紀勢線紀伊新庄〜朝来間の線路近くにあって、年に1〜2度
幼い私を連れて里帰りをしておりました。
母の実家では物心がついていたか否かの頃から、列車の音がすれば走って庭に出て
通過する列車を眺めておりました。(50歳近い現在もほぼ同様です)

おそらく昭和40年までのことです。
今になって思えば天王寺行き客車準急「南紀2号」だったと思います。
DL+SL+グリーンのサハ+青帯の一等車、青い客車、茶色の客車
こんな編成が走っていたことがあったように記憶しております。
子供心に『なんとバラエティに富んだ編成なのか!』と感心いたしました。
特に南海サハ4801は2等にもかかわらず、白いシートカバーが掛けられているのが見え、
2等なのに何と豪華な客車なのか!ぜひ乗ってみたいと思ったものでした。
これが実現したのが9〜10歳の頃でした。
昭和40年以降天王寺行き『南紀2号』はDC化され、下りのサハ4801の運用は普通123列車
となっていました。
準急で帰るのが当然!という母を説得し紀伊田辺から普通123列車に乗り込みました。
C58221の牽引でした。
内装は近代化改装されたスハ43やナハ10系のような化粧版ではなくニス塗りでした。
しかしエンジ色の深々としたシートにシートカバー(これはビニールだったかも知れない)
1等車でもおかしくない!と思いました。
3時間ほどの旅は終わり東和歌山に到着し、そこから70系快速に乗り継いで帰りました。



投稿者 雑魚
投稿日 12月 5日(火)14時12分17秒
タイトル 今朝の 「北斗星」
忘年会の投宿先から戻る途中、氏家−蒲須坂で撮影した「北斗星 4号」です。今朝は
珍しく「カシオペア」専用機の牽引でしたが、やはり「ブルトレ」は赤いカマの方が
しっくり来ますね。後方の那須連山は早くも雪景色。しかし栃木県内で「北斗星」と
雪山を絡めて撮ろうとすると、意外にポイントが無い様にも感じます。




 
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