倶楽部メモ(317)
平成18年 4月 1日〜 4月 4日


投稿者 雑魚
投稿日 4月 1日(土)08時27分12秒
タイトル 103列車機関士様
> 大ミハですか?

はい、大正解です。賞品として、レアなアイテムを差し上げます(^^)

> 天リウは今どんな風になっているのかご存知でしたらご教授ください

あ、そうか。阪和・紀勢線関係の客レは竜華で賄っていたのですね。残念ながら
こちらの方は私も殆ど、状況を存じません。どうぞ悪しからず………





投稿者 クモイ103
投稿日 4月 1日(土)21時00分29秒
タイトル 調べる楽しみ
 さだお様、お役に立ててなによりです。

> ほんとに、考えだすと、奥が深くて眠れない思いです。

 一つのことがわかると新しい疑問が湧いてきて、次々と調べていくというのも、鉄道趣味の醍醐味の一つですよね。
さだお様のおっしゃる通り、考えるばかりではきりがありませんから、
文献調査など、こまめに情報を集めて分析し、ぜひご自分の知識の世界を構築なさって下さい。
 ちなみに、特別2等車の制度が廃止されたのは昭和34年6月1日、
塗色規程の改定は同月23日で、同時ではありません。
「特ロ」の廃止は国鉄の営業制度の改定であり(ひょっとして国会承認事項?)、
国鉄部内だけの問題である塗色規程の改定とは、基本的に別ものだろうと思います。


投稿者 さだお
投稿日 4月 1日(土)21時21分28秒
タイトル 狭く深く
クモイ103様のおっしゃる通りですね。
今後も、狭くてもいいから、深く追求して行きたいと
思っております。
塗色改定といえば、ぶどう色1号から2号へ変わった時
という理解でいいのでしょうか。
なぜ、変える必要があったのかなども、気になりますが
気長に調査してみます。
ありがとうございました。また、今後ともよろしくお願いいたします。


投稿者 雑魚
投稿日 4月 2日(日)16時12分10秒
タイトル はやたま
103 列車機関士様が指摘された竜華機関区(操車場)について、少し調べて見ました。
ここは1997−2005年の予定で、大阪府・八尾市・都市再生機構(旧都市基盤整備公団)
共同による一大再開発の為の区画整理事業が行われていた様で、現在、道路地図等と
照らし合わせて見ると、かつての面影は完全に払拭されたものと思われます。

この「竜華」という地名、東部市場駅に近い「百済」貨物駅と併せ、何とも大陸的な
響きを感じるのですが、元々「中河内郡竜華町」に由来する自治体名であり、現在の
行政地名は、跡地の再開発を受けて最近設定されたものだそうです。

一方の百済駅ですが、84年に刊行された保育社「国鉄の車両/京阪神各線」を見ると、
ワムやコンテナ車と共に、DLが牽引する荷物車と思しき数両も映っており、好事家
垂涎という趣ですね(^^)梅田駅の機能移転を受け、今春から大規模改造が行われる
予定だそうです。大阪駅に隣接する一大「トワイライト・ゾ〜ン」もいよいよ終焉を
迎えるという事ですか。

上記シリーズ「関西・紀勢線」巻末編成表によると、当時の定期列車で「天リウ」に
所属したのは「はやたま」のみで「天カメ」と共通の受け持ちでした。この表記から
当時の亀山機関区が、地勢的には名古屋圏にありながら、天王寺局の管轄だった事が
窺えますね。長距離便の運用本位に基く、当時ならではの管轄区分と言えるでしょう。

伊勢線(現伊勢鉄道)が開通した1973年以降も「はやたま」は、運用上の拠点である
亀山を経由していましたが、82年の名古屋−亀山の電化を受け、亀山−天王寺に区間
縮小されました。以下に、その後の編成を紹介します。

 機 関 車)亀山−新宮は亀山のDD51/新宮−天王寺は竜華のEF58
 1・8号車)オハフ33/天カメ所属/1号車は天王寺行に、8号車は亀山行にのみ連結
 2・3号車)オハネフ12/新宮−天王寺のみ連結
 4・7号車)オハフ33  5・6号車)オハ47  9号車)スユニ50

かつて「はやたま」が咆哮を轟かせたであろう、熊野地方の海岸線は、極端に急峻な
地形が隘路となり、紀勢線の全通は、1959年と意外に新しいのですが「はやたま」の
前身は、全通早々に設定されていました。


投稿者 TR71
投稿日 4月 2日(日)22時52分5秒
タイトル 解説ありがとうございます。
クモイ103様
解説ありがとうございました。
模型で再現してみたかったので悩んでいました。
早速模型で再現します。



投稿者 103列車機関士
投稿日 4月 3日(月)12時33分8秒
タイトル ありがとう御座います
雑魚さま
正解の景品ありがとうございます!
そうですかあ、もう面影はないのですね・・・・
スユニ50付きのはやたまですか!模型はそれで行こうとおもいます。
みなさんは竜華といえばEF52ですか?EF58ですか?それともEF15かなあ・・
模型ではすぐに竜華とわかるようにEF5866にしたいと思います。
以外にもこの機関車にお別れしたのは高崎だったのです



投稿者 雑魚
投稿日 4月 3日(月)15時48分21秒
タイトル 阪和貨物線
> 正解の景品ありがとうございます!

よろしければ、こんなのもございます。この時は、うっかりして洗髪中に湯が切れて
しまいまして、エライ目に遭いました。水道水での洗髪は惨めこの上無く……(^^)

> そうですかあ、もう面影はないのですね・・・・

元々は上下線の間に操車場が広がるという構造でしたが、下り線(天王寺方面行)を
上り線側に移設して空地を捻出した、という事の様です。直ぐ西側で、城東・阪和の
貨物線二系統が分岐しており、貨物列車運行の面でも、何かと便利だったのでしょう。

ここまで調べて、ふと思ったのですが、関西線沿線で機関車等を管理したという事は、
阪和線ホームが階違い構造の天王寺駅において、環状線から阪和線に直通する特急や
関空快速の為の連絡線が設置される以前より、関西線から阪和線ホームへの入替用の
渡り線は存在していましたっけ。まさか一々、阪和貨物線を経由していたとか……?

その阪和貨物線ですが、城東貨物線の旅客転用(大阪外環状線転用)に伴う工事の為、
一昨年頃から休止状態で、沿線からは道路転用の要望が出るなど、将来、復活するか
否かは微妙な状況だそうです。

ちなみに、1965−67年という短命ながら「くろしお」と共通運用のキハ80系を充てた、
名古屋−東和歌山(現和歌山)の定期特急「あすか」が、この貨物線を経由しており、
大阪を無視した、この運転経路は、短命に終わったとは云え、博多を無視した筑豊線
経由「あかつき」などと同様(1978−85年)当時ならではの大技な存在ですね(^^)

また、奈良線および阪和貨物線を経由して、京都−白浜に臨時急行が運転された事も
ありました。この時、関西線内は奈良・王寺・柏原に停車した様に記憶します。確か
天王寺駅の連絡線新設に伴う「くろしお」の新大阪・京都直通より以前の話ですから、
80年代の末でしたかねぇ。





投稿者 雑魚
投稿日 4月 3日(月)16時41分19秒
タイトル 連投、失礼します
> 当時ならではの大技な存在(自己レス)

この種の話で最たる例というと、昭和初期の長輪線開業時に函館−稚内に設定された
急行が、追分経由で札幌を無視した事でしょう。案の定、かなり話題となった様です。

上越新幹線が開業する以前、上野発着当時の「いなほ」も、新潟を無視して新津から
羽越線に直行していますね。もっとも、白新線が全通したのは1956年と意外に新しく、
それまでの新潟は、県都でありながら「終着駅」だった訳です(信濃川の架橋を介し
越後線と繋がったのは1951年)白新線の全通がこの時期となったのは、阿賀野川橋梁
前後の湿地帯が、土木工事の上で、かなりの難物だった為と思われます。

新潟市中心街のうち、信濃川東岸の旧町名で新潟車両センターの旧称(新カヌ)にも
使われた「沼垂/ぬったり」という「まったり」する語感からして「ラムサール条約」
風味の印象ですが、越後線の越後赤塚駅に近い佐潟は、同条約の指定を受けています。

現在、新津−水原−新発田を経由する優等列車は「あけぼの」「日本海」のみですが、
もし昼行便であれば、田植え後の田園風景の中、素晴らしい構図で撮影が効くところ。
そう言えば数年前に「北斗星」でしたか、東北線の不通を受け昼間の羽越線を南下中、
丁度、この区間で、事故か何かで立ち往生している報道映像を見た事があります。

これが津軽平野なら、残雪の岩木山を絡め、実際に美味しい構図になりますね。一方、
庄内平野+鳥海山は後追いになるので没(^^)嗚呼、津軽鉄道を絡めて旅したいなぁ。


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 4月 4日(火)00時22分48秒
タイトル 久々に房総
大網は外房に向かうための拠点でした。客車も気動車もここで方向転換。電化して線路付け替えで駅もお引越し。
走り始めた特急わかしおは停車しない。急行外房は停まるけどわずかな時間。チビッ子の私でも時代が感じました。
弁当屋さんも通路でがんばっていたのですが店じまい。
その後客車列車は一日だけ復活します。銚子行きだったけど乗ったよ(^^)


投稿者 雑魚
投稿日 4月 4日(火)09時18分55秒
タイトル 両国駅
> その後客車列車は一日だけ復活します。

当時の客レというと、両国発着だったのでしょうか。利用した「あやめ」がたまたま
同駅止まりで、普段は閑散としていた旧「列車ホーム」を利用する機会がありました。
これとて最盛期の状況からすれば、かなり変容した結果と聞きますが、それにしても、
上野や新宿と異なり、環状線どころか並行緩行線にしか接続しない同駅が優等列車の
ターミナルというのも、風変わりな話です。市電接続が無くなった後の近鉄大阪線の
上本町駅を連想しますね。

東京−錦糸町の地下線が開業する前後の、総武線における緩急分別体制も、なかなか
流動的だった様ですね。1968年の電化延伸を受けて、中野から成田ないし木更津まで、
緩行線と同じ 101系にて快速が運転された事もある様です。



投稿者 安全靴をはいたたぬき
投稿日 4月 4日(火)17時54分30秒
タイトル 亀レスながら国鉄客車開発記の印刷の件
管理人様、大変ご無沙汰しております
昨年まで印刷業界の激流に翻弄されっぱなしだったので、何年振りかの投稿になります
さて、印刷時の色の件について、現物を見ていないので何とも言えないのですが、
赤羽線と埼京線沿線の製版会社を渡り歩いた経験で述べる事にします

画像スキャンをする際には、色が青みがかったり赤みがかったりして方向性が狂わないように、
ニュートラルなグレーにする(もしくはニュートラルな色調にするべき)場所をスキャン対象物から見つけて、
手動でパラメータ(トーンカーブなど)を設定してからスキャンします
古い写真やフィルムについても、同様です
写真の露出を決定する際に、緑系の色や肌系の色を基準にする手法に通ずるものがあります

経験が多分に要求されるスキャナオペレータですが、
入稿時や色校正と呼ばれるやりとりの際の指示がない限り、特定部位の色調をいじる事はありえません
まして、印刷会社側からすると、長年のお客さんなので変な営業をよこさないはずですし、
その営業が協力会社に変な指示を出すのはありえないと思います
とはいえ、フィルムスキャナ時代からの経験者が減りつつある現状では、
不自然な色調の印刷物が出まわる傾向が今後顕著になっていくのではないかと懸念しております

11年前に撮影した北海道久遠郡大成町平浜のスハフ42の画像をついでに投稿します



投稿者のホームページ

投稿者 さだお
投稿日 4月 4日(火)22時04分12秒
タイトル 特ロの連結の向き
すみません。気長に調べると言っておきながら
長年、調べのつかないことがあります。
それは、ナロ10、スロ54などの特ロの連結の向きに
決まりがあるのかどうか、ということです。
スハ44系つばめ編成などでは、3等車は座席が固定ですので
向きは変わりませんが、写真なんかで見てみますと
特ロは、進行方向に向かって、出入り口の向きが、前だったり
後ろだったりしています。
これだと、乗車するとき、たいへん不便だと思うのです。
向きって、適宜、変更されていたのでしょうか?
どなたか、ご存知の方、いらっしゃいませんでしょうか?
他力本願ですみませんが、何卒、ご教授くださいませ


投稿者 クモイ103
投稿日 4月 4日(火)23時07分48秒
タイトル 倶楽部メモ
>さだお様
 当掲示板の過去ログに、「客車の向き」に関する情報がありますので、ご参照下さい。
「倶楽部メモ(272)〜倶楽部メモ(276)」です。

>ご乗車の皆様
 管理人様のご尽力により、ここの掲示板の過去ログはたいへん分かり易く整理されています。
まだご覧になっていない方、ぜひ一度ご覧になることをお勧めします。
トップページから「11号車 客車列車掲示板」(客車倶楽部)に入ったところで、
メイン掲示板(ここ)の入り口より下の方に、過去ログの入り口がたくさん(!)あります。



投稿者 さだお
投稿日 4月 4日(火)23時48分45秒
タイトル ありがとうございます
クモイ103様。またまた、ありがとうございます。
ひと通り、目を通したつもりでしたが、見落としていました。
早速見てみます。



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