倶楽部メモ(228)
平成16年 3月 2日〜 3月 5日


投稿者 こう@神戸舞子
投稿日 3月 2日(火)10時09分48秒
タイトル シートの劣化に反応
オロ31のシートについては私が知る部分ではありませんが、以前、近鉄2250系の都落ち車に乗った時、
シートのへたりがひどく異常に疲れた思い出があります。
優等車のシートにはラテックススポンジがたくさん必要ですが、これがない為にいいかげんな補修をしたとか・・
当時の苗穂、旭川、釧路、五稜郭各工場のことは良く分かりませんが、
私の世代でもキハ82など座席の痛みはひどかったように記憶しています。
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投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 3日(水)10時33分31秒
タイトル 関釜連絡船と列車番号
金剛丸は生き残りましたが、朝鮮戦争の米軍輸送に狩り出され、台風で座礁委付、
興安丸は神戸港、徳寿丸は下関港で写してあります。
景福丸は函館で「フローテイングホテル」になっていましたね。やられたのが「天山、崑崙」丸等の最新造船だったとは皮肉な物です。
列車名で繋がっていたのは東京ー宇野間の「瀬戸」で連絡船で高松に着くと、宇和島行き準急「瀬戸」が待っていました。


投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 3日(水)20時59分8秒
タイトル EF5841様 へ
1レ「富士」は101レ長崎港行き急行ではなかったですか?関門連絡船は1便でしたが---
鹿児島行き急行は3レ「桜」に連絡船3便ー鹿児島行急行3レで連絡。
7レも連絡船7便―鹿児島行き急行(夜行)7レ連絡でした。
「富士」には更に長崎港から上海行きN.Y.K.ライン(後の東亜海運)に連絡する使命もあったから
長崎港行き急行(出帆日のみ長崎から延長運転)連絡になっていたはずです。
N.Y.K.の乗船券と長崎‐神戸間は「プール」になっていて、船でも列車でもどちらでも乗れたそうです。
戦争まじかには長崎ー神戸間が運航休止され、列車か、神戸‐上海直行の「大洋丸」(よく揺れるので悪名高かった)
利用になったそうです。
「プール乗車船」の事は、一度利用した父から聞きました。


投稿者 クモイ103
投稿日 3月 3日(水)22時22分12秒
タイトル 船ネタですみませんが

>マロネロ38様
 興安丸、徳寿丸を撮影されたのですか。一度写真を拝見したいものです。

 鉄道連絡船の歴史については、以前気合いを入れて文献を漁ったことがあり、
座学に過ぎませんが、関釜連絡船のその後についても興味を持っております。
 戦火をくぐって生き延びながら台風で座礁し解体の憂き目にあった金剛丸、
それをしのぐ大型優秀船として期待されながら実力を発揮しきれず日本海の藻屑と消えた天山丸と崑崙丸、
そして本来の用途よりも戦後の引き揚げ船として有名になった興安丸、
などなど、いずれもそれだけで本が書けそうな激動の物語で、興安丸については本当に本が出ていますね。
徳寿丸は、洞爺丸台風後のピンチランナーとして青函航路に就航した点でも興味深いです。

 連絡船の歴史にはまっていた頃は、単に興味の対象にするだけの立場に一抹の後ろめたさを感じ、
下関の崑崙丸や函館の洞爺丸他の慰霊碑にお参りしたものです。
また今でも、交通博物館に行けば、2階の連絡船コーナーをまず一巡してから4階の図書室に向かいます。
博物館移転の話が出ていますが、連絡船関係の資料は引き継がれるのか心配です。
 景福丸ホテルの存在は、仕事で函館に行く機会の多かった父から聞いています。
今は長崎で大雪丸がホテルになっており、開業後すぐ泊まりに行きました。

 船ちゃんモードですみません。みなさん、連絡船の歴史を紐解くのもまた格別ですよ。


投稿者 こう
投稿日 3月 4日(木)10時28分29秒
タイトル 連絡船と客車
連絡船の存在が客車列車の繁栄をもたらしていた・・こう考えると、こじ付けでしょうか・・
というのは連絡船があるということで必ず、客貨車の入れ替え作業が必要となり、
このため世は機関車の春・・ということは客車の時代。。
ちょっと言葉足らずかもと思いますが、鉄道から本来の連絡船が消えたことと、
客車列車が消えていくことに何か時代の必然性を感じてしまいます。
私も洞爺丸の本を読みました。鉄道と、船と人生と、考えさせられるものがありました。
投稿者のホームページ


投稿者 EF5841
投稿日 3月 4日(木)11時38分38秒
タイトル >>1レの件
1レの件、厳密な意味での接続を考慮せず、混乱させましたことをお詫びします。
連絡船の話が話題になっていますが、青函及び宇高において、客車の航送が行われていた当時、
寝台利用の状態で航送されたのか、船室へ案内の上航送されたのかご教示いただけると幸いです。


投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 4日(木)11時52分18秒
タイトル 鉄道連絡船
本HPの主旨に外れますので、管理人サンの許可があればネガを探して見ませう。
青函、宇高はそのまま航送だったと存じます(但しトイレ使用禁止=宇高)
青函は時間が長いからあるいは船室に入れたかも知れません。


投稿者 クモイ103
投稿日 3月 4日(木)21時12分45秒
タイトル 連絡船と客車航送

 昭和39年に登場した青函連絡船津軽丸(2代目)でも、
当時のピクトリアル誌によると、若干の改造で客車航送が出来るように車両甲板が設計されていたとのことです。
一度そういうのに乗ってみたかったですね。

>マロネロ38様
 連絡船の写真の件、おっしゃる通りここは客車の掲示板ですので、無理にとは申しません。単なる極私的興味ですので・・・


投稿者 仙コリ(管理人)  
投稿日 3月 4日(木)22時40分31秒
タイトル 鉄道連絡船と客車航送

鉄道連絡船の話題で盛り上がっていますね。
私自身残念ながら鉄道連絡船には乗らずじまいだったのですが、その昔は特に青函連絡船などはぜひ乗ってみたいと思っていたものでした。
さて、鉄道連絡船の話題や写真の話などが当HPの主旨に外れるのではという話にもなっていますが、
確かに一般の客船の話などはご遠慮いただきたい面もありますが、
皆様の書き込みの通り一昔前までは鉄道連絡船は鉄道輸送の重要な一翼を担っており、
客車航送という客車趣味とも切っても切れない関係もありましたので、遠慮なくお話して頂いてかまわないと考えております。

PS.私事ながら数日前に目に怪我をしてしまい、ここ数日パソコンに向えない日があったため反応が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
   おかげさまで怪我は快方に向かっているので、また皆様と楽しいお話ができればと思いますのでよろしくお願いします。


投稿者 青列車
投稿日 3月 5日(金)00時45分23秒
タイトル 【連絡船】客車航送は…

今晩は(^o^)/EF5841さん
お話の連絡線の客車航送ですが、やはり客車に乗客を乗せたまま行われていたようです。
しかし、洞爺丸や紫雲丸の悲劇に鑑み、万が一の際、車輌甲板の客車からだとに乗客を避難させることが難しく危険なので、
乗せたままの航送は中止されたと聞いております。
(洞爺丸と運命を共にしてしまったマイネフ38-5が乗客を乗せていたかどうかは存じませんが)

東北線系統の夜行客車急行から連絡船乗り継いで北海道!体験したかった…(;_;)
21世紀になってやっと、はくつる−海峡リレーで北海道!でも、旅程途中で会社に呼び出され急遽戻る羽目に…
(交代のアルバイト君のご親戚のご不幸で彼を休ませなくてはならなくなった)
一番乗ってみたかった50系5000番台とうとう乗れませんでした…(往きは14系でした)


投稿者 青列車
投稿日 3月 5日(金)00時47分50秒
タイトル (無題)
仙コリ(管理人)さま
お怪我をなさったのですか?
お見舞い申し上げます。
ご快方に向かっておられるとのこと。一日も早いご回復をお祈り申し上げます。


投稿者 こう
投稿日 3月 5日(金)09時13分28秒
タイトル 連絡船大好きでした。
僕は北海道も四国も連絡船が大好きでした。
白鳥から北海へ・・鷲羽からうわじまへ・・何度乗ったか覚えていないほどです。
青函の食堂やグリーン、桝席、宇高の讃岐うどんが今も大切な思い出になっています。
特に四国へ行くと、高松でたくさんの旧型客車や気動車が迎えてくれたのが昨日のようです。
高松のスハフ43は見るばかりで一度、乗っておくべきだったと悔やんでいます。
仙コリさま・・お怪我はいかがですか?ご回復をお祈りいたします。
投稿者のホームページ


投稿者 ア・ドン
投稿日 3月 5日(金)10時02分25秒
タイトル オハフ33・青の奥羽車
 ひさびさです。このほど私カトーのN・オハフ33(青)を入手いたしました。
出来は、現在のカトー製品らしく素晴らしい物です。
(個人的に車掌室側妻面の、はしご別体表現とデッキ内部の再現には感激。)
テールライトON/OFFもありますし・・・。妻面には初めて全検表記が入りましたね。(車掌室側だけですけど・・・。)
TR23も新規金型で、平軸受仕様の上、ブレーキシューが車輪と同一面となっていて、
一般型客車の前作・10系以上です。(ビス止めタイプですけど。)
・・・・全体的に16番の製品やその後の経験をフィードバックした実にカトーらしい良い製品だとおもいますね
(むろん異論はあると思いますが。)
 きのう知人と話したのですが、「トミー製品駆逐してしまうのではないか?」というのもうなづける話と思えてしまうのが・・・・
(まあ、トミーは戦前後期型だからプロトタイプは別なのだけど)
 ただ、床板が43系のモールドデーターの使いまわしと言う所が欠点でしょうか.
(車軸発電機があの情けないモールドのままなのはどうにかしてほしかったですね・・・。
あと、欲を言えば電気暖房トランスもオプションで・・・いや、これは高望みしすぎか。)
まあ、テールライト付きで新規金型の製品を1700円で収めるには仕方なかったところだとおもいますが・・・。
 ところでご質問なのですが、奥羽本線系統であの形態に近い(青車体・リベットつき・扉Hゴム)車ってどれぐらいいたものでしょうか?
配置区・車番込みでご存知の方居られましたら、ぜひよろしくお願いします。
(奥羽本線沿線生まれなのに・・・・生まれた年代上(昭和51年)、乗った記憶が無いのがどうも情けないというか・・・。
まあ、運用消滅時8歳でしたから・・・・。)
よろしくおねがいします。
P.S 管理人様、お大事になさってください。


投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 5日(金)14時29分5秒
タイトル 管理人様御大事に
お怪我ですか―――御大事になさってください。
私も先週胸の皮膚と肋骨の間に脂肪の塊が出来て、外来手術をし昨日糸を抜いた所です。
おかしな物ではないと言われてなんとか一安心です。
客車航送は結局「洞爺丸.紫雲丸事故」で廃止されてしまいましたが、宇高などは「夜行」でしたから余計危険が多かったからでしょう。
確か土讃線がスロハ32で、予算本線がスロハ31(W)で土讃の方が車が良かったですね。


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