急行音戸さんからのご質問に出て参りました、くたびれ気味の不良鉄道中年です(爆)
お問い合わせのオハニ36ですが、台車はTR−52でした。
(一見すると10系客車のTR−50に酷似しています)
広トマ所属の他のオハ35やオハ46(但しタイプII。スハ43のダイエット!グループ)の
TR−23やTR−47に比べてホイールベースが短いのが走行音からも即座にわかりました。
ところで、ご指摘の所属配置ですが、私の記憶の限りでは、オハニ36の23、24は、
所属表記も広トマ(徳山客貨車区)でした。
もっとも、この2両がやってきたのは、昭和50年前後だったはずで、それ以前の岩徳線のハニ車は
オハニ61が配置されていました。
(私が中学生の頃まではいたはずです)
また、その頃にはオハ41などもいて、オールロングシートにつり革が並ぶ姿は異彩を放っていました。
昭和40年代の岩徳線の客車列車は茶塗り車両ばかりでした。
青塗りのスハフ42239や、オハ35889などが入線してきたのは、オハニ36の来る少し前です。
そして、晩年には殆ど総ての車両が青塗りになっていました。
(オハフ33の472と590の2両が例外的に茶色で残っていました。
590は比較的遅い時期に異動してきましたが、472は永くこの地で働いたハコです。)
また、オハ46タイプII否、スハ43のラストナンバーである、オハ46698も晩年のメンバーです。
この他にも、オハ46には601や605がいました。
そしておそらく、オハ35の79、251を置き換える目的で?山陰線系統の運用を離脱して?
オハ46の602、603が入線しました。
この両「車」は、所属表記が広セキのままでした。
検査周期やあるいは、車両置き換えの関係から?貸し出し名義だったのかも知れません。
(オハ35の79、251もなかなかユニークで、青塗りではありますが、
79などは車体裾にリベットもズラ〜リと残っていましたし、車内は木目ニス塗りのままですが、
窓の下に一丁前にテーブルを備えていました)
車体に書かれた所属表記は、転属後直ちに書き換えるとは限らないようです。
電車でもやはり中学時代に名カキ表記のままのクハ85106を山陽線富海駅で見かけました。
この当時は特に旧世代車両は銭金と人手のかかる全般検査の期限が来たら遠慮なく廃車。
検査期限の残っている車両は全国に転属させやりくりつける…
そのため、旧表記のまま、書き換えて無かったりする例があるようです。
因みに、旧型末期の広トマの陣営は、配置12両の使用10両で、10両編成を組み、
徳山〜岩国間を2往復していました。
徳山寄りにオハニ、次位にオハフ、反対側の編成端にスハフまたはオハフが入ります。
ほぼ毎日、編成替えが行われ、検査対象になったクルマが編成から抜かれ、
基地で「お留守番」モードに入っていました。
体質改善された急行仕様の43系グループのオハ46は、
ある意味では、山陽線の80系の初期型よりも、格式は上だったといえます。
(もっとも、DE10に牽かれてゴロゴロ走る姿は、やっぱり田舎のローカル線の鈍行でしたが…)(^^);
これらの味のある面々も、運命の!59年2月改正で50系にバトンを渡し、運用離脱していきました。
それから僅かのうちに、客レ自体岩徳線から消えていきました。
あれから幾星霜…
この時生まれた赤ん坊が、今や学校帰りに渋谷や池袋あたりではしゃぐ年頃に育っています(^^);
今は昔の思い出話でした(^o^)丿
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