倶楽部メモ(99)
平成13年 8月 4日〜 8月11日


投稿者 やまだ
投稿日 8月 4日(土)01時01分49秒
タイトル 日中線の客車の謎・オハフ61−2706
本文

皆様こんばんは・・

日中線が話題になっていますね?

103列車機関士様の御指摘どおり仙フク、仙コリ、仙ワカの配置変更はどうなって
いたのでしょうかね? 現存する保存オハフや近年まで残っていたオハフが仙コリ様の
ご提供の情報によると仙ワカに在籍していたようですし・・・
その中でオハフ61−2706は89年の今頃、長町操車場に在った仙台電車区長町派出所
で最後に解体された旧客でした。 その時の表記は仙フクだったので、おそらく79年から
の50系投入による玉突き転配で仙台や福島から会津若松へ転属し、その後の日中線の廃止
から検査周期に余裕がある等の理由で再度福島へ転属したのではないかと思われます・・
おそらく他の車輌も同じような理由で仙鉄局管内をぐるぐる廻っていたのかもしれませんね?

そう言えば東北本線ではGマ−クが付いた茶塗りのオハフ61を見たことがあるのですが、
あれは尾久や宇都宮(昔、上野口で宇都宮で増結が2両程度あったそうですが・・)高崎に
いたオハフ61が仙鉄管内に流れたモノなのでしょうか?(話題が逸れて済みません・・)


投稿者 C63
投稿日 8月 4日(土)10時30分11秒
タイトル 日中線
本文  懐かしい話題になりました。
C11の頃に一度乗ったきりですのであまり詳しく記録していませんが、
C11+客車2両+ワムといった編成だったと記憶しています。
 C12が入線していたことは何かの雑誌に載っていたような記憶がありますが、よくわかりません。
たまたま保存していた「旅と鉄道」誌No.13(1974秋)に
 C11 63 + オハ61 2929 + PC1両といった記事が載っていました。
 ところで、先日韓国国鉄に乗る機会を得ました。
釜山−海雲台間20.7kmでしたが、重連のDL+客車5両+荷物車でした。
乗客も多く、十数年前の日本国鉄の雰囲気が感じられました。 


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月 4日(土)14時35分52秒
タイトル 仙ワカの客車
本文

やまださんから質問のありました、仙フク、仙コリ、仙ワカの配置変更についてですが、
仙ワカに最後まで配置されていたオハフ61について調べてみました。
各車の昭和40年以降の配置についてですが
2527 ?S58 仙ワカ S59/01 廃車
2528 ?S58 仙ワカ S59-  仙コリ S61/03 廃車
2542 ?S43 東コフ S44-S45仙セン S46-S58仙ワカ S59-  仙コリ S60/02 廃車
2619 ?S41 仙フク S42-S58仙ワカ S59-  仙コリ S59/07 廃車
2706 ?S41 高タカ S42-S43千キウ S44-S56仙セン S57-S58仙ワカ S59- 仙コリ S61/03 廃車
2751 ?S42 秋アキ S43-S58仙ワカ S59-  仙コリ S59/11 廃車
3035 S41-S58仙ワカ S59-  仙コリ S61/03 廃車
3044 S41-S58仙ワカ S59-  仙コリ S59/07 廃車
といった状況で、問題の2706以外は、昭和40−50年代のほとんどが
仙ワカに配置されていたようですが、2706はだいぶ転属していたようですね。
実際の転属の理由というのは、現場にいた方でないとわからないですが、
50系投入の影響なのでしょうか?
当時は50系投入初期で、仙センもまだまだ50系よりも旧客が多かった状況ですので、
1両だけがなぜ仙ワカに転属してきたのか謎ですね。
全車が昭和59年に仙コリに転属していますが、日中線廃止と共に?仙ワカ自体も廃止?
されたようなので、全車が仙コリに転属のうえ休車、そのまま廃車となったようです。
また、2706の廃車時の表記が仙フクになっていたとの事ですが、資料(JRR
気動車客車情報)では最終配置は仙コリになっているのですよね。
書類上の廃車から実際に解体されるまでの間に転属したのでしょうか?
(そんな事があるのか?あるいは資料の間違えか?)

参考までに日中線記念館に保存されているオハフ61 2752の配置歴ですが
-S42秋ヨテ S43-S47仙ワカ S48-仙セン S59/06廃車となっており
最終配置は仙センですが、一時期日中線で使われていた車両のようです。

また、最初の103列車機関士さんの書き込みにありましたオハフ61 2160
スハ43 2163・スハフ32 2357につきましては、仙ワカに配置されていた事は
ないようですので、やはり日中線を走った事はないようです。


投稿者 オロネ10
投稿日 8月 6日(月)11時20分13秒
タイトル 日中線、C12
本文 その後、日中線C12の証拠写真を探すべく、部屋をあさったのですが、出て来たのが、
残念な事に、走り去る方の「ついで写真」のみ。正面の「C12力走」が見つかりません。
白煙を上げて、かなり力走している写真である事は確かなのですが。
走り去るC12の次位には、トキが付いていました。
私の記憶では、客車2輌だと思っていたのですが、記憶はアテになりませんね。
撮影時期は昭和43年3月の筈です。雪が残り、その朝は一面の霧でした。
トキの後ろが写っていないので、この場には役に立ちませんが。
その頃は「C11」は全く入線していなかったと思います。
日中線は「C12」と言うのが、当時の常識(?)であったように記憶しています。
日中線の開通時期は知らないのですが、恐らく開通時から「C12」ではなかったのでしょうか。
そうすると「C11」より長い間働いていた事になりそうですね。


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月 6日(月)16時58分16秒
タイトル 日中線の牽引機
本文

日中線の牽引機について、いろいろと調べてみました。
まず日中線の歴史ですが

昭和13年 8月18日 開業
昭和49年11月10日 蒸気機関車引退
昭和59年 3月31日 廃止

となっており、会津若松機関区に所属していたC型タンク式蒸気機関車は

戦前〜昭和25年頃 C12が多数 2120(旧称B6)が2両
昭和25年頃〜   C12が多数 C10・C11が数両
昭和30年頃〜   C11が多数 C10が数両・C12が2両
昭和38年頃〜   C11が多数 C12が2両
昭和45年頃〜   C11のみ

となっていました。
オロネ10さんの情報により、昭和43年の時点での日中線の牽引機がC12であった
ということですので、昭和30年頃から昭和45年頃のC12が2両といった時期は、
その2両のC12が日中線用であったと考えられます。
C12型は線路規格の低いローカル線用で、C11より軸重軽減した機関車のようなので
典型的なローカル線である日中線に投入され、その後の路盤改良等でC11が投入された
のでしょうね。
機関車についてはあまり知らないため、開業初期に2120が牽引した可能性というのが
あるのかどうかまったくわかりませんが、まとめてみると

開業時〜昭和45年頃 C12(初期は2120の可能性有?)
昭和45年頃〜    C11
昭和49年11月〜  DE10またはDE11

といった事になり、C11の牽引はわずかな期間だったようですね。
蒸気機関車引退の時点での牽引機がC11であったため、C11のイメージが強いようですね。
(私が実際に見たのは、時期的にC11で間違いないようですが・・・)

ところで、日中線末期のディーゼル機関車牽引時代についての質問なのですが、DE11は
本来入れ換え専用機ですよね?
なぜDE10に代わってDE11が牽引していた時期があったのでしょうか?


投稿者 オロネ10
投稿日 8月 7日(火)13時04分28秒
タイトル お手数かけました。
本文 車掌さん、有難うございました。蒸機の所属歴まで、本当に資料が豊富なんですね。
こうして見ると、当時の会津若松は、タンク機関車の宝庫の様ですね。
C11が会津線と只見線(で、正しかったかな?)、C12が日中線と言う使い分けだったのですね。
処で、さっき列車編成表を見させて戴いていた時、上野・郡山間の普通列車、昭和51年の編成で、
最後尾に「スハフ32」がチョコンと付いている様ですね。
これは、もしかしてダブル・ルーフの「スハフ32 2037」なんでしょうか?
実は、私はこの郡山発の列車を、赤羽から上野まで通学(!)列車として時々使いました。
昭和47年頃までです。当時でももうダブル・ルーフは希少価値で、何度か写真に撮っています。
リベットぼつぼつの重厚な姿は、軽量化された車輌とは格が違う様ですよね。
結構長生きできたのでしょうか???


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月 7日(火)17時14分41秒
タイトル ダブルルーフのスハフ32
本文

オロネ10様、情報がお役に立てたかどうか・・・
実は、蒸気機関車に関する資料は持ち合わせていたわけではなく、他のホームページからの
引用でして・・・さすがに残念ながらそこまでは持ち合わせていません・・・・
C11とC12の振り分けはオロネ10さんの推測で間違いないと思います。
たった2両のC12ですから、他線区では使わずに日中線専用だったと思います。

列車編成表についてですが、かなり以前に作った資料なので、出典は調べなおさないと
わからない状況なのですが(汗・・)
スハフ32についてですが、ダブルルーフのスハフ32は、ほとんどが昭和40年代初めには
淘汰されてしまい、最後の1両も昭和47年頃に熊ヒトを最後に廃車になったようです。
上野まで顔を出していた可能性のある該当車は2087と2088で、昭和43年頃まで
仙コリ及び仙フクに配置されていたようなので、オロネ10さんがご覧になった車両は
この2両のどちらかでは?と思うのですが。(両車とも昭和43年度中に廃車?)
(ちなみに2037は昭和40年頃に新潟で廃車になっていると思われます)
なお、シングルルーフのスハフ32は、昭和51年の段階で80両ほど残っていたので、
編成表に掲載した車両はシングルルーフ車のようです。


投稿者 オロネ10
投稿日 8月 8日(水)11時32分21秒
タイトル 間違えました!m( _ _ )m
本文 すみません。昨日再度写真をチェックしたら、「スハフ」でなく、「スハ32 2037」でした。
記憶では最後尾にあったと思ったのですが、それは別の列車だったようです。
撮影時期は、昭和43年か44年の夏。「スハフ」と一緒に43年に廃車になってしまったのでしょうかね。
ご乗車の皆様にはすみません、重箱の隅で。


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月 8日(水)13時01分57秒
タイトル スハ32 2037
本文 オロネ10様
「スハフ」でなく「スハ32 2037」だったのですね。
この2037はスハ32ダブルルーフ最後の1両で、昭和45年に廃車になったようです。
晩年は仙セン・仙フクに配置されていましたので、東北本線の長距離普通列車で上野まで
顔を出していたのでしょうね。
ちなみにスハ32のダブルルーフ車はスハフ32よりやや早く、昭和30年代後半には
ほとんどの車両が廃車されてしまい、昭和40年代まで残った数少ない車両は、ほとんどが
東北地区に集結?していたようです。
(昭和41年時点で残17両中、盛モカ・秋アキ・仙セン等東北地区に13両)


投稿者 オロネ10
投稿日 8月 8日(水)15時57分07秒
タイトル 感激です。
本文 皆さん、何度もすいません。
車掌さん、有難うございました。ダブル・ルーフ最後の一輌だったとは、感激です。
恐らく私は廃車になる直前まで、これに乗っていた事になるのかもしれません。
以前の投稿をポツポツと読ませて戴いていますが、誰かがおっしゃっていたように、
この掲示板はなつかしくて涙が出そうですね。
それに、営業運転の列車に乗った経験もない若い人で、旧客のファンが大勢いらっしゃるのには、
大変心強く嬉しいものがあります。
感謝の印に(なるかどうか判りませんが)こんな列車に乗ったと言うのを一つ。
(決して若い人を羨ましがらせる訳ではありませんが。(^^;)
時は昭和39年。丁度東海道新幹線の開通に日本中が沸いていた10月です。
ひょいと思いついて赤羽から軽井沢まで行こうと思いました。
(高校生でよくお金があったなと思いますが)
選んだ列車が、臨時準急「高原1号」。勿論客車列車です。
写真を見直してみると、「スハフ42」の後に43系(と見える)を主体に8輌続いています。
高崎から先は「EF62」で、横・軽は「EF63」の補機が付いていますが、勿論全て茶色です。
しかし驚きなのは、上野・高崎間の牽引機です。「EF60104」。二つ目のぶどう色の「EF60」です。
上野・長野間の茶色の準急でありながら、全て近代型の、しかも茶色の電機が牽いていたと言うは、
今となっては時代のはざまの貴重品ではないかな、と思いました。大事な写真です。
すいません、勝手な話ばかり致しました。また宜しくお願い致します。  


投稿者 菊之介@急行八甲田
投稿日 8月 9日(木)01時11分30秒
タイトル ラララ〜高原列車は行〜く〜よ〜
本文 >オロネ10さん。
確かにそりゃ貴重な経験ですね。
ロクサンのお世話には何度もなりましたが、ロクニのお世話になったことはそんなにありません。
またEF60ともなると、、う〜む。
茶色の客車が似合う電気機関車というのはゴハチのような一昔前の型の電機というのは
菊之介の固定観念ですが、でもロクニもロクサンもさすが碓氷峠を守ってきた電機だけに、
どんな列車とも絵になる。。。英雄憚は違うなぁ。
独り言にお付き合い下さり有り難う御座いました。


投稿者 オロネ10
投稿日 8月10日(金)18時35分01秒
タイトル 超素人話題!?
本文 なんか、古い話題を書いてしまい、皆さんの投稿の筆を鈍らせてしまったようで、すいません。
すいませんついでに、一つ素人質問をさせて下さい。
実は、もう旧客どころか、殆ど客車もなくなってしまったので、最近の時刻表には目もくれていなかったのですが、
ちょっと頼まれて夜行列車を調べたら、東北本線に「エルム」と言うのがあるのに気づきました。
これはいつ頃から走っているのですか。
また、車輌はどんなものを使っているのですか?? なぜ「エルム」と言う名前になったのでしょう。


投稿者 221レ
投稿日 8月10日(金)20時53分51秒
タイトル SG無しですか?
本文

オロネ10さんほか皆様こんばんは!
EF603次型の臨時準急ですか?
SG無しなので冬場はどうしたのでしょうかね?
まさか暖房車なんて付けたのでしょうか?そんなことないかな?
スロ81座敷車も末期はゴハチがなくて
EF65Pが牽引したりして邪道だと思っていたのですが
昭和40年代前半にそんな姿が見れたとは驚きです。
準急「高原1号」の末裔に当たる?臨時急行「軽井沢」は
12系客車を従えてEF62が上野まで顔を出していたのを思い出します。
(こちらは昭和57年頃)
40年代前半はEF62も大忙しで余裕がなかったのでしょうね?
ところでエルムですが、北斗星のモノクラス食堂車無しといえばいいのでしょうか?
24系客車モノクラスです。(完全な北斗星の輸送力補完列車)
こいつに夢空間をつなげば夢空間北斗星の出来上がり!
いつから走っているか、ネーミングの由来は知りません。

ところで昔の写真を整理していたら
私が始めて撮ったSL列車写真で55年5月に高島線で運転された
C581+旧客が出てきました。
よく見るとスハフ42には、南シナの表記がありました。
この頃、川崎駅付近に旧客がたくさん留置されているのは見たことがありましたが
品川にスハフ42やオハ47がいたのですね。
中央線の臨時夜行鈍行あたりに使われていたのでしょうか?
もし、ご存知の方がいたら教えてください。
それでは。


投稿者 103列車機関士
投稿日 8月11日(土)20時39分46秒
タイトル 中央線の旧客
本文 皆様こんにちは、日中線の話題、大変参考になりました。それにしてもやはり蒸気
時代の話に熱がはいるのですね!鉄道趣味を支える動機ってやっぱり幼少、青春時代
の思い出だとおもいます。SLもかっこいいと思います、現役のSLを目の当たりにしたら
皆様のように熱く語れたのになあと思います。私も足尾線のさよならSLのC12に母に抱かれて
手を振っていたらしいのですが、悲しいかなまったく覚えていません、、、
made in 群馬の私にとってEF62,58の客車列車は大変思い出があります。
「軽井沢」なつかしいなあ、そういえば高崎線の2322レ、最後は62と12系、でしたね
北オクのオユ11とマニ37つけて、
さて私、中央線の旧客に大変興味を持っております。飯田町に旧客がゴロゴロしてたのかと
思うと不思議な気がします。1975年7月18日に新宿〜岡谷に走った9431レ
の記録を書いてみたいと思います。
EF64 26 (篠ノ井?)
スハフ42 2402
スハ 43 2475
スハ 43 2261
オハ 46 2623
オハ 46 2737
ナハ 11 2100
オハ 46 2519
スハフ42 2403
南シナの車両を使った臨時普通列車だそうです。(川崎留置車、これだったのかなあ?)
この時はもう飯田町区は無かったんですものね。わたしは425レの編成
を知りたいのですが西イイの最後の配置を調べればいいのでしょうか
生意気に編成表など書きましたが、これ雑誌で調べたものです、すみません


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