急行「銀河」は、いつしか深い闇の中を滑る様にひた走っている。どこまでも真直ぐにのびる二条のレール、見下ろす浩の頬をかすめて空間が後方へ飛び去り、足元を列車がゆっくりと追い抜いてゆく。彼の視野にまず機関車が、そして12両の客車が次々と現れ、それにつれて列車の音が・・・パンタグラフの擦過音が、電源車のエンジンの轟音が、そして道程を刻むジョイント音が、彼の耳を通り過ぎ虚無の空間へと広がってゆく。さらに耳をすませば列車の中の音・・・客車の幌と渡り板のガチャガチャいう音、機関士のハンドル操作の音、車掌が書類をめくる音、椅子のきしむ音・・・これら全ての音が一つになって列車を包み込み、天地もわからぬ漆黒の原野に心地良いBGMを奏でているのだった。それはまさに一つの生き物の鼓動と息づかい、列車に身をゆだねる乗客達の寝息さえ、ゆるやかな対旋律をなして・・・
浩の目の前に、やがて赤い尾灯と「銀河」のバックサインが現れた。彼は視線を前方に移していった。ヘッドライトの光芒が吸い込まれる彼方、二本のレールが一つになる所に、何か光るものが見えている。彼は列車と共にその光の方へ漂って行った。はじめ白い塊に見えたそれは、近づくにつれて色とりどりにきらめく無数の星にわかれ、やがて巨大な渦巻き状の星雲となって彼の眼前一杯に広がった。それはまばゆいばかりの光の海、レールはしかしあくまで真直ぐに列車を導き、列車は長笛一声、星たちのただ中へと飛び込んでゆく。その時である。あたりの星々が一斉に輝きを増し、その強烈な光線に、浩は反射的に目をかばう間もなく体ごとはじき飛ばされた・・・
遠くで汽笛が聞こえた。あたりはスープの様な濃い霧の中、右も左も、頭上も足元も、かすんで形のあるものは何一つ見えない。再び汽笛が聞こえた。今度はもっと近くで・・・その時、タタンタタタンタンと不規則なジョイント音がしたかと思うと、いきなり視界に躍り出た蒸気機関車。不思議なほどに無感動のまま立ちつくす浩のすぐ側を、激しいドラフトの息づかいと真っ白な蒸気が通り過ぎてゆく。あとに続く客車には「広島行」の文字、そして窓からのぞく幼い顔、それはまさしく浩自身の姿であった。そう、あれは母に連れられて呉へ行った時の事
― 20年以上昔の情景の中に、彼は引き込まれているのだった。窓から不思議そうに列車の足元を見つめる幼い浩に、母が言った。
― そんな所見てたって線路はないのよ。ここは単線なんだから ―
― ふうん ―
納得した様なしない様な、気のない返事・・・前夜東京を発って、まだ非電化の呉線をゆく急行「安芸」でのひとこまだった。再び立ち込める霧の中、遠ざかる客車のテールライトに手をのばしても届こう筈がなく、彼は呆然とそれを見送った・・・
浩の目の前に窓があった。ニス塗りの木枠の向こうにはいかめしい運転台の機器類。そのまた向こうにのびる線路が、こちらへ向かってどんどん流れて来る。車内に満ちわたる勇ましいモーターの唸り、はずむ様に揺れる車体ときしむバネの音、と、突然ぴたりとモーター音が止み、歯切れの良いリズムだけが残る。運転士の肩越しに覗くメーターは65km/h、速い速い。遠くに黒い点が見えたかと思うと、見る間に近づいてこちらと同じ茶色い電車になる。首をすくめて待つすれ違いの一瞬、タイフォンに続いてけたたましく窓ガラスが鳴り響く・・・
数え切れない列車が彼を乗せて運び、数え切れない列車が彼の側を通り過ぎて行った。小学生の時長岡まで乗った特急「とき」、中学生の時会津若松へ行った夜行「ばんだい」、高校生の時仲間と乗り通した上野発一ノ関行き鈍行列車、そして大学時代、初めて渡った北海道で、偶然令奈と一緒になった夕張線の気動車・・・霧の中に現れては消える幻を、彼は静かに見送り続けた。そしてそれらの向こうに、さらに無数の、一度も出会う事のなかった列車達がいる事を、彼はまた思うのだった。しかしどんなに目をこらしても、それらは霧に隔てられた別の次元にあって、もはや永遠に見る事は出来ないのだ。
今また一本の列車が走り続けている。ヘッドライトが虚空を虹色の輝きに変え、ブルーとアイボリーの機関車が颯爽と風を切る。青い客車に銀の帯、闇にひときわ眩しい方向幕には「急行銀河・大阪」の文字。浩と令奈の乗った、国鉄最後の「銀河」だ。彼は列車の近くへ漂って行き、一緒に並んで追いかけた。行く手にのびるレールはどこまでも真直ぐに・・・当然の様にそう思っていた浩の視線が、前方の一点に釘付けになった。
分岐器だ ― これまでずっと一本だった線路が突如二本に、いやその先にも分岐が・・・浩は息を呑んだ。よく見れば何個ものポイントが連続し、一組の線路は次々と分かれて膨大な数の線路となっているのだ。それぞれの進路はてんでに右へ左へ、上へ下へと散って行き、あるいは曲がりくねってからみあい、交叉し、さらに幾本もの線路へと際限なく分かれてゆく。それはさながら密林の巨木の奇怪な枝振り、視界の果てる所まで続き、その先がどこへ通じているのか、それ以前にどの進路が開通しているのかさえ見当もつかない。浩はうろたえた。列車は減速もせず、最初の分岐点めがけてまっしぐらに突き進む。ホイッスルの金切り声があたりの空間をびりびり震わせ、軽い一定リズムだったジョイント音が、にわかに高鳴る乱れ打ちに変わった時、浩は場面を正視している事が出来なかった。
・・・列車は走り続けた。右に左に激しく動揺しながら、なおも変わらぬ速度で次々とポイントを通過して行く。台車がぎいぎいと悲鳴を上げている。浩は後ろを振り返って唖然とした。あの一本だった筈のここまでの線路が、いつの間にか今いる所と同じ分岐器の連続に変わってしまったのだ。後方遥かに霞む彼方から、何十本もの線路が次々と分岐を繰り返し、気の遠くなるような一大操車場となって、浩の所へ、急行「銀河」のいるあたりへと続いているのだ。360度見渡す限り分岐器の海、そこには無数の列車が、皆同じ方向に走っていた。さっき霧の中で見た過去の列車達がいた。写真で知っているだけの列車達がいた。最近の新しい列車が、何十年も昔の列車が、それぞれ目の前の分岐器の作り出す曲がりくねった進路に翻弄され、いつ果てるとも知れない仕業の終点を目指して揺れ続けていたのだ。
地獄・・・そんな言葉が浩の脳裏をよぎった。大行進を続ける列車達に感情移入してみれば、まさしくこれは地獄絵図に違いなかった。人生の縮図・・・そんな考えも浮かんだ。だが人生は地獄じゃない。ポイントの開通方向で全てが決まるものでもない。だいいち人生には未来の可能性というものがいくらでもある。ではこの列車達は・・・?
浩は訳のわからない焦燥感に駆り立てられ、やみくもに列車の進行方向に進んで行こうとしたが、思わず立ちすくんだ。目の前を走る急行「銀河」の向かう彼方、分岐を続ける線路の先が、霞んでぼやけているのだ。そこから先はまるで別世界、もうろうとした水墨画に溶け込んだレールの先は、陽炎の様にゆらいでどこかへ見えなくなっている。しかし浩は駆け出す事が出来ない。彼の目の前にもまた、複雑な迷路が立ちふさがっていたのだ。空間に忽然と現れた大迷路はその全容すら定かでなく、しかも遠くの方は線路と同様霞んでしまっている。浩は凍りついている。「銀河」はなおも走り続ける。その行く手の空間は彼にとって、にわかに遠い存在となりつつあった。しかし焦りはつのる一方、すくんだ足を無理につき動かそうとする。浩は隣に居る令奈を振り返った。令奈は何も言わず、首をちょっとかしげて不思議そうな表情で浩を見た。言葉が出ない
― 浩の頭の中を様々な事物が一時に駆け巡った。意識野は平衡を失い、彼はあたり構わず叫び出したくなった。世界が脈打っていた。早鐘の様な鼓動の音が空間を満たしていた。そのただ中にあって揺さぶられながら、一方彼自身は、金縛りにあった様になすすべもなく立ちすくんでいた・・・
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