仙コリ様
さっそくにありがとうございます。
昭和58年6月の運用表でしたらおかげ様で正に疑問解決です。
やはり日中線用の客車は廃止までずっと一日中喜多方に詰めていたわけですね。
それにしても、違う運用の2つの客車群を
同じ時間帯に同じ場所で同じ列車番号に使うこと、
しかも現存する日中線の列車番号を磐越西線の番号を変更して使ってまで
その状況をわざわざ作り出したことは不思議です。
また、後になって日中線の方の番号のみ変更(620レ)するとは、
前のメッセージを自ら否定するかのようで、さらに謎に思えます。
仙コリ様のおっしゃる通り、
機関車が熱塩から会津若松まで通すことを反映するため、
というくらいしか全体の整合が取れる解が思いつきませんね。
因みに、私の手元には昭和59年4月1日(日中線廃止の翌日)付の
仙コリの客車運用表があります。
仙コリ様のおっしゃる通り、この運用表でも223レ編成の前部は
野沢まで行って上り1224レにくっついて会津若松に戻り、
後部は喜多方から622レとして折り返すようになっています
(この一連の運用は古くから変わってないようですね)。
但し、この運用表ではこの運用は前部編成が【仙附55】2輌、
後部編成が【仙附56】2輌となっており、
仙コリ様が示していただいた3月以前のものから変わっています。
因みに4月1日運用表では【仙52】は1233,1226,2243,2244であり、
この運用は同月8日の越後線・弥彦線電化に伴って
たったの7日間で新津区(50系)に移管され、
これによって最後のスハフ32である仙コリの3輌が運用を離脱しています。
(運用表という動かぬ証拠をいただいた以上、以下はもはや意味がありませんが)
前回の私の仮説では、日中線から戻った622レが機関車ごと【仙附56】
(と言うより3月以前なので【仙52】)
にくっ付いて計4輌(【仙52】であれば計6輌)で
622レを名乗って会津若松に帰ったのかなー、と思ってました。
さらに、夕刻に新潟から来る1230レが57.11改正まで(この時代は230レ)は
喜多方でわずか3分しか停車しなかったのに、
同改正により約20分の停車に変わっていることから、
この列車の後部2輌が切り離されて日中線623レになったのではと考え、
朝の622レの客車がいったん会津若松に戻ることの傍証になると思った次第です。
さらに意味のない話をしますと、長らくオハ61+オハフ61だった日中線に、
末期には35系や43系が入ったのもこの話とつながるのかも、と思いましたが、
これはやはり単に仙ワカの61系の廃車や転出によるものなのでしょうね。
*626レで1日のお勤めを終えた日中線の客車は
磐越西線234レにくっ付いて会津若松に帰ったのでしょうか。
楽しい想像をさせていただき大変ありがとうございました。
可能であればぼくも今後たまに参加させてください。
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