倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
日中線の客車運用・旧会津加納駅付近の写真について


倶楽部メモ(797) 平成30年10月25日〜10月29日


投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月25日(木)23時53分6秒

タイトル

日中線の客車運用

ご存知の方がいらしたら教えてください。
磐越西線に、昭和30年代からほぼ運転時刻が変わらない
244レという喜多方→会津若松の朝の上り列車がありました
(200番台は磐越西線の基本の列車番号)。
この列車が昭和57年11月ダイヤ改正時に突然622レという番号に変わりました。
これは日中線の朝いちばんの上りと同じ番号です。
しかも日中線622レの喜多方到着時刻と
磐越西線622レの喜多方発車時刻は20分程度しか変わらず、
あたかも日中線の列車がそのまま磐越西線に乗り入れて
会津若松に帰ることを示唆しているように見えるにも関わらず、
時刻表上ではあくまで別の列車として載っています。
さらに不可解なのは、日中線廃止の約5か月前の昭和58年11訂補の時刻から
日中線の方の622レだけが、これまた「わざわざ」620レと変更されています。

定説(というより事実でしょう)では、日中線で運用される客車2輌は
朝一番の下りのみ会津若松を始発として喜多方から日中線に入り、
上りとして喜多方に戻った後は
夕方の2往復までそのまま喜多方駅の日中線ホームで
昼寝していたことになっています。
ところが、上記にように57.11改正時に磐越西線の列車番号を
「わざわざ」日中線に現存する列車と同じ番号に変更しているということは、
客車の運用が変更されて日中線622レの客車は
そのまま会津若松に帰ってしまうようになったのでしょうか。
その場合、夕方の623レの客車は、同列車の喜多方駅発車時刻の直前に
新潟から到着する1230レの後部2輌が切り離されたもの、
という仮説が成り立たないでしょうか?

*因みに、磐越西線622レは昭和59年3月末の日中線廃止後も、
約1年後の昭和60年3月改正時まで、そのままの番号で存在していました。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月26日(金)21時20分3秒

タイトル

日中線の客車運用

昨晩日中線に関する質問をさせて頂いたものです。
投稿が初めて且つ投稿してから皆様の情報を拝読させて頂き、
お作法もわきまえず不躾に乱入してしまった事に気づきました。
深くお詫び致します。
恥ずかしながら当サイトの存在も存じ上げず、
たまたま発見してすぐに自分が知りたい話を気軽に投げてしまった次第です。
どうかご容赦ください。
当方の疑問はもしかしたらよく知られた話かも知れず、
もしくは当該時期の運用表があれば即判明することですが、
どうかご教示頂ければと存じます。




投稿者

仙コリ@管理人

投稿日

2018年10月27日(土)01時03分4秒

タイトル

Re:日中線の客車運用

maffei4100様 初めまして

当掲示板「客車倶楽部」管理人の仙コリといいます。

この「客車倶楽部」は「鉄道」特に「客車」に関する話題であれば
自由に語り合える場として運営しておりますので、
maffei4100様の書き込みは何ら問題なく、むしろ大歓迎であります。

以前書き込みしたこともありますが、私の母の実家が日中線沿線にあり、
小さいころに祖母といとこと一緒に蒸気機関車牽引時代の列車に
乗車したこともある思い出深い路線であり、
この「客車倶楽部」でも度々話題に上がっていますが、
特定の列車や運用に関するご質問なので、
きちんと調べてからお答えしようかと時間がたってしまい、
不安にさせてしまったようで申し訳ありませんでした。

日中線の運用については、昭和58年6月現在の運用表を持っていますが、
maffei4100様のお書きになっている通り、
朝の621レとして会津若松からの通し運用で日中線に入り、
昼間は喜多方駅留置で夜は626レとして会津若松へ戻っています。

この日中線の運用は「仙付55」運用でオハフ・オハの2両での運用なのですが、
問題の磐越西線の622レは「仙52」運用で
スハフ・スハ・スハ・スハフの4両での運用で別物となっていまして
夕方の2244レとして郡山に向かいます。

といったことで日中線の622レと磐越西線の622レは
運用上まったく別の列車であるにも関わらず
おっしゃる通り、あたかも同じ列車のような時刻、
同じ列車番号で運転されていました。

その謎を解く鍵と思われるのが、
磐越西線の会津若松から新潟方面へ向かう2番列車である223レであり、
この列車は上記「仙52」運用と「仙付55」運用の併結で運転され、
「仙52」運用は喜多方で折り返して例の磐越西線622レとなり、
「仙付55」運用は野沢まで行き、折り返して新潟発の1224レの増結車両として
会津若松へ戻っています。(日中線運用の翌日の運用です。)

このとき喜多方で切り離される「仙52」運用は機関車が無くなるわけで、
折り返しである磐越西線622レには、直前に喜多方駅に到着している
日中線622レの機関車が使用されていて、機関車の運用上
622レという通しの列車番号がつけられた可能性があるのかと思います。

もっとも客車はまったくちがう運用で、
当然乗客は乗り換えなければならない状況で、
同じ列車番号にするのは非常に疑問ですし、
223レが最初からプッシュプル運用の可能性もあるので
上記の考えは的外れの可能性もあります。

あくまでも私の推測ですので、詳しい事情をお知りの方が
いらっしゃいましたら、フォローして
いただけると助かります。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月27日(土)18時01分17秒

タイトル

Re1:日中線の客車運用

仙コリ様
さっそくにありがとうございます。
昭和58年6月の運用表でしたらおかげ様で正に疑問解決です。
やはり日中線用の客車は廃止までずっと一日中喜多方に詰めていたわけですね。
それにしても、違う運用の2つの客車群を
同じ時間帯に同じ場所で同じ列車番号に使うこと、
しかも現存する日中線の列車番号を磐越西線の番号を変更して使ってまで
その状況をわざわざ作り出したことは不思議です。
また、後になって日中線の方の番号のみ変更(620レ)するとは、
前のメッセージを自ら否定するかのようで、さらに謎に思えます。
仙コリ様のおっしゃる通り、
機関車が熱塩から会津若松まで通すことを反映するため、
というくらいしか全体の整合が取れる解が思いつきませんね。

因みに、私の手元には昭和59年4月1日(日中線廃止の翌日)付の
仙コリの客車運用表があります。
仙コリ様のおっしゃる通り、この運用表でも223レ編成の前部は
野沢まで行って上り1224レにくっついて会津若松に戻り、
後部は喜多方から622レとして折り返すようになっています
(この一連の運用は古くから変わってないようですね)。
但し、この運用表ではこの運用は前部編成が【仙附55】2輌、
後部編成が【仙附56】2輌となっており、
仙コリ様が示していただいた3月以前のものから変わっています。
因みに4月1日運用表では【仙52】は1233,1226,2243,2244であり、
この運用は同月8日の越後線・弥彦線電化に伴って
たったの7日間で新津区(50系)に移管され、
これによって最後のスハフ32である仙コリの3輌が運用を離脱しています。

(運用表という動かぬ証拠をいただいた以上、以下はもはや意味がありませんが)
前回の私の仮説では、日中線から戻った622レが機関車ごと【仙附56】
(と言うより3月以前なので【仙52】)
にくっ付いて計4輌(【仙52】であれば計6輌)で
622レを名乗って会津若松に帰ったのかなー、と思ってました。
さらに、夕刻に新潟から来る1230レが57.11改正まで(この時代は230レ)は
喜多方でわずか3分しか停車しなかったのに、
同改正により約20分の停車に変わっていることから、
この列車の後部2輌が切り離されて日中線623レになったのではと考え、
朝の622レの客車がいったん会津若松に戻ることの傍証になると思った次第です。
さらに意味のない話をしますと、長らくオハ61+オハフ61だった日中線に、
末期には35系や43系が入ったのもこの話とつながるのかも、と思いましたが、
これはやはり単に仙ワカの61系の廃車や転出によるものなのでしょうね。

*626レで1日のお勤めを終えた日中線の客車は
磐越西線234レにくっ付いて会津若松に帰ったのでしょうか。

楽しい想像をさせていただき大変ありがとうございました。
可能であればぼくも今後たまに参加させてください。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年10月27日(土)20時37分43秒

タイトル

Re3 :日中線の客車運用

maffei4100 様、はじめまして。
日中線には私も興味があるので、話題に参加させていただきます。

仙コリ様
日中線関連の客車運用表をお持ちとの事、貴重な情報ありがとうございます。
昭和57年11月改正の当時、
日中線はすでに特定地方交通線の第一次廃止対象に指定されていたと思います。
そのような線区の客車運用をわざわざ本線と絡むように
変更することは考えにくいな…と思っていましたが、
やはり客車運用は独立したままだったのですね。

maffei4100 様ご指摘の「磐越西線622レ」、
そういえばそういう事があったな、と思い出しました。
確かに200番台が基本の磐西線にあって
600番台の日中線の列車番号をつけている事と、
何より喜多方駅において日中線622レと重複していることは実に不思議でした。
理由は謎ですね。
基本的に同一駅に同一番号の複数の列車が共存することはできない筈ですが、
もしかして「あちゃー、やってしまった」
と気付いて日中線の622レの方を変えて誤魔化したのかも…



磐越西線622レの前身である244レには、昭和49年9月に乗りました。
この時は日中線621レ〜622レで熱塩まで往復し、
喜多方で244レに乗り換えて会津若松へ戻りました。
622レが喜多方に到着した時、磐西下り副本線の3番線には
客車4両の新津方にDD51がついた編成が停まっていました。
これが仙コリ様のお話にある223レで到着したものでしょう。
当日は休日だったため野沢行きはなく、牽引機がついたままだったのですね。

621レのC11は前向き牽引でした。熱塩に転車台は無いので、
折返しの622レは逆向きとなりました。
喜多方に到着すると、2両の客車を日中線ホームに置いて、
C11は機回し線からいったん新津方に引き上げ、
構内をぐるっと大回りして、3番線の編成の会津若松方に連結されました。
すなわち 逆C11+客車4両+DD51 という編成が出来上がり、
これが244レとなったのです。
(実はDD51が最後尾についたまま走り出したかどうか
確認していないのですが、あのまま喜多方に居ても用事はないと思われますので、
そのままぶら下がって会津若松の基地に帰っただろうと推測しています)

写真は今まさに244レの編成に連結しようとするC11です。



ちなみに手元にある当時の時刻表に、
拙い私の筆跡で次のような書き込みがありました。

 15:04 → C11の回送 → 15:27

おそらくそのあと構内見学した会津若松運転区で入手した情報なのでしょう。
なお当日午後の牽引機もこのC11 204でしたが、
623レが逆向き、624レが前向きと反転していました。
623レを会津村松駅で出迎えた写真を、2011年 6月 5日(日) に投稿しております
(倶楽部メモ(658))。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月28日(日)00時17分59秒

タイトル

Re4 :日中線の客車運用

クモイ103様
ありがとうございます。ぜひよろしくお願いいたします。
S49の喜多方での貴重なお話ありがとうございます。C11の回送情報も貴重ですね。
前回の記事及び会津村松での写真も拝見しました。
同日中に2度日中線に入られたのですね。
喜多方から会津村松まで歩いて
そこから623レで上三宮まで移動されたのでしょうか。
途中駅もおさえるのは素晴らしい攻め方だと思います。
このようなローカル駅、しかも盲腸線の途中駅で
昭和50年代まで普通貨物の扱いが実際に行われていたというのは稀有な例で
奇跡的とも言えると思います。
宮内明朗氏撮影のビデオに、上三宮でC11が2輌の有蓋車を
側線に押し込むシーンがほんの少し写っていますが、
これは貴重な映像だと思って気に入ってます。
仙コリ様
会津加納にご縁があるとは羨ましい限りです。
同駅の往時の写真を見るとその活気にはワクワクさせられます。
私が日中線に乗ったのは昭和56年4月で
鉱物輸送のホッパーや側線は撤去されていたものの、
駅舎側の貨物側線や上屋は残っておりました。
と言うより日中線は会津村松の貨物上屋がなくなっていた以外、
駅舎、貨物上屋ともに(よく言われるように荒廃していたものの)残っており、
初めて触れる「ローカル」に興奮した記憶があります。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年10月29日(月)21時29分54秒

タイトル

Re5 :日中線の客車運用

maffei4100 様

本投稿の時点で37〜40ページ前になっていますが、
2016年3月22日、4月29日、4月30日に、私と仙コリ様の投稿で
日中線の現役時代と近年の対比ができる画像がありますので
ご参照頂ければと思います。

私ももう一度会津村松駅跡に行ってみたいです。


↓このサイトで、日本各地の昔と近年の空中写真や地図を対比する事ができます。

「ウェブで過去の地形図や空中写真を見る」
http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/lmap.html?data=history
(httpを半角に直して入力して下さい)

日中線沿線についても1975年頃の画像があります。
会津村松の駅舎があった場所は、現在では国道459号線が貫いているようですね。




投稿者

仙コリ

投稿日

2018年10月29日(月)22時12分16秒

タイトル

Re6 :日中線の客車運用

maffei4100 様

>会津加納にご縁があるとは羨ましい限りです

母の実家によく行っていたのは鉄道に興味を持つ以前の小学生時代で、
残念ながら乗車経験も前述の1回限りなんですよね。
それでも、走行していた蒸気機関車を見ていたり、駅近くで線路をオーバークロス
(という表現でよいのかどうか?)していた道路から駅を見ていた記憶はあります。
今では線路跡は道路になってしまい、
駅近辺もすっかり雰囲気が変わってしまっています。

>*626レで1日のお勤めを終えた日中線の客車は
 磐越西線234レにくっ付いて会津若松に帰ったのでしょうか。

昭和58年6月1日現在の日中線の運用表によると

「仙付55運用」会津若松運転区(仙ワカ)2両

1日目

午後に出区し「仙53運用(4両)」と併結し
6両編成で磐越西線2242レとして会津若松から郡山まで運用
折り返して2245レとして郡山から会津若松まで運用して1日目は終了

2日目

日中線中心の運用で、会津若松発喜多方経由熱塩行きの621レから始まり、
喜多方−熱塩間を622レ・623レ・624レ・625レ・626レと運用し、
喜多方からは回送列車(回626レ)として会津若松まで運用し2日目終了

3日目

会津若松から野沢まで磐越西線223レとして運用
(会津若松−喜多方間「仙52運用(4両)」と併結)
折り返して磐越西線1224レとして野沢から会津若松まで運用し
(「仙51運用(50系4両)」と併結)入区

以上3日間の行程となりますが、1日目は15:00頃からの運用、
3日目は9:00頃までの運用であるため、必要編成は2編成となっています。


ちなみに、当時の会津若松運転区(仙ワカ)配置の客車
(「仙53」「仙付55」で使用)は

オハ35   2041 2161 2179 2507 2905 2910

オハフ61  2527 2528 2542 2619 2706 2751 3035 3044

となっていました。




投稿者

仙コリ

投稿日

2018年10月29日(月)22時27分31秒

タイトル

Re7 :日中線の客車運用

ちなみに、今の旧会津加納駅近辺の写真です。
(撮影は約2年前ですが)

1枚目の奥方向が熱塩駅方面です。
少しだけ線路が残っており、
かっては写真奥にオーバークロスする橋(道路)がありました。

駅名標は新たに作られたものと思われます。





倶楽部メモ(798) 平成30年10月30日〜11月 1日


投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月30日(火)00時00分41秒

タイトル

Re8 日中線の客車運用

仙コリ様
運用の詳細、ありがとうございます。おかげ様でよくわかりました。
1日の最後は回送だったのですね。
正に1日中日中線のためだけのお仕事だったわけですね。
それと、オハ61の全廃でオハ35が入るようになったんでしょうね。
因みに最近気づいたのですが、オハ35は2161、2507の2輌が、
近代化改造も体質改善もされず且つ茶色で残った
全国で最後の戦前製だと思われるのですが、いかがでしょうか。
特に2161はS15年製で旧番号(33810)で落成しており価値があるように思います。
また、2507は日中線最後の日にも運用に入ったようですね。

会津加納、ありがとうございます。
ぼくは昨年36年ぶりに熱塩の記念館を訪ねましたが
沿線を丹念に見ることはできませんでした。
いつか配線跡を見てみたいと思っています。
添付はS56.4の会津加納です。
もともとろくな写真ではない上に複写がうまくいかず
とてつもないものをお見せしてしまいますが、
アングルが見せていただいたものと同じなので恥を忍んで貼っておきます。
背景の山々だけは変わりませんね。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月30日(火)22時38分44秒

タイトル

Re9 :日中線の客車運用

クモイ103様の投稿を見逃しておりました。失礼いたしました。
さっそく在りし日の会津村松駅の写真を拝見しました。
これはかなり貴重ですね。
日本中そうだったはずですが、
ローカル駅でもこんな立派な駅舎があったんですよね。
旅客に加えて貨物扱いもバリバリに行われていた往時を見てみたかったです。

なんだか調子に乗ってひどい画質ながらぼくも会津村松、
上三宮の写真をアップしておきます。
いずれもS56.4撮影です。
縦位置が会津村松でこの駅のみ貨物上屋が既になかったと思います。
横位置は上三宮です。
(実はこの頃カメラの扱いがわかっておらず3段(!)露出アンダーです)






投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月30日(火)22時50分1秒

タイトル

Re10 :日中線の客車運用

ほんとにしつこくて恐縮ですが、さらに会津加納駅の写真を3枚追加します。
尚、よく見てみると、仙コリ様に見せていただいた
2016年の写真の火の見やぐらの向こうの大きな屋根の民家は、
ぼくの写真(昨日及び今回の3枚のうちの1枚)の中に写っているものと
同じと断定できそうです(非常に見づらいですが)。
ということは火の見やぐらは後から建てられたのですね。
駅前広場から駅舎全景を撮ったものもあるのですが、
完全逆行なのでさすがにやめておきます。








投稿者

仙コリ

投稿日

2018年10月31日(水)20時48分49秒

タイトル

Re11 :日中線の客車運用

maffei4100様

在りし日の会津加納駅の写真を見せていただきまして、ありがとうございます。

特徴的な三角屋根が大変懐かしいです。

ところで火の見やぐらですが、
前述の私の小学生時代(1970年代前半)にはありました。

母の実家に訪れる際に(父の運転する車でしたが)会津加納の集落に着いた際の
目印的な存在でしたので、当時から存在していたはずです。

私の写真では奥の家のすぐ前に見えますが、
望遠レンズによる圧縮効果でそう見えてしまっていて
奥の大きな家は旧会津加納駅の熱塩より、
火の見やぐらは旧会津加納駅の喜多方よりにありました。

maffei4100様の最初のお写真のポイントの右側位の位置にあったと思います。
そうなると最後のお写真に写っていても良さそうではあるのですが・・・




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年10月31日(水)23時45分0秒

タイトル

Re12 :日中線の客車運用

仙コリ様
ありがとうございます。
失礼いたしました。火の見やぐらをこの時代以降に建てるのは?
と思いながら画像を誤解して書いてしまいました。
確認できないことを書いてはいけないと肝に銘じているつもりなのですが、、、
反省します。

仙コリ様のおっしゃるように火の見やぐらはぼくが思っていたより
もっとずっと手前なのですね。
最後の写真にぎりぎりで写っていない位置なのかもしれませんね。

ぼくも沿線を歩いて巡ってみたいと思います。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年11月 1日(木)08時23分5秒

タイトル

Re13 :日中線の客車運用

maffei4100 様

会津村松、上三宮の写真も追加いただきありがとうございます。

会津村松駅の貨物上屋については記憶にありませんが、
昭和49年の駅舎正面の写真で左側に建物が続いていないように見えるので、
その時点で既に無かった可能性もありますね。
ちなみに貨車は貨物ホームから大きく外れた位置に停車していました。
すぐ目の前に日通の事務所がありましたので、
貨物扱いを委託していたのかもしれません。

写真は上三宮です。
1枚目は朝の621レ最後部から、SL引退間近でデッキは超満員でしたので、
他人の股の間から撮っています。撮影場所がわからなかったのですが、
先に紹介したHPにある1975年の空中写真で
ホームと線形の位置関係から場所を特定できました。
2枚目は夕方の624レの到着シーンです。SL目当てのファンが何人かいます。
(中央の人物は母で、当時中学1年生の私が学校から一人旅行を許されなかったため
同行してもらいました)
3枚目は待合室に掲げられていた時刻表です。
駅舎の全体は撮っていませんが、
会津村松と同じような荒れ方だった印象があります。

会津加納駅近くにあった火の見やぐらについて、私は直接見ていませんが、
maffei4100様の投稿「Re:10」の3枚目の写真では、
もしかして駅舎の立派な屋根の向こうに隠れている可能性は考えられませんか?








投稿者

仙コリ

投稿日

2018年11月 1日(木)18時36分42秒

タイトル

Re14 :日中線の客車運用

maffei4100様

本題からは外れた話題でつっこんでしまいまして申し訳ありませんでした。

この火の見やぐらについては、ネット上で旧会津加納駅の写真を探してみても、
映り込んでいる写真はごく一部でして、
位置関係等について私も疑問に思ってしまったので、
本日仕事が休みだったので、現地調査に行ってまいりました。

1枚目の写真は喜多方側からの撮影で、
おおよそ最初にご投稿いただいたお写真と同じようなアングルにしてみました。

ここから横に広げると2枚目の写真となり、右側に火の見やぐらが見えてくるので、
予想通り一般的な駅風景の撮影をすると、ギリギリ火の見やぐらは
写らないアングルになったのであると考えられます。






投稿者

仙コリ

投稿日

2018年11月 1日(木)18時43分17秒

タイトル

Re15 :日中線の客車運用

同様に熱塩側からの写真ですが、1枚目はたぶん駅舎があったあたりの場所から
の撮影で、火の見やぐらがバッチリ写っていますが、
ここから少し熱塩側に移動しますと2枚目の写真となりまして、
クモイ103様の推測通りに今建っている建物にも隠れている状況でして、
大きな三角屋根であった旧会津加納駅には
完全に隠れてしまっていたものと思われます。






投稿者

maffei4100

投稿日

2018年11月 1日(木)22時07分42秒

タイトル

Re16 :日中線の客車運用

仙コリ様
これ今日なんですね! 今現在こんな感じなんですか! 
なんとも言えない不思議な感じです。
火の見やぐらの件はクモイ103様のご推察と仙コリ様の実証で解決ですね。
ぜひぼくも現地を訪ねて、往時の駅を偲ぶとともに
この火の見やぐらを見上げてみたいと思います。

クモイ103様
貴重な写真をありがとうございます。
2枚目の写真、いいですね。
このようなローカル駅の記録は極めて貴重だと思います。
ウィキベテアでは上三宮駅の駅舎は昭和40年代に火事のために建て替えられた、
とありますが、
・この年代に、わざわざ木造で再建したのか、という点
・クモイ103様の写真やぼくの写真から見る朽ち具合
から、ちょっと疑問に思います。



倶楽部メモ(799) 平成30年11月 3日〜11月18日


投稿者

仙コリ

投稿日

2018年11月 3日(土)13時54分12秒

タイトル

Re17 :日中線の客車運用

maffei4100様

>これ今日なんですね!

はい、今となっては一昨日ですが、投稿した1日午後2時頃の様子です。

他の廃線跡を訪れたことが無いので比較できませんが、
日中線跡には面影が残っている場所が結構ありますので、ぜひ訪れてみて下さい。

写真は、ここまで来たら訪れないわけにはいかない
日中線記念館の一昨日の様子です。

なお、前述の通り、日中線に関しては皆様のように鉄道好きとしての視点ではなく、
母の実家付近としての私の田舎の思い出となってしまうので、当時の写真もなく、
少々異なる視点となってしまう事をご容赦ください。








投稿者

maffei4100

投稿日

2018年11月 4日(日)23時48分24秒

タイトル

Re18 :日中線の客車運用

仙コリ様

いいですね。これよく残してくれましたよね。
ぼくもぜひまた再訪したいと思います。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年11月 5日(月)00時10分24秒

タイトル

Re19 :日中線の客車運用

maffei4100 様

上三宮の駅舎が昭和40年代に建て替えられたというのは、
いくら何でも無理がありますね。
ネット上の情報は時に???なものがありますね。
日中線に関してはもう一つ、
喜多方駅で分岐する日中線の線路跡に保線用機械の車庫ができた
という怪情報が一部に出回っているようですが、明らかに誤りです。
写真1枚目は1990年8月に日中線の線路跡から喜多方駅の方を向いて
撮影したもので、保線車の車庫は隣りの線路です。
日中線が現役だった1975年の空中写真でも
同じ場所にそれとおぼしき構造物が確認できます。
色合いが異なるので建て替えられている可能性はありますが、
車庫は昔から同じ場所にあったようです。


仙コリ様

わざわざ出向いてまでの最新画像をありがとうございます。
私が日中線記念館を訪れてから28年が経ってしまいましたが、
今も変わらない佇まいなのでしょうか。
写真2枚目は熱塩ではありませんが、
喜多方〜会津村松間の途中で出会った保存機です。
また3枚目のバス停の標識に記された停留所名をよく見ると、
「熱塩駅」を消した跡が残っていました。


私はいわゆるSLブームの世代ではなく、
独りで撮影旅行に出かける年齢になった時にはSLは殆ど姿を消していました。
そんな私が唯一自分で計画して現役の蒸気機関車を撮影に行ったのが日中線で、
思い入れのある線区です。
廃止から34年が過ぎましたが、
今もこの様にいろいろなお話しができることに感謝します。








投稿者

maffei4100

投稿日

2018年11月 5日(月)22時40分33秒

タイトル

Re20 :日中線の客車運用

クモイ103様
やはり上三宮はそうですか。喜多方のその後、ありがとうございます。
ぼくもその保線用機械の話は読みましたが、
上三宮の件と同様、こんなにまことしやかに書かれると、
何でも鵜呑みにしてはいけないという教訓になりますね。
こちらも負けじと(笑)ではありませんが、
廃線の7日後(84/4/7)の喜多方からすぐの地点の画像を出させてください。

仙コリ様
ずかずかと入ってきてなんだかずいぶんおじゃましました。
クモイ103様と同様(失礼ですが)、昭和56年当時中学2年だったぼくにとっても、
DL化こそされてはいましたが客車列車のまま残っていることと、
ローカル盲腸線に初めて触れたこととの2点から、
いまだに非常に印象深い思い出の線です。
いろいろな貴重なお話と現況について沢山お聞きできて
本当にありうがとうございます。






投稿者

クモイ103

投稿日

2018年11月 6日(火)18時48分48秒

タイトル

Re21 :日中線の客車運用

maffei4100 様

ご投稿の最初の写真で線路のカーブ具合に既視感を覚え、
手元の写真と見比べて驚きました。
なんと全く同じ場所で撮っていますね。
背景に同じ家々が写っています。
こちらは1990年8月、6年余りを経た定点撮影でした。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年11月 7日(水)22時14分11秒

タイトル

Re22 :日中線の客車運用

クモイ103様
いやー驚きですね。確かに左の建物が同じですね。
これは先日見せていただいた喜多方駅方面のお写真と同地点でしょうか。
それにしてものどかでいい写真ですね。
ぼくも現役時代にこういう季節に訪ねてみたかったです。




投稿者

クモイ103

投稿日

2018年11月 8日(木)22時03分38秒

タイトル

Re23 :日中線の客車運用

maffei4100 様

場所は違いますよ。
Re:19の1枚目の場所周辺はもっと家が建っていました。
ここの反対向きの写真は、平成18年 9月11日に投稿しています
(倶楽部メモ(340)に収録)。
それよりRe:20でmaffei4100 様が投稿された2枚目の写真が、
ずばりその場所ではありませんか。
おそらく写っている車止めが同じものでしょう。




投稿者

maffei4100

投稿日

2018年11月11日(日)00時25分43秒

タイトル

Re24 :日中線の客車運用

クモイ103様
失礼いたしました。
自分が写した場所をよく覚えておりません。
車止め、おっしゃる通り同じものですよね。それ自体に気づいてませんでした。
(ボケてますね 笑)



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