倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
上野-東京回送線・尾久入庫列車


倶楽部メモ(744) 平成27年 4月18日〜 5月18日


投稿者

IDI

投稿日

2015年 4月26日(日)18時45分50秒

タイトル

上野-東京回送線

懸案の疑問があり、諸兄のお力をお借りできればと思い、
初めて書き込みさせて頂きます、IDIと申します。
宜しくお願い致します。

かなり以前に他の掲示板で話題になったのですが、
いま話題の上野東京ラインこと上野-東京回送線で、
実は戦前より東海道線の列車を回送として尾久に収容する
計画があったという話です。

東海道線は当時電化されていましたから、その為東京-尾久間も電化され、
尾久には電機用にトラバーサー付の機関庫(修繕庫?仕業庫?)まで
用意されたという自分にとっては驚きの話でした。
この計画は実際には、
・運転の管轄が新橋・上野両運輸事務所にまたがる事、
・冬期東北方面列車がダイヤの乱れで東海道列車が影響を受ける事、
・東北線の電化計画がおくれていること
等の理由で実現しなかったようですが、
ただその後も細々とは行われていたようで、
戦後も(昭和30年代?)明星・月光・阿蘇当たりの
東シナ持ちではない列車の一部が、
東京到着後品川ではなく尾久へ回送されていたとの事でした。

そこでお聞きしたいのは、
戦後のいつ頃のどの列車が尾久へ回送されていたのか、
運用表等をお持ちで具体的にもしわかるようでしたら御教授頂けないでしょうか。

不躾な質問で恐縮ですが宜しくお願い致します。




投稿者

クモイ103

投稿日

2015年 4月30日(木)21時07分55秒

タイトル

Re: 上野-東京回送線

IDI 様、はじめまして。
昭和30年初頭までの客車運用は系統だった情報が少なく、調査に苦労しますね。
私もまとまった情報を持っていませんが、一点だけご紹介します。

昭和27(1952)年7月ごろの「瀬戸」の基本編成は尾久の受け持ちで、
東海道系統の急行列車が軒並みスハ43主体で組成される中、
なんとスハ32が多用され異彩?を放っていたという事です。
これは当時を経験されたオールドファンの方から直接伺った話ですから確実です。




投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2015年 5月 1日(金)23時45分13秒

タイトル

尾久入庫列車

ご無沙汰しております。
東海道線列車の尾久区回送車両についてわかる範囲で調べてみました。
昭和23年7月東京門司間不定期準急2021・2022列車は
車両自体が尾久持ちでした。
昭和24年12月東京大阪間急行17・18レ、
昭和25年5月東京長崎間急行3・4レ、
昭和26年2月東京大阪間急行15・16レ、急行11・12レ、
東京長崎間急行35・36レは他区所属車両が尾久回送列車でした。
昭和26年7月運転の東京宇野間臨時急行3039・3040レも
尾久持ちだったようです。




投稿者

IDI

投稿日

2015年 5月 2日(土)14時56分18秒

タイトル

上野-東京回送線

クモイ103様
早速の御返答ありがとうございます。
おっしゃる通り、客車運用は断片的な資料が多く、悩まされます。
昭和27年7月頃だと、「せと・いずも」で併結の頃ですね。
基本だけ(?)でも尾久持ちなら尾久に回送されていた可能性は高そうですね。
ただ、では何時までという新たな疑問が・・・相変わらずですが、奥深いです。

ヒゲ無し雷鳥様
ありがとうございます。お手を煩わせてしまい恐縮です。

・S23.7 2021/2022レ
少し調べてみましたが、
対九州・不定期準急・2夜行・尾久上野関係というキーワードが、
以前こちらで話題になった南風崎→上野の復員引揚列車の8012レと
関係がありそうな無さそうな。
ちょっと気になります。

・S24.12 17/18レ
急行「流星」ですね。
他区所属車両の回送はこれから始まったという感じでしょうか。
かなり早い時期からだったんですね。

・S.25.5 3/4レ
列車番号みて???となりましたが、当時の急行はこんな若番もあったんですね。
勉強になります。

・S.26.2 15/16レ・11/12レ・35/36レ
「彗星」・「明星」・「雲仙」になるのかな。
ちょっと驚きました。26年当時だと本数も割とある感じですし、
「彗星」なんてイネ・ロネ込みのある意味看板編成ですよね。
東京駅での機回しによる輻輳や品川の収容力の限界から
尾久へ回送してたのかと思いましたが、
昼行1本・夜行2本ですし、そういう意味よりは
尾久を積極活用しようとしてた感じなのですかね。

・S.26.7 3039/3040レ
↑の「せと」の前身ですね。もともとが尾久持ちだったんですね。なるほど。

大変参考になりました。どうもありがとうございます。

始まりは見えてきた気がします。
あとはいつ頃終わりになってしまったのか?
普通列車にもあったのか?辺りですね。
これからも長い目で調べていきればと思います。
いろいろ勉強になりました。今回はどうもありがとうございました。




投稿者

クモイ103

投稿日

2015年 5月 3日(日)17時26分13秒

タイトル

Re: 上野-東京回送線

IDI様

> 東京駅での機回しによる輻輳や品川の収容力の限界から
尾久へ回送してたのかと思いましたが、
昼行1本・夜行2本ですし、そういう意味よりは
尾久を積極活用しようとしてた感じなのですかね。

戦後、昭和27年頃までの客車事情を考えるには、
日本を占領統治していた連合軍の輸送を視野に入れなければなりませんが、
とりわけ品川客車区は連合軍専用客車の拠点として、
至上命令であるその整備作業に日夜追われていました。

昭和24年、戦後初の特急「へいわ」の客車を
品川でなく宮原が受け持った背景にも、
品川の連合軍専用客車と管理を分ける配慮があったと言われます。

ですから当時、東海道本線の列車の一部が尾久へ入っていたのは、
軍輸送に追われる品川の負担を軽減する措置だったのではないでしょうか。
そう考えると、昭和27年の講和条約発効を機に軍輸送が減少していく過程で、
尾久に“疎開”していた東海道線列車も
順次品川に復帰していったのではないかと想像できます。
残念ながら私の手元に詳しい情報はなく、



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