倶楽部メモSP 高山線のスハユ30・オハ34・オハ55・オハニ30について
倶楽部メモ(720) 平成25年 2月 4日〜 3月 1日
投稿者
スハユ
投稿日
2013年 2月25日(月)21時35分13秒
タイトル
美濃太田のスハユ30
門タケ様、クモイ103様、仙コリ様 少し昔になりますが、2004年4月に「高山線のスハユ30・オハニ30」 につきましてお教えいただき ありがとうございました。 高山線はS43年10月と割合に早く無煙化(DL化・DC化)されたことと、 交通の便が良い岐阜口はC58ばかりで人気がなかったことで 客車列車の写真は本当に少ないです。 私もその後実家で探した古いアルバムで、 やっと数枚の客車列車の写真を見つけました。 ハーフサイズのカメラでピントもあまく、踏切警報機もあり見づらいですが、 お礼の意味であえて掲載させていただきました。 S43.8に上麻生付近で撮影した826レです。 当時、高山線の名タヤにスハユ30の1番・3番・4番・7番がいたようですが、 7番はWルーフで無いため他の車両かと思われます。 当時はC58が狙いでありスハユ30は少ししか写っていなくて残念です。 ちなみに機関車は高山区のC58389です。 ご存知と思いますが、389はこの後に遠江二俣区へ転出し、 その後駅前に静態保存されました。 変形デフの200号機とともに、高山線で唯一の戦後形で気になる機関車でした。 スハユ30の4両は、43.10時刻改正で キハユニ26が3両とキユニ16が1両転入し、廃止となったようです。 オハユ61は4番がキユニ17が配備されるまで、 名タヤにS43.10時刻改正以降も残っていたようです。
クモイ103
2013年 2月26日(火)22時46分31秒
Re: 美濃太田のスハユ30
スハユ様 お久しぶりです。 SL時代の高山本線の写真、貴重なものを見せていただきありがとうございます。 私など実のところ高山線といえばDC王国のイメージしかないのですが、 ヨンサントオまではC58が多く活躍していたのですね。 昭和54年3月、鵜沼から岐阜まで乗車した普通列車は、 急行編成の間合いでキハ58系の長大編成でした。 濃尾平野の地平線に沈もうとする夕日に向かって爆走する迫力に 圧倒された思い出があります。 その場面をかつてはC58が演じていたのかと思うと、 見てみたかった気がします。
2013年 2月27日(水)14時06分37秒
Re2:美濃太田のスハユ30
クモイ103様 お久しぶりです、その節はありがとうございました。 昭和54年に高山線のDC長大編成に乗車いただいたようで ありがとうございました(笑) 私も昭和41年11月に高校の修学旅行の際、 同時刻にキハ17・25など混成の長大編成に乗りました。 見慣れないDC長大編成と、 田舎にそぐわないロングシートのキハ35にびっくりした記憶があります。 どちらも岐阜折返しで通勤列車となるため長編成です。 当時の高山線岐阜口の客車列車は、美濃太田(美)と高山(山)のC58が ほとんど単機で担当していました。 客車は合造車を除き、高山客貨車区(名タヤ)のオハ61系がほとんどで 稀にオハ35が1両入るくらいです。 写真のスハユ30連結の826レには、 富山客車区(金トヤ)のオハ34が編成の中ほどに2両連結されていました。 いつも乗る背ずりが板張りオハ61に比べ、 窓は小窓2つですが背はモケット貼りで上品な雰囲気のオハ34に乗れる 数少ない休日が楽しみでした。 (写真1)25日と同じ列車です。 (写真2)826レのオハ34です。 最後部に飛騨金山からの回送C58が見えます。 発車と絶気の時に聞こえる本務機と後部機の2つの汽笛に痺れました。 (写真3)DL化された826レです。 スハユ30の次にオハニ61がいますが少し前までオハニ30でした。 長々とすみませんでした。
マロネロ38
2013年 3月 1日(金)11時12分55秒
金トヤのオハ34
スハユ様: オハ34は特急『富士』用に12両製造された、 定員80名のシートピッチが広い車でした。 3413−からは昭和16年に三等寝台廃止でスハネ30系から改造された車です。 車端部分の窓配置が違いました。 金トヤにはオハ3412の『富士』用ラストナンバーが居て、 高岡駅で撮影しています。
2013年 3月 1日(金)14時17分7秒
Re2:金トヤのオハ34
マロネロ38様 はじめまして、オハ34についてのフォローありがとうございます。 私は高山線客車列車について、地元の岐阜新聞社発行の渡利正彦氏の写真集 「戦後を走った車両たち(国鉄編)」「岐阜駅物語」くらいしか知りませんが、 私が知りたい年代の高山線蒸機・客車について 多く掲載・解説されており宝物です。 オハ34―11が「岐阜駅物語」P91に1963年5月撮影写真と共に、 戦前の特急「富士」3等車に使用したと紹介されています。 1964年版モア客車配置表を見ると、 オハ34は金トヤに2番〜12番がいます。 北陸線優等列車にオハ35・オハフ33と共 に運用されたことはあったのでしょうか。 私が乗車したオハ34は上り岐阜行き826列車で、 C58+スハユ30+オハニ30(オハニ61) +オハ34+オハ34+オハフ61+オハ61+オハフ61 だったと思います。 乗るのはいつも休日で時間帯も良く 混雑しており着席したことは一度もありません。 シートピッチが広く稀に乗れる広窓のオハ35と 車内の雰囲気が何か違うと思っていましたが、 当時は「オハ34」であることに気づきませんでした。 客車列車の気動車列車化が進む1965年〜1969年に タイミング良く居合わせたのですが、 高校時代に乗車した客車ナンバーを書いたメモが見つからず必死に探しています。 客車について分からないことが多く、今後ともご教授をお願いします。
倶楽部メモ(721) 平成25年 3月 2日〜 3月 8日
2013年 3月 2日(土)21時35分35秒
高山線客車列車の無煙化
こんばんわ、スハユと申します。 高山線客車列車に興味がお有りの方はお付き合いください。 そして他にご存知の事がございましたら、ご教授いただけるとうれしいです。 私は高山線客車列車の無煙化は「昭和43年10月時刻改正」で完了したと、 ずーっと思っていました。 ですが、弘済出版社時刻表(1969年1月号)が偶然手に入り、 調べると間違っていたことに気づきました。 この時刻表には蒸気機関車牽引列車に「蒸気機関車のマーク」 が記されておりラッキーでした。 岐阜〜高山間の普通客車列車1往復(726レ・727レ)が 蒸気機関車マーク無しで残っています。 美濃太田区のDD51牽引でした。 高山〜富山間には蒸気機関車牽引の普通列車2往復( 821レ・823レ・836レ・838レ)が掲載されています。 機関車配置表1969(鉄道ファン誌)によれば、 高山機関区にC58216・389と 第1種休車の266の3両が配置されており、 2両使用で1両予備として客車牽引に使用したのではと思われます。 猪谷〜富山間のローカル客車列車は3往復 (844レ〜849レ)運転されていますが、 一部列車が蒸気機関車マーク付きです。 富山第一区にはC11が2両(263・268)配置されており、 客車用に使用されたと思われます。 又、飛騨金山〜高山間の貨物列車に使用したD51は 3両(201・338・522)いますが 全機とも第1種休車に指定されており、転出待ちかと思います。 高山〜富山間の貨物用9600は高山区に配置が無く、 廃車や富山第一区などへ転出したと思われます。 こうして見ますと、私が社会人となった頃 1968年〜1969年の高山方面には 結構、蒸気機関車が牽引する客車列車が残っていたんだなーと驚きます。 もちろん、中にはすでにDD51牽引に変わった列車も あったでしょうが多いです。 初めての職場が複雑な交代制で動きが取れにくく、 たった1本の撮影時間帯の良いDD51牽引列車「727レ」や 近場の美濃太田で最後の入換に励む「C11」「C58」 撮影さえもままならない間に、 1969年に客車列車の終焉を迎えました。 写真は親に修学旅行用として初めて買ってもらった、 オリンパスペン・ハーフサイズカメラ (今のフィルム式簡単カメラと同じくシャッタースピード・露出は自動ですが、 焦点距離は遠・中・近を手動で切替ます。 性能は現在の固定焦点式の簡単カメラに完全に負けます。 フィルムは普通サイズの半分しか使わないので2倍の枚数が撮れます)で 1969年頃に撮影したものです。 手振れに特に注意しましたが、 とにかく調子が悪く写真が出来上がるまで心配でした。 話題は変わりますが JR東海美濃太田車両区構内で長らく雨風にさらされ、 ベンチレーターも撤去された哀れなオハフ46の3両が 先月末までに浜松工場へ大型トレーラーで陸送されたようです。 ひどい退色と傷みのはげしい車体を見るのはつらかったのですが、 それでもよく癒してもらいに会いに行きました。 廃車解体でなく是非とも復活・走行してほしいと祈っています。
2013年 3月 3日(日)11時05分47秒
オハ34の運用
スハユ 様 北陸本線の優等列車に組み込まれていたのか?は正直申し上げて存じません。 富山とか高岡へは仕事と私用で度々行きましたが、 「ゆのくに」や「立山」に は入って 居ませんでした。北陸本線の優等列車はミハ持ちが主流でしたから、 優等列車に入るとしたら、 臨時『加賀』とか『ゆのはな』に応援で組み込まれたかのか?ですが、 後者を一度米原まで利用した時には、スハ32(円屋根)に乗せられました。
2013年 3月 3日(日)16時32分47秒
Re:オハ34の運用
マロネロ38様 ありがとうございます。 そうしますと金トヤのオハ34は、 マロネロ38様が今月1日付けで 「高岡で12番を撮影した」旨ご教授いただいたことや、 私が高山線普通列車に乗車したことから、 富山エリアで主に普通列車の運用についていたのですね。 富山近辺の普通列車運用に、 往年の名特急「富士」で使用されたオハ34が使われていた・・。 高山線で乗った頃にその事を知っていたら、もう少し見る目が違ったでしょうね。 スハ32・・・私は実際に見たことも乗ったこともありませんが、 写真で見るとズラリと美しく並んだ小窓に引かれる形式で一回乗りたかったです。
2013年 3月 3日(日)20時36分30秒
高山線の準混合867列車
スハユと申します。 高山線のマイナーな話題が続き恐縮です。 高山線の「準混合867列車」とは、 1965年前後に岐阜〜富山間の全線(225.8km)を走破していた 「貨物867列車」に関係します。 途中の美濃太田〜飛騨金山間(39.4km)で、 主に近在の帰宅高校生用に「客車」を連結したため 「準混合」の種別が付きました。 客車を切離した飛騨金山〜富山は「貨物867列車」に戻ります。 参考までにその切離した客車2両は、 翌朝に私が乗る824列車の最前部に連結されて来ました。 客車を連結開始した時期は不明ですが、 私は1965年4月から1966年9月の終焉まで利用しました。 美濃太田駅待合室にある大きな発車時刻表には 「準混合」とはっきり表示してありました。 見かけない表示ですが、駅員に尋ねる利用客を私は見かけませんでした。 他には「準急」「急行」が赤色で表示されているだけで、 黒色で表示した「準混合」は異色でした。 当時の美濃太田駅には現在と変わらず2本のホームがありました。 駅舎よりのホームの1番線には太多線の気動車列車が発着し、 時には岐阜行直通列車が発車します。 2番線は高山線上り列車が発着します。 最前部には蒸気機関車に使用する給水柱が立っていました。 隣のホーム3番線に高山線下り列車が発着します。 準混合867列車もここから発車します。 4番線は越美南線の気動車列車が発着し、岐阜行き直通も発着します。 越美南線はその後「第三セクター長良川鉄道」になり、 新設の別ホームを発着しています。 ホームとホームの間には貨物列車の発着用に中線があります。 高山線のD51に初めて出会ったのは雨の日のこの中線でした。 こちらの列車の発車直前に、D51は上り貨物を牽引して突然入って来ました。 曇って見づらい窓ガラスを透して「D51」の文字を見つけた時は 驚きを隠せませんでした。 当時の高山線貨物列車は線路規格により牽引機関車が決まっていたからです。 ・岐阜〜飛騨金山・・美濃太田区と高山区のC58 ・飛騨金山〜高山・・高山区のD51 ・高山〜富山・・・・高山区の9600 線路規格の低い飛騨金山〜美濃太田にD51が入線するのはあり得ません。 後で分かったのですが、 飛騨金山〜岐阜間を軌道強化と速度制限により入線可能としたそうです。 D51との再会を楽しみにしていましたが、会えたのはあと1回だけでした。 準混合867列車の写真が無く、 1971年頃の飛騨金山駐泊所?の写真をかわりにご紹介します。 D51が多数存在した証拠に転車台や各種設備はがっちりしており、 機関車庫には4両の排煙用煙突も見えます。 施設の正式名称が「機関支区」か「駐泊所」かご存知の方がおられましたら、 お教えくださるとありがたいのですが。
2013年 3月 4日(月)11時03分59秒
高山線の準混合867列車(その2)
スハユと申します。 ・準混合867列車のダイヤです。 昭和39年10月1日改正(交通公社時刻表1964.11月号) のもので発車時刻となります。 美濃太田(15:45)古井(16:05) 中川辺(16:21)下麻生(16:31) 上麻生(16:45)白川口(17:10) 下油井(17:41)飛騨金山(17:51) 美濃太田〜上麻生間の駅間距離は3〜5kmであり、 普通客車列車は駅間を4〜5分で走り抜けます。 準混合867列車がこれだけ鈍足なのは、やはり貨物列車だったのですね。 美濃太田〜古井間は10パーミルの連続上り勾配となり、 3.0kmを約15分かけて走り5分くらい停車します。 今にも止まりそうな速度だったことを覚えています。 古井〜上麻生間は平坦地ですが、約10分走り5分停車です。 停車中のC58では機関助士さんが、 火床整理して蒸気をあげようと一生懸命だったのでしょうか? 上麻生〜下油井間は駅間距離が10kmくらいと長くなり 又、勾配は少ないですが山間部に入り曲線ばかりで速度は上がりません。 ・準混合867列車の編成です。 C58(美)+貨車(数両)+オハ61+オハフ61+車掌車(ワフ)+貨車(数両) 1.客車2両が駅の改札口に近くなるように、 客車を編成の真ん中に連結したようです。 (謎)冬季の下麻生以北は寒冷地であるが、 C58と客車の間には貨車が連結されており、 蒸気暖房は使えない。客車の暖房はどうだったか? 私たち若い高校生でも学生服の上に学生コートを着用して防寒していた。 高齢者はどうであったか。ジッと我慢したのか疑問です。 (謎)オハフ61の次に連結した車掌車に、 車掌さんは乗務されてたのでしょうか? 開け放たれたオハフ61の後部貫通部から走行中に見える小さなワフは 、上下左右に飛び跳ね引き回されて、 とても車掌さんが乗務しているとは思われませんでした。 2.1967.9.30に終焉を迎えました。 ・最終列車に乗っています。 報道関係の取材やホームでのセレモニーを期待しましたが、 何も無く定刻にいつも通り発車しました。 駅での案内放送や車掌さんのお別れ放送も無くてガッカリした記憶があります。 ちなみに、1966.3.25改正で発車が16:03と遅くなっています (接続する岐阜発の普通835列車の到着が遅くなったため)。 発車が18分遅くなり上麻生までの停車時間は短くなりましたが、 飛騨金山着は17時52分でほとんど変わりません。 いかに余裕時分があったのか分かります。 3.235Dの登場。 ・835列車(岐阜〜美濃太田)と準混合867列車(美濃太田〜飛騨金山) の2本を一本化し、 さらに飛騨金山〜高山間に列車を新設し、 岐阜〜高山間を直通とした気動車列車です。 昨日までの古い鋼体化客車2両から、 最近登場したばかりの真新しい急行用気動車キハ58系の長大編成に変わり 目をみはりました。 この列車は急行の間合い使用で1等車を連結していました。 編成は長くなりましたが、岐阜と美濃太田の発車時刻が遅くなり利用客が増え、 いつも混雑しており座れなくなりました。 写真は1969年8月の727列車です(上麻生付近)。
2013年 3月 4日(月)14時32分35秒
高山線の824列車
スハユと申します。 またまた高山線の客車列車ですみません。 私が1965年4月から1968年3月まで毎朝、 美濃加茂市にある高校まで通学に利用した列車で、 帰りの準混合867列車とともに大変お世話になった列車です。 824列車は始発の高山を5時10分に発車し、 途中で通勤客や通学生を運びながら、終点の岐阜へ9時過ぎに到着します。 正確に客車の両数を数えたことはありませんが、 他の列車と違い最後部のオハフ61にはホームが無く 8〜9両連結していたと思います。 当時、美濃太田以北からこの列車に乗る高校生には、 他校を含め乗車車両について暗黙の申し送りがありました。 (1年生)最前部の車両。(2年生)中央部の車両。(3年生)最後部の車両。 親と同行など特別の場合を除き、皆しっかり守りました。 守らないと先輩に列車トイレに呼出され指導?があると聞きました。 最前部の2両は飛騨金山で増結される、 前日の『準混合867列車』に使用したオハフ61+オハ61です。 最後部は変わり映えしないオハフ61でした。 2年生の時に乗車した中央部では、 背ずりにモケットを張ったオハ35に初めて出会いました。 ある日、オハ35と思い込んで乗り込んだ客車内に乗客が少なく 「空いているなー」と気づきました。 でも座席は空いていませんので首を傾けながら、 発車時の動揺に備えて座席を掴もうとしてびっくりしました。 掴める木枠が無く応接間に使うような分厚く立派なシートです。 乗客も何か落ち着きが悪そうでした。 シートピッチは広すぎるくらい広いです。 形式をメモしなかったので、いつまでも謎の車両でした。 最近、モアさんの国鉄客車配置表(昭和39年版)で、 それらしい車両を見つけました。 富山客車区にいた『オロ40』の格下げ車『オハ55』です。 5両(9、104、2004、2105、2110)もいます。 丸屋根・固定座席・定員64名と一致しますが、 広窓1200mmは記憶ありません。 昭和41年度末まで全国で活躍していたようです。 この形式ではないかと思いますが、ご存知の方はご教授下さい。 写真は1969年の美濃太田機関区の付近です。
2013年 3月 4日(月)20時43分56秒
オロ40
オロ409なら初期の張り上げ屋根車でしょう2000番台は電気暖房取付け車です。 私はオロ40が好きではありませんでしたが、 理由はボックス席でプライヴァシーを保ち難いのと、 特に夜行列車の時は前の席に遠慮しながら足を伸ばすとか-----。 転換クロス車なら横の乗客に対する遠慮だけですみましたから。 車内灯ブラケットもスハ32みたいな御椀型(初期?)と オハ35と同じ金魚鉢型がありました。 御椀型は昭和27年夏に「まりも」に入って居たのを見ています。 蛍光灯化では両側2列と元の場所にお櫃の蓋みたいな格好で 20Wx2のとが在りました。 戦後製のは台車がTR34系でした。 戦後製のジュラルミン車体の分が、 転換クロス蛍光灯2列のオロ42型になったのが有名です。
2013年 3月 4日(月)23時39分46秒
Re:オロ40
マロネロ38様 オロ40ありがとうございました。 高い2等車料金払って、あのボックスシートは?ですね。 定員は3等車のオハ35などに比べれば妥当かもわかりませんが。 シートピッチが大分広かった記憶ですが、 前の席に足を投げ出しても届くんですか? シートピッチの狭いオハ61やオハ35を見慣れた私には、そんな印象です。 シートの背は大きく後方に倒れていて、 私が見た乗客はみんな居心地が悪そうに前かがみで座っていました。 私たち一般庶民には縁のない車両だったのでしょうね。 私は実際に見たことがありませんが プライバシーが保てて、シートがリクライニングできる『特ロ』 が歓迎されたのは分かりますね。 それと、窓は1200mmだったのですね。 確かに窓と窓との間隔は広かった記憶ですが、 オハ61やオハ35と同じ1000mmと思っていました。 窓ガラスの材質も3等車に比べ良かったのでしょうか。 又、良い台車を履いていたと思いますが、乗り心地は全く記憶にありません。 高山線はローカル線ですが、富山で北陸線という重要幹線と接続していたお蔭で 『オハ34』や『オハ55』など珍しい貴重な客車を運用してもらえたのですね。 今思えば『金トヤ様様』です。 そんな時代に辛くも居合わせた私もラッキーだったです。 何しろ高校3年生の時には客車列車が全滅に近くなったからです。 ただ、乗車した車両の形式・番号を記したメモ帳が見つからず残念です。
2013年 3月 8日(金)20時37分1秒
高山線の臨時客車準急「くろゆり」の謎
こんにちは、スハユと申します。 高山線の客車列車について投稿させていただいています。 今回は、昭和40年頃の観光シーズン週末に 大阪〜高山線下呂間に運転された客車準急です。 すでに投稿させていただいた「準混合867列車」に 始発の美濃太田で乗車中に追越して行った列車で、 初めて見る青色車体に驚いたことを覚えています。 ずっと気になる列車であれこれ調べましたが、情報が皆無に近く謎の列車でした。 その後、昭和39年10月改正時刻表を入手できましたが、疑問が増えただけです。 以下の疑問について情報をお持ちの方お教えいただくとうれしいです。 昭和39年10月1日改正時刻表(交通公社1964.11月号)の 「臨時列車ご案内」付録5ページに 掲載されていますが本文に掲載はありません。1等車を連結しています。 『3705レ』大阪12:55発⇒岐阜15:17発 ⇒鵜沼15:42発⇒美濃太田15:56発⇒ ⇒飛騨金山16:59発 ⇒下呂17:25着(11月21日まで土曜) 『3706レ』鵜沼14:46⇒岐阜15:21発 ⇒大阪17:45着(11月22日まで日曜) 行きは「下呂」が終着ですが、翌日の帰りは「鵜沼」が始発と、 着発駅が異なっており疑問が出てきます (両駅間は71kmも離れています)。 1.なぜ着駅と発駅が異なる列車が設定されたのか? 2.下呂到着の客車の留置・点検・給水はどうしたか? 3.宿泊した観光客の下呂〜鵜沼間の移動方法は? 4.客車の所属・運用は? 5.牽引機C58の所属・運用は? 1について。 当時の国鉄は増収施策として「国鉄線201km以上乗車、 周遊指定地2ヶ所以上順路で回り出発地に戻る」 他の制限があるが、料金1割引きとなる「普通周遊券」を発売していました。 時刻表の「観光地のご案内」484ページに、 着駅「下呂」が周遊指定地「下呂温泉」の最寄駅として、又、 周遊指定地「日本ライン下り」の国鉄最寄駅として 「美濃太田」が掲載されています。 「鵜沼」は「日本ライン下り」終点の国鉄最寄駅になります。 ・「臨時準急くろゆり」は、週末に「普通周遊券」を利用して下呂温泉に宿泊し 翌日、 美濃太田から鵜沼まで日本ライン下りを楽しむ観光客のために 用意した列車と思われます。 2について。 「下呂」は本線以外に側線が1本あり、空いていれば留置はできますが、 大掛かりな点検・給水は難しい。 客貨車区がある「高山」とは48.1kmと少し離れていて、 翌日の運用に間に合うのか。 ・当時、一部の客車列車が滞泊している「飛騨金山」が 2駅南(駅間21.6km)にあり、 点検・給水・滞泊したのではないかと思います。 3について。 時刻表の「ライン下り」出船時刻と「くろゆり」の鵜沼発車時刻を見ると 3つのケースが考えられます。 普通列車「826レ」下呂8:59発⇒美濃太田10:28着 (例の「オハ34」を連結した列車です) DC準急「708D」下呂9:45発⇒美濃太田10:49着 (ひだ2号です) 以上の定期列車の利用は可能ですが、当時はどの列車も混雑しており 1列車分の観光客の混乗は大変。 ・飛騨金山に滞泊した編成を下呂まで回送し、 臨時列車として美濃太田まで運転した。 その後、鵜沼発車に合わせ回送したのではないかと思います。 (当時の時刻表には、臨時の普通列車は掲載されず正確に分かりません) 4について。 あるサイトで教えていただいたのは「大阪・宮原客車区所属客車」 を中止として、 他客車区車両との混成で はないか。ご自身が利用された急行客車列車も 「あちこちの寄せ集めだった」と述べられています。 「客車のNOを調べるのはもっと難しいと思う」とのことでした。 ・高山線のように比較的運転距離が短く、 連結車両が7〜8両編成と短い列車が多い線区でも、 高山と富山の客車が併結運用されていました。 ましてや幹線の大客車区の客車の運用は複雑で分りづらいしょうね。 5について。 ・高山線客車列車は、富山機関区のC11が牽引する富山口の短区間列車を除き、 美濃太田機関区と高山機関区 のC58が牽引していました。 「くろゆり」牽引の写真や資料を見たことがないので断定はできませんが、 配置車両が多く運転区間に近い美濃太田区のC58が 使用されたのではないでしょうか。 この変則運転列車ですが、昭和41年3月25日改正時刻表では 列車番号が9715レ・9716レと変わり、帰りも下呂発となっていますが、 岐阜までは普通列車となっています。当時、知っていれば乗りたかったなー。 昭和40年改正時刻表が手元にないのでいつから変ったかは不明です。 昭和42年10月1日時刻改正では大阪〜高山間の不定期DC急行「のりくら」 として掲載されており「くろゆり」は見当たりません。 この改正で下呂〜高山間の延長とDC化がされたようです。 臨時列車として大阪〜飛騨古川間の片道に、DC急行「のりくら銀嶺」が スキースケート列車として運転されています。 翌年の昭和43年10月1日改正で 季節列車DC急行「くろゆり1号」として本文に再登場、 スキースケート客向け季節列車DC急行「くろゆり銀嶺」も見えます。 その後、名古屋鉄道のDC急行が使用していた愛称「たかやま」への改称と 定期列車化をしています。 平成11年12月3日までキハ58系で運転しました。 以上の私の疑問にお答えいただける方、是非お教えください。 長くなり申し訳ありません。
倶楽部メモ(722) 平成25年 3月13日〜 4月 8日
2013年 3月13日(水)21時08分41秒
高山線下り831列車の中川辺退避
こんにちは、スハユと申します。 下り831列車とは高山線岐阜を12時33分に発車し、 高山へ17時19分到着していた昭和40年頃の普通列車です (交通公社時刻表1964.11月号)。 私は土曜日の午後、高校の帰りに美濃太田(13時41分発)から利用しましたが、 この列車は少し変わった列車でした。 1.この列車には、岐阜の問屋さんで色々な商品を仕入れた 帰りの業者さん専用と化した、古く小型の「オハニ30」を連結していました。 クロスシートが少しだけありました。 2.美濃太田駅の次々駅である「中川辺」で、後続の気動車準急に追越しされました。 機関区もある美濃太田駅でなくて、中川辺で追越す理由が当時は分かりませんでした。 今考えればいくら美濃太田に4線あっても、その時間は満線だったんでしょうね。 一般的に追越しは、本線以外の退避用に設けた副本線へ先行列車が退避し、 後続列車は本線走行し追越すかと思います。 しかしこの駅は上りと下りの本線のみで副本線はありません。 そのため下り列車ですが、下り副本線に指定された上り本線へ進入します。 当時の高山線は通票閉塞であり信号機は腕木式で、 ガチャンという大きな音ともに作動しました。 この下り列車は、下り遠方信号機⇒下り場内信号機 (主本線と副本線の2本建っていました) のうち下り副本線の進行を確認し、上りホームへと進入しました。 停車時間は15分くらいあり、牽引機C58の機関士さん達は、 夏はホーム端の木陰に避難したりしていました。 機関士さん達がC58に戻る頃に、 キハ55系編成の705D下り準急「ひだ2号」が 軽くタイホンを鳴らして下りホームに接近して来ます。 ホームの通票受器へ古井から持参した通票を返し、 授器から次の下麻生までの通票を受取り通過しました。 通票閉塞のため「ひだ2号」が次駅の下麻生を通過してくれるまで 5分ほど831列車は発車できません。 下り副本線の腕木式出発信号機がガタリと下がるのが待ち遠しい列車でした。 交通公社時刻表1966.4月号を見ると、時刻改正により追越し駅が白川口に 又、列車番号が833列車と変っています。 この列車も利用したのですが、内容は記憶しておりません。 以上、昭和40年頃の高山線客車列車について アレコレ記憶のままに述べさせていただきました。 管理人様ありがとうございました。
2013年 3月17日(日)09時50分57秒
オハニ30
オハ二30型は17m車で、定員36名でしたが、トイレだけで洗面所無しでした。 台車がTR11,魚腹台枠。 高山線では富山−高山間乗車の経験がありますが、 夏だったので暑いのとトイレの臭気が------。 3等荷物合造車では、スハニ35とオハ二36が一番良かったです。
2013年 3月17日(日)22時23分10秒
Re:オハニ30
マロネロ38様 オハニ30型についてありがとうございました。 おっしゃるとおりオハニ30は客室内が狭いためトイレが近くにあり、 建付けも悪く臭気が気になりました。 又、業者の方が時々ダンボール箱に入れたヒヨコをたくさん仕入れた時は、 列車が停まるとピヨピヨと鳴き声がうるさく 糞の臭気も強かったかったことを思い出しました。 オハニ30が満席の場合は後ろに連結されたスハユ30に乗りました。 オハニ30に比べ座席数も多くたいてい座れましたし、車内も明るい車両でした。 このスハユ30(Wルーフタイプの1番3番4番のどれかと思いますが) の背もたれがオハ61で見慣れた垂直の板では無く、 アイボリー色の合板が斜めに張ってありました。 オハ35みたいなクッションはありませんが、 優等列車に乗ったような気分がして好きな車両でした。 写真は昭和43年10月1日から高山線のオハニ30・オハニ61・スハユ30 に変えて投入されたキユニ17形気動車です。 それまで連結していた合造客車2両を、 この郵便荷物気動車1両に置き換えたのですから大きな効果があったでしょうね。
2013年 3月19日(火)11時14分53秒
スハユ30
スハ32、スハニ31のW屋根と同系列ですから、魚腹台枠、TR23台車ですね。 1966年には301,303,304,307が在籍していた様です。 これもトイレ付きで洗面所無しですが、座席の背摺りは斜めのベニヤ板張りで、 色は茶色だった筈です。 (昭和30年代に入ると車内仕様が客車区別に変化が出てきたので) 1953-55年頃に一両金タカかトヤに居たはずですが-----。 人物の背景に写っていた写真が現在行方不明なので。
2013年 3月19日(火)20時09分57秒
Re:スハユ30
マロネロ38様 貴重なお話ありがとうございます。 TR23台車を履いた客車に高山線で乗ったのは オハ35とスハユ30くらいですが、 オハ61系のTR11に比べて軽快な乗り心地とジョイント音を覚えています。 洗面所が無いとのお話ですが古いオハニ30はともかく、 わりあい新しいスハユ30に無かったのは不思議です。 蒸気機関車けん引客車に長時間乗ると、 衣服も顔や手も煤で汚れたと思いますが乗客はどうしたのでしょうか。 いつも利用するオハ61系には洗面台がしっかりありました。 座席の斜めの背摺は茶色だったのですか。 私が覚えているアイボリー色 (正確にはホワイトに若干ピンクが混じった感じでした) は修繕時に補修したのでしょうか。 それとも下塗り色が出てきたのでしょうか。不思議です。 補修と言えば更新が済んだばかりのオハ61に乗ったことがありました。 車体が茶色に輝き、車内は木部に塗られたニスの臭いがプンプンし、 座席のクッションがキレイだったのを思いだしました。 座席の色は当時、緑と青の2色でしたが緑色が好きでした。 時々、下り列車の最前部に連結され高山客貨車区?へ回送される 更新修繕を終えたオハ61系を見かけましたが、 全ての窓に降ろしたブラインドが異様な感じでした。 名古屋客車区から回送されたのでしょうか。 写真は昭和42年頃の美濃太田へ到着の下り833列車です。 ここでDD51は交代します。 旧型客車の車体の落ち着いた輝き好きです。
2013年 3月31日(日)19時49分6秒
Re2: スハユ30
遅レス・横レスで失礼します。 スハユ様: > 洗面所が無いとのお話ですが古いオハニ30はともかく、 わりあい新しいスハユ30に無かったのは不思議です。 スハユ30は確かにオハニ30よりは新しいですが、「わりあい新しい」と言うよりは むしろ「オハニ30の次に古い」と言った方が正確でしょう。 いわゆるスハ32系では、合造車のスハユ30・スハニ31には洗面所が設けられず、 これはひとつ前の世代のいわゆるオハ31系に属するオハニ30の構造を 踏襲したものですね。 それに対して、次の世代のいわゆるオハ35系に属するスハユ31・スハニ32では、 この種の合造車で初めて洗面所が設けられます。 この時点で車内設備の設計思想に進歩があったわけで、 ご指摘のスハユ30はそれ以前の世代という意味では オハニ30と同類ということになります。 > いつも利用するオハ61系には洗面台がしっかりありました。 これはいわゆるオハ61系に属する合造車オハニ61などのことを 指しているのでしょうか? こちらは洗面所がありますね。 いわゆるオハ61系は戦後派で、 昭和ヒトケタのスハユ30などとは約20年の開きがあります。 こちらの方がずっと新しいですよ。 なお全室座席車はずっと昔から洗面所付きですから、 オハ61系でもオハやオハフはスハユと比較しても意味がありません。 重箱の隅で失礼しました。m(_ _)m
2013年 4月 1日(月)10時12分24秒
Re2Re1:スハユ30
クモイ103様おはようございます。 ご指摘ありがとうございます。 ・スハユ30は「わりあい新しい」よりも「オハニ30の次に古い」が正確でしょう。 乗車した際の印象を「煤にまみれ暗い客室のオハニ30」に比べ 「車体がキレイで明るい客室のスハユ30」を感覚的に述べたものです。 スハユ30は製造開始が12年ほど遅いのでキレイだったかも分かりません。 言葉足らずですみません。 おっしゃるとおりスハユ30はオハニ30の次の世代であり 新しくはありませんね。 ・洗面所 トイレがあるのは知っていましたが、 洗面所が無いことはマロネロ38様に教えていただき初めて知り驚きました。 ありがたいです。 昭和40年代の高山線列車について知りたくて、 知識が無く内容も幼稚ですが投稿させていただきました。 高校通学の時の記憶をもとにしており、 データ的に正確ではありませんのでご指摘とご教授をお願いします。 今後ともよろしくお願いいたします。
仙コリ(管理人)
2013年 4月 3日(水)00時06分17秒
客車各形式の製造年度一覧表を追加掲載
皆様、いつも書き込みありがとうございます。 このところ、スハユ30やオハニ30の製造時期が話題の中に出てきていましたので、 「客車資料館」のなかに、新たに「客車形式別製造年度一覧表」を作成してみました。 まずは先行して、今回話題になっているオハニ30などの座席・郵便・荷物の合造車、 すなわち ハニ・ハユ・ハユニ といった車両についての一覧表を公開しました。 今回の話題の内容から、形式番号順に製造年度のほかに系列(スハ32系列など)も 掲載してみましたが、掲載内容について皆様のご意見をいただければ幸いです。 皆様のご意見を集約させていただき、掲載内容が固まりましたら、他の形式についても 順次作成していきたいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。
2013年 4月 3日(水)20時12分10秒
Re2Re1訂正:スハユ30
クモイ103様 一部思い違いがありました。訂正します。 >スハユ30は製造開始が12年ほど遅いのでキレイだったかも分かりません。 この製造開始がオハニ30に比べ12年ほど遅かったスハユ30は7番だけで、 他の1・3・4番は2年くらい遅いだけでした。 記憶が不確かですみません。 >いつも利用するオハ61系には洗面台がありました。 全室座席車はずっと昔から洗面所付きだったのですか。 昔の客車は洗面所は無いと思っていました。 たまたま乗った車両が古すぎる合造車だったから無かったということですか。 全室座席車と合造車は比較しても無意味とのことですが・・ 私はそんなことも知らないレベルですのでご面倒ですがお願いします。 ・この投稿をご覧いただいた皆様、当時の客車配置状況(モア版)です。 1964.4.1現在の高山本線高山客貨車区(名タヤ) オハ31・・・・( 2両)315・316 オハ60・・・・( 7両)73・212・213・215・216・263・264 オハ61・・・・(17両)62〜64・120〜122・132・161〜169・502 オハフ61・・・(11両)1〜4・285〜289・567・568 スハユ30・・・( 4両)1・3・4・7 オハユ61・・・( 1両)4 オハユニ61・・( 1両)129 オハニ30・・・( 5両)7・8・20・33・46 ・写真は1969.5.29高山線で初めて撮影したお召列車です (DD51554(美)+DD51(美))。 良い場所で待機していましたが、 通過直前にお巡りさんの指導で最悪のポジションで撮影することになりました。
2013年 4月 7日(日)15時13分9秒
客車各形式の製造年度
仙コリ(管理人)様 早速の企画化ありがとうございます。 こういうまとめ方の資料は今まで無かった?と思われ、 とても分かり易く実用的ですね。 今回の座席・郵便・荷物合造車だけでも 結構なボリュームの表になってしまうのですね。 他の車種も期待してしまいますが、 大変な作業でしょうからご無理をなさらずぼちぼちお願いします。 さてこれらの中に「戦時改造」と「軍用改造」がありますが、 これらはいずれも特殊な時代背景のもとに登場し、 短期間で復元などにより消滅しています。 そう考えると、高望みですが、各形式の消滅時期もあると良いかな… と思いました。
2013年 4月 7日(日)15時21分31秒
スハユ30 7など
スハユ様 スハユ30 7〜9はスハニからの改造編入ですね。 改造は昭和15年ですが、スハニとしての製造時期は昭和13年でした。 全室座席車では、手元にある資料では 少なくとも大正9年製のナハ22000・ナハフ24000に 洗面所がついていることが確認できます。 おそらくそれ以前からついていたものと思いますが、確認はしていません。 高山本線に運転されたお召し列車の画像は貴重ですね。 お巡りさんの指導で…はありがちです。
2013年 4月 8日(月)07時14分51秒
Re:スハユ30 7など
クモイ103様 ありがとうございます。 高山線は岐阜口から「高山線」として大正9年から順次開通、 富山口からは「飛越線」として昭和2年から順次開通し 昭和9年10月25日に全通しました。 スハユ30 1・3・4は昭和5年7月の落製であり、 年代的には「高山線」全通前から配置があったかに思われますが 落成配置が不明で確認できません。 スハユ30 7は増備でしょうか。 今回教えていただいたナハ22000ですが、 それを鋼体化したオハ60の高山客貨車区への落成配置が 昭和25年2月の212番から始まっており、 昭和24年生まれの私にとって兄弟のような懐かしさを覚えました。 各形式の消滅時期について、私も管理人さまへ掲載をお願いしました。 写真は高山線飛水峡信号場付近で撮影した富山行き臨時列車です (昭和46年5月1日)。
2013年 4月 8日(月)19時47分2秒
客車各形式の製造年度年表を一部訂正
クモイ103様、スハユ様 客車各形式の製造年度年表についてご意見ありがとうございます。 ちょっと変わった切り口が持ち味?なもので… 各形式の消滅時期についてですが、誕生は同時期でも、 その後の変遷は各車両さまざまなので掲載する事は考えていなかったのですが、 確かに同時に掲載したほうが全体像がわかりやすいとも思いますので、 追加掲載してみました。 同時に「ハニ」「ハユ」「ハユニ」「ロニ」と別々の表でしたが、 「ハニ」「ハユ」「ロニ」については、それぞれの間での改造もあるので、 一つの表にしてみました。 また、各形式の盛衰の状況については、昭和16年以降だけですが 「客車形式別両数変遷」を参考にしていただければと思います。 今回の手直しについて、再度皆様からのご意見をいただければ幸いです。
2013年 4月 8日(月)23時47分7秒
Re:客車各形式の〜一部訂正
管理人様 早速ありがとうございました。 各形式別に落成時期から廃車時期まで一目で年代が分かるようになり、 初心者の私にとってあちこち資料を探さなくても済み助かります。 膨大なデータをまとめることは大変とは思いますが、全形式の追加を お願いできると「目で見る客車の盛衰」として使いやすく分かりやすい 貴重な資料となると思います。 急がずボチボチでもお願いできるとうれしいなと勝手に思っています。