倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
60系鋼体化客車の台枠切り継ぎについて


倶楽部メモ(702) 平成24年 4月23日〜 4月30日


投稿者

太田拓也

投稿日

2012年 4月23日(月)16時50分32秒

タイトル

60系の台枠切り継ぎ

お久しぶりの太田拓也です。
以前から60系鋼体化客車について気になることがあったので
質問させていただきます。

60系は戦後の混乱期、三等客車の新製ができない中で
手間やコストを最小限にすることが要請されたのに
壊した木造車体の台枠の上にそのまま鋼製車体を作らず
17m級台枠を切り継いで20m級台枠を作るという
面倒くさい事をしていたのでしょうか?

台枠ってカマボコ板みたいに単純なものかとか
鋼体化による重量増を台車数減少によってカバーしたい
事情はあるにせよ中型木造車の台車が大型鋼製車を
支えられるのかとかいろいろ疑問に思います。




投稿者

スカセン

投稿日

2012年 4月23日(月)20時35分59秒

タイトル

60系の台枠

木造車体の台枠の上にそのまま鋼製車体を作らず
17m級台枠を切り継いで20m級台枠を作るという
面倒くさい事をしていたのでしょうか?

お見込みのとおりです。
詳細は、YouTubeの「生れ変わる客車」をご覧ください。




投稿者

クモイ103

投稿日

2012年 4月24日(火)20時57分24秒

タイトル

60系登場のいきさつ

いわゆる60系の鋼体化客車が登場した当時の状況ですが、

> 戦後の混乱期、三等客車の新製ができない中で
> 手間やコストを最小限にすることが要請されたのに

…という表現ではまだちょっと言い足りないところがありますね。

そもそも鋼体化客車が登場した理由は、老朽化した木製客車を淘汰し、
安全性の向上と保守のコストダウンが図れる鋼製車に置換するためでした。
その大目的のため、国鉄の関係者は、
当時日本を占領統治していた連合軍を必死に説得し、
許可を得やすいやり方を工夫しながら、
「手間」を惜しまず輸送の体質改善を推進していったのです。
その結果、戦後約10年で営業用木製客車が姿を消したことは、
考えようによっては大正末期の自動連結器一斉交換にも並ぶ、
国鉄史上まれにみるビッグプロジェクトの完遂だったと言えましょう。

当時「三等客車の新製ができな」かったのは、戦後の混乱期だからではなく、
連合軍が政策上制限していたからです。
そのため木製客車を鋼体化する方向になったわけですが、
その鋼体化客車第一号オハ60が誕生した昭和24年、
日本の産業各界は既に焼け跡から力強く立ち上がりつつあり、
客車も作れない程の「混乱」のピークは過ぎていました。
実際、車両メーカーが見込み生産したものの
国鉄が連合軍に止められて買い入れられず宙に浮いていたスハ42を
後年改めて許可を得て購入したという話もあるくらいで、
「作ろうと思えば作れる」時代になっていたわけです。

そして「手間」はかけても「コストを最小限に」するため、
20mの車体長を選択したいきさつが、
鉄道ピクトリアル第700号(2001年5月号)の
岡田誠一氏による巻頭記事に述べられています。
ここでその内容を詳しく引用するのも気が引けますので、
鋼体化客車に興味をお持ちでしたら是非ご一読をお勧めします。

蛇足ながら、以前もここで書き込んだ覚えがありますが、
かつて機械力が限られていた時代、
人手をかければ出来ることは人手をかけるのが当たり前でした。
それを仕事の誇りに思いこそすれ、「手間」を軽減しようという発想は
少なくとも現代に比べれば極めて希薄だったはずです。
加えて当時、大量の復員・引き揚げ者に職をあてがうという
日本の国政レベルの大課題があったことも、当然踏まえなければなりません。
くどいですが(何度でも言いますが)、ここにも「今の感覚」が当てはまらない
「時代感覚」が求められる一面があるように思います。




投稿者

太田拓也

投稿日

2012年 4月29日(日)06時59分34秒

タイトル

60系と鉄道管理局

>60系客車

動画を見る限り、台枠より車体作るのに手間かかってるようなので
車両の絶対数を減らした方が作業量が少ないということでしょうか?
それにしても、見た目切り継ぎできそうにない魚腹台枠はどうなったのでしょうか。
鉄道ピクトリアルアーカイブスでは17mのまま鋼体化するかもしれないという
記述がありましたが結局実現してませんし。

>仙コリ様

生半可な知識ではありますが…
鉄道管理局の略称は地名から一文字とって「○鉄」でよかったと思います。
例えばSL用語の「門鉄デフ」は「門司鉄道管理局のデフレクター」の意味です。
もっとも大阪鉄道管理局を「大鉄」と略すと
大阪鉄道(近鉄南大阪線)や大井川鉄道と紛らわしいのが困りものですが。

車両配置ですが、おそらく漢字が鉄道管理局、
カタカナが車両基地を示していたと思います。
「南シナ」は東京南鉄道管理局・品川客車区の意味になります。
以上、国鉄に詳しくない世代のうろ覚えでした。




投稿者

クモイ103

投稿日

2012年 4月29日(日)10時07分7秒

タイトル

60系が20mになったわけ

太田拓也様

前述したピク誌第700号の岡田による記事は
発表から年月が経過していることもありますので、
内容をかいつまんでご紹介します。

鋼体化の開始にあたっては、

(1)木製客車のうち17mの「大型客車」3,290両をそのまま鋼体化して
   それ以外の「中型客車」と「雑形客車」は廃車し、
   他に2,200両の新製車で補充する。
(2)台枠を20mに延長して座席定員を増加し、新製補充を2割減とする。

…の2案が比較検討されました。
後者では工事費が増加しますが、
前者では廃棄されるだけの中型客車(820両程度)の台枠を
延長用の材料として活用できることと、
新製補充を減らせることで、総合的には大幅な経費圧縮になることから、
結局後者が選択されたということです。

私見ですが、岡田氏の記事では触れられていないものの、
客車の車体長を20mに統一することによる
現場的な運用のしやすさも考慮されたのではないか?
と勝手に想像を巡らせています。

魚腹台枠車は専らマニ60の種車となったようですが、
リベット留めの腹板を取り外してそのまま使用したようです。


なお、車両史編さん会の国鉄鋼製客車史第7編「鋼体化客車」には
もっと詳しい情報があるものと思いますが、残念ながら買っていません…



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