倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
スハニ35等の旧型客車特急での荷物扱いについて


倶楽部メモ(653) 平成23年 5月 6日〜 5月10日


投稿者

みず51号

投稿日

2011年 5月 6日(金)00時26分25秒

タイトル

スハニ35、旧型客車特急での荷物扱い

みなさま、こんにちは。
スハニ35(等)の特急運用での荷物受け渡しについて、質問を致します。

他の送り荷物扱いの列車とは違い、
特急運用(?)では「乗車する客の手周り品=荷物」を預かるために
スハニ35が連結されていたと聞いております。
始発駅から終着駅まで通しで乗車する乗客であれば
時間にも余裕が多少あったと考えられますが、
途中駅間での利用客は、さぞ大変であったのではないかと想像されます。

実際のスハニの荷物の受け渡しの扱いが、
どのような様子であったのかを御教示いただきたいと思っております。
また、特急運用以外での例、
他の型の荷客車の例もございましたらお聞かせ下さい。
よろしくお願い致します。




投稿者

コスモス

投稿日

2011年 5月 7日(土)12時56分49秒

タイトル

スハニ35の手荷物

みず51号さん、こんにちは。

往年の客車特急「つばめ」「はと」「かもめ」「はつかり」には
スハニ35が使われていますね。
荷物室内が通常の鉄道荷物輸送用の荷物車と異なり、
三段式の荷棚が装備されていたそうです。
積みこまれた荷物は、荷物専務車掌(通称ニレチ)によって
旅客の下車駅に合わせて荷物棚に整理・整頓され、
それぞれの下車駅で卸ろされたそうです。
電車化や気動車化されたあとは、
このような手荷物輸送サービス(チッキ)はどうなったのでしょうね。
スハニ35自身はローカル線に転用されて、
水戸線、川俣線、日中線などで使われたことは
こちらの倶楽部メモ(337)で語られているところです。




投稿者

ED76109

投稿日

2011年 5月 8日(日)00時34分51秒

タイトル

懐かしき赤帽さんの活躍

 おばんでございます。「ED76109」であります。

 みず51号様及びコスモス様

 >積みこまれた荷物は、荷物専務車掌(通称ニレチ)によって
  旅客の下車駅に合わせて荷物棚に整理・整頓され、
  それぞれの下車駅で卸ろされたそうです

 小生が思うに、当然「スハニ」の搬入口から改札口までは、
「赤帽」さんが運搬したと推察されます。
「PCはと・つぱめ」の全盛期は、主要停車駅に必ず「赤帽」が配置されており、
チッキの扱いをしていたようであります。
ちなみに「名古屋」では、「はと」が5分、「つばめ」が4分停車。
この間に手荷物の積み下ろしをしていたようであり、
かなりな重労働だったことが偲ばれましょう。
「赤帽サービス」は、平成18年の「岡山」を最後に姿を消し、
荷物は1つ「500円」だったとのことでありました。

 >電車化や気動車化されたあとは、
  このような手荷物輸送サービス(チッキ)はどうなったのでしょうね

 「PCつばめ・はと」の「スハニ」は、
昭和33年11月に登場した「ECこだま」には受け継がれておりません。
当時の国鉄では、「ビジネス特急」という性格上、仕事道具や書類等以外は、
2泊程度の着替えや洗面具程度の手荷物であろうと判断して、
「荷物室」を設置しなかったようであります。

 長々と失礼致しました。
以上、「こだま」に6カ月で乗車したようである
「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2011年 5月 8日(日)10時27分25秒

タイトル

スハニ35と手荷物

ED76109先生:
大体お説の通りでした。
東京駅や大阪駅では赤帽さんがスハニの辺りに何人かいましたし、途中駅では荷物
運搬車が来て居ました。
外人観光客が多かった「つばめ」の方が「はと」よりも利用が多かった様でした。
地上駅などでは本屋の位置によってテルファ-で持って行ったり------。

時刻表に駅弁、郵便(電報取り扱い駅)、洗、赤帽の印があつた時が
鉄道旅行よき時代でした。




倶楽部メモ(654) 平成23年 5月10日〜 5月14日


投稿者

ED76109

投稿日

2011年 5月10日(火)22時18分7秒

タイトル

レトロな汽車旅

 おばんでございます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様を始めとする先達の皆様方

 小生もさすがに「赤帽」氏の世話になったことはありませんし、
駅頭でも数度見かけたのみで記憶の中には・・・。
しかし、様々と気になることやら興味あることが。
少々、「戯言」させてください。

 1 「山陰本線」や「奥羽本線」など、ローカル幹線の主要駅のフォームには
「洗面台」が幅を利かせていた記憶が、小生にはございます。
「鉄」親父にしてみれば、至極当然なのでしょうが、
小生がよく連れられて「乗り鉄」していた折には、
「山手線のフォーム」では見ることができない大きな洗面台が
フォームにあること自体が、不思議に思えてなりませんでした。
昭和46年盛夏の「肥薩越えの混合レ」で到着した「吉松」のフォームで、
「鉄」親父の言うがままに「洗面台」で顔を洗いました。
水が冷たかったのですが、D51の煤煙で汚れた顔には爽やかな冷たさ。
「昔はこんなふうに顔を洗いながら、旅したものさ」の一言を聞きながら、
小生一端の旅人を決め込んでいました
(生意気なガキでしたね)。

 2 前述したように、「鉄」親父は
全国に集金旅行を重ねる仕事をしておりました。
ですから、集金が完了した段階で
「会社」に電報を打って報告していたらしいのですが、
列車の時間等のために、帰京する「上りレ」の車中から
電報を打つことが少なくなかったようであります。
その時は、カレチ氏から「依頼紙」を受け取って文面を熟考。
短い文章で安い料金であげることに注意して、
カレチ氏に依頼して電報を打ってもらっていたとのことでした。
しかし、その時は必ずカレチ氏が
文面を読み上げて確認するのが規則だったようで、
仕事上のものであれば何も気にしなかったようですが、
プライベート(特に「山」お袋あて)の文面は、
カレチ氏がにやにやしながら確認することが間々あって、
その度に閉口していたとの話を聞いたことがございます。

 3 小生の鈍行紀行の道すがら、「ハフ」に好んで乗っていたものでしたので、
よく「ニ・ユ」が後ろに「1、2両」連結されていることがありました。
そんな時、駅員氏が配置されていた駅では、殆どと言っても過言ではないほどに、
リヤカー等を傍らにした駅員氏や郵便局員が待機しており、
「小荷物」や「郵便物」をニレチ氏から手交していた記憶がございます。
「荷扱駅」というそうでありますが、
「スニ」や「マニ」から降ろした荷物をリヤカーに載せて
駅事務室まで運搬する駅員氏の姿が印象に残っています。
しかし、今では遠い過去のお話となってしまいました・・・。


 長々と失礼致しました。
以上、30年以上も昔の「昭和の鉄旅」を憧憬する
「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2011年 5月11日(水)10時25分39秒

タイトル

郵便受けがあった郵便車

ユに郵便受けがあって、急ぎの郵便物を駅へ持ち込んでホームで直接投函した事が
度々でした。
専ら社用でしたが、残業しての帰途に大阪駅を横切って私鉄駅に向かう私が何時も
それをやらされて居ました。
大阪→青森間の513レが多かった?、北陸の下請け企業先への急ぎの書類が度々で。
時刻表に郵便車連結列車の表示がありましたので、時々トカホセの
上り夜行急行列車の後部とか---。ついでに編成を見て歩くのが余得?

到着時刻を知らせる電報をカレチから頼信紙をもらって書いて頼んだりも
しましたが、公衆電話がダイヤル制になってからはそれもしなくなりました。

洗面所ではなかったですが、肥薩線大畑駅ホームの大きな水鉢から溢れる
山の清水が冷たくて美味しくて------
大畑駅と鉄道ではないが戸隠奥社の水が最高の美味?でした。




投稿者

みず51号

投稿日

2011年 5月14日(土)20時55分52秒

タイトル

Re:スハニ35、旧型客車特急での荷物扱い

みなさま、こんにちは。
スハニの手周り荷物の受け渡しについての御投稿を拝見致しました。

テルファーという設備の名前は初めて聞きました。
(ホーム間の荷物台車専用のエレベーターは記憶にあります。)
赤帽さんの制服は文字通り、赤い色が入った詰め襟だったように思います。
扱いは幹線の特急(つばめ、はと、かもめ、はつかり)だけだったのですね。

有り難う御座いました。



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