倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

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関釜連絡船の運用について(金剛丸・景福丸)


倶楽部メモ(547) 平成21年 8月16日〜 8月18日



投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 8月16日(日)10時26分39秒

タイトル

マイテ余談

【写真上】マシの台車とマイテはこのような位置関係に置かれています。
     ちなみにマシ29 107の新製時の車号はスシ37812、
     この2両が同じ列車に組成されて走ったことが
     あるかどうかわかりませんが、鉄道黄金時代をともに走り抜き、
     青梅と神田に分かれて保存されていた両者が、
     奇しくも大宮の地で再会しているわけですね。
【写真中】再会と言えば、この組み合わせも見過ごせません。
     特別急行「富士」と下関で接続していた関釜連絡船「金剛丸」の模型です。
     こちらも神田にあったもので、大宮で初めて実現した対面です。
     もっとも金剛丸は主に夜行便に運用されたと言われ、
     「富士」の接続は昼行便でしたから、
     実際にこの組み合わせの乗り継ぎがあったのかどうかよくわかりません。
     なお、金剛丸の模型の後方には、稚泊連絡船「亜庭丸」もいます。
     (この写真のみ昨年8月に撮影)
【写真下】8月10日からマイテ39 11の展望デッキに入れるようになりました。
     新しい記念撮影スポットとなっているようです。








投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 8月16日(日)17時55分38秒

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金剛丸の運用

クモイ103さま:
金剛丸が夜行便(7-8便)専用とは初耳です。天山丸、崑崙丸(就航してすぐ撃沈
された)が就航するまでは、「金剛丸」、「興亜丸」の2隻と臨時便用の「徳壽丸」、
「景福丸」、「昌景丸」(後に博釜連絡に転配)でしたから、主に「金剛丸」と
「興安丸」で、1-8,7-2便と廻していたのではないでしょうか?

下関から7便、釜山から8便なら呉線経由の急行7-8レと朝鮮‐満洲は7-8レ「のぞみ」
でしたから、「冨士」-「ひかり」とは一格下になりますが------。




投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 8月16日(日)21時21分57秒

タイトル

Re: 金剛丸の運用

マロネロ38様

 金剛丸級については、「日本国有鉄道百年史」及び「鉄道連絡船100年の航跡」に
夜航便専用との記述があり、
またそれで話の辻褄が全て合いますので、その様に認識しております。
 「百年史」は持っているコピーが歯抜けなので
肝心の金剛丸自体に関する部分が無いのですが(汗)、
「100年の航跡」では次のように述べられています。
****************
 このころ(引用者注:昭和8(1933)年頃)になると,増加した旅客のなかには,
内地産業の発展に伴い,わが国に渡航する朝鮮人も多く,しかもその大部分が,
居住地の関係で夜航便に集中したため,新連絡船は,再び夜航便専用となった。
これが昭和11(1936)年11月と翌12(1937)年1月に就航した金剛丸(7,081総トン)と
興安丸(7,079総トン)の姉妹船である。
****************

 金剛丸以前の関釜航路の主力は、大正末期に建造された
景福丸級3隻(景福丸・徳寿丸・昌慶丸)でした。
これらのデビュー当時はこの3隻で2往復とし、
「釜山は折返し,下関は朝着夕発,夕着朝発とした。」
(百年史第8巻P.365)とありますので、
この時点では昼航便と夜航便の共通運用が組まれていたことになります。
 しかしその後続けて「1船休航の場合の2船運航のときは
,両港とも折返しとなったが,
下関における折返時間中の炭水補給と機関の手入れ時間の不足で相当無理があり,
機関の故障により休航する場合もあった。」との記述もあることから、
基本的に関釜航路での昼航−夜航折返し運航は、
かなり条件が厳しかったことが窺えます。
 その後金剛丸級の就航までは10年以上経過していますが、
運航時間がさほど大幅に短縮されたわけではなく、
折返し運用の厳しさは大差なしと見て良いでしょう。

 そこへ「夜航便専用」の金剛丸級2隻が就航したわけですから、
これが夜航の7−8便に、在来の景福丸級がその他の便
(昼航便の他、夜航の増発便もあった)
に運用されたと考えるのが妥当ではないかと思います。
なお、百年史には昭和14(1939)年7月1日現在の関釜航路運航時刻が記載されており、
景福丸級は旅客便の他に貨物便の運用もあったようです
(景福丸級は元々旅客主体の船だった筈なのに…)。

 余談ですが、昭和17〜18(1942〜43)年に就航した天山丸級(天山丸・崑崙丸)
については、「さきに建造された金剛丸級の代船として使用するほかに,
臨時便として昼航便にも就航させるため,
金剛丸級のように夜航便専用の客室設備を設けず,
昼航便として必要な公室を増備するとともに旅客の定員を増加した。」
(百年史第11巻P.17)とあります。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 8月17日(月)10時49分43秒

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関釜連絡船

クモイ103様:
生憎「金剛丸」、「興安丸」完成直後の時刻表を持たないのでなんとも言えませんが---
昭和14-11-15改正の手帖型版時間表では:
1便:下関10.30→釜山桟橋18.00(24時間制で表示)
7便:: 22.03→:    6.00

2便:釜山桟橋 11.45→下関19.30
8便: :   23.30→:  7.15


昭和15年10月の復刻版だと:
1便 下関10.30 →釜山桟橋18.00(24時間制に直して表記)
7便 : 22.03  →:  6.00
1007便 22.07  → : 6.30

2便 釜山桟橋 11.45→下関 19.30
8便 :    23.30→:   7.15
1008 :    23.50→:  7.50

1007-1008便が所要時間から見て「徳壽丸」クラスだた解りますが。
上記のローテーションだとどうも昭和14-15年には1便→8便、7便→2便と廻していた
様に見受けられます。
この頃は旧朝鮮、満洲、支那との交通が戦略目的もあって爆発的に増えていた頃で
大阪商船の神戸‐大連航路など殆ど日発でしたから、1007-1008便も「付け船」として
満員だったのでしょう。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 8月17日(月)17時38分22秒

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博釜連絡船

博多港-釜山桟橋の航路は戦時中開設ですが、時刻表には「省略」でわかりません。
「徳壽丸」クラスが就航したのは解っていますが,何方か時刻をご存知の方,このHPに
発表お願いします。

ED76109先生:
戦後昭和27年に渡道した時、函館で「羊蹄丸」(初代)から下りたら,桟橋の反対側
に「景福ホテル」の看板がある,ホテルシップがありましたが、関釜連絡の生き残り
「景福丸」だと想います。 経営は鉄道弘済会??だったのでしょうか???




投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 8月17日(月)22時52分35秒

タイトル

Re: 関釜連絡船

マロネロ38様

 私が「夜航便専用」説の根拠としている情報は、主に設計時の想定であり、
実際の運用状況を直接示すものではありません。
従って、鉄道車両によくある、想定と実際が食い違っていた可能性は、
否定するものではありません。
また、昭和18年10月の崑崙丸撃沈を受けて夜航便が中止されてからは、
当然金剛丸級といえども昼間に運航した筈ですね。


 さて、改めて運航ダイヤの面から考察を加えてみます。
 「日本国有鉄道百年史」第8巻によると、
景福丸級3隻が出揃った大正12年7月の旅客便ダイヤは下記の通りで、
所要時間は昼航便8°00′、夜航便9°00′〜9°30′でした。
  1便 下関10:00→釜山18:00  2便 釜山11:00→下関19:00
  7便 下関23:00→釜山 8:00  8便 釜山21:30→下関 7:00

 実は、景福丸級は旅客専用船でした(と言っても申し訳程度の貨物設備は有り)。
P.362〜363には以下の記述があります。
****************
 景福丸・徳寿丸・昌慶丸の3隻は,
旅客輸送を主とする純客船で客貨分離を企図したもので,
稼働率を高めるため3船2往復をたてまえとし,
昼夜両便に使用できるよう設計された(以下略)
****************
 その運用は、前書き込みでご紹介した通り、
通常は「1→8→7→2」と回して3日で一巡するものでした。
釜山側の折返しは最短3時間という短いもので、
これは旅客専用便だからこそ出来た運用でしょう。
 1船入渠で2船運航の場合、「1→8」「7→2」となって
下関側でも最短3時間の折返しとなった訳ですが、
その場合は炭水補給と機関の手入れ時間が不足し運航に支障を来した事は、
前書き込みの通りです。

 昭和11年12月1日、金剛丸の就航を受けたダイヤ改正では、
所要時間が昼夜とも下り7°30′、上り7°45′にスピードアップされています。
しかし「1→8」「7→2」の間合い時間は、
釜山側で最短5時間30分と伸びていますが、
下関側では相変わらず最短3時間でした。
この点は、マロネロ38様がご紹介下さった
昭和14年及び15年のダイヤでもほぼ同様ですね。
 せっかく新造船が就航して船腹に余裕が出来たのですから、
少なくとも機関の手入れ時間がとれない様な折り返し運用は、
見直されたと考えるのが自然ではないでしょうか。

 もう一つ重要な点は、金剛丸級は景福丸級と違って
本格的な「貨客船」だったという事です。
 関釜航路には、青函航路のような車両航送はありません。
貨物の積み卸しは一般の船舶と同様のクレーンを使用したもので、
車両航送とは比べものにならないほど時間のかかるものでした。
荷役について私は詳しい知識がありませんが、
貨物満載の場合はだいたい半日仕事だったのではないでしょうか。

 これらの事を考え合わせると、
金剛丸・興安丸の姉妹船をペアで夜航便1往復に運用し、
昼間の時間で荷役と機関の手入れを行ったと考えるのが、
最も妥当な線と思うのであります。
 このような運航形態は、同航路の貨物専用便も行っていました。

 ただ冒頭にも書きましたように、当初の想定と実際の状況が異なってくるのは、
歴史上ままある事です。
金剛丸級の就航後も、関釜航路の輸送量はうなぎ登りでした。
昭和15〜16年には貨物専用の二代目壱岐丸・対馬丸が就航しますから、
貨物はそちらに任せ、金剛丸級はトンボ返りの旅客輸送に専念した…
という可能性も思いつきます。
全く根拠の無い憶測ですが、今のところ否定もできません。


 いろいろ勝手なことを申し上げましたが、全体を通してあくまで「推定」であり、
断定するだけの材料は持ち合わせておりません。
私の情報不足・考え違いなどがありましたら、何卒ご教示を賜りたいと思います。




投稿者

ED76109

投稿日

2009年 8月18日(火)00時28分34秒

タイトル

景福丸について

 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >関釜連絡の生き残り「景福丸」だと想います。

  関係サイト等、資料を精査した結果をご報告させていただきます。

 「景福丸」は、終戦後に「青函航路」に転船し、昭和24年7月30日終航。
その後、「函館桟橋南側岸壁」に係留されました。
その後、船内を改装して「海上ホテル」として昭和25年1月25日に開業。
ただし、空襲等で殉職した乗船員の遺族や人員整理による大量の解雇者の救済が
必要とされていたことから、
これらの人々の雇用確保を目的としたするためであった
福祉事業的な性格を伴った事業であり、
「鉄道弘済会」が船を借り受けての営業でありました。
この海上ホテルの設備は、和室5室・洋室14室、
収容人員は一般客46人、団体客280人の収容能力を有しておりました。
「函館駅」に隣接されていたことから、利用者は多かったとのこと。
しかし、船体自体の老朽化により維持費の増大などで赤字経営となり、
昭和31年に休業に追い込まれてしまいました。
その後、船体は放置、昭和33年に解体されました。
なお、「鉄道弘済会」では、海上ホテル休業後の同年に「函館駅」にほど近い一角に
「景福ホテル」の名称で旅館業を再開した記録がございます。



 以上、ご報告まで。「中年客車鉄ちゃん」でありました。



倶楽部メモ(548) 平成21年 8月18日〜 8月21日


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 8月18日(火)14時01分32秒

タイトル

関釜連絡船と景福丸

クモイ103様:
運用はお説の通りだったかも知れませんね。客車列車写真館の鉄道連絡船特集にある
戦後撮影した拙作の「徳壽丸」(下関)と「興安丸」(神戸三菱ドック)を見て
下さっても、「徳壽丸」クラスの貨物積載トン数は知れています。「興安丸」は
船体も3倍ほどありますし、第一,第ニハッチも相当積めそうです。

資料を書くと複雑になりますが、船舶の積載貨物トン数は普通貨物が「容積トン」
で40cft=1ton計算でしたが、鉄道省も「容積トン」計算??

それから「新羅丸」3102G/T,16.0Knが残っていたはずですが,これなど貨物船
に改造されていたのでしょうか?(1945年5月)触雷沈没。

ED76109先生:
ご教示有難う御座います。矢張り「鉄道弘済会」の経営でしたか。




投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 8月18日(火)21時43分56秒

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Re: 関釜連絡船と景福丸

マロネロ38様

 手持ちの資料は「鉄道連絡船100年の航跡」(古川達郎著・成山堂書店刊)で、
巻末の付表に各連絡船新造時の主要目が示されており、
「載貨量」のトン数がありますが、「容積トン」かどうかは説明がありません。
ちなみに関釜航路の主な船のデータは下記の通りです
(総トン数は小数以下四捨五入しています)。

・初代壱岐丸/対馬丸(明治38年就航)
  … 総トン数1681/1678トン、旅客定員317人、載貨量300トン
・高麗丸/新羅丸(大正2年就航)
  … 総トン数3029/3021トン、旅客定員603人、載貨量930トン
・景福丸/徳寿丸/昌慶丸(大正11/11/12年就航)
  … 総トン数3620トン、旅客定員949/945/945人、載貨量430トン
・金剛丸/興安丸(昭和11/12年就航)
  … 総トン数7082/7080トン、旅客定員1746人、載貨量3170/3174トン
・二代目壱岐丸/対馬丸(昭和15/16年就航)
  … 総トン数3519/3516トン、旅客定員なし、載貨量4617トン
・天山丸/崑崙丸(昭和17/18年就航)
  … 総トン数7907/7908トン、旅客定員2048/2050人、載貨量2223トン

 新羅丸は、姉妹船の高麗丸と共に大正時代の大半を通じて関釜航路の主力でしたが、
景福丸級が登場した大正12年からは、定期貨物便に運用されるようになりました。
昭和6年、高麗丸は稚泊航路に転属しましたが、新羅丸は関釜に残って、
昭和10年、お説の通り貨物船に改造されたということです。
 その後昭和17年に青函航路へ派遣され、20年に関釜航路へ戻る回航の途中、
目的地を目の前にした関門海峡東口・部崎(へざき)沖で、
米軍機の投下した機雷に触れて沈没、32年の生涯を閉じたのでした。


 景福丸ホテルの存在は、
当時仕事で函館に行く機会の多かった父から聞いていました。
 青函トンネル開通後に訪れた函館駅前、
いかにも最近出来た感じの土産物を扱う大型店舗の名前が
「けいふく」となっていてニンマリ。
試しに若い女性の店員に「店名の由来を知っていますか」と訊いたけれど、
やっぱり知りませんでした。
まあしょうがないのでしょうか…




投稿者

竹中@ノーブルジョーカー

投稿日

2009年 8月19日(水)22時53分48秒

タイトル

関釜連絡船

クモイ103様、マロネロ38様
「汎交通」(日本交通協会)昭和57年9月号から翌8月号に
「思い出の連絡船」という記事が連載されています。
ここではダイヤについての記述はありませんが、
金剛丸・興安丸が関釜間を7時間で結ぶために速力21節を出せる高速船であったこと。
その足の速さに海軍が目をつけ、空母に改造できる構造であったこと
(鉄道連絡船は石炭焚きであったのに対して空母は重油焚きであった)、
意図に反し(?)空母に改造されなかったのは
貨客の輸送を求めていた陸軍が同意しなかったからなど興味深い内容が盛り沢山です。
また、鉄道連絡船は時刻通りに運行することから、
貨物の積みつけに充分な時間がとれず、
船倉の能力を下回る運行が日常的であったことから、
夜行専用とすることにより充分な時間がとれるようになったそうです。
なお、一番大きな船倉は機関車が積める寸法だったとか。

投稿者のホームページ




投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 8月19日(水)23時40分42秒

タイトル

Re: 関釜連絡船

竹中@ノーブルジョーカー様
 補足ありがとうございます。
 海軍の要求で空母への改造準備工事がなされたものの、
陸軍の反対で実際には改造を免れたという話、
「鉄道連絡船100年の航跡」にもコラム扱いで載っていました。
鉄道連絡船はそれぞれの時代における最先端の優秀船でしたから、
国鉄以外の諸事情が入って翻弄される場面もあったようですね。
 「船倉の能力を下回る運行が日常的であった」とのお話しは、初めて伺いました。
 「汎交通」の連載記事、いつか鉄博で見てみたいと思います。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 8月20日(木)11時58分22秒

タイトル

陸海軍の対立

これは有名な話ですね。
日本郵船の「新田丸」、「八幡丸」は最初から空母予定で重油ボイラー(海軍式)
建造中空母化は「春日丸」。
それにもう一回り大きい「出雲丸」、「橿原丸」は全くの空母予定構造だった事が
有名です。2船とも建造中空母化。
連絡船は「石炭ボイラー」だったから改造に手間が掛る面もあったのでしょう。
それにしても「ごり押しの陸軍」が連絡船を結果として助けたのは皮肉な結果ですが。



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