マロネロ38様
金剛丸級については、「日本国有鉄道百年史」及び「鉄道連絡船100年の航跡」に
夜航便専用との記述があり、
またそれで話の辻褄が全て合いますので、その様に認識しております。
「百年史」は持っているコピーが歯抜けなので
肝心の金剛丸自体に関する部分が無いのですが(汗)、
「100年の航跡」では次のように述べられています。
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このころ(引用者注:昭和8(1933)年頃)になると,増加した旅客のなかには,
内地産業の発展に伴い,わが国に渡航する朝鮮人も多く,しかもその大部分が,
居住地の関係で夜航便に集中したため,新連絡船は,再び夜航便専用となった。
これが昭和11(1936)年11月と翌12(1937)年1月に就航した金剛丸(7,081総トン)と
興安丸(7,079総トン)の姉妹船である。
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金剛丸以前の関釜航路の主力は、大正末期に建造された
景福丸級3隻(景福丸・徳寿丸・昌慶丸)でした。
これらのデビュー当時はこの3隻で2往復とし、
「釜山は折返し,下関は朝着夕発,夕着朝発とした。」
(百年史第8巻P.365)とありますので、
この時点では昼航便と夜航便の共通運用が組まれていたことになります。
しかしその後続けて「1船休航の場合の2船運航のときは
,両港とも折返しとなったが,
下関における折返時間中の炭水補給と機関の手入れ時間の不足で相当無理があり,
機関の故障により休航する場合もあった。」との記述もあることから、
基本的に関釜航路での昼航−夜航折返し運航は、
かなり条件が厳しかったことが窺えます。
その後金剛丸級の就航までは10年以上経過していますが、
運航時間がさほど大幅に短縮されたわけではなく、
折返し運用の厳しさは大差なしと見て良いでしょう。
そこへ「夜航便専用」の金剛丸級2隻が就航したわけですから、
これが夜航の7−8便に、在来の景福丸級がその他の便
(昼航便の他、夜航の増発便もあった)
に運用されたと考えるのが妥当ではないかと思います。
なお、百年史には昭和14(1939)年7月1日現在の関釜航路運航時刻が記載されており、
景福丸級は旅客便の他に貨物便の運用もあったようです
(景福丸級は元々旅客主体の船だった筈なのに…)。
余談ですが、昭和17〜18(1942〜43)年に就航した天山丸級(天山丸・崑崙丸)
については、「さきに建造された金剛丸級の代船として使用するほかに,
臨時便として昼航便にも就航させるため,
金剛丸級のように夜航便専用の客室設備を設けず,
昼航便として必要な公室を増備するとともに旅客の定員を増加した。」
(百年史第11巻P.17)とあります。
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