倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
迂回運転について
大阪駅空襲被災時・改良工事に伴う迂回運転などについて


倶楽部メモ(506) 平成21年 3月31日〜 4月 2日


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 4月 1日(水)08時24分39秒

タイトル

宮城野貨物線

▼管理人様:

更なる御教示、有難うございました。大阪における線路容量の問題や、宮原における
車両整備・駐泊を勘案すれば、確かに仰る通りですね。当方の言葉足らずで御手数を
掛けました事、御詫びを申し上げます。

▼ED76 109様:
>「大ミハ」や「大ムコ」が東京の「南シナ」や「北オク」よりも優れているという

平坦地の展開度合が比較的小さい事から、首都圏に比べると、並行私鉄との競合性が
高いとされる畿内の国鉄(JR)では、独自の創意工夫が見受けられるなどと、間々
評される様ですが、宮原の「完璧な」路線配置も、かかる感性の産物でしょうか。

一方、梅田地区に立ち寄る関係上、わざわざ淀川を二度渡ってまで、大阪駅の前後で
かなりの迂回経路を呈する東海道線の態様を考えると、宮原の設置は、まず業務用の
短絡線ありき、という発想を出発点とした様な雰囲気も感じられます。

この種の短絡線としては、仙台駅前後の「宮城野貨物線」を連想しますが、こちらは
仙台駅が夜間、新幹線の工事で閉鎖された1970年代中頃、長町の代替停車とセットで
夜行列車の迂回に供された歴史がありますね。宮原で、そうした措置がとられた事は
あったものやら?

>「京都」の「上りホーム」から苦もなく「臨時あかつき」等を「大ムコ」に回送

京都駅30番線始発「はるか」の要領でしょうか。これだと、東海道線西側に並行する
貨物線を南下、そのまま桂川駅付近で本線を跨ぎ、向日町では、下り快速線の外側に
シフトする格好になりますが………

> 旅のラストは「日立駅近くの太平洋に沈む夕日」

海岸線の態様にもよりますが、かの地で太平洋と夕日を絡め得るとすれば、落日点が
最も南に偏る師走頃になるでしょうか。常陸太田絡みで夕日を拝むなら、日立電鉄の
川中子駅跡に近い小目地区が御薦めです。ここは何と言っても、かのNHK「新日本
紀行」主題曲着想の原点となった、由緒ある地ですから(作曲者談)


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 4月 1日(水)10時56分44秒

タイトル

大阪駅空襲被災時の措置

雑魚様:
>宮原でそうした措置(迂回)--
戦争末期に大阪駅が被災した時に、北方貨物線(宮原)経由で長距離列車が迂回する
と当時ラジオで聞いた記憶があります。大阪乗車,下車の客扱いを何処でしたのか?
までは記憶にありません。報道管制が厳しかった当時なのでそこまで報道されなかつ
たと------。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 4月 1日(水)12時57分40秒

タイトル

戦時体制

▼マロネロ38様:
> 大阪乗車,下車の客扱いを何処でしたのか? までは記憶にありません。

前後の東海道線では既に、複々線化が相応に進捗していた様ですが、首都圏と異なり、
当時から方向別仕様だとすれば、代替停車措置の融通は割と効いたかも知れませんね。
なるべく大阪の近くに、となれば、吹田か神崎(現尼崎)辺りでしょうか………

> 報道管制が厳しかった当時なのでそこまで報道されなかったと------。

下車客はそれで良いとしても、乗車予定客への誘導対応が、困難になりますね。

=====================================================

戦時対応といえば、山陽線や呉線では海軍関連施設を衆目から隠す為、瀬戸内海側の
窓を一律封鎖(遮光幕? バリケード?)した事も あったそうですね。景色を眺めて
なんぼの列車移動でこの状況、戦時下だからと言えばそれ迄ですが、想像するだけで
ストレスが溜まりそうですね。その頃、陸軍に応召した我が祖父は、時として貨車に
押し込まれての移動を経つつ、中国東北部で転戦を重ねていたそうな。

戦時下の山陽線と云えば、やはり広島での惨禍ですが、原爆投下の翌日には宇品線が、
翌々日には部分的ながら山陽線が復旧し、被災者や救援物資の輸送に与されたとの事。
襟を正す話です。


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 4月 1日(水)21時17分36秒

タイトル

長町駅に停車した夜行列車

 おばんでございます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >この種の短絡線としては、仙台駅前後の「宮城野貨物線」

 昭和48年3月に「鉄」親父と乗車した「八甲田51号」が、
このルートで運転されました。
残念ながら小生は「夢の中」だったので、印象は皆無です。
ただ、同年6月の「JTB時刻表6月号」では、
0時〜5時の間に6往復(多客期は10往復)の連絡バスが、
「仙台・長町」間の運行されております。
「仙台」では、下りは「0時22分発八甲田」から
「5時23分発いわて3号」までの間の急行3本(十和田1号、2号及び3号)、
上りは「23時30分発いわて3号」から「5時38分発八甲田」までの間の急行3本
(北星、十和田3号及び4号)がそれぞれ「長町」に停車しております。
 確か、昭和52年頃(?)まで、「長町」の代替停車措置が取られたはずでありますが、
時期は明確ではありませんので、先達の皆様方から補足いただければ幸いであります。

 長々と失礼しました。以上、「戯言」情報でありました。


投稿者

竹中@ノーブルジョーカー

投稿日

2009年 4月 1日(水)21時27分16秒

タイトル

RE:宮城野貨物線

雑魚さま

>宮原で、そうした措置がとられた事はあったものやら?

大阪駅は大改装の真っ最中ですが、この工事の過程で
東京発のブルトレを宮原経由(貨物線)としたことがありましたよね。
時刻表にも記載があったはずです。

投稿者のホームページ


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 4月 2日(木)10時21分59秒

タイトル

大阪駅被災時代替駅

雑魚様:
多分神崎(尼崎)と吹田だったかもしれません。
吹田は千里山線が近いですが、神崎は例の「ドテカン」(尼崎昇降場)−−尼崎で
阪神尼崎が大阪への連絡方法?だったのかと。何しろ当時は「博釜,関釜、青函、
稚泊連絡船」時刻は「駅で切符を買う乗客が問い合わせ」でないと時刻表には
「省略」の時代、隠岐島航路も「省略」の状態でしたから、代替駅も「駅へ問い
合わせ」だったかも知れません。
呉線のブラインド下ろし命令は「大和」を隠蔽の為、神戸の川崎重工ガントリー
クレーンの「簾」は空母「大鳳」隠蔽でしたが、三ノ宮駅などホームから丸見えで、
平甲板なので航空母艦とすぐ解りました。北陸本線の新保−杉津なども
「ロ」の車内ではカレチが「写真機を預かります」でした。
明石海峡なども要塞地帯ではないのに昭和15年頃から海峡の撮影禁止」でした。
戦後の「周遊指定地」の多くが「要塞地帯」と被っているのも皮肉な結果と感じ
ました。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 4月 2日(木)11時29分57秒

タイトル

宮原迂回

▼竹中@ノーブルジョーカー様:
> 大阪駅は大改装の真っ最中ですが、この工事の過程で東京発のブルトレを
> 宮原経由(貨物線)としたことがありましたよね。

この件は初耳でした。梅田貨物駅で行われている「大阪駅新北ビル」の再開発工事に
関連して「富士/はやぶさ」「サンライズ」が宮原を経由した、という事でしょうか。
前者の下り便と後者の上り便は、大阪に停車する事から、代替駅の確保が必要ですが、
吹田からの東側回送線では、新大阪には配線構造上、停車不可ですよね………すると、
やはり、要衝である尼崎に停車?

時代の必然とはいえ、NHK「その時、歴史が動いた」の東京駅再現にも用いられた、
梅田の風情ある頭端式貨物駅が無くなるのは、趣味の見地からは惜しい気がしますね。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 4月 2日(木)16時31分37秒

タイトル

敦賀港駅

▼マロネロ38様:
>「駅で切符を買う乗客が問い合わせ」でないと時刻表には「省略」の時代、

行程の事前策定が困難という事で、時勢柄、行楽は憚られたにせよ、商用・実務での
利用動機、延いては経済への悪影響も著しかったものと、想像します。

> 呉線のブラインド下ろし命令は「大和」を隠蔽の為、

ブラインドがあったのですね。鉄道が通る街にあって、大型艦船を隠蔽する必要性が
予測できたなら、関連施設の立地を検討する段階で、一考の余地ありとも感じますが。

> 北陸本線の新保−杉津なども「ロ」の車内ではカレチが「写真機を預かります」

敦賀港は、杉原千畝氏による「命の査証」を携えたユダヤ人の上陸に象徴される様に、
軍港でなく、国際航路の拠点という印象を受けますが、それでも守秘性が求められて
いたのですね。この辺りの旧北陸線を踏襲する道路では、1996年に北海道後志支庁の
豊浜隧道で発生した大規模な岩盤崩落事故を受けて、隧道部分が一定期間、通行止の
扱いだったと聞きます。

福井県では、この難所を境に「嶺南」「嶺北」と分ける事が多いそうですが(ただし
律令制における敦賀は、若狭でなく越前に所属)直流電化が敦賀まで延伸された現在、
経済的な境界線として、県境以上に大きな意味を持つ事になりそうですね。

なお「ボート・トレイン」の運転を巡り、同港とは縁の深い敦賀港貨物駅が、先月末、
鉄道施設としての一世紀余の歴史を終えたそうで、今後は、線路の撤去は行わない侭、
コンテナ中継を行う「オフレール・ステーション」として稼動するそうです

> 戦後の「周遊指定地」の多くが「要塞地帯」と被っているのも皮肉な結果

茨城県の鹿島港や富山県の富山新港の様に、平坦な海岸に大型船舶を対応させる為の
浚渫技術が未確立だった時代、特に重量級が多い武装艦を擁する軍港では、喫水線を
確保する為、旧海軍の鎮守府が設置された横須賀・舞鶴・呉・佐世保は典型例ですが、
リアス式海岸か、それに近い地形が好まれ、必然的に風光明媚さを伴ったと考えます。


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2009年 4月 2日(木)20時03分30秒

タイトル

大阪駅改良工事に伴う迂回運転

大阪駅改良工事に伴う寝台特急列車の迂回運転は数回あったようです。

手持ちの時刻表からわかっただけで、下り「富士」「はやぶさ」で3回ありまして
現地(大阪地区)日で 2007年4月8日(日)・10月28日(日)・11月11日(日)に
本来停車駅の大阪駅( 1:06着 1:08発)を通らずに北方貨物線を経由し、停車駅が
尼崎駅( 1:13着 1:15発)に変更になったようです。

同様に上り「サンライズ瀬戸・出雲」も現地(大阪地区)日 2007年4月8日(日)に
本来停車駅の大阪駅( 0:32着 0:34発)を通らずに北方貨物線を経由し、停車駅が
尼崎駅( 0:27着 0:29発)に変更になったようです。

私の手持ちの時刻表でわかったのは上記4列車だけなのですが、それ以外の日にも
迂回運転となった日が存在すると思いますので、詳しい方がいらっしゃいましたら
フォローいただけると助かります。


投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2009年 4月 2日(木)23時04分41秒

タイトル

Re大阪駅改良工事に伴う迂回運転

確かはやぶさと併結だったさくらも下りが尼崎に停車してましたね。
2005年の3月、さくら廃止の直前だったと思います。
出雲末期にも午前3時過ぎに京都駅に撮影に行くと、
本来通過のはずの富士・はやぶさが0番線に停車してました。
時刻表には記載されてませんでしたが駅では案内放送がされていた記憶があります。


倶楽部メモ(507) 平成21年 4月 3日〜 4月 5日


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 4月 3日(金)16時07分18秒

タイトル

だいせん

竹中@ノーブルジョーカー様、管理人様、ヒゲ無し雷鳥様、更に御教示を頂きまして、
有難うございました。今では一大要衝となった尼崎駅の拠点性が、改めて窺えますね。

その一方、初めて在来線で畿内を訪れた1980年代「大垣夜行」から乗継いだ 113系の
網干行は京都〜三ノ宮が快速運転で、途中停車駅は確か、高槻・茨木・新大阪・大阪・
芦屋・六甲道だったと記憶しており、福知山線を分かつ尼崎の通過を、意外に感じた
記憶があります。

上記「快速区間」が、列車の振り分けで融通が効く「方向別複々線」との事情もあり、
速達列車の停車パターンも少しずつ変わりつつありますね。1970年に 153系「ブルー・
ライナー」仕様で新快速が新規設定された当時、京都〜西明石の途中停車駅は、大阪・
三ノ宮・明石のみで、後年追加された姫路発着便は西明石も通過という、子供心にも
印象深い陣容でした。

特別料金を必要としない意味における「普通列車」昼行便としては、当時の新快速の
京都〜大阪(42.8km)が、無停車の最長記録かと思いきや、よく考えたら、1986年に
私自身が利用した、山田線の特別快速「リアス」盛岡〜茂市(87.0km)という事例が
ありました。この程度の出力で区界峠が越えられるのか、ガラガラの車内も相まって、
不安になる様な、長閑な走りが、実に印象的でした(^^)

尼崎停車の有無は失念しましたが(多分、通過?)20系時代に何度か御世話になった
急行「だいせん」は、1986年の宝塚〜福知山〜城崎電化の際、14系寝台+12系座席に
置換されるも、相変わらず、大阪から一貫してDL牽引でしたね。旅客需要が大きく
切り替る訳でも無い倉吉から以西が普通列車扱いと云うのは、妙な話と思いましたが、
聞けば「山陰」廃止に伴う代替救済の意味もあったとか。


投稿者

bell

投稿日

2009年 4月 4日(土)02時38分58秒

タイトル

迂回運転

管理人様、こんばんは。
このところ話題となっている迂回運転につきまして書き込ませていただきます。

先月廃止となりました『富士』・『はやぶさ』ですが、
平日の2レは北方貨物線(宮原)を経由し
吹田操で運転士の交代を行なっていたようです。
私は1月15日と3月11日に乗車しましたが、いずれも北方貨物線経由でした。
通過時刻は午前3時頃ですが、
3月乗車時には途中の踏切にファンの姿を確認することができました。
ちなみに、京阪神の複々線区間では外側線を走行するのが本来ですが、
線路保守の関係でしょうか、かなりの頻度で内側線を走行しておりました。

また、宮城野貨物線についてですが、雑魚様・ED76 109様がご指摘の通り、
仙台駅の東北新幹線の工事に伴い
昭和48年頃から5年間ほど夜行列車が迂回しておりました。
これとは別に、平成4年2月29日上野発の『八甲田』が迂回運転を行なっております。
当日のみの措置だったのかどうかは失念しましたが、時刻表に掲載されたことから、
普段と違う経路ということで卒業旅行の日程に組み入れた記憶があります。


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2009年 4月 4日(土)09時34分17秒

タイトル

Re:迂回運転

bell様
大阪駅の迂回運転についてご教示ありがとうございます。
2レの晩年は日常的に北方貨物線経由だったのですね。
もっとも北方貨物線は大阪駅を通らずに通過する貨物列車用のバイパス路線ですから、
大阪駅通過扱い(実際にはほとんどの列車が運転停車)の夜行列車においても、
迂回路というよりも短絡路線として使用する事も出来たのですよね。
(「あさかぜ」設定時に深夜の通過に反対した関西に対して、
国鉄本社側が北方貨物線経由でも運転するという話も出たのは有名な話ですよね)


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 4月 4日(土)14時25分52秒

タイトル

有珠山噴火もありました

 失礼致します。
昨日の職場歓迎会のアルコールがやっと抜け落ちた「ED76109」であります。

 話題は、「大阪駅周辺の迂回運転」で賑わっているようでありますが、
当地では平成12年の4月〜5月にかけての「有珠山噴火」に係る
「山線迂回運転」が印象的でした。
小生、実はあの日に「はまなす→白鳥→あかつき」というコースで
九州への「乗り鉄」へ出発する計画をしており、
21時すぎの「札幌」で途方に暮れた苦い記憶が・・・。
 それでは、今回は「鉄」親父が経験した「迂回運転」を
主に「戯言」を述べさせていただきます。
前述しましたが、何しろ「なは・日向」で「伯備・芸備線迂回」を経験するなど、
強運(?!)の持ち主のようです・・・。

 1 平成10年の初秋に全国的な集中豪雨禍の中、
東北本線の栃木・福島県境付近の道床が流失して、
約1ヶ月間不通となりました。
「鉄」親父たちはちょうどこの時、9月の連休を使って
小生の「自宅」を訪れることにしていたのですが、
「北斗星3・4号」が「常磐線経由」で運転されるとのことで予定通り渡道。
阿寒湖など道東を楽しんで帰京する折、「札幌」で見送る小生に、
「久しぶりの『広野原』と太平洋がたのしみだなぁ。」と一言。
翌日の夜の「鉄」親父からの電話では、「久しぶりの常磐線の客レは最高だったぁ!」。
小生が切歯扼腕して受話器を置いたのは、言うまでもありません。

 2 北海道では、小学校の運動会は「5月〜6月」の爽やかな風の中で開催されます。
平成12年の5月中旬、子供らの運動会が開催されて
孫たちの姿をビデオに収めようと「鉄」親父たちがやってきました。
ちょうどこの時期は、件の有珠山噴火で「カシオペア」は「山線経由」で運転されており、
再生中の愚息の徒競走のビデオを肴に「明日は快晴のようだから、
『羊蹄山』が見えればなぁ。」と一言。
1ヶ月後、自宅宛に「運動会ビデオ」が送られましたが、
「カシオペア」の車窓からの「張碓」や「羊蹄山」の「山線風景」が
付録編として描かれておりました。

 3 先達の皆様方にはご承知のこととは存じますが、
件の「有珠山噴火」の「山線迂回」の折は
「貨物」も迂回運転する羽目となり、
撤去した交換施設を「目名」で復活させるなど大わらわ。
そんな中、「札幌」のみどりの窓口で目にしたポスターには、
「今後の運転予定」が盛り込まれておりました。
そこには「7月以降の予定欄」に上下「エルム号のダイヤ」が掲載されていました。
そのダイヤは、下りが「倶知安12時30分→小樽13時40分→札幌14時50分頃」。
上りが「小樽20時10分頃→倶知安21時20分頃→長万部0時頃
・・・→上野14時30分頃」。
実際には、6月初旬に平常ダイヤに戻りましたので
「山線経由のエルム号」は幻となってしまいました。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でございました。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 4月 5日(日)15時58分39秒

タイトル

「北斗星」 の常磐線迂回

▼尼港線様:
>「金楽寺線」という俗称も(中略)確かに存在しておりました。

マロネロ38様の御指摘に、若しかして塚口の知人に担がれたかと案じておりましたが、
安堵致しました(^^)東海道線と直接の接点を持たない線形は、南武線浜川崎支線を
連想しますが(尤も、東京貨物ターミナルに至る東海道貨物線は、浜川崎経由ですね)
ここを往来した貨物列車は、専ら、宝塚や福知山方面の発着だったのでしょうか。

貨物列車の設定区間によっては、1956年の塚口電化が、特急編成の引上げ目的以外の
必然性を伴った可能性が捨て切れないと感じております。その一方、件の部分電化が、
旅客運用外の便宜上の理由に拠る以上、施設態様も、例えば大糸線の信濃大町以北で
見られた「バタヤ電化」よろしく、御手軽な仕様では無かったのか、とも勘繰ります。

一連の御話から、尼崎の街との位置関係を見れば、主要地区はあくまで阪神駅界隈で、
国鉄駅は、全くの「街外れ」だった様ですね。この種の「国私関係」は、畿内ですと、
今や政令指定都市となった大阪府堺市も該当するでしょうか。

▼ED76 109様:
> 平成10年の初秋に全国的な集中豪雨禍の中(中略)約 1ヶ月間不通となりました。

普段は実に大人しい余笹川が、まさかの大氾濫を起こした前日の夕方、私はたまたま
大子方面に赴いたのですが、那須方向を見ると、稲妻が幾重にも落ちるという、恰も
映画の場面を思わせる様な、不気味な空模様だった事を、今でも明瞭に覚えています。

>「久しぶりの常磐線の客レは最高だったぁ!」

海がそこそこ見える分、車窓風景におけるアドバンテージがあったでしょうね。一方、
臨海県民の分際で「白砂青松」以上に「山紫水明」を好む私としては、仙台方面から
常磐線で帰る際、駅を出て暫く並走区間が続くなど「勿体を付ける」岩沼の分岐点を
通過する度、去り行く東北線を見つつ「あっちに乗りてぇなぁ」と嘆息するのでした。

件の「北斗星」迂回が行われた当時、デジカメ導入前だった事もあり、写真撮影には
無頓着でして、今頃になって、映像記録を残して置かなかった事が歯痒いばかりです。
そんな思いを込めて(^^)一昨年、常磐線で撮影した「夢空間」の写真をひとつ。

以上、子供が与する学校行事の父兄参加を女房に押付け、客レ団臨の撮影に奔走した
前科を持つ(^^)雑魚でした。


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