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               ▼管理人様: 
              > 
もともと「鳥海」時代にも、上野−長岡間の牽引機はEF64-1000でしたので、 
               
              ブルトレとしての「鳥海」は、奥羽線が改軌工事で部分閉鎖された1990年に設定され、 
              1997年、現在名に改称されるまでは、陸羽東線経由「あけぼの」と並存状態だった為、 
              むしろ「鳥海」の名を残すか、急行「鳥海」を継承、1993年まで上野〜新津〜秋田で 
              運転された「出羽」に改めた方が、判り易かった気もします。 
               
              ARC資料室によると、現行スジが全区間、EF81牽引となったのは「あけぼの」に 
              改称された時点からで、それまでは、新津で機関車交換を行っていた様です。現在の 
              交換駅が長岡となったのは「北陸」との集約性を考慮した結果でしょうか。 
               
              1988年まで、一晩三往復体制を誇った山形経由時代の「あけぼの」に関して、印象が 
              深いのが、1991年公開の映画「おもひでぽろぽろ」です。時代考証や風景描写、特に 
              仙山線高瀬駅などは、良くぞここまで、リアリティーを追求したものだと思いますね。 
               
              一方で、山形下車なら急行「津軽」で十分だと突っ込みたくなりますが(^^)物語の 
              舞台となった1982年は、秋の改正の際、従前の10系寝台車と12系座席車の混成による 
              一晩二往復体制が、20系寝台による一晩一往復体制に移行した時期で、元々多かった 
              座席需要を巡る混乱から、一部寝台車を終夜「昼寝開放」したとの逸話がある様です。 
               
              翌年には、臨時「あけぼの」と同様に、14系座席車で統一され、私がワイド周遊券の 
              関連で「八甲田」と共に同列車を重宝したのも、これ以降の事でした。それにしても、 
              秋田での旅客需要の切り替わり振りは、凄かったですね。 
               
              ▼マロネロ38様: 
              > 
私はハネそのものが「移動木賃宿」(故野村董氏の言)だと思っていたので 
               
              なるほど、説得力のある比喩ですね(^^)強いて言うなら、大荷物を伴う開放寝台の 
              乗客が、食堂車やシャワー室など、一定時間、席を離れる必要がある場合、置引きが 
              気になる方も、少なからずいらっしゃったのではないか、と感じます。  
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