倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
急行 「津軽」
「出世列車」の異名を持った名列車


倶楽部メモ(500) 平成21年 3月15日〜 3月17日


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 3月17日(火)14時52分10秒

タイトル

急行 「津軽」

▼管理人様:
> もともと「鳥海」時代にも、上野−長岡間の牽引機はEF64-1000でしたので、

ブルトレとしての「鳥海」は、奥羽線が改軌工事で部分閉鎖された1990年に設定され、
1997年、現在名に改称されるまでは、陸羽東線経由「あけぼの」と並存状態だった為、
むしろ「鳥海」の名を残すか、急行「鳥海」を継承、1993年まで上野〜新津〜秋田で
運転された「出羽」に改めた方が、判り易かった気もします。

ARC資料室によると、現行スジが全区間、EF81牽引となったのは「あけぼの」に
改称された時点からで、それまでは、新津で機関車交換を行っていた様です。現在の
交換駅が長岡となったのは「北陸」との集約性を考慮した結果でしょうか。

1988年まで、一晩三往復体制を誇った山形経由時代の「あけぼの」に関して、印象が
深いのが、1991年公開の映画「おもひでぽろぽろ」です。時代考証や風景描写、特に
仙山線高瀬駅などは、良くぞここまで、リアリティーを追求したものだと思いますね。

一方で、山形下車なら急行「津軽」で十分だと突っ込みたくなりますが(^^)物語の
舞台となった1982年は、秋の改正の際、従前の10系寝台車と12系座席車の混成による
一晩二往復体制が、20系寝台による一晩一往復体制に移行した時期で、元々多かった
座席需要を巡る混乱から、一部寝台車を終夜「昼寝開放」したとの逸話がある様です。

翌年には、臨時「あけぼの」と同様に、14系座席車で統一され、私がワイド周遊券の
関連で「八甲田」と共に同列車を重宝したのも、これ以降の事でした。それにしても、
秋田での旅客需要の切り替わり振りは、凄かったですね。

▼マロネロ38様:
> 私はハネそのものが「移動木賃宿」(故野村董氏の言)だと思っていたので

なるほど、説得力のある比喩ですね(^^)強いて言うなら、大荷物を伴う開放寝台の
乗客が、食堂車やシャワー室など、一定時間、席を離れる必要がある場合、置引きが
気になる方も、少なからずいらっしゃったのではないか、と感じます。


倶楽部メモ(501) 平成21年 3月17日〜 3月19日


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 3月18日(水)13時10分42秒

タイトル

急行津軽

「出世列車」の異名がありましたね。東北地方から東京へ就職した人達がある程度の
地位になったら、急行「津軽」を帰省するのに利用とかで。
一度横手で宿泊して駅で「津軽」を撮影しようとしたら、公安がやたらと多いので
聴いてみたら義宮様のお妃に決まった津軽華子さんがロネに乗車しているとの事で
身分を聴かれて「鉄道友の会」の会員証を出したら,駅長がOKしてくれて撮影出来
ましたが、その「津軽」が遅着で駅では気をもんでいました。オロネ10の左側の窓
には全部カーテンが掛かっていたのが印象的でしたが、乗り合わせた乗客はさぞ迷惑
だったと想います。
多分住所姓名を聴かれて身分証明書を出せで、「トイレ洗面所は前部だけ
を使え」とか:-------。
余談ですが吉田茂ワンマン首相が福井から京都まで時の602レに乗車だと言うので
金沢から最前部にマイネ40を増結。父と一緒だったのでスロ51の窓から本物の
ワンマン首相を見ましたが「ダンディーな貴族タイプの人」の印象でした。


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 3月18日(水)21時31分59秒

タイトル

「鹿カコ」に戻っています

 呑気な「鉄」ちゃんである「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >「出世列車」の異名がありましたね

  有名過ぎて「多弁は無用」ですが、上京する際は「夜行鈍行のハザ」。
帰郷する際に「ロネ」や「ロ」でホームに降り立つことが
錦を飾ることが成功の証であると、
まことしやかに言われているようでありました。
後には、「あけぼの」の「ロネ」で帰郷することが、最もステイタスあること。
とにかく、盆暮れ正月に「津軽」「あけぼの」での帰郷が、
最重要事項であったようであります。

 >義宮様のお妃に決まった津軽華子さんがロネに乗車している

 「マロネロ38様」には「釈迦に説法」でありましょうが、
「PCはと」の全盛期に、大阪の高槻にある「療養所」に
「はとガール」の方々が、「イテ」から手を振って「患者」さんを励ます
「鉄路の友情」という行為がございました。
しかし、このことを苦々しく想っていた「国鉄上層部」が
自粛することを強いたところ、
昭和天皇が「山崎に 病養ふ人見れば におへる花も 美しからず」
という御歌を下賜されて、
「PCはと」の運転終了まで、「鉄路の友情」としての交流が続き、
当時の小学5年生の国語科の教科書に掲載されたという逸話が残っております。
 「皇室」の方々が、可能な限り「お召し列車」でご旅行されることで、
在来線の「長距離列車」に一筋の光明が見られることを心から望んでおります・・・。

 雑魚様
 >15日夕刻「富士・はやぶさ」回送と思しき
 上り寝台車編成を〜の書込みがありました

 「西日本新聞」のWebページによりますと、
「鹿カコ」に「はやぶさ・富士」の車両が留置され、
今後の予定は未定との報道がございました。
小生、前述の「はやぶさ(若しくは富士)81号(仮称)」が夏休み、
年末年始に運転されるという一縷の望みを祈念しております。

 長々と失礼致しました。
以上、「函ハコの国鉄色の183系」が「はつかり復活ツアー」に係り、
「函館・網走」間に「なつかしのおおとり号(?)」
として運転されるのだろうと思い込んでいる「中年客車鉄ちゃん」でございました。


投稿者

高速貨A

投稿日

2009年 3月18日(水)21時48分45秒

タイトル

急行津軽

雑魚様,マロネロ38様
急行津軽に関する話題を拝見しました.
 中学の修学旅行の帰りに青森駅で「急行津軽」を初めて見ました.
12系座席車+10系寝台車の編成でした.
当時,道内の客車急行は全て旧型客車による編成だったので,
12系座席車の客車急行は珍しく思いました.
(後に特急形車両である14系座席車による
定期客車急行の存在を知りましたが・・・雲仙・西海など)
 数年後,ワイド周遊券による車中泊で
「津軽」「八甲田」「十和田」などに乗車する機会に恵まれました.
「ワンカップ大関」片手にほろ酔い気分のオッサンと話す機会があったとか,
寝過ごして周遊範囲を逸脱してしまい,
下車駅の駅員に事情説明の上”無賃送還”措置してもらったり等々,
懐かしい思い出です.
 昭和57年10月のダイヤ改正で20系客車に置換えたものの座席需要が高くて
(座席車はナハ21が3両程度だった)
雑魚様の記述にあるように寝台車の昼寝開放措置が図られ,
まもなく14系座席車による編成になりました.
(20系客車は急行おがに転用)14系座席車については
急行「ニセコ」で乗車済みでしたが,
ロックのかからない簡リクのおかげで
夜中に姿勢を変えようとしてバタンと大きな音を立てたとか,
乗車した車両が発電機セット搭載のスハフ14で,
うるさくて眠れない(そのうち熟睡しているのだが・・・)等々,
今となっては懐かしい出来事です.
 晩年の急行津軽は583系に置き換えられており,
廃止直前に乗車する機会がありましたが
ガラガラ状態で「廃止もやむを得ないのかな」と思った次第であります.
 そして今となっては,定期客車急行が「はまなす」だけの状態であり,
他の交通手段(高速バスや航空機など)
JRの経営,日常生活の向上などを考えると
廃止も仕方ないと思いつつ一抹の寂しさを感じるこの頃です.


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 3月19日(木)14時35分44秒

タイトル

更に 「津軽」 の事

▼ED76 109様:
>「政治的意向」でなんとかならないものか…

所管大臣次第では 123列車様より御報告があった「宮原異変」についても、何らかの
保全を検討する旨、指示していたかも知れませんね。

閣僚と言えば、鉄道を含む多事に造詣が深いとされる農水相が「富士/はやぶさ」の
最終出発日となった13日、閣議後の記者会見で「所管外の事」と断りつつも、廃止を
惜しむ旨、コメントしたとの事。大臣は「読書、CD音楽鑑賞、食堂車での一席など、
貴重な時間を過ごせる便利な移動手段」として、ブルトレをよく利用されていたとか。

地元・鳥取との往来では「出雲」を多用された事でしょう。なお「出雲」が、新幹線
岡山延伸に合わせて、20系の寝台特急として整備された1972年の春は、大臣が進学で
上京された時期らしく、その意味で格別の感慨があったかと、勝手に想像しています。

▼マロネロ38様:
>「出世列車」の異名がありましたね。

十八番の保育社「国鉄の車両/奥羽・羽越線」での「津軽」関連記事では、第一刷の
1984年当時、故郷に錦を飾るのは「あけぼの」か航空機が相場との記述がありました。
上野駅の「ふるさとの訛懐かし」石川啄木の地元を通る「八甲田」でなく「津軽」が、
ふるさと列車たる印象を強めたのは、偏に奥羽山脈以西の内陸部特有の積雪量に伴う
地域色と、そこから導出される、出稼ぎ需要の相対的な多さを反映したものでしょう。

私自身、雪中の「津軽」で思い出深いのが、平成改元直前に小坂鉄道を訪れた時の事。
見渡す限り「真っ白け」の小坂鉄道を往復後、大館から投宿地どある秋田への移動で、
14系ハザを利用しました。動力音を伴わない客車の轍は、雪の中、妙に乾いた響きで、
既に辺りは日が暮れていましたが、これぞ北国の旅という雰囲気で、情緒満点でした。

秋田に投宿したのは、翌日、欧風改造気動車「エレガンス・アッキー」による、臨時
快速「やまどり」で、往年の「あおば」よろしく、北上線経由で仙台まで移動する為。
客レ以上に「ジョイフル・トレイン」に萌えだった、ウブな時代の話です(^^)

▼高速貨A様:
> 晩年の急行津軽は 583系に置き換えられており

これは、改軌工事に伴う仙山線迂回を巡り、山形でエンド交換の手間が発生した為と
思われますが(同様の理由で「はまなす」は、東北新幹線が新青森に到達した時点で、
動力車置換の可能性ありと予想します)1992〜93年は 485系が充てられました。当時、
同様の迂回経路で上野〜秋田を結んだ特急「つばさ」と共通運用だったのでしょうね。

最後に、当時の上野直通「つばさ」をイメージして一枚(^^)


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