失礼致します。「ED76109」でございます。
道立図書館での「鉄資料」の読み漁りから、
「樺太の鉄路」について興味を抱いたことがありました。
「クモイ103様」の書き込みに刺激されまして、「戯言」調で少し述べさせて頂きます。
(先達の皆様方には、いつものように「釈迦に説法」でありましょうが・・・)
「稚泊航路」は、大正12年5月に開設され、
昭和13年10月「稚内桟橋駅」開業(稚内港駅構内の仮乗降場扱い)、
そして昭和20年8月24日に約4500名の引き揚げ者が
命からがら「稚内桟橋」へ帰還したのを最後に、
約23年間の運行を終えました。
通年、毎日「亜庭丸・宗谷丸」の2船が一往復ずつ、
約8時間で稚内・大泊両都市を結んでおり、
春の「鯡漁、開拓」、秋の「林業」時期が繁忙期だったようです。
しかし、自然の厳しさは「青函航路」の比ではなく、
厳冬期の「流氷」には悩まされることが多々あり、
連絡船には常時3週間分の食糧が備蓄され、
「天候悪化により4時間以上の遅延」の場合は無償食が乗客全員に配付されました。
(約6日間の立ち往生や上り便が「小樽」、「留萌」の港へ迂回した例も)
「樺太の鉄路」は、明治以降、日本陸軍が開発に携わり、
昭和19年度の段階で「樺太鉄道管理局」の下、
「樺太東線」及び「樺太西線」の2線(狭軌1,067o)を中心に
「約650q前後の鉄路」が南北を中心にに延びておりました。
(「宝台ループ線」で有名な「豊真線」も含みます)
特に、「樺太東線」は「大泊港」から旧ソ連との国境の「古屯(ことん)」まで、
全長414.7qの長大線。
途中の「敷香(軍事的理由によりスイッチバック駅)」や「上敷香」まで330q以上に及ぶ
「長距離普通列車(1〜4レ・『大泊港・敷香』には夜行列車も)」が設定され、
約12〜13時間で結んでいたのであります。
参考資料 「稚泊連絡船史(青函鉄道管理局編)」
「北海道の鉄道(田中和夫編)」
しかし「樺太の航路・鉄路」は、ご存じのように
昭和20年8月の「旧ソ連軍」の侵攻で、甚大な被害を被ることとなり、
略奪や暴行などで多くの日本人が命を落とすなど、
終戦後にも拘わらず樺太各地で最悪の悲劇が展開されてしまったわけであります。
詳細は「故三浦綾子」さんの「天北原野」等でも紹介されており、
思わず襟を正される思いに駆られます。
改めて、全ての犠牲者の方々に心から哀悼の意を表するものであります。
長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。
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