倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

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稚泊航路・利礼ドーム・連絡船


倶楽部メモ(487) 平成21年 1月24日〜 1月29日


投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 1月25日(日)19時47分37秒

タイトル

Re:列車番号変遷一覧を作成しました

仙コリ(管理人)様

 面白い企画ですね。これまでこういう視点の変遷表は見たことがありません。
列番マニア(笑)としては目からウロコです。ありがとうございました。

 さて、ちょっとの間に話が進んでしまい、出遅れ感バリバリですが(^^;、
とりあえず連絡船がらみの列番について一言だけ。
 鉄道連絡航路は「線路の延長」、船便は「列車の延長」ですから、
便番号が接続列車の番号を継承するのは、きわめて自然なことと理解できます。
末期の青函航路では夜行便以外21〜の独自体系になってしまったと記憶していますが、
時代を遡れば、確実に接続する優等列車の列番になっていました。
 1M〜1便〜1Dは有名でしたが、
青森で2001D「白鳥」が合流することにも、私は注目していました。
当時は併結列車から分割された付属編成側に2000番台の列車番号が付されていましたから
(例:1レ「さくら」から肥前山口で分割された佐世保行きは2001レ)、
この「白鳥」はあたかも「上野発釧路行き1列車に青森から併結される大阪発の付属編成」
のようだと思っていました。
実際、のちに分割列車の付属編成が4000番台をとるように改正された時、
同時に「白鳥」も4001Dとなりましたので、ますますその思いを強くしたものです。
 今では遠く思いを馳せるばかりとなった船車接続の連絡便、
私にとってその極めつけは、函館発稚内桟橋行き急行1レ〜稚泊航路1便ですね。


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月27日(火)00時09分53秒

タイトル

悲劇の航路、そして鉄路・・・

 失礼致します。「ED76109」でございます。

 道立図書館での「鉄資料」の読み漁りから、
「樺太の鉄路」について興味を抱いたことがありました。
「クモイ103様」の書き込みに刺激されまして、「戯言」調で少し述べさせて頂きます。
(先達の皆様方には、いつものように「釈迦に説法」でありましょうが・・・)

  「稚泊航路」は、大正12年5月に開設され、
昭和13年10月「稚内桟橋駅」開業(稚内港駅構内の仮乗降場扱い)、
そして昭和20年8月24日に約4500名の引き揚げ者が
命からがら「稚内桟橋」へ帰還したのを最後に、
約23年間の運行を終えました。
通年、毎日「亜庭丸・宗谷丸」の2船が一往復ずつ、
約8時間で稚内・大泊両都市を結んでおり、
春の「鯡漁、開拓」、秋の「林業」時期が繁忙期だったようです。
しかし、自然の厳しさは「青函航路」の比ではなく、
厳冬期の「流氷」には悩まされることが多々あり、
連絡船には常時3週間分の食糧が備蓄され、
「天候悪化により4時間以上の遅延」の場合は無償食が乗客全員に配付されました。
(約6日間の立ち往生や上り便が「小樽」、「留萌」の港へ迂回した例も)

 「樺太の鉄路」は、明治以降、日本陸軍が開発に携わり、
昭和19年度の段階で「樺太鉄道管理局」の下、
「樺太東線」及び「樺太西線」の2線(狭軌1,067o)を中心に
「約650q前後の鉄路」が南北を中心にに延びておりました。
(「宝台ループ線」で有名な「豊真線」も含みます)
特に、「樺太東線」は「大泊港」から旧ソ連との国境の「古屯(ことん)」まで、
全長414.7qの長大線。
途中の「敷香(軍事的理由によりスイッチバック駅)」や「上敷香」まで330q以上に及ぶ
「長距離普通列車(1〜4レ・『大泊港・敷香』には夜行列車も)」が設定され、
約12〜13時間で結んでいたのであります。

 参考資料 「稚泊連絡船史(青函鉄道管理局編)」
      「北海道の鉄道(田中和夫編)」

  しかし「樺太の航路・鉄路」は、ご存じのように
昭和20年8月の「旧ソ連軍」の侵攻で、甚大な被害を被ることとなり、
略奪や暴行などで多くの日本人が命を落とすなど、
終戦後にも拘わらず樺太各地で最悪の悲劇が展開されてしまったわけであります。
詳細は「故三浦綾子」さんの「天北原野」等でも紹介されており、
思わず襟を正される思いに駆られます。
改めて、全ての犠牲者の方々に心から哀悼の意を表するものであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 1月27日(火)10時44分48秒

タイトル

稚内急行

最初201-202レで長万部から室蘭本線経由で岩見沢から函館本線に戻るルート
で(長万部解結の札幌行併結)、昭和12年6月1日から1-2レで小樽経由に
ルート変更ではなかったでしょうか?
普通305-306レが室蘭本線経由でロネ(多分マロネロ37)連結。
201-202レ時代は「夏ダイヤ冬ダイヤ」で上りが204レになって、稚内6.30−函館23.37
(4月17日から運転で202レは4月15日でウヤ)→昭和11年4月号「汽車汽船旅行案内」より。
「亜庭丸」は青函連絡船が爆撃で全滅した後青函へ応援に来て、これもまた撃沈され
たので残ったのは「宗谷丸」だけでした。戦後「洞爺丸」型が出来てからも「宗谷丸」
は急行連絡ではない便に使われていた様でした(一時石炭運搬船に使用)。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 1月27日(火)14時50分37秒

タイトル

週末の痛恨

稚泊航路については、以前、本掲示板で紹介申し上げ、クモイ 103様からも御好評を
頂きました「天翔艦隊」なる頁の「文書資料室」に「最果ての海に」と題して、実に
詳細な特集記事があり、私も、これを読んで襟を正しました。改めて、御参考までに。

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かれこれ一年半振りに、栃木県内にて「北斗星」を撮影しました。意外に纏めにくい
日光連山を絡めての「苦肉の」構図も、概ね妥協できるもので、間合運用元の「ML
えちご」の不定期化で、趨勢が些か案じられる「フェアーウェイ」も「こだま色」で
しっかり撮影。満足して水戸に戻った直後に、その日「こがね」を用いた、超レアな
臨時便が、水郡線で運転された事を知り、頭の中が真っ白け………

その晩は、赤提灯で自棄酒を五合ほど呷りました(^^)


投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 1月27日(火)22時20分50秒

タイトル

稚泊航路のこと

〜引用〜
 稚泊航路の運航を特徴づけるものは2隻の船による1日1往復であり,
夏期運航と冬期運航とに区分されていたことである。
1船休航の場合は最大の輸送体制をとったにしても,
残る1隻の船による1日1往復が限度であり,
それは荷役時間に費やされたためである。
冬期・夏期の区分は流氷・結氷という国鉄航路の中でも
まったく異質な自然条件の制約下におかれたためである。
しかも,なお細見すれば,冬季の砕氷航海のため昼間運航せざるを得なかった一面も,
運航増をはばむ一因をなしていた。
壱岐丸1隻の夏期の隔日運航から始まった稚泊航路は,
亜庭丸・宗谷丸という新鋭砕氷船に切り替えられてから,
逐次運航形態を変え,樺太島民の強い要望もその形を変えた。
また戦争の落とし子,浮遊機雷・潜水艦が運航の形態をゆがめたこともあった。
大正12年に始まり昭和20年に終った当航路は,
こうした自然と社会的要望および戦争という環境の中で,
その時代の様相,船腹の推移によって運航の形態を適応させてきた。
〜引用終わり〜

 …以上は、ED76109様が挙げられ、
また雑魚様がご紹介下さったサイト「天翔艦隊」でも
参考文献の筆頭に挙げられている「稚泊連絡船史」の記述です(長くてすみません)。

 当航路の片道所要時間は、夏期8時間・冬期9時間(のち冬期も8時間)でした。
1隻が1日1往復する場合は荷役時間の制約から
貨物積載量を制限したとの記述もある事から、
2船が一往復ずつという事は無かったと思われます。
それどころか、冬期は2隻合わせての隔日運航すら、
氷に阻まれておぼつかない事もあったようです。

 短期間の応援的なものを除き、当航路の本格的な就航船と言えるのは、
初期が元関釜連絡船の壱岐丸・対馬丸(共に初代)、のち亜庭丸・宗谷丸でした。
 前2者は、転属に伴い船首を砕氷構造に改造したとはいえ「中古」でしたが、
後2者は、はじめから当航路用に建造された新鋭砕氷船でした。
新旧交代の過渡期、例年にない大寒波に見舞われた昭和6年冬、
氷に閉じ込められ身動きがとれなくなった壱岐丸の乗客を、
新鋭・亜庭丸が救出する場面もあったようです。
 現在、大宮の鉄道博物館に、鉄道記念物「壱岐丸の号鐘」と、
亜庭丸の模型が展示されています。

 なお、結果的に当航路の最終便となった昭和20年8月23日大泊発の宗谷丸の運航に関し、
サイト「天翔艦隊」では
「この日ソ連軍からは海上航行禁止令が出ており、危険を承知での航海であった」
と述べられていますが、
「稚泊連絡船史」の記述ではちょっとニュアンスが違います。
 宗谷丸の福井船長が武官府に赴いて出港の可否をたずねたところ
『ソ連側では8月24日18時までは定期船の航行は認めるが,
定期船以外で物資を取りにくる船は認めないと言っているんです』
との返答があり、またその直前の大泊入港時に宗谷丸の通過後別の貨物船が襲撃されたが
宗谷丸は攻撃されなかったことから、
ソ連側が宗谷丸を定期船と認めて攻撃しなかったのだろうと信用して、
正規の定期コースを電灯をこうこうとつけて走ってきた…とのことです。
これは福井船長自身による回想談話として記述されています。

>マロネロ38様
 戦前のダイヤのことは殆ど資料を持っておらず、勉強になります。

 写真は昭和62(1987)年5月2日撮影、
稚内駅から稚内桟橋駅へと続いていた線路の踏切跡です。
さすがに今はもう無いと思いますが…


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 1月28日(水)11時51分37秒

タイトル

壱岐丸、對馬丸

稚泊航路の「對馬丸」は遭難して解体?されたと聴きましたが(流氷被害)本当で
すか?
それからスハ32の樺太型式スハ2652(円屋根)が実際に樺太へ行った事がピクとリア
ルのスハ32型特集(1)に出ています。恐らくは樺太東線の長距離に使われたと想い
ます。
客車については内地からどれだけ樺太へ行ったのか?余り資料が無いみたいですが、
スロネ37みたいな廃車体を写してきた人が居ます。(W屋根)仙コリさん樺太へ行った
客車についてお解りならご教示ください。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 1月28日(水)15時59分13秒

タイトル

利礼 ドーム

▼クモイ 103様:
> 稚内駅から稚内桟橋駅へと続いていた線路の踏切跡です。

いわゆる「利礼ドーム」ですね。産業考古学上は貴重な遺構なので「汽車みち」こと
横浜の高島貨物線跡と同様、盤木を敷き詰めた遊歩道に改めるなどの方法で、線路を
残して欲しかった様に思います。

稚内駅は現在、機回し不可の構造と見受けられます。これは「宗谷」「天北」に少し
遅れ「利尻」が気動車化された91年以降、構内配線が縮小されたという事でしょうか。

画像は「汽車みち」を「ランドマーク・タワー」から俯瞰した様子です。線路自体は、
桜木町駅近くから 赤レンガ倉庫手前まで、僅かな距離ですが(その他「横浜税関前」
および「山下橋」それぞれの交差点付近で、断片的に残存)大岡川河口付近の築堤は、
なかなか好ましい雰囲気。かつてここを「ボート・トレイン」が行き交ったと思うと、
感慨を覚えますね。なお「ウィキペディア」によると、59年の記録として、鶴見での
運転停車中に、電機・蒸機の付け替えが行われたそうです。

それにしても、線路の敷設部位がかなり偏った印象です。元々、こうした仕様なのか、
あるいは、複線区間の名残りなのか、ちょっとした謎です。

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残念ながら、私の「先取り感覚」が表紙には反映されなかった時刻表(^^)最新号の
優等列車に関する改正速報欄を見ると「MLえちご」と、間合「フェアーウェイ」の
運転日に食い違いが見られます。もしや、後者は、貴重な「こだま色」である「新潟
K編成」の運用ではなくなるのかと、いさか案じております。

件の時刻表の表紙写真は、小田原手前で遠くに富士山を絡め、ブルトレを狙うと云う、
初めて見る構図でした。これに肖って、今週末辺り、三脚組が多数出没しそうですね。


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スイロフ

投稿日

2009年 1月28日(水)21時26分54秒

タイトル

Re: 利礼ドーム

皆様今晩は。
前にどこかに出したかもしれないのですが、1978年8月の夕方に訪れた時の写真です。
C55の両端に車がかぶっていたのが惜しい...


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月28日(水)22時49分9秒

タイトル

201レ→?便→1レ→1便

  おばんでございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様及びクモイ103様
 件の「1レ」についてでありますが、
宮脇俊三氏の「時刻表昭和史(角川書店編)」の「第8章」に
「昭和17年8月」時点での乗車記録が記されております。
その中では、始発駅の「函館」で「二等車」も「二等寝台車」も
ほぼも満席状態であったがために、
二等寝台車に併設された「ロビー室」を占拠していた陸軍将校たちに、
宮脇氏の父上殿が一喝して座席に腰を下ろすといったエピソードや
「食堂車」で食べた「鮭フライ定食」の美味さなどが紹介されています。
 なお、同書には、JTB版「鉄道省編纂時間表(昭和17年9月号)」の
「函館本線下り」の一部が抄録されており、
「上野19時発常磐線回り青森行(201レ)」に接続する「青函連絡船」
の時刻が省略されて掲載。(実際は8時15分発)
また、「クモイ103様」には「釈迦に説法」でしょうが、
「上野19時発の201レ」〜「青森8時15分発の青函便」
〜「函館13時25分発の1レ」のルートにより、
「大泊着」は「上野発の翌々日16時50分着」。
「上野〜北海道・樺太最短ルート」が確立されていたわけであります。
 また、当時の「201レ」は、「上野・青森」を
12時間45分(表定速度58.8q)で結んでいた花形急行であり、
寝台券等の購入は至難の業。
一方、「1レ」も「札幌19時55分着」と時間帯が恵まれており、
まさしく「黄金ルート」の一角を形成しておりました。
時代的には、戦火が拡大していた頃合いでありましょうが、
また一方では戦前における鉄路の充実期だったわけでもあります。

 長々と失礼致しました。
以上、学生時代は「国文科」ではなく、
「地理学科」へ進みたかった「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 1月28日(水)23時47分4秒

タイトル

Re: 壱岐丸、對馬丸

>マロネロ38様
> 稚泊航路の「對馬丸」は遭難して解体?されたと聴きましたが(流氷被害)本当ですか?

…流氷ではなく、吹雪での視界不良による座礁だったようです。
 大正14(1925)年12月17日、
対馬丸は上り便として9:50に大泊を出港し稚内に向かいました。
しかし行程半ばを過ぎ宗谷海峡にさしかかる頃から、吹雪に視界を奪われてしまいました。
当時は今のような航海計器が発達しておらず、
対馬丸は自分の位置を見失い、結果的に西への潮流に流されて、
17:15、野寒(のさっぷ)岬灯台北西1.3km沖の暗礁に乗り揚げてしまったのです。
 乗客188人と乗組員は全員無事に救出されましたが、
これは鉄道無線が人命救助の手配に活躍した最初の事例だったとのことです。
 一方、対馬丸は、天候不良で船体救助作業に着手できないでいる間に、
中央部から折れて海面下に没してしまい、放棄するのやむなきに至りました。
北緯45度26.8分、東経141度38.4分、厳寒の海中に、対馬丸は今も眠っているのですね。
(参考文献:「鉄道連絡船100年の航跡」、
「稚泊連絡船史」、「北海道鉄道百年史(中)」)

>スイロフ様
 私も一応撮っていますが(↓)、こちらも航路記念碑にクルマが…(泣)

>ED76109様
 上野から48時間以内に大泊へ到着できたわけですね。
 青函トンネルが無かった頃、東京から北海道内各地への距離感覚は実感としてつかめず、
頭の中の「物差し」は、津軽海峡でぶっつり切れていました。
「北斗星」が「あさかぜ」とほぼ同じ距離を同じ所要時間で結ぶのを見て、
初めて博多と札幌が東京から同じ距離なんだなと実感できたものです。
 そういうわけで、さらにもう一つ海峡を隔てた樺太となると、もう手に負えません。
東京からの距離感覚としては、まあ沖縄くらい?なのでしょうけれど…


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 1月29日(木)10時08分32秒

タイトル

對馬丸の遭難

クモイ103様
ご教示有難う御座います。座礁委付でしたか?
(鉄道省なら保険が掛から無かったから放棄)ですね。
無線が装置されて居たのが幸いで、(...−−−...)の連続発信で。
明治36年のNYK青函航路「東海丸」の悲劇見たいなのが起こらず
せめてもの幸いだったでしょう。
また8620型が昭和18-19年に合計23両も宗谷海峡を渡っているのですね。
C56103、C56152も19年。
客車については前述のスハ32(円屋根)1両と
戦後サハリンを訪れた方の3軸(TR71?)付きのW屋根2等寝台車
と想われる廃車体写真しか解りません。


倶楽部メモ(488) 平成21年 1月29日〜 1月31日


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太田拓也

投稿日

2009年 1月29日(木)14時15分4秒

タイトル

寝台車の座席開放

>ED76109
宮脇氏が乗ったのはロビー室ではなくマロネ38の「特別室」と思われます。
本来なら1等車に乗るべき師団長クラスを2等車の主な利用客であるブルジョワジー階級から
隔離するために作ったものですが、寝台セット時以外は自由席扱いじゃ意味ないがな…

宮脇氏の「時刻表昭和史」によると、昔の寝台車は
昼間は完全に座席車として利用されていたような記述になってますね
(ロネだとグリーン車自由席扱い)。
それが時刻表に明記の無い限り座席利用できなくなったのはいくつからなのでしょうか。
営業関係の知識をお持ちの方はいらっしゃいませんか?

「鮭フライ定食」のことは後年の宮脇氏の食堂車コラムでもたびたび触れられていますね。

投稿者のホームページ


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2009年 1月29日(木)21時53分53秒

タイトル

連絡船、樺太について

皆様の青函・稚泊航路や樺太の鉄道の話、興味深く拝見しております。
私自身、鉄道連絡船には乗らずじまいでして、ほとんど知識が無いもので…
皆様すごいですね。
ちなみに最近の稚内桟橋駅や樺太の鉄道については、
漫画ですが昨年発行の「駅弁ひとり旅」の第6巻に掲載されていまして、
稚内桟橋駅の形態等については私自身この漫画で知ったような次第でして…

>クモイ103様
先日の列車番号変遷に青函連絡船のデータも追加掲載したのですが、
なにぶん実際に乗船した経験が無いので
接続列車の実態がわからない点もあり、
接続列車の変遷一覧表は列車番号のつながりのみを重視したかたちで
作成しましたが、おかしな点などありましたらご指摘いただけると助かります。

>マロネロ38様
樺太に渡った客車についてですが確かに聞きませんよね。
手落ちの資料はざっと目を通してみましたが、
樺太に関する記述は例のスハ32以外には見当たりませんでした。
推測ですが鋼製客車に限って言えば、
内地の客車が樺太に渡ったことは無いのではないでしょうか?
例のスハ32にしても内地のスハ32が樺太に渡ったわけではなく、
樺太向けに新製されたスハ32タイプの客車が
樺太に渡る事無くスハ32に編入されたものですよね。
当時の樺太の鉄道事情はまったく存じませんが、
寒冷地でもあり全て専用の車両が用意されたのか、
もしくは古い木造客車(その場合でも北海道用の客車?)が渡ったのか
どちらかではないでしょうか?
あくまでも推測ですので、実情をお知りの方がいらっしゃいましたら
フォローいただけると幸いです。


投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 1月29日(木)22時53分16秒

タイトル

稚内駅構内/Re:連絡船、樺太について

>雑魚様
> 稚内駅は現在、機回し不可の構造と見受けられます。
…というわけで、機回し可能時代の写真です。
スキャンに手間取りレスが遅れて失礼しました。
撮影日は前出の利礼ドームと同じ昭和62(1987)年5月2日、
停車中の編成は上り急行「天北」です。
向かって左側の空き地に、かつては貨物ヤードが広がっていたのでしょう。

>仙コリ(管理人)様
…普通こういう資料は、運航時刻とか「スジ」の変遷を軸にして
構成するのが一般的と思いますが、
もともと列車番号・船便番号の話題から来ていますので、
こういうのもアリではないでしょうか。
私は楽しませて頂いております。
 まあ、時刻も入っていた方がより広い読者のために分かり易いとは思いますけど、
これだけまとめて下さっただけでもけっこうな作業量と思われ、感謝しております。


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2009年 1月30日(金)00時20分53秒

タイトル

Re2:連絡船、樺太について

クモイ103様
早速のレスありがとうございます。
確かに変遷表にも時刻を入れたほうがわかりやすかったかもしれませんね。
表の横幅から省略してしまい、変わりに下部に接続時刻表を掲載したのですが、
よりわかりやすい表示方法を考えてみたいと思います。
そこで再度質問なのですが、
続行便がある場合の乗船案内がどうなっていたのかを知りたいのです。
例えば昭和39年10月の下り列車の青森着時刻と下り便の青森出港時刻を見てみると

11レ 「みちのく」23:31着
2001D「白鳥」  23:47着
1D 「はつかり」23:55着

1便 0:15発
11便 0:30発

といったように列車番号・船便番号を主体として見ると、順番が逆転しているので、
こういった場合でも1Dの乗客は1便へ、11レの乗客は11便へといったような案内と
なっていたのかどうかが知りたいのです。
もっとも晩年にこのような逆転現象があったかどうかがわからないのですが、
もしお知りでしたらご教授頂ければ幸いです。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 1月30日(金)10時29分30秒

タイトル

樺太のスハ32(円屋根)

1両だけ例の樺太番号スハ2652(多分北海道仕様)が樺太へ行っていますが(出自:
鉄道ピクトリアル、スハ32特集)星晃氏との対談。日本車両東京製だったとの事。
後は内地残存で故野村董氏が「端面に梯子がついた車があった」と言っていました。
真偽の程は現車を見ていないので何とも言えませんが。
それから「ロネ」の昼間解放は戦前確かにありました。602レが金沢−大阪間解放で
(午前7時頃から解放したのでは)?実際にW屋根のロネに家族で乗った事がありました。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 1月30日(金)14時32分43秒

タイトル

長崎駅

▼クモイ 103様:
> 昭和62(1987)年 5月2日、停車中の編成は上り急行「天北」です。

これはこれは、貴重な記録を有難うございます。よく考えてみると、私もほぼ同時期、
渡道しており、この時は「昼寝編成」下り「天北」で、稚内に赴き、同夜「利尻」で
折り返しました。もう少し、稚内の滞在時間帯を考慮すれば、かかる光景を見る事が
出来たろうにと、今頃になって後悔しています(^^)

宗谷線の客車急行は、旭川での長時間停車中に(機関車交換?)稚内行が後続特急の
到着を待ったり、札幌行が特急を先発させていましたね。当時、八代でも上りに限り、
鹿児島特急と肥薩線急行が同様の状況にありました。

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盲腸線の末端に発着する客車といえば、既に現在の構造に移行していたブルトレ直通
末期の長崎駅では、頭端式の構造上(過渡期には、架線柱や架線はその侭、長崎港に
通じていた線路を舗装し駐車場に充てるという、珍妙な光景が見られました)留置線
回送は、機回し方式では無い、と想像しています。同じ長崎県内では「あかつき」も、
早岐以遠が、DE10を加えた「プッシュ・プル」体制でしたからね。

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画像は、クモイ様の写真に触発され掲出した「似た様な状況」です(^^)07年七月末、
烏山駅にて。08年は運転されなかった12系「山上げ祭り」今後の予定は無いのかな?


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月30日(金)21時33分51秒

タイトル

青函航路の想い出

    度々、御邪魔しております。「ED76109」でございます。

 仙コリ(管理人)様
 >続行便がある場合の乗船案内がどうなっていたのか
  小生の初渡道の帰路の折(昭和48年春)のことを、記憶に基づいて・・・。
 「鉄」親父と小生は、前述のように「122レ」で「函館」到着。
そのまま、「連絡船待合室」に入りました。
「乗船名簿」に記入して「窓口」に提出した時、
「鉄」親父が「いなほ2号」に「青森」から乗る旨を伝えたところ、
「じゃ、『2便(0時40分発)』に乗ってくれませんか。
『12便(0時15分発)』に「ニセコ3号」と「北海」のお客が乗るので。」
と「窓口氏」に言われたことを覚えています。
 やがて、接続列車の「北海」と「ニセコ3号」が次々と到着。
「疾走する乗り継ぎ客」に、職員が放送等で
「「はつかり1号」と「みちのく」ご利用のお客様は、『八甲田丸』(12便)にご乗船ください。
「白鳥」ご利用のお客様は、後続の『羊蹄丸』(2便)にご乗船ください。」と案内しておりました。
そして、日付が変わって「おおぞら3号」が到着。当然、乗り継ぎ客は『羊蹄丸』(2便)に乗船。
どうやら、多客期には「接続列車ごとに「接続便」を分けて乗客を案内していた」
ことがあったようです。
 以前の「時刻表」には、接続列車の指定券や当該便の寝台券等を持っている乗客が
優先的に乗船できる記述がありました。
また、昭和20〜30年代には、
乗船できない乗客の切符の有効期間を一日遅延する「スタンプ」を押印してもらう列が、
待合室に長く伸びたという「エピソード」を「種村直樹氏の著述」で読んだ記憶があります。

 長い前置きで恐縮ですが、今回は「青函航路の想い出話の戯言」を記してみます。
客車ネタではありませんが、先達の皆様方の話題にしていただければ、幸甚の限りでございます。

 1 昭和48年春に利用した「下り十和田丸」は、
「急行八甲田」や「はくつる3号」等の接続便。
しかし、小生らが乗車したのは、「新幹線工事で宮城野貨物線を経由する八甲田51号」でした。
朝の六時半過ぎに慌てて下車し、「青森駅の連絡船待合室」にたどり着いた時は
すでに「八甲田の乗客」で行列ができており、「鉄」親父とともに長い列の後ろに並びました。
すると、周囲の人たちの話題はどういうわけか、「洞爺丸」の話に。
「吹雪の海だら、ひとたまりもねぇ。」の話で、思わず幼心に恐怖を感じましたが、
後ろの方が「大丈夫。今日は波はないからね。」と頼もしい一言。
映画「家族」に出演した「渥美清」さんのような優しい初老の紳士の方が、
船内で食べた「かに寿司」よりも強く印象に残っています。

 2 昭和60年の1月下旬、道教委への採用書類持参の札幌行のため、
0時過ぎ発の「下り八甲田丸」に乗船。
しかし、天候は「青森」まで乗車した「50系トホホセ鈍行」を牽引した「ED75」が、
「真っ白い雪だるま」に変身したほどの「猛吹雪」。
熟睡するために奮発した「グリーン指定席」で不安におののいておりました。
検札の乗客掛の方が、「大丈夫ですかね。」と尋ねた小生に、
「大丈夫ですよ。ただし、絶対に棚にはバッグは置かないでください。
落ちてケガされないように。」と一言。
すると、なるほど「津軽海峡」に出た途端に、
まるで「エレベーター」のような乗り心地になりました。
数少ないグリーン客の中で、妙齢の美女がいらっしゃいましたが、
数分おきに顔を歪めて席から離れて・・・。
おそらく、その方は今後絶対に連絡船には乗らないだろうなぁと、
小生、気の毒でなりませんでした。

 3 昭和61年の8月、東京へ「車」で帰省しようと思い、「自動車航送」を予約しました。
出帆の2時間前に「函館埠頭」に乗り付けて、愛車「マーチ」の中で待機。
黄色いヘルメット姿の掛員の誘導で、「津軽丸」の航送甲板に停止させました。
しかし、航行中は車に近寄らないように指示されただけで、車のキーは自分で持ったまま、
燃料は「満タン」でしたが特にお咎めもなく、意外とのんびりムード。
海峡も快晴で水平線に沈む夕日を堪能。
小生は、船内で「シャワー」を浴びてゆっくり休養できました。
熟睡の目覚めは、「大音量の小鳥の囀り」。
お陰様でしっかりと目が覚め、
夜中の「東北道」を1人でしっかりと運転することができたようでした。

 先達の皆様方の「青函連絡船」の想い出は如何だったでしょうか。

 本当に長々と失礼いたしました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2009年 1月30日(金)23時48分52秒

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寝台車の座席解放

>>太田拓也様
昭和24年5月1日にそれまでの特別寝台車を1等寝台車と改称する際、
従前の特別寝台車旅客運賃料金及座席料金が廃止され、寝台を使用しない
旅客に対しては1等旅客運賃だけを又寝台利用の旅客に対しては1等旅客
運賃と寝台料金とを収受することになりました。
戦後すぐの時点では寝台車の座席解放は制度化されていたようですよ。


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2009年 1月31日(土)00時44分33秒

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青函航路の乗船案内について

ED76109様
青函航路の乗船案内についてご教示いただき、ありがとうございました。
先日の書き込みをした後に考え直していたのですが、
やはりそこまでどの列車に乗車してきたのかではなく
連絡船の後にどの列車に乗車するのかが重要だったようですね。
よく考えてみれば当たり前のことなのですが…
本当に勉強になりました、ありがとうございました。
旅行のルートは旅人それぞれであり、どの列車に乗り継いでいくかは一人一人異なるので、
同番号の接続はあくまでも鉄道側の事情によるものですが、
やはり鉄道ファンとしては同番号の接続は夢がありますよね。
1度でよいから1づくしの接続を経験してみたかったものです。
現代でも同番号(若番)の接続はどこかに存在するのでしょうか?


投稿者

スイロフ

投稿日

2009年 1月31日(土)01時34分45秒

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同番号づくし

こんばんは。
私は2づくしの接続をやったことがあります。
1980年の3月、釧路から2D「おおぞら6号」(14:10発)〜青函2便(0:40発)
〜2M「はつかり2号」(5:13(遅発)発)と乗り継ぎ、上野に14:10(遅着)に
着いたメモが残っていました。奇しくも丁度24時間の旅でした。
私は大満足でしたが、同行した人(後の私の奥さん)には強行軍だったかも...


投稿者

太田拓也

投稿日

2009年 1月31日(土)07時45分4秒

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等級制廃止がポイント?

マロネロ38様、ヒゲ無し雷鳥様、情報ありがとうございます。
どうも私の考えるところ、昭和40年ごろまでは普通に座席利用していたように思います。
というのも581系設計当初、急行の客車ハネの座席利用が珍しくなかったので
ナハネ11をそのまま電車化しても昼行急行として通用すると考えられたようです。
実際には「夜行と昼行で1往復」というコンセプトから特急のスピードが要求され
昼行特急として通用する並ロ級ボックスシートになったのは周知のとおりですが。

投稿者のホームページ


投稿者

クモイ103

投稿日

2009年 1月31日(土)11時13分18秒

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青函連絡船、ホテルシップビクトリア

 青函連絡船への初乗船は昭和57(1982)年3月3日、1便「松前丸」でした。
先に出航する11便でも良かったのですが、初めて乗る青函連絡船を「1便」にしたかったのと、
「松前丸」の語感に何となく惹かれてこちらの列に並び、結果的に函館から接続列車に座れず、
千歳空港(現・南千歳)まで4時間、洗面所に立ちっぱなしの憂き目に遭うのでした(笑)。

 後で知ったことですが、こうして私が初めての北海道旅行に踏み出している3月4日、
フラッグシップの「津軽丸」が最後の運航を迎えており、
また私が乗った松前丸もその秋に後を追って引退し、
共に翌年北朝鮮へ売却されたという事です。
 2隻の引退補充として、貨車航送専用船だった「石狩丸」と「檜山丸」が
客室設備を設ける改造を受け、青函トンネル開通までのつなぎ役を果たしたのでした。
(ED76109様のお話しで、昭和61年の8月…「津軽丸」とありますが、
何かのお間違いではないでしょうか?)

 というわけで、私は残念ながら「津軽丸」に乗ったことがありません。
乗ったのは順に松前、大雪、摩周、大雪、檜山、八甲田、大雪、十和田、羊蹄と、
あと残るは「石狩丸」でしたが、
これは果たせませんでした。(最後の十和田、羊蹄は、青函博覧会に伴う復活運航時でした。)
 「大雪丸」だけ3回当たっており、これも何かの縁と、
同船が引退後長崎で「ホテルシップ ビクトリア」として開業した際、
泊まりに行ったものです。
うろ覚えですが、2001年の年明けを祝うTV局の企画で、
函館の摩周丸→青森の八甲田丸→東京の羊蹄丸→長崎の大雪丸と、
当時国内に残っていた元青函連絡船4隻の汽笛リレーが行われたかと記憶しています。
 その「ビクトリア」も3年くらい前に廃業し、昨年中国へ引き取られたとのことですが、
現地でホテルシップとして再起するという当初の報道とは異なり、
実はスクラップ扱いだったとの情報もネット上で見受けられます。

 画像は平成8(1996)年12月、長崎港でホテル営業中の「VICTORIA」こと大雪丸です。


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月31日(土)15時49分16秒

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車検証のコピーが写らない!!

 失礼します。部活指導を終えた「ED76109」であります。

 クモイ103様
 失礼しました。仰るとおり、確か「石狩丸」でございました。勘違いしたようですみません。
「石狩丸」で「マーチ」を航送した時は、日高本線の「某駅」で申し込みました。
車検証の印字が薄く、窓口氏がコピーできずに「写らねぇべあ!」と一言。
如何にも面倒くさそうだったようで、小生の印象に残っております。
しかし、「津軽丸」以外は乗船されているとは・・。正直驚きました。
道民の中で全便制覇した方、いるのかなぁ・・?

 雑魚様
 >宗谷線の客車急行は、旭川での長時間停車中に(中略)
 >札幌行が特急を先発させていましたね。
  小生「遠軽高勤務」の頃に全道大会の引率の折は、
 いつも「旭川」で「特快きたみ」から「DC急行宗谷」に
 いつも乗り換えておりました。
 大体、後部に増結された「キハ56」のボックス席の先客に、
 「よろしいですか。」と一声かけて生徒達を座らせていたものです。

 長々と失礼しました。
 以上、「卓球部」から「弁論部」へと顧問を鞍替えた「中年客車鉄ちゃん」でした。


倶楽部メモ(489) 平成21年 1月31日〜 2月 4日


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 2月 1日(日)15時44分57秒

タイトル

蛍の光

▼ED76 109様:
> 先達の皆様方の「青函連絡船」の想い出は如何だったでしょうか。

我が青函連絡船の初体験は、1980年代半ばの夏でした。貧乏学生の強い味方「北海道
ワイド周遊券」を片手に、14系「津軽」で正午に青森到着後、一便見送り「北斗」の
最終便に接続するタイミングでの乗船でした。

船中で「海峡ラーメン」を頂いた後は、カーペット室で、車中連泊の強硬日程に備え、
寝貯めした為、然したる印象もありませんが、青森離岸時のドラの音と「蛍の光」の
演奏は、当初「訳ありの離別」を惜しむ客が乗り合わせたか と勘違いしたほど(^^)
情感豊かな印象でした。この「蛍の光」は「ヨナ(四七=ハ長調で「ファ」「シ」に
相当)抜き音階」と、何とも日本的な旋律ですが、元々はスコットランド民謡らしく、
同地の「五音階法」と「ヨナ抜き」の符合性は、偶然だそうです。

連絡船を介し赴いた道内各地の街の交差点で、信号に連動して「通りゃんせ」と共に
用いられた「麦畑」も、終盤の一音を除き「ヨナ抜き」ですが、これらの曲を聞くと、
又候、旅行の虫が疼きます(^^)以上「ヨナ抜き」といえば「笑点のテーマ」を先ず
連想する雑魚の「旅先音楽」ウンチクでした(^^)

>「旭川」で「特快きたみ」から「DC急行宗谷」にいつも乗り換えておりました。

現在でも「きたみ」には、急行「礼文」と共通運用だったアコモ改造車が用いられて
いるのでしょうか。只でさえ、列車本数が少ない石北線の事、北見まで運転するなら、
各駅停車で良いので、更に美幌・女満別・網走まで直通しても良さそうなものですが、
北見市の人口が網走市の三倍以上という事で「おおぞら」が根室に直通しない事情と、
概ね同義なのでしょうね(ちなみに、釧路市の人口は根室市の六倍以上)


投稿者

雪だるま

投稿日

2009年 2月 1日(日)19時05分47秒

タイトル

連絡船の思い出

青森からの帰りに青森出港前に「本日は後部船室は締切、食堂は休業、甲板に出られません」
という便にあたり身構えました。
寝ていても下北半島を過ぎる頃にはピッチングがすごくて目が覚めました。
船室が狭い改造船には乗らずに終わりました。
小樽潮まつりに合わせて摩周丸、羊蹄丸が小樽港で一般公開したことがありました。
前日の夕方函館を出て松前沖経由で翌朝小樽着のダイヤでした。

10年位前北海道の新聞で旅行客が地中海方面で連絡船を見たという記事がのりました。
長々とすいません。


投稿者

てりてり

投稿日

2009年 2月 2日(月)00時00分46秒

タイトル

少し話がずれますが…

 ご無沙汰しております。てりてりであります。
 皆様の青函航路の思い出を拝読しておりました。
さて、青函連絡船の歴史として忘れてはならない悲しい歴史に
1945年7月14・15日の空襲があります。
現在でも津軽丸、第三・第四青函丸が津軽の海に眠っているとの事です。
 朝日イブニングニュース社・坂本幸四郎著『青函連絡船』によりますと、
その後の船舶応援で海軍から『千歳』と言う軍艦が応援に来ていたとの事です。
その時は余り気にしていなかったのですが、その後、久留米市にあります水天宮を訪れた時に
『軍艦千歳』の碑というものを見つけました。
正確には空母だそうですが、当初はこれが応援に来ていたものと思い込んでいました。
しかし、1944年10月19日にレイテ沖海戦にてにて没したという事で
一時期混乱してしまいました。
後日調べましたところ1945年7月17日より『特設砲艦「千歳」』が応援に来たとの事です。
 もともとは涼みに来た、列車の撮影に立ち寄った
(鹿児島本線久留米駅より徒歩10分位の距離で鉄橋を通過する列車の音が聞こえます)
のがきっかけですが、
「千歳」と言う名前が北海道ではなく福岡の筑後川(千歳川・JR橋梁は「千歳川橋梁」)
である事に驚くばかりでした。
                                 それでは


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 2月 2日(月)23時15分16秒

タイトル

天国と地獄は「鉄」的な映画ですね・・・

 また、失礼致します。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >青森離岸時のドラの音と「蛍の光」の演奏
  旅情溢れる「海峡」の風物詩ですね。後は岸壁から投げられる「見送りのテープ」。
 これらが、まさしく「連絡船見送りの三種の神器」でしょうね。
懐かしい「昭和の鉄道風景」ですね・・・。

 >美幌・女満別・網走まで直通しても良さそうなものですが
  「キハ54の特快きたみ」は、上下とも「北見」で「
 釧網本線直通」の接続列車がありますので、
 一考に値すると思われます。
 しかし、「オホーツク」もほぼ「遠軽」と「北見」で
 70〜80%の乗客が下車してしまいます。
 しかも、「北見」で接続するのは「釧網本線直通のキハ40」。
 これで「十分用が足りる(せいぜい直通客は20人程度)。」と
 JR北海道は判断しているのでしょうね。

 ところで、今、隣室の愚息が
「BS放送」の黒澤明特集である「天国と地獄」に夢中になっています。
(明後日が大学受験だというのに・・。)
しかし、「151系こだま」から身代金を投下させ、「
田町電車区」の聞き込みシーンで「113系」が登場。
さらに、古い「江ノ電」・・・。
いつの間にか、愚息よりも「天国と地獄」に夢中になっている「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 2月 3日(火)17時01分5秒

タイトル

北見

▼ED76 109様:
> これらが、まさしく「連絡船見送りの三種の神器」でしょうね。

東海汽船便での経験から申すに、教え子に見送られつつ、涙ながらに離任の途に就く
うら若き女性教師がいれば、完璧でしょう(^^)

> 上下とも「北見」で「釧網本線直通」の接続列車がありますので、一考に値する

旅客導線から考えるなら、網走を結節点とした方が、より合理的かと思えるのですね。
釧網線といえば、今正に「流氷ノロッコ号」のシーズンですが、地球温暖化の影響か、
流氷の到来が今ひとつとされる昨今、今冬の状況や如何に?

>「遠軽」と「北見」で 70〜80%の乗客が下車してしまいます。

そう言えば、キハ80系時代の函館直通「おおとり」は、北見で増解結を行いましたね。
駅前に「東急」を擁し、非電化路線には珍しい地下区間もある北見の街は、網走支庁
随一の賑わいが感じられ、支庁舎は北見所在と、永らく勘違いしていました。同市は
06年の再編で、西は石北峠から、東はオホーツク海沿岸(サロマ湖畔)までを編入し、
市の面積としては全国四位と、かなり広域化しているのも特徴ですね。

一方、自治体人口23千人を擁する遠軽での乗降需要は、名寄線が接続した名残りから、
代替バスへの乗継客も少なくないのかと勘ぐりますが、紋別に関しては、浮島隧道を
経由する札幌・旭川直通バスが、圧倒的に優位なのでしょうね。

>「151系こだま」から身代金を投下させ、

151系の側窓は「ウィキペディア」によると 二重硝子の複層固定窓とされていますが、
どの部位が開くのやら。ともあれ御子息様の大学受験、御健闘を御祈り申し上げます。
呉々も、試験会場で「あれ、先輩、御久し振りです」などの禁句は、封印されます様。
以上、共通一次試験の会場にて うっかり「地雷」を踏んでしまった雑魚でした(^^)


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