倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
石北本線のスイッチバック ・ 遠軽機関区


倶楽部メモ(483) 平成21年 1月 8日〜 1月12日


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月 9日(金)22時19分43秒

タイトル

様々な御教示本当にありがとうございます

 連投で失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様、ヒゲ無し雷鳥様及び尼港線様のお陰で、
小生の知りたかった「震災に係る臨時ブルトレ」のほぼ全容がつかめました。
本当に小生が知り得なかった「鉄」勉強になり、
先達の皆様方に心からお礼申し上げます。
 小生、震災発生時は「石北本線のスイッチバックのある街の高校」におり、
生徒たちと「義捐金」や「支援物資」を神戸に贈りながら、
人としてできる事は何か?を彼らと真剣に考えていました・・・。
件の「奮闘記」では、「六甲道」手前で被災した「JR神戸線」の乗務員が
乗客を全壊した「六甲道駅」に誘導した後、
線路沿いの倒壊した家屋から閉じこめられた人を必死に助け出した話が
最も印象に残っております。
また、地震には強いはずの「地下鉄の駅」が崩れ落ちた
「神戸高速鉄道大開駅の映像」にも愕然とした記憶があります。

 以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年 1月10日(土)10時17分26秒

タイトル

石北本線のスイッチバック

一発で解りましたが、昭和27年に父と北海道旅行の時、北見‐札幌間だけ「準急」に
なる、網走発函館行に乗車し、スイッチバックとは知らなかったので驚きました。
確かC58からD51に機関車交換していた?のでは無かったですか。
岩見沢から室蘭本線に乗り換えて、始めてスロハフ30に乗車し、朝食の駅弁が「小指
の先ぐらいある小豆のおこわ」だったので、「北海道はちがうなあ」と想いました。
阪神淡路大震災
4月始めに東海道本線が復旧した日に下り「さくら」が工事車両に追突した始末で、
翌日神戸へ出かけたら207型が六甲道駅を無理やり持ち上げて復旧した
(経過は後年TVで放映された)区間で大きく揺れたので恐くなりました。勿論徐行
運転でしたが。帰途の205はそろそろと恐々走っていた状態でした。

震災の時は全国の方々からお世話になりました。余談ですが両親が関東大震災を経験
していたので、「親子2代で大地震の被害」と皮肉な現実に苦笑いでした


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月10日(土)14時30分14秒

タイトル

オホーツクの要衝「遠軽機関区」

 度々お邪魔しております。「ED76109」でございます。

マロネロ38様
>確かC58からD51に機関車交換していた?のでは無かったですか。
 「C58」は「北見機関区」所属だと思われます。
「遠軽機関区」には「D51」と「9600」のみ配属されておりました。
(当然、「北見機関区」にも「D51」と「9600」が配属されておりました)。
マロネロ38様はご承知だと思われますが、
「遠軽」は「石北峠」と「常紋峠」の要衝として発展した「鉄道の街」です。
「名寄本線」の「天北峠」には「9600」が、
「石北峠」と「常紋峠」には「D51」と「9600」が活躍しておりました。
当時、教え子の保護者が「遠軽駅」に勤務しており、
帰省の折の「北斗星」や「乗り鉄のブルートレイン」の寝台券購入の時は、
大変お世話になりました。
「先生のお陰で、生まれて初めて『はやぶさ』や『さくら』を売りましたよ。」
と懇談会の際には、いつも「サカナ」にされていましたね。(笑)

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さて、「戯言」情報です。
本日、低気圧の影響により「トワイライトEXP」は
上下とも運転休止となっております。
明日の「北陸筋」等での「撮影」のご参考まで。

 長々と失礼しました。
以上、連休は「張込み」、「点と線」、「飢餓海峡」、「砂の器」等の名画で感動と
「鉄旅」に浸る予定の「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

雑魚

投稿日

2009年 1月10日(土)16時55分33秒

タイトル

紋別駅の謎

>「名寄本線」の「天北峠」には「9600」が(中略)活躍しておりました。

名寄線で「天北」と聞くと、一瞬「おや?」といった感じですが、一ノ橋〜上興部の
分水嶺の事なのですね。天北線と同様、旧手塩・北見両国の合成名称と思われますが、
明治時代に設定された旧北見国が、北は稚内から東は斜里まで、オホーツク海沿岸を
広く網羅していた一方「北見市」が、旧国域ではかなり東に偏った立地である事から、
少し判り難い感覚です。かと言って、旧称「野付牛」では、標津から別海にかけての
景勝地「トドワラ」と混同しそうですね。

この天北峠から名寄方面に下った下川駅では「暑」の字を逆さにした表示で「日本一
寒い町」と謳っていましたね。私が足繁く渡道した80年代、下川を含むかなりの駅で、
写真入りの細長い観光入場券が良く売られていた事を思い出します。

>「先生のお陰で、生まれて初めて『はやぶさ』や『さくら』を売りましたよ」

1989年の名寄線廃止後、時刻表の巻頭地図には、バス・ターミナルと化した二重丸の
紋別駅表記が、緑色に塗られた侭で、鉄道が廃止された後もなお「みどりの窓口」は
営業しているのかと、感慨に耽ったものですが、実際はどの様な状況だったのやら?


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月11日(日)15時30分43秒

タイトル

「中標津」にしか残っていませんよ

 またまた、失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >北見‐札幌間だけ「準急」になる網走発函館行
  準急「石北」の前身にあたる列車ですね。
 詳細なダイヤは持ち得ていませんが、「網走」を19時ごろに発車して、
 翌日の早朝6時前後「札幌」に到着。
 鈍行に姿を変えて「山線」を越え、
 「函館」に16時30分ごろ到着する「乗り鉄」の魅力に溢れた列車のようですね。
 牽引機は「C58(網走・遠軽)」、「D51(遠軽・旭川)」、
 「C55(旭川・小樽)」、「D51(小樽・函館)」。
 「ネ」は当然の如く「札幌・網走」のようです。

 雑魚様
 >明治時代に設定された旧北見国
  現在では「網走支庁」にあたりますが、東西に細長い「支庁」です。
 実話ですが「遠軽高」に在職中、管内の国語科研究会の当番校が
「斜里高」から「興部高」へ引き継ぎになる際、
 それまでは学校の担当者同士で直接学校で事務引き継ぎをしていたのですが、
 出張旅費の関係(釧網、石北本線及びバス利用で片道約260q、前後泊付き!)
 がネックとなり、 電話と書類の郵送で済ませたことがありました。
 兎に角、「網走支庁」、否「北海道」は広いです。

 >バス・ターミナルと化した二重丸の紋別駅表記
  同様に、JR移管直後「大樹」と「中標津」にも
 「マルス」が配備された「旅行センター」が設置されております。
 地域のJRへの依存度(特に対札幌)を考えてだったのでしょうが、
 昨年末の段階では「中標津」にしか残っていません。

 長々と失礼しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

雪だるま

投稿日

2009年 1月11日(日)21時32分36秒

タイトル

遠軽区と言えば

今年もよろしくお願い致します。
ED76 109様
遠軽に勤務されていた時にはもう3軸ボギーの救援車は
(スエ78?)廃車になっていましたか?
学生時代に初めて3軸ボギー車を見まして印象に残っていました。
同じ頃苗穂にはダブルルーフのスエ30がありました。


投稿者

ED76109

投稿日

2009年 1月12日(月)13時00分39秒

タイトル

スイッチバックバンザイ!!

おはようございます。「ED76109」でございます。

 雪だるま様
 >3軸ボギーの救援車(スエ78?)
  はっきりと目視したわけではありませんので、詳細はつかめません。
 ただ、「昭和59年編鉄道ジャーナル9月号別冊P24」の「遠軽駅遠望写真」では、
 「スエ78」らしき旧客が留置されているのが確認できます。
 小生が「遠軽」に赴任したのは、平成4年の春。すでに「遠軽機関区」の施設はなく、
 「14系夜行大雪」も引退しておりました。
 「常紋信号所」もほとんど廃墟状態で一抹の寂しさを憶えております。

 今回は「スイッチバック」に係る「戯言」を述べさせていただきます。
いつものように先達の皆様方の話題にしていただければ幸甚の限りであります。

 1 昭和57年の初秋、四国・山陰鈍行紀行の際に
  「出雲坂根」のスイッチバックを体験。
  「備中落合」からの最終列車は小生のみの貸し切り列車状態。
  引き上げ線の暗がりからでも、駅舎の灯りで位置が確認できて
  三段式のスイッチバックを堪能しました。
  また、出雲坂根名物の「延命の水」も冷たい爽やかな喉ごし。
  「米子車掌区の老車掌さん」の解説を聞きながら、
  「C56牽引の混合列車」の想い出に聞き入っておりました。

 2 平成8年の1月中旬、「関西乗り鉄」の折に「北宇智」のスイッチバックを体験。
  小生、「和歌山線」にスイッチバックが存在していることを全く知らず、
  「王寺行」の「EL鈍行」が一旦引き上げ線に入り、
  いきなりバックし始めたことにびっくり仰天。
  金剛山の麓とは言え、山越えではなかったことから
  「鉄ちゃん」丸出しで周囲をきょろきょろ・・・。
  ガラガラでしたが、乗客の視線を一斉に浴び大汗をかきました。
  関西では、かつて「D51」牽引の貨物列車で名を馳せた、
  「加太越え」の「中在家信号所のスイッチバック」が小生の記憶にあります。

 3 昭和46年の盛夏に訪れて以来、二度再訪しているのが「肥薩線の人吉・吉松」。
  最も有名なのは「大畑のループ線とスイッチバック」です。
  しかし、小生は唯一宮崎県に属する「真幸」がご贔屓。
  山越えのカーヴの途中にある山間の小駅であり、
  霧島の山並みが望めるなど旅心を擽られます。
  しかし、昭和47年に発生した地滑りの被害のため、
  構内の三分の二が埋まってしまい、
  初めて訪れた幼い頃の面影はありません。
  小生には、「D51」が前後についた「混合列車」の想い出とともに
  大事にしたい「鉄道の原風景」です。

 長々と失礼しました。
 以上、「昭和の汽車旅」の想い出に浸る「中年客車鉄ちゃん」でした。


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