倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

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北海道客車急行の列車番号について


倶楽部メモ(479) 平成20年12月23日〜12月27日


投稿者

理左衛門(バロン)

投稿日

2008年12月24日(水)20時46分22秒

タイトル

北海道の客車急行

お久しぶりです。
タイトルの列車の列車番号が、「すずらん」が1217・1218、
「利尻」が317・318、「狩勝」(まりも)が417・418、
「大雪」が517・518といずれもそれぞれの線区を示す100台
+17・18だったのは偶然だったのでしょうか?
しかも大雪は9・10号、狩勝は7・8号、すずらんは5・6号で利尻は単独列車です。
利尻の姉妹列車を宗谷としても305・306Dで、順番が合いません。
何らかの意図をもって、線区毎の順番とは別に
夜行急行を17・18列車に統一する方針だったのでしょうか?

投稿者のホームページ


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年12月24日(水)23時41分50秒

タイトル

Re: 北海道の客車急行

理左衛門(バロン)様
当掲示板でも珍しい「列車番号沼」(笑)の話題に反応します。
少なくとも昭和40年代後半から、愛称名の番号は変わっても、
ご指摘の列車番号は変わっていないと記憶しています。
私も小学校高学年時代から、その規則性には気付いていましたが、
理由を追求する知識もなく「そういうものなんだ」
程度に思っていました。

列車番号の付け方は時代により異なりますが、
この当時は急行列車が十の位「0」と「1」であり、
一の位は特に区分されていなかったと思います。
(もっと大昔には、一の位の後半が準急列車を表していた時代もあった様ですが、
その時代は優等列車は十の位「0」だけで、「1」は普通列車だったはずです。)

あまり根拠のない憶測ですが、
「もともと昼行の気動車列車が『*05D』まであって、
その次で『*07レ』となるところを、
夜行の客レをちょっと区別して『+10』していた。
その後昼行は特急格上げで減少したが、夜行の列番はそのまま残った」…
というのは考えられないでしょうか?
宗谷本線では特急格上げがなく、301D/302D「礼文」、
303D/304D「天北」、305D/306D「宗谷」、
そして317レ/318レ「利尻」と揃った状態が長く続きましたね。

結局答えになっておらずすみませんm(_ _)m。
北海道だけ特に何かこだわりがあったのかもしれませんね。


投稿者

理左衛門(バロン)

投稿日

2008年12月25日(木)23時46分57秒

タイトル

列車番号

クモイさまありがとう御座います。
100位は線区を表していて、100が本線中の本線、
東海道本線、東北本線、函館本線でしたね。
10位は2以降が普通列車で、東北本線の場合は、
121、123、125・・・と付けられていました。
急行は東海道が101「銀河」東北が「103八甲田」北海道が「101」ニセコ、
これらが「最優等急行」、特急に準じた花形でした。
東北の場合は、発車時刻順ではなく1の位が連絡線の便に合わせてあったので、
はつかりも1号ではなく11号が1Mでした。
 急行がどんどん減って、10位が1になっているのも珍しくなってしまい、
その意味でも北海道の17・18カルテットは貴重だったと思います。
 100位は、上野口の場合東北「1」常磐「2」、信越「3」、奥羽「4」、
北陸方面「6」、上越方面「8」だったようです。
きたぐには501レでした。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年12月26日(金)20時25分2秒

タイトル

Re: 列車番号

理左衛門(バロン)様
 ここで列車番号のお話しが出来るのは嬉しいですね。
 はつかり11号を挙げられているという事は、
東北新幹線開業直前の昭和50年代半ばのお話しですね。
(こういう話題は、時代を特定しないと話が行き違ってしまいますので…)
 ご指摘のように、100番台をとっていたのは「本線中の本線」で、
他に鹿児島本線もそうでしたね。
 上野駅発着列車の百位の区分は、近距離のものも含めると
およそ次のようだったと記憶しています。
これらは基本的に現在も変わっていない様ですが、
現存しない列車系統が多いのがちょっと寂しいですね。
1…東北本線長距離
2…常磐線長距離
3…信越本線直通
4…奥羽本線直通・常磐線近距離
5…東北本線近距離
6…北陸直通・東北本線近距離はみ出し
7…上越線直通(水上以遠)
8…羽越本線直通・高崎線方面近距離
9…高崎線方面近距離
 このうち高崎線方面近距離は、もともと900番台でしたが、
昭和50年頃だったか(?)
普通列車の本数が増えて921M〜999Mが一杯になり、
ついに100下げて821Mから始めることになった経緯があります。
急行「ゆけむり」などは901Mからのままで、801Mとはなりませんでした。

 私が時刻表の読み方を覚え、列車番号の規則性に興味を持ち始めたのは、
山陽新幹線開業前の昭和46年頃、小学校4年生でした。
とりわけ優等客車列車を表す太い明朝体の「*01」という字面に惹かれ、
全国の線区のページを探したことがあります。
曖昧な記憶を手元の文献情報で補ってみますと…
101レ「八甲田」「銀河1号」「かいもん3号」
201レ「十和田1号」「紀伊」「しろやま」
301レ「妙高6号」
401レ「津軽1号」
501レ「きたぐに」
601レ「白山」
701レ「天の川」
801レ「鳥海2号」
…てな感じだったと思います(細部は自信なし)。
ご覧のように、その殆どが上野発の列車でした。
901レは無く、その後は1001レ「あけぼの」1101レ「新星」というのがありました。
 昭和47年3月ダイヤ改正では、大きな変化がありました。
 昼行客車急行だった「十和田1号」と「白山」は特急格上げとなり、
201レは夜行の「十和田2号」が引き継ぎましたが、
601レは603レ「越前」が繰り上がらずそのままだったので消滅しました。
また上野−新潟間だった「天の川」は秋田まで延長され、
「鳥海」と同じ800番台に編入されて701レも消滅しました。
また、「紀伊」は「銀河1号」に併結となって、東京発の201レが消滅しています。
 なお、「八甲田」はいつの頃からか103レになりましたが、
その時期は覚えていません…。


投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2008年12月26日(金)22時39分22秒

タイトル

終戦後の列車番号

皆様こんばんは。ご無沙汰しております。
私も列車番号に関して興味がありましたので
以前、時代をさかのぼって調べてみたことがあります。

昭和22年の列車扱心得によりますと(長距離列車抜粋)
東海道線
1〜20  4局以上にまたがる急行旅客列車
31〜49 4局以上にまたがる旅客列車
101〜120 3局以上にまたがる急行旅客列車
131〜149 3局以上にまたがる旅客列車
東北上信越線
100〜149 500〜549 東北線旅客列車
401〜406 奥羽線直通旅客列車(上野発着)
601〜606 北陸線直通旅客列車(上野発着)
常磐線
201〜249 旅客列車
となっておりました。
また記載がありませんでしたが
上越線は700番台が付番されており
急行ができた後も普通列車と連番だったと記憶しております。
優等列車の少ない当時、東海道線以外は
急行、普通で共通の付番をしていたようですね。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年12月27日(土)10時25分38秒

タイトル

Re: 終戦後の列車番号

ヒゲ無し雷鳥様
 レスありがとうございます。
 昭和22年といえば輸送事情は最悪の極限状態。
車両も設備も疲弊し、石炭は量・質ともに乏しく、数少ない列車に殺到する乗客は、
客車の屋根はおろか機関車のフロントデッキや炭水車まで鈴なりで、
貨車まで動員してお客を乗せた時代ですね。
宇高航路でも、貨車航送専用船の吹きさらしの車両甲板で
旅客輸送した話があります。
 ご紹介いただいた列車扱心得を見ても、列車本数が数少なかった状況が伺えます。

 さて、ここで言う「局」は、昭和30年代以降の「鉄道管理局」とは異なり、
もっと管轄範囲が広く権限も大きかった「鐵道局」ですね。
東海道〜山陽方面で言えば、東京鐵道局、名古屋鐵道局、大阪鐵道局、の次は…
すみません、確かな知識がないのですが、ひょっとして「廣島鐵道局」でしょうか?
 いずれにしても、「3局以上にまたがる」というのは
東京から大阪またはそれ以遠ということで、
「4局以上」となるとだいたい九州まで行ってしまうと思います。

 時刻表復刻版の昭和22年6月号を見ると、
大村線の南風崎から東京行き、上野行きという臨時列車が設定されているのが、
時代背景を如実に物語っていますね…


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