倶楽部メモ(469) 平成20年11月11日〜11月15日 
         
         
        
        
          
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               投稿者 
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               スイロフ 
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               投稿日 
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               2008年11月15日(土)00時01分17秒 
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               客レの写真です2 
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               こんばんは、もう一枚です。 
              1977.6.24 小沢駅 122レ。 
              駅の風景として撮ったので、対象が少し小さくてすみません。 
               
               
              
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        倶楽部メモ(470) 平成20年11月15日〜11月17日 
         
         
        
        
          
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               投稿者 
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               雑魚 
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               投稿日 
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               2008年11月15日(土)11時09分11秒 
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               北海道の奥ゆかしさ 
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               スイロフ様が撮られた小沢駅の写真、良い雰囲気ですね。奥行きは、複線区間の如き 
              印象を受けますが、左側の線路は、1985年に廃止された岩内線ですね。小沢駅自体は、 
              共和町郊外の閑静な立地ですが、ここでわざわざ支線を分岐させて交通の便を図った 
              岩内町は、地裁支部を擁するなど、市街の規模が比較的大きく、後志支庁の郡部では、 
              余市町に続き、倶知安町と並ぶ人口規模を擁しています。 
               
              渡島半島の主要交通導線である函館線・国道五号線は、どちらも内浦湾岸経由ですが、 
              漁場水域との関連ゆえか、日本海岸の方が纏まった市街を擁する港町が多い印象です。 
              一方、日本海岸は総じて急峻である為、かかる港町への鉄道は「陰陽連絡」盲腸線に 
              留まり、気がつけば江差線を残すのみ。これとて、津軽海峡線が一部区間で輻輳する 
              特殊事情が無ければ、木古内以遠は、沿線人口分布が似通った松前線と同様の措置に 
              至った可能性が強いと想像します。 
               
              かかる「陰陽連絡線」の写真記録を改めると、寿都鉄道の蒸機客レが散見されますね。 
              同路線は、1968年の豪雨時の施設損壊で廃止となりましたが、それ以前から、厳しい 
              経営環境の下、運営を続けていたのは、岩内線の延伸に伴う日本海岸縦貫路線の形成、 
              その際の国鉄による買収を期待していた為だそうです。 
               
              これが仮に実現したとしても、現在まで存続し得たかどうかは、かなり懐疑的ですね。 
              何しろ北海道では、非盲腸路線ですら、胆振・札沼(一部)羽幌・天北・深名・名寄・ 
              湧網・池北・標津と、国鉄だけで九路線が消滅しており、私鉄を含めると、根室線と 
              士幌線を結び、途中、他社の二路線と「交差」していた北海道拓殖鉄道など、奥深い 
              事例も多数存在したと見られます。北の大地は、つくづく奥ゆかしいですねぇ………  
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               投稿者 
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               ED76109 
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               投稿日 
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               2008年11月15日(土)11時57分38秒 
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               旧客鈍行が一番ですよ!! 
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                 しつこくお邪魔しております。「ED76109」であります。 
               スイロフ様のお写真は、「素晴らしい」の一言です。 
              前述しましたように「824レ」も「122レ」も、 
              小生の想い出のレトロトレイン・・・。 
              鈍行紀行中は、ボケッとしていて、写真の類はほとんど撮影していませんので、 
              ありがたいかぎりです。 
               いつものように、「旧客鈍行」の「戯言」を述べさせていただきます。 
              先達の皆様方の話題にでもして頂ければ、幸甚の限りであります。 
               
              1 昭和40年代後半、「総武本線」はすでに「成田」まで電化されていましたが、 
              ローカル列車には「旧客」が運用され、 
              確か夕刻以降の「銚子行」は大部分が「DL」牽引の客車仕立て。 
              「東千葉」に在していた母方の叔父宅を訪問した帰りに、 
              そんな「鈍行列車」を眺めることが多々ありました。 
              小学生だった小生が印象に残っているのは、 
              高校生のカップルが動き出した客車に飛び乗った姿。 
              男の子が最初に手すりに手をかけて満員のデッキに乗り込み、 
              ホームにいた女の子の手を引っ張って・・ 
              という、何か「映画」のようなワンシーン。 
              現在ではとても想像できませんが、 
              そんな長閑さが当時の「総武本線」にはありました。 
               
              2 昭和54年の夏、東北鈍行紀行の折、 
              「秋田」始発の「新津行832レ」に乗車。 
              「羽越本線」の乗り鉄を楽しみました。 
              言うまでもなく夏空の「日本海」を十分堪能しましたが、 
              それ以上に印象に残る風景は「象潟付近の田園風景」。 
              「海上島」が地震で陸になった眺めは独特の風情が感じられ、 
              芭蕉翁が眺めた同じ風景を体感できたことに素直に感動しました。 
              それにしても、「羽越本線」に乗って感じることは 
              微妙に「単線」と「複線」が組み合わされている「線路配置」。 
              巧みに上下の列車が行き違うダイヤは本当に「お見事」の一言です。 
               
              3 昭和57年の晩夏、「広島」から「松江」へ抜ける際に 
              「芸備線」の「備中落合行」の「50系レッドトレイン仕立て」の客車鈍行に乗車。 
              午後3時過ぎに発車する「広島」では下校途中の高校生がどっと乗り込み、 
              5両編成の車内はぎゅうぎゅう詰め。 
              しかし、中国山地に分け入っていくにつれ、 
              1人減り2人減りして車内の歓声がうそのようになり、 
              ついに「備後西城」を出た後は小生1人の「貸し切り列車」に・・・。 
              終着の「備後落合」で乗り換えた「宍道行単行DC」も小生1人のみ。 
              「出雲横田」で数名の乗客を見た時の安堵感は、 
              今でも記憶として鮮明に残っています。 
               
               長々と失礼しました。また、投稿致します。 
              以上「中年客車鉄ちゃん」でした。  
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               投稿者 
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               マロネロ38 
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               投稿日 
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               2008年11月15日(土)14時14分54秒 
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               513レ と朝霧 
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               ED76109様 
              生徒さん達が無事に帰られた様で良かったです。(騒動も無く??) 
              511-512レはまだしも513-514レは大阪‐青森間2晩ですから此れに当たると疲労 
              困憊だったでしょう。513レで大阪‐高岡間度々出張に利用しましたが、此れの 
              「ロ」オロ31後年オロ41に乗ると,急行501レのハネ下段より@¥100-安く、当時 
              「駅弁一食分」が出ました。夏の朝石動から砺波平野の朝霧に霞む「農村孤荘集落」を 
              見ると、下りPC「まりも」が帯広を出発した後と同じ様な感じでワーグナーの 
              Siegfried Idyllや,小学唱歌 「牧場の朝」のメロデイーの鼻歌が自然と出て来た 
              のを覚えております。「まりも」では海岸線近くでも海の上に霧がふわふわ浮いてい 
              る見たいなのを見て北海道東部の霧の深さに驚きました。新富士で目をこらして居ま 
              したが鶴居線の軽便気動車を見る事が出来ませんでした。 
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               投稿者 
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               ED76109 
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               投稿日 
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               2008年11月15日(土)23時04分25秒 
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               懐かしき鉄路達 
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                本日2度目の投稿で失礼致します。「ED76109」であります。 
               
               マロネロ38様 
               >北海道東部の霧の深さに驚きました 
               道東の釧路・根室では、6〜8月が一番「海霧」が濃い時期に当たります。 
              昼間でも、「スーパーおおぞら」等はライトを付けて走行しています。 
              もし、この時期当地へおいでの折は、 
              荷物になるかもしれませんが、「ウインドブレーカー」をご持参ください。 
              真夏でもヘタをすれば最高気温が「20℃」以下ですので・・・。 
               
               >鶴居線の軽便気動車 
               「鶴居村営軌道」のことですね。 
              「新潮社編・日本鉄道地図帳1号」によれば、1927(昭和12)年に「中雪裡」、 
              さらに1944(昭和19)年に「新幌呂」まで開通した「762o」の軽便鉄道とあり、 
              当初は「馬」により牽引されていたようです。 
              当然、開拓のためのものですが、簡易軌道が開通するまで雪解けの時期は「泥濘」で 
              道は膝まで没してしまったという逸話もあり、先人の労苦が忍ばれます。 
               
               雑魚様 
               >根室線と士幌線を結び、途中、他社の二路線と「交差」していた北海道拓殖鉄道 
               小生、「新得町」の高校にも勤務した経験があり、 
              高校の近くに昔の「車庫」跡があったことを記憶しています。 
              担任した生徒の保護者の方が、 
              高校生だった折に一年間だけ「屈足(くったり)」という部落から 
              通学に使った体験を伺ったことがあります。 
              「真冬はガラスの隙間から寒風が吹きすさび、顔が凍傷で真っ赤になってしまった。」 
              と懐かしそうに想い出を語ってくださいました。 
               
               以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。 
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               投稿者 
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               マロネロ38 
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               投稿日 
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               2008年11月16日(日)14時02分56秒 
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               北海道庁振興部殖民軌道? 
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               ED76109様 
              古い時間表にはこんなのが出ていますね。鶴居、幌延、歌登、浜中、別海等(間違い 
              があるかも知れませんが)----。出入り口非対称のDCとか後年のキハ02みたいな中央 
              出入り口とか、路盤が悪いので小型ボギー客車とか‐‐‐スジも一日一往復で奥地基 
              準で‐‐別海は最後まで馬車鉄道だったとかでしたね。根室拓殖軌道のバス型ガソ 
              とか乗って見たかったです。 
              私のこの種軌道の経験は「大滝林用軌道」BWのB-1薪焚ロコでしたが、混合列車はDLば 
              かりで蒸気は運財貨物ばかりでした。北海道の簡易軌道も色々な生活物資運搬の 
              役目もしたでしょう。 
              釧網線の「藻琴」で簡易軌道の車を車窓から見つけましたが、停車位置とすぐ発車で 
              写し損ないました。 
              お説の「北海道拓殖鉄道」には西武の中古のDCとキハ22みたいな車体のDCが居たの 
              では無いですか?「隙間風」は多分西武の中古でしょう。 
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               急行越前 
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               投稿日 
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               2008年11月16日(日)22時13分56秒 
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               根室本線422レ 
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               長距離鈍行の写真がありました。丁度今話題の出ている北海道です。 
               
              前日に三菱石炭砿業に乗って、札幌に戻って14系「まりも」で釧路にに入り、 
              折り返し滝川まで乗車しています。 
              今見たら10時間近くかかっていますね。 
               
              根室本線422レ(釧路7:35〜滝川17:21) 
               
              DD51639(釧) 
              マニ 502130オク(北東航3) 
              マニ 502173ミハ(大航1) 
              マニ 502215ハコ 
              スハフ42 510クシ 
              スハ 45  45クシ 
              スハフ44  18クシ 
               
              1984.11.05池田にて 
               
               
              
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               ED76109 
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               投稿日 
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               2008年11月16日(日)22時58分54秒 
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               開拓の命だった「殖民軌道」 
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               先達の皆様方、失礼致します。「ED76109」であります。 
               
              マロネロ38様 
              >北海道の簡易軌道も色々な生活物資運搬の役目もしたでしょう 
               大正初期、当時内務省所管の「北海道庁」が、 
              内陸部の開発援助及び開拓村への物資輸送手段として、 
              「殖民軌道」の敷設計画が立案されました。 
              そして、1925(大正14)年根室線厚床・中標津の開通から、 
              国鉄線の駅から内陸へと路線建設が行われたのであります。 
              戦後は、内務省から農林省へと所管が変わり、 
              「簡易軌道」へと名称が改められて動力化が一層推進されます。 
               マロネロ38様の御記述のとおり、 
              全国時刻表に歌登、浜中、別海等の町営軌道が掲載されるに至り、 
              全国の鉄道ファンにも存在が認知されるようになりました。 
              道路整備等のため、昭和47年に「浜中町営軌道」が廃止され、 
              北海道特有の簡易軌道は姿を消しております。 
               しかし、全盛期には「DL」や「DC」も導入される等、 
              地域の足としての役割が確立されていたようです。 
              (参考資料「新潮社編・日本鉄道地図帳1号」より) 
               小生には、残された資料から考察するしかないのですが、  
              厳しい自然に妥協無く闘った開拓民にとっては、 
              簡易軌道の灯りはまさしく「希望の光」だったのでしょう・・・。 
               
              >「隙間風」は多分西武の中古でしょう 
               詳細はわかりませんが、そうなのですか・・(絶句)。 
              戦後しばらく、「保谷」より先は「非電化」だったという話を 
              聞いたことがあるのですが・・。 
              そこで活躍した「DC」なのですね。 
              小生の西武電車の想い出は、「西武秩父線」が開通した際、 
              「鉄」親父と池袋発の準急「西武秩父」行で「正丸隧道」を通ったことでしょうか。 
              当時、私鉄での最長隧道だった(?)と記憶しているのですが・・。 
              先達の皆様方に補足頂ければ幸いであります。 
               
               長々と失礼しました。また、投稿致します。 
              以上、「西武」と聞いて過剰反応してしまった 
              「道民球団応援団」の「中年客車鉄ちゃん」でした。 
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               雑魚 
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               投稿日 
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               2008年11月17日(月)15時08分22秒 
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               簡易軌道 
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               ▼ED76 109様: 
              > 
小生「新得町」の高校にも勤務した経験があり、 
               
              おお、峠越えの根室線撮影と云い、旧線跡 
巡りと云い「鉄環境」は良好ですね(^^) 
              もっとも、そちらが赴任された当時は既に、実験線は廃止されていた事と拝察します。 
              旧新内駅にあった蒸機+20系客車も、ホテル営業を終了して久しい様ですが、同趣の 
              現役ホテルは、今や岩手の小岩井農場を残すのみだそうですね。 
               
              > 
担任した生徒の保護者の方が、高校生だった折に(中略)通学に使った体験 
               
              それは貴重な御話を伺いましたね。以前、商談相手との雑談で、話題が出身地に及び、 
              もしや廃止された○○線で通学していなかったか、と切り出した処、話が盛り上がり、 
              それが過ぎて、規定時間内に肝心の商談が纏まらなかった、という失敗談があります。 
              それはそれとして(^^)出身地などの詮索は、時として礼を失する場合もありますが、 
              地理系「鉄」にとっては、有効な「営業口上」ではないかと感じる雑魚でした(^^) 
               
              > 
地域の足としての役割が確立されていたようです。 
               
              長野県木曽に象徴される森林鉄道の最盛期と同様、相当規模の路線網を有した事例も 
              少なからず存在した様ですね。森林鉄道の場合、青森県の津軽や高知県の魚梁瀬では、 
              麓駅を発した複数の路線が、山間部で分水嶺を越え繋がる事例もあり(津軽の場合は、 
              津軽線沿と津軽鉄道、双方の沿線域を結んでいたと記憶します)簡易軌道でも類例が 
              あったものと想像します。 
               
              町・村営軌道の分布を見ると、石狩当別で札沼線に接続した当別町営を除き、道東や 
              道北に偏在気味ですね。道東は浜中町営、道北は歌登町営(同町は一昨年、枝幸町に 
              合流しました)が有名ですね。 
               
              以前にも言及した記憶がありますが、学生時代、札幌→稚内の移動に、昼寝用ハネを 
              伴った14系「天北」を利用した際、歌登町営軌道が接続した小頓別駅では、有効長が 
              乏しい為、編成の相当部分がホームに収まり切らず(その後、到達した浜頓別の街が、 
              大都市に見えた程に)長閑な駅の周辺の風景も相まって、それでも急行が停まるとは、 
              簡易軌道接続の歴史も伊達ではないと、得心した記憶があります。 
               
              >「保谷」より先は「非電化」だったという話を聞いたことがあるのですが 
               
              何せ「糞尿輸送」まで手掛けた「農業鉄道」が前身ですから、現在の陣容からすると 
              中々実感し難い処ではありますね(^^) 
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        倶楽部メモ(471) 平成20年11月17日〜11月19日 
         
         
        
        
          
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               ED76109 
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               投稿日 
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               2008年11月17日(月)22時07分52秒 
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               狩勝峠はすばらしい眺望です!! 
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                連投しております。「ED76109」でございます。 
               
              雑魚様 
              >峠越えの根室線撮影と云い、旧線跡巡りと云い「鉄環境」は良好ですね 
               まさしく、そのとおりでした。四季それぞれの趣が峠にありましたが、 
              特に心に残るのは、下り最終の「とかち」で 
              「新狩勝隧道」から「新得」に下ってくる町の夜景です。 
              左右に展開する「町の灯り」を眺めながら、 
              月明かりに照らされて勾配を下る車窓はまさに「天下一品」でした。 
               
              >町・村営軌道の分布を見ると、〜道東や道北に偏在気味ですね。 
               小生の勤務校に、「中標津」から転勤してきた同僚がおります。 
              とにかく、「原野」と「乳牛」しかなく、 
              隣家が牧草地を隔てて「2q」離れていても、全く「違和感はない」とのこと。 
              道東や道北はこのような所が多く、「簡易軌道」の役割が改めて理解できます。 
              「僻地だけど釧路までは車で1時間だから。」と件の同僚が話したことがあります。 
              しかし、「中標津」から「釧路」までは 
              「100q」はあるはずなのですが・・・(?!)。 
               
               また、投稿致します。 
              以上、急行越前様の写真に想い出が甦る「中年客車鉄ちゃん」でした。 
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               マロネロ38 
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               投稿日 
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               2008年11月18日(火)11時01分10秒 
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               北海道拓殖鉄道 
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               ED76109先生 
              「鉄道ピクとリアル、私鉄車両巡り1960年12月臨時増刊」に出ていますね。 
              隙間風のDCが西武からのキハ111-112でしょう。(佐久鉄道キホハニ54-55→鉄道省 
              キハニ40603-40604→40704-40705→111-112→拓鉄111-112)昭和5年11月日本車輌 
              本店定員72名(座32)、自重13.2t、LWH=11720xx2640x3455mm、エンジン= 
              Workeshire:6SRL→Hino DS40 150HP/2400rpm。 
              他にPCナハ501、ホハ502、SLは8620系の8621,8622、スケネクの5704、 
              DLロータリーDR202CL、単車のガソリンカーキハ101-102、ラッセルのキ2------ 
              この鉄道上士幌まで抜けていたのですね。 
              キハ22タイプで台車がTR26かTR29みたいなDCが後に入ったそうですが---- 
              地図では「屈足」から森林軌道が書かれています。 
              途中に「厳松」(発電所のマーク?)があります。 
              「河西鉄道」の立体交差橋台も出ています。 
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               ED76109 
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               投稿日 
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               2008年11月18日(火)18時40分41秒 
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               Re.北海道拓殖鉄道 
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               失礼します。「ED76109」でございます。 
               
              マロネロ38様及び雑魚様 
              「北海道拓殖鉄道」は、1924(大正13)年に 
              十勝支庁の「新得町」から工事が開始され、 
              「上士幌」を経由して当時の「足寄」までの敷設計画が立案されました。 
              しかし、「石北本線」の開通によって「上士幌」までで工事が中断され、 
              「新得・上士幌」での運行になりました。 
              その後、1968(昭和43)年に屈足(くったり)・瓜幕間の「熊牛隧道」が 
              札幌陸運局からの行政指導の結果、 
              使用不可となってしまい、同年10月に全線廃止となっております。 
               マロネロ38様の御指摘の陣容に加え、 
              「ワム」「トム」等の貨車も約50両ほど保有するなど、 
              十勝北東部の貴重な鉄路として活躍しておりました。 
               
              >地図では「屈足」から森林軌道が書かれています。 
              >途中に「厳松」(発電所のマーク?)が 
               この地域は「トムラウシ」と呼ばれており、 
              大雪の山並みに沿って「白樺」や「エゾマツ」の原生林が広がっています。 
              旧来は「新得営林署」が所管する地域で、製材業が盛んな地域でありました。 
               また、戦前「十勝川ダム」の建設に際しては、 
              建設作業員等の利用で「北海道拓殖鉄道」はかなりの盛況を呈した時期が 
              あった話を聞いております。 
               
                また、投稿致します。 
              以上、明日からの「寒波」の到来に背筋が凍える「中年客車鉄ちゃん」でした。  
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        倶楽部メモ(472) 平成20年11月19日〜11月24日 
         
         
        
        
          
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               投稿者 
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               雑魚 
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               2008年11月19日(水)08時16分10秒 
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               簡易軌道 
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               ▼ED76 109様: 
              > 
下り最終の「とかち」で「新狩勝隧道」から「新得」に下ってくる町の夜景 
               
              新得の灯火群がどれほどの規模かは判りませんが、篠ノ井線から俯瞰する善光寺平の 
              夜景の如き良景を連想します。道内ですと、先日利用した「北斗星」が、大沼界隈の 
              高原から函館平野に下る途中で遠望された灯火群も、なかなか良かったですね。 
               
              >「原野」と「乳牛」しかなく、隣家が牧草地を隔てて「2q」離れていても、 
               
              正に、標津線の車窓風景そのものですね。なお、我が地元にも、隣家が 
1〜2km 
離れ、 
              朝刊が届くのが昼前という山間部の出身ゆえ、街中に下宿していた同窓生がいました。 
              1970年代までは、非電化の世帯も僅かながら残っていましたねぇ。 
               
              > 
道東や道北はこのような所が多く「簡易軌道」の役割が改めて理解できます。 
               
              軌道敷設の根拠法令が「地方鉄道」や「軌道法」ではなく「道路の代替」ですからね。 
              それにしても、勾配の克服を考えれば道路の方が融通が効くかと思いますが、道東の 
              湿地ないし泥炭地では、軌道の方が敷設が容易だったのでしょうか。 
               
              >「僻地だけど釧路までは車で1時間だから。」と件の同僚が話したことがあります。 
               
              大学時代、レンタ・カーで、三日かけて道東を一周した経験から申せば、その感覚は 
              理解出来ますが、免許を得て日が浅かった私は、台詞のみ「サーキットの狼」ごっこ 
              あるいは「マッド・マックス」ごっこに興じるのが精々でした(^^) 
               
              そんなドライブの最中、標茶の街を通過中、軌道らしきを一瞬横切るも、既に夕刻で、 
              投宿先の到着時刻も気になったので、そのまま通過してしまいました。今頃になって、 
              勿体無い事をしたと悔やまれます。  
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               ホエ7030 
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               投稿日 
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               2008年11月22日(土)11時45分55秒 
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               憧れの小沢にて 
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                いわゆるSLブームのころ、 
              どちらかと言うと車両自体の写真を重点に撮ってきた私も、 
              C62の重連など北海道の蒸機列車を撮りたい衝動に駆られ、 
              何度か小沢を訪れました。 
               「小沢」と言う駅名は、S42年に放送されたNHKのTVドラマ「旅路」の中で、 
              うろ覚えですが、機関助手(見習い?)の岡本良平(山田吾一)と 
              主人公の室伏雄一郎(横内正)の妹千枝(長山藍子)が、 
              駆落ちするために先に一人で岩内方面に行く千枝に対して、 
              良平が「いいか、小沢で降りるんだぞ」と念を押しているシーンが印象に残っていて、 
              予てから行って見たいと思っていた場所でした。 
               小沢〜倶知安間で「ニセコ」やD51の客車列車、 
              岩内線の二つ目96の貨物などを撮りましたが、 
              駅でも数枚撮りました。画像はその内の1枚です。 
              この下りの出発信号機が印象的でした。 
               
                121レ 函館→旭川  D51367(萬) S46.4.11  小沢発車 
               
               
              
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               マロネロ38 
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               投稿日 
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               2008年11月23日(日)17時57分10秒 
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               簡易軌道 
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               ED76109様 
              故吉川文夫氏編集の「写真で見る戦後30年の鉄道車両」72頁に「浜中町営のDC], 
              「幌延村営ハ2客車」、「鶴居村営のL型DL?GL?]が出ています。 
              それに昭和32年の項に「風連の馬車軌道」湯口徹さんの貴重な一枚です。 
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        倶楽部メモ(473) 平成20年11月24日〜11月27日 
         
         
        
        
          
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               投稿者 
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               ED76109 
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               2008年11月24日(月)11時37分48秒 
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               「鉄」なる先輩方へ 
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                お寒うございます。「ED76109」でございます。 
               
               マロネロ38様 
               「簡易軌道」に係る様々な資料等の御呈示について、心からお礼申し上げます。 
              小生には、「日本鉄道旅行地図帳一号 北海道(新潮社編)」記載の 
              ガソリン機関車が客車・貨車を牽引している 
              「幌延町営軌道」と馬が木造客車を牽引している 
              「歌登町営幌延線」の写真程度しか手元にない状況です。 
              東京の実家にある「広田尚敬氏」の鉄道写真集(昭和45年ごろのもの?)で 
              確か「別海村営軌道」の写真を見たのが、 
              「簡易軌道との出会い」であったように記憶しています。 
              しかし、マロネロ38様のお話で興味が出てきました。 
              仕事に余裕ができれば、近隣の「道立図書館」に籠ってみたくなりました・・・。 
               
               ホエ7030様 
               初めまして。「ED76109」と申します。 
              東京の産なのですが、現在「北の大地」に在しております。 
              懐かしい「旧客」の写真に、小生の想い出が甦ります。 
              「小沢」の「121レ」・・・。「山線」の旧客が姿を消して、早22年ですね。 
              もう一度、峠の小駅「上目名」に降り立ってみたくなりました・・・。 
               
               最後に「戯言」なのですが・・。 
              昨日、拙娘と所用で「札沼線」に乗りました。 
              たまたま乗った車両が「レッドトレイン」の改造車。 
              そういえば、昭和43年頃「旧客」を改造した 
              「DC」がありませんでしたでしょうか。 
              確か「キハ0」と称していたような記憶があるのですが。 
              先達の皆様方で、御教示等いただければ幸いであります。 
               
               長々と失礼しました。また、投稿致します。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。 
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