倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
北海道の鉄道について
殖民軌道・簡易軌道・北海道拓殖鉄道等について


倶楽部メモ(469) 平成20年11月11日〜11月15日


投稿者

スイロフ

投稿日

2008年11月15日(土)00時01分17秒

タイトル

客レの写真です2

こんばんは、もう一枚です。
1977.6.24 小沢駅 122レ。
駅の風景として撮ったので、対象が少し小さくてすみません。


倶楽部メモ(470) 平成20年11月15日〜11月17日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年11月15日(土)11時09分11秒

タイトル

北海道の奥ゆかしさ

スイロフ様が撮られた小沢駅の写真、良い雰囲気ですね。奥行きは、複線区間の如き
印象を受けますが、左側の線路は、1985年に廃止された岩内線ですね。小沢駅自体は、
共和町郊外の閑静な立地ですが、ここでわざわざ支線を分岐させて交通の便を図った
岩内町は、地裁支部を擁するなど、市街の規模が比較的大きく、後志支庁の郡部では、
余市町に続き、倶知安町と並ぶ人口規模を擁しています。

渡島半島の主要交通導線である函館線・国道五号線は、どちらも内浦湾岸経由ですが、
漁場水域との関連ゆえか、日本海岸の方が纏まった市街を擁する港町が多い印象です。
一方、日本海岸は総じて急峻である為、かかる港町への鉄道は「陰陽連絡」盲腸線に
留まり、気がつけば江差線を残すのみ。これとて、津軽海峡線が一部区間で輻輳する
特殊事情が無ければ、木古内以遠は、沿線人口分布が似通った松前線と同様の措置に
至った可能性が強いと想像します。

かかる「陰陽連絡線」の写真記録を改めると、寿都鉄道の蒸機客レが散見されますね。
同路線は、1968年の豪雨時の施設損壊で廃止となりましたが、それ以前から、厳しい
経営環境の下、運営を続けていたのは、岩内線の延伸に伴う日本海岸縦貫路線の形成、
その際の国鉄による買収を期待していた為だそうです。

これが仮に実現したとしても、現在まで存続し得たかどうかは、かなり懐疑的ですね。
何しろ北海道では、非盲腸路線ですら、胆振・札沼(一部)羽幌・天北・深名・名寄・
湧網・池北・標津と、国鉄だけで九路線が消滅しており、私鉄を含めると、根室線と
士幌線を結び、途中、他社の二路線と「交差」していた北海道拓殖鉄道など、奥深い
事例も多数存在したと見られます。北の大地は、つくづく奥ゆかしいですねぇ………


投稿者

ED76109

投稿日

2008年11月15日(土)11時57分38秒

タイトル

旧客鈍行が一番ですよ!!

  しつこくお邪魔しております。「ED76109」であります。
 スイロフ様のお写真は、「素晴らしい」の一言です。
前述しましたように「824レ」も「122レ」も、
小生の想い出のレトロトレイン・・・。
鈍行紀行中は、ボケッとしていて、写真の類はほとんど撮影していませんので、
ありがたいかぎりです。
 いつものように、「旧客鈍行」の「戯言」を述べさせていただきます。
先達の皆様方の話題にでもして頂ければ、幸甚の限りであります。

1 昭和40年代後半、「総武本線」はすでに「成田」まで電化されていましたが、
ローカル列車には「旧客」が運用され、
確か夕刻以降の「銚子行」は大部分が「DL」牽引の客車仕立て。
「東千葉」に在していた母方の叔父宅を訪問した帰りに、
そんな「鈍行列車」を眺めることが多々ありました。
小学生だった小生が印象に残っているのは、
高校生のカップルが動き出した客車に飛び乗った姿。
男の子が最初に手すりに手をかけて満員のデッキに乗り込み、
ホームにいた女の子の手を引っ張って・・
という、何か「映画」のようなワンシーン。
現在ではとても想像できませんが、
そんな長閑さが当時の「総武本線」にはありました。

2 昭和54年の夏、東北鈍行紀行の折、
「秋田」始発の「新津行832レ」に乗車。
「羽越本線」の乗り鉄を楽しみました。
言うまでもなく夏空の「日本海」を十分堪能しましたが、
それ以上に印象に残る風景は「象潟付近の田園風景」。
「海上島」が地震で陸になった眺めは独特の風情が感じられ、
芭蕉翁が眺めた同じ風景を体感できたことに素直に感動しました。
それにしても、「羽越本線」に乗って感じることは
微妙に「単線」と「複線」が組み合わされている「線路配置」。
巧みに上下の列車が行き違うダイヤは本当に「お見事」の一言です。

3 昭和57年の晩夏、「広島」から「松江」へ抜ける際に
「芸備線」の「備中落合行」の「50系レッドトレイン仕立て」の客車鈍行に乗車。
午後3時過ぎに発車する「広島」では下校途中の高校生がどっと乗り込み、
5両編成の車内はぎゅうぎゅう詰め。
しかし、中国山地に分け入っていくにつれ、
1人減り2人減りして車内の歓声がうそのようになり、
ついに「備後西城」を出た後は小生1人の「貸し切り列車」に・・・。
終着の「備後落合」で乗り換えた「宍道行単行DC」も小生1人のみ。
「出雲横田」で数名の乗客を見た時の安堵感は、
今でも記憶として鮮明に残っています。

 長々と失礼しました。また、投稿致します。
以上「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年11月15日(土)14時14分54秒

タイトル

513レ と朝霧

ED76109様
生徒さん達が無事に帰られた様で良かったです。(騒動も無く??)
511-512レはまだしも513-514レは大阪‐青森間2晩ですから此れに当たると疲労
困憊だったでしょう。513レで大阪‐高岡間度々出張に利用しましたが、此れの
「ロ」オロ31後年オロ41に乗ると,急行501レのハネ下段より@¥100-安く、当時
「駅弁一食分」が出ました。夏の朝石動から砺波平野の朝霧に霞む「農村孤荘集落」を
見ると、下りPC「まりも」が帯広を出発した後と同じ様な感じでワーグナーの
Siegfried Idyllや,小学唱歌 「牧場の朝」のメロデイーの鼻歌が自然と出て来た
のを覚えております。「まりも」では海岸線近くでも海の上に霧がふわふわ浮いてい
る見たいなのを見て北海道東部の霧の深さに驚きました。新富士で目をこらして居ま
したが鶴居線の軽便気動車を見る事が出来ませんでした。


投稿者

ED76109

投稿日

2008年11月15日(土)23時04分25秒

タイトル

懐かしき鉄路達

 本日2度目の投稿で失礼致します。「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >北海道東部の霧の深さに驚きました
 道東の釧路・根室では、6〜8月が一番「海霧」が濃い時期に当たります。
昼間でも、「スーパーおおぞら」等はライトを付けて走行しています。
もし、この時期当地へおいでの折は、
荷物になるかもしれませんが、「ウインドブレーカー」をご持参ください。
真夏でもヘタをすれば最高気温が「20℃」以下ですので・・・。

 >鶴居線の軽便気動車
 「鶴居村営軌道」のことですね。
「新潮社編・日本鉄道地図帳1号」によれば、1927(昭和12)年に「中雪裡」、
さらに1944(昭和19)年に「新幌呂」まで開通した「762o」の軽便鉄道とあり、
当初は「馬」により牽引されていたようです。
当然、開拓のためのものですが、簡易軌道が開通するまで雪解けの時期は「泥濘」で
道は膝まで没してしまったという逸話もあり、先人の労苦が忍ばれます。

 雑魚様
 >根室線と士幌線を結び、途中、他社の二路線と「交差」していた北海道拓殖鉄道
 小生、「新得町」の高校にも勤務した経験があり、
高校の近くに昔の「車庫」跡があったことを記憶しています。
担任した生徒の保護者の方が、
高校生だった折に一年間だけ「屈足(くったり)」という部落から
通学に使った体験を伺ったことがあります。
「真冬はガラスの隙間から寒風が吹きすさび、顔が凍傷で真っ赤になってしまった。」
と懐かしそうに想い出を語ってくださいました。

 以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年11月16日(日)14時02分56秒

タイトル

北海道庁振興部殖民軌道?

ED76109様
古い時間表にはこんなのが出ていますね。鶴居、幌延、歌登、浜中、別海等(間違い
があるかも知れませんが)----。出入り口非対称のDCとか後年のキハ02みたいな中央
出入り口とか、路盤が悪いので小型ボギー客車とか‐‐‐スジも一日一往復で奥地基
準で‐‐別海は最後まで馬車鉄道だったとかでしたね。根室拓殖軌道のバス型ガソ
とか乗って見たかったです。
私のこの種軌道の経験は「大滝林用軌道」BWのB-1薪焚ロコでしたが、混合列車はDLば
かりで蒸気は運財貨物ばかりでした。北海道の簡易軌道も色々な生活物資運搬の
役目もしたでしょう。
釧網線の「藻琴」で簡易軌道の車を車窓から見つけましたが、停車位置とすぐ発車で
写し損ないました。
お説の「北海道拓殖鉄道」には西武の中古のDCとキハ22みたいな車体のDCが居たの
では無いですか?「隙間風」は多分西武の中古でしょう。


投稿者

急行越前

投稿日

2008年11月16日(日)22時13分56秒

タイトル

根室本線422レ

長距離鈍行の写真がありました。丁度今話題の出ている北海道です。

前日に三菱石炭砿業に乗って、札幌に戻って14系「まりも」で釧路にに入り、
折り返し滝川まで乗車しています。
今見たら10時間近くかかっていますね。

根室本線422レ(釧路7:35〜滝川17:21)

DD51639(釧)
マニ 502130オク(北東航3)
マニ 502173ミハ(大航1)
マニ 502215ハコ
スハフ42 510クシ
スハ 45  45クシ
スハフ44  18クシ

1984.11.05池田にて


投稿者

ED76109

投稿日

2008年11月16日(日)22時58分54秒

タイトル

開拓の命だった「殖民軌道」

先達の皆様方、失礼致します。「ED76109」であります。

マロネロ38様
>北海道の簡易軌道も色々な生活物資運搬の役目もしたでしょう
 大正初期、当時内務省所管の「北海道庁」が、
内陸部の開発援助及び開拓村への物資輸送手段として、
「殖民軌道」の敷設計画が立案されました。
そして、1925(大正14)年根室線厚床・中標津の開通から、
国鉄線の駅から内陸へと路線建設が行われたのであります。
戦後は、内務省から農林省へと所管が変わり、
「簡易軌道」へと名称が改められて動力化が一層推進されます。
 マロネロ38様の御記述のとおり、
全国時刻表に歌登、浜中、別海等の町営軌道が掲載されるに至り、
全国の鉄道ファンにも存在が認知されるようになりました。
道路整備等のため、昭和47年に「浜中町営軌道」が廃止され、
北海道特有の簡易軌道は姿を消しております。
 しかし、全盛期には「DL」や「DC」も導入される等、
地域の足としての役割が確立されていたようです。
(参考資料「新潮社編・日本鉄道地図帳1号」より)
 小生には、残された資料から考察するしかないのですが、
厳しい自然に妥協無く闘った開拓民にとっては、
簡易軌道の灯りはまさしく「希望の光」だったのでしょう・・・。

>「隙間風」は多分西武の中古でしょう
 詳細はわかりませんが、そうなのですか・・(絶句)。
戦後しばらく、「保谷」より先は「非電化」だったという話を
聞いたことがあるのですが・・。
そこで活躍した「DC」なのですね。
小生の西武電車の想い出は、「西武秩父線」が開通した際、
「鉄」親父と池袋発の準急「西武秩父」行で「正丸隧道」を通ったことでしょうか。
当時、私鉄での最長隧道だった(?)と記憶しているのですが・・。
先達の皆様方に補足頂ければ幸いであります。

 長々と失礼しました。また、投稿致します。
以上、「西武」と聞いて過剰反応してしまった
「道民球団応援団」の「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年11月17日(月)15時08分22秒

タイトル

簡易軌道

▼ED76 109様:
> 小生「新得町」の高校にも勤務した経験があり、

おお、峠越えの根室線撮影と云い、旧線跡 巡りと云い「鉄環境」は良好ですね(^^)
もっとも、そちらが赴任された当時は既に、実験線は廃止されていた事と拝察します。
旧新内駅にあった蒸機+20系客車も、ホテル営業を終了して久しい様ですが、同趣の
現役ホテルは、今や岩手の小岩井農場を残すのみだそうですね。

> 担任した生徒の保護者の方が、高校生だった折に(中略)通学に使った体験

それは貴重な御話を伺いましたね。以前、商談相手との雑談で、話題が出身地に及び、
もしや廃止された○○線で通学していなかったか、と切り出した処、話が盛り上がり、
それが過ぎて、規定時間内に肝心の商談が纏まらなかった、という失敗談があります。
それはそれとして(^^)出身地などの詮索は、時として礼を失する場合もありますが、
地理系「鉄」にとっては、有効な「営業口上」ではないかと感じる雑魚でした(^^)

> 地域の足としての役割が確立されていたようです。

長野県木曽に象徴される森林鉄道の最盛期と同様、相当規模の路線網を有した事例も
少なからず存在した様ですね。森林鉄道の場合、青森県の津軽や高知県の魚梁瀬では、
麓駅を発した複数の路線が、山間部で分水嶺を越え繋がる事例もあり(津軽の場合は、
津軽線沿と津軽鉄道、双方の沿線域を結んでいたと記憶します)簡易軌道でも類例が
あったものと想像します。

町・村営軌道の分布を見ると、石狩当別で札沼線に接続した当別町営を除き、道東や
道北に偏在気味ですね。道東は浜中町営、道北は歌登町営(同町は一昨年、枝幸町に
合流しました)が有名ですね。

以前にも言及した記憶がありますが、学生時代、札幌→稚内の移動に、昼寝用ハネを
伴った14系「天北」を利用した際、歌登町営軌道が接続した小頓別駅では、有効長が
乏しい為、編成の相当部分がホームに収まり切らず(その後、到達した浜頓別の街が、
大都市に見えた程に)長閑な駅の周辺の風景も相まって、それでも急行が停まるとは、
簡易軌道接続の歴史も伊達ではないと、得心した記憶があります。

>「保谷」より先は「非電化」だったという話を聞いたことがあるのですが

何せ「糞尿輸送」まで手掛けた「農業鉄道」が前身ですから、現在の陣容からすると
中々実感し難い処ではありますね(^^)


倶楽部メモ(471) 平成20年11月17日〜11月19日


投稿者

ED76109

投稿日

2008年11月17日(月)22時07分52秒

タイトル

狩勝峠はすばらしい眺望です!!

 連投しております。「ED76109」でございます。

雑魚様
>峠越えの根室線撮影と云い、旧線跡巡りと云い「鉄環境」は良好ですね
 まさしく、そのとおりでした。四季それぞれの趣が峠にありましたが、
特に心に残るのは、下り最終の「とかち」で
「新狩勝隧道」から「新得」に下ってくる町の夜景です。
左右に展開する「町の灯り」を眺めながら、
月明かりに照らされて勾配を下る車窓はまさに「天下一品」でした。

>町・村営軌道の分布を見ると、〜道東や道北に偏在気味ですね。
 小生の勤務校に、「中標津」から転勤してきた同僚がおります。
とにかく、「原野」と「乳牛」しかなく、
隣家が牧草地を隔てて「2q」離れていても、全く「違和感はない」とのこと。
道東や道北はこのような所が多く、「簡易軌道」の役割が改めて理解できます。
「僻地だけど釧路までは車で1時間だから。」と件の同僚が話したことがあります。
しかし、「中標津」から「釧路」までは
「100q」はあるはずなのですが・・・(?!)。

 また、投稿致します。
以上、急行越前様の写真に想い出が甦る「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年11月18日(火)11時01分10秒

タイトル

北海道拓殖鉄道

ED76109先生
「鉄道ピクとリアル、私鉄車両巡り1960年12月臨時増刊」に出ていますね。
隙間風のDCが西武からのキハ111-112でしょう。(佐久鉄道キホハニ54-55→鉄道省
キハニ40603-40604→40704-40705→111-112→拓鉄111-112)昭和5年11月日本車輌
本店定員72名(座32)、自重13.2t、LWH=11720xx2640x3455mm、エンジン=
Workeshire:6SRL→Hino DS40 150HP/2400rpm。
他にPCナハ501、ホハ502、SLは8620系の8621,8622、スケネクの5704、
DLロータリーDR202CL、単車のガソリンカーキハ101-102、ラッセルのキ2------
この鉄道上士幌まで抜けていたのですね。
キハ22タイプで台車がTR26かTR29みたいなDCが後に入ったそうですが----
地図では「屈足」から森林軌道が書かれています。
途中に「厳松」(発電所のマーク?)があります。
「河西鉄道」の立体交差橋台も出ています。


投稿者

ED76109

投稿日

2008年11月18日(火)18時40分41秒

タイトル

Re.北海道拓殖鉄道

失礼します。「ED76109」でございます。

マロネロ38様及び雑魚様
「北海道拓殖鉄道」は、1924(大正13)年に
十勝支庁の「新得町」から工事が開始され、
「上士幌」を経由して当時の「足寄」までの敷設計画が立案されました。
しかし、「石北本線」の開通によって「上士幌」までで工事が中断され、
「新得・上士幌」での運行になりました。
その後、1968(昭和43)年に屈足(くったり)・瓜幕間の「熊牛隧道」が
札幌陸運局からの行政指導の結果、
使用不可となってしまい、同年10月に全線廃止となっております。
 マロネロ38様の御指摘の陣容に加え、
「ワム」「トム」等の貨車も約50両ほど保有するなど、
十勝北東部の貴重な鉄路として活躍しておりました。

>地図では「屈足」から森林軌道が書かれています。
>途中に「厳松」(発電所のマーク?)が
 この地域は「トムラウシ」と呼ばれており、
大雪の山並みに沿って「白樺」や「エゾマツ」の原生林が広がっています。
旧来は「新得営林署」が所管する地域で、製材業が盛んな地域でありました。
 また、戦前「十勝川ダム」の建設に際しては、
建設作業員等の利用で「北海道拓殖鉄道」はかなりの盛況を呈した時期が
あった話を聞いております。

  また、投稿致します。
以上、明日からの「寒波」の到来に背筋が凍える「中年客車鉄ちゃん」でした。


倶楽部メモ(472) 平成20年11月19日〜11月24日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年11月19日(水)08時16分10秒

タイトル

簡易軌道

▼ED76 109様:
> 下り最終の「とかち」で「新狩勝隧道」から「新得」に下ってくる町の夜景

新得の灯火群がどれほどの規模かは判りませんが、篠ノ井線から俯瞰する善光寺平の
夜景の如き良景を連想します。道内ですと、先日利用した「北斗星」が、大沼界隈の
高原から函館平野に下る途中で遠望された灯火群も、なかなか良かったですね。

>「原野」と「乳牛」しかなく、隣家が牧草地を隔てて「2q」離れていても、

正に、標津線の車窓風景そのものですね。なお、我が地元にも、隣家が 1〜2km 離れ、
朝刊が届くのが昼前という山間部の出身ゆえ、街中に下宿していた同窓生がいました。
1970年代までは、非電化の世帯も僅かながら残っていましたねぇ。

> 道東や道北はこのような所が多く「簡易軌道」の役割が改めて理解できます。

軌道敷設の根拠法令が「地方鉄道」や「軌道法」ではなく「道路の代替」ですからね。
それにしても、勾配の克服を考えれば道路の方が融通が効くかと思いますが、道東の
湿地ないし泥炭地では、軌道の方が敷設が容易だったのでしょうか。

>「僻地だけど釧路までは車で1時間だから。」と件の同僚が話したことがあります。

大学時代、レンタ・カーで、三日かけて道東を一周した経験から申せば、その感覚は
理解出来ますが、免許を得て日が浅かった私は、台詞のみ「サーキットの狼」ごっこ
あるいは「マッド・マックス」ごっこに興じるのが精々でした(^^)

そんなドライブの最中、標茶の街を通過中、軌道らしきを一瞬横切るも、既に夕刻で、
投宿先の到着時刻も気になったので、そのまま通過してしまいました。今頃になって、
勿体無い事をしたと悔やまれます。


投稿者

ホエ7030

投稿日

2008年11月22日(土)11時45分55秒

タイトル

憧れの小沢にて

 いわゆるSLブームのころ、
どちらかと言うと車両自体の写真を重点に撮ってきた私も、
C62の重連など北海道の蒸機列車を撮りたい衝動に駆られ、
何度か小沢を訪れました。
 「小沢」と言う駅名は、S42年に放送されたNHKのTVドラマ「旅路」の中で、
うろ覚えですが、機関助手(見習い?)の岡本良平(山田吾一)と
主人公の室伏雄一郎(横内正)の妹千枝(長山藍子)が、
駆落ちするために先に一人で岩内方面に行く千枝に対して、
良平が「いいか、小沢で降りるんだぞ」と念を押しているシーンが印象に残っていて、
予てから行って見たいと思っていた場所でした。
 小沢〜倶知安間で「ニセコ」やD51の客車列車、
岩内線の二つ目96の貨物などを撮りましたが、
駅でも数枚撮りました。画像はその内の1枚です。
この下りの出発信号機が印象的でした。

  121レ 函館→旭川  D51367(萬) S46.4.11  小沢発車


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年11月23日(日)17時57分10秒

タイトル

簡易軌道

ED76109様
故吉川文夫氏編集の「写真で見る戦後30年の鉄道車両」72頁に「浜中町営のDC],
「幌延村営ハ2客車」、「鶴居村営のL型DL?GL?]が出ています。
それに昭和32年の項に「風連の馬車軌道」湯口徹さんの貴重な一枚です。


倶楽部メモ(473) 平成20年11月24日〜11月27日


投稿者

ED76109

投稿日

2008年11月24日(月)11時37分48秒

タイトル

「鉄」なる先輩方へ

 お寒うございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 「簡易軌道」に係る様々な資料等の御呈示について、心からお礼申し上げます。
小生には、「日本鉄道旅行地図帳一号 北海道(新潮社編)」記載の
ガソリン機関車が客車・貨車を牽引している
「幌延町営軌道」と馬が木造客車を牽引している
「歌登町営幌延線」の写真程度しか手元にない状況です。
東京の実家にある「広田尚敬氏」の鉄道写真集(昭和45年ごろのもの?)で
確か「別海村営軌道」の写真を見たのが、
「簡易軌道との出会い」であったように記憶しています。
しかし、マロネロ38様のお話で興味が出てきました。
仕事に余裕ができれば、近隣の「道立図書館」に籠ってみたくなりました・・・。

 ホエ7030様
 初めまして。「ED76109」と申します。
東京の産なのですが、現在「北の大地」に在しております。
懐かしい「旧客」の写真に、小生の想い出が甦ります。
「小沢」の「121レ」・・・。「山線」の旧客が姿を消して、早22年ですね。
もう一度、峠の小駅「上目名」に降り立ってみたくなりました・・・。

 最後に「戯言」なのですが・・。
昨日、拙娘と所用で「札沼線」に乗りました。
たまたま乗った車両が「レッドトレイン」の改造車。
そういえば、昭和43年頃「旧客」を改造した
「DC」がありませんでしたでしょうか。
確か「キハ0」と称していたような記憶があるのですが。
先達の皆様方で、御教示等いただければ幸いであります。

 長々と失礼しました。また、投稿致します。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。


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