倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

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大正時代の横須賀線客車の構造・夏目漱石と内田百間


倶楽部メモ(433) 平成20年 6月23日〜 6月28日


投稿者

ED76109

投稿日

2008年 6月24日(火)18時54分27秒

タイトル

ちょっと堅いテーマですが・・

先達の皆様方、「ED76109」です。また、御邪魔いたします。
雑魚様
>鉄道用語の語法を巡り、コアな検定騒動………なぁんて事は無いでしょうね

 そういうことを仕事にできれば、趣味と実益があがってすばらしいことでしょうが・・。
残念ながら、「国語に係る教科書」のアドバイザーです。
本音を言うと、小生のポテンシャルの向上よりも
「ブルートレイン」に乗れるのではという「趣味」重視で引き受けた要素が強いです。
担当の方も「北海道からJRで(来たの?)・・。」と絶句されてしまいましたからねぇ。
(確かに、行きが「トワイライト」と「山陽新幹線」、
帰りが「さくら・はやぶさ」と「東北新幹線」利用の
0泊3日の強行軍でしたが・・・。今の歳では無理ですねぇ。)
 そこで、今回は「教科書における鉄道風景(!?)」に係る戯言を述べさせていただきます。
いつものように先達の皆様方の話題にいていただけれは眼福の限りです。

1 平成7年に発表された「鉄道員」(浅田次郎作)。
ご存知「高倉健」さん主演で映画化された有名作品です。
教科書では、廃線を間近にしたローカル線(北海道の元運炭路線)の駅長のもとに、
幼い頃亡くなった娘が少女の亡霊となって訪れる場面を描いた部分が掲載されていますが、
事務室の「タブレット」や「信号機」の記述もあり、中々「鉄」色の濃い内容。
 授業終了後生徒からは、「主人公の心理描写より
タブレットの説明の方が、熱心でしたよ・・。」の一言がありました。
(小生、思わず苦笑)

2 大正2年9月に発表された「出来事」(志賀直哉作)。
これは、大正時代の東京市内を走行する「路面電車」での作者の体験が、
そのまま小説になっているものです。
夏の昼下がりの疲れた乗客等の描写が、
あたかも自分が「路面電車」に乗っているように錯覚させられます。
さらに、電車に轢かれそうになった男の子が、
運転手の機転で「電気ブレーキ」や「巻きブレーキ」によって助かる
という部分では、子どもが助かったという安堵感とともに、
当時の「東京市電」の運転システムの一端を垣間見ることができます。

3 大正8年4月発表の「蜜柑」(芥川龍之介作)。
これは、作者が利用した「スカ線」の二等車の出来事をそのまま小説にしたものです。
二等車に「赤切符」で乗り込んできた貧しい少女の姿や態度に
作者は嫌悪感を感じるのですが、
トンネルを過ぎた踏切で少女を見送る兄弟達に
持っていた「蜜柑」を涙ながらに投げ渡す場面で、
作者は心の中に暖かな感動を覚えるという秀逸の一品です。
ただ、「鉄」的には、主人公が乗った二等車のガラス窓が
「下向き」に下りる仕組みになっており、
当時の車両に疎い小生にしてみれば一つ疑問となっています。
おそらくボギー客車の二等車だと思うのですが、
大正時代の横須賀線の二等客車はどのような構造だったのか、
スハネ16のように下降する窓であったのか。
客車の構造等に詳しい先達の皆様方からの御教示があれば幸いです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

 また、投稿致します。
以上、可能であれば宮脇俊三さんや種村直樹さんのようになれれば
という淡い仮想を描いた「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

ど素人

投稿日

2008年 6月25日(水)10時25分20秒

タイトル

窓はどう開くか

ED76109さま、
私はまさしく「ど素人」であり、碩学揃いのこの板ではぬるい発言を
くりかえすばかりです。
2005年の「鉄道ファン」1月号より、
川崎重工兵庫工場秘蔵アルバムから客車形式写真帳 というのが
連載されましたが、窓の開いた状態の写真などから判断できそう
です。
いえ、大正時代の横須賀線の3等車というところまで追い詰めて
行けないのですが、窓は上から下へと落とし込む方式だったと、
私は思います。


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2008年 6月25日(水)20時56分51秒

タイトル

大正時代の横須賀線客車の構造

ED76109様
大正時代の横須賀線における二等客車の窓の構造についてですが、
私も詳しくはわからないのですが…
横須賀線への電車の投入は昭和に入ってからですので、
大正時代は当然客車列車であり、大正8年4月発表の「蜜柑」との事ですので、
ナハ22000等の木製大形客車の登場(大正9年)以前であり、
使用されていた客車はホハ12000等の木製中形客車であったと思われます。
そこで木製中形客車の窓の構造がどうであったかですが、
明確な資料は持ち合わせていないのですが、
資料写真(日本の客車)によると下降窓であったようです。
木製大形客車以降は上昇窓になったようですが、木製中形客車の場合は
写真から見ても窓上部(窓上から屋根まで)に窓が全開収納できる空間が存在せず、
必然的に下降窓であったと思われます。
木製客車については詳しい資料等を持ち合わせていませんので、
詳しい方がいらっしゃいましたらフォローしていただけると助かります。

投稿者のホームページ


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 6月26日(木)14時06分11秒

タイトル

横須賀線

参考になるかどうか?
内田百けん著の随筆「非常汽笛」に"本線の長距離用新造車試運転がらみで使用とか
1等格下げ2等とか(コンパートメント付き)とかロングシートの2等”とかに
百鬼園大先生が海軍機関学校教授時代に乗車していた記述があります。
木造でも相当程度が良い客車が使用されていたみたいです。
沿線に軍港や鎮守府がある海軍路線だったからでしょうか?
後年東京‐下関の呉線経由急行17‐18レが1,2,3等で
「洋食堂車」つきだったのも海軍急行だったのと同様でしょう。


投稿者

EF5841

投稿日

2008年 6月26日(木)18時42分26秒

タイトル

17‐18レ

マロネロ38  様

「17‐18レ」は、東京ー神戸間ではなかったでしょうか?
「7‐8レ」は、東京‐下関の呉線経由急行で、
昼行の山陽線区間にオイテ2700が連結されていたのではないでしょうか?


投稿者

EF6113

投稿日

2008年 6月27日(金)01時09分11秒

タイトル

百けんと龍之介

どちらも、海軍機関学校の教官をやってました。ともに夏目漱石の門下生です。
英語の教官をしていた龍之介が欠員の出た独逸語教官に百けんを誘ったか、
推薦したかで百けんも機関学校へ通う事になったようです。
両者の作品に電車化前の横須賀線がテーマになったものがあるのは
こういう経緯があったからです。

後に、百けんは法政大学の教授になり、航空部の顧問となります。
確か羽田空港開港時の一番機は法政大学所属の飛行機です。
戦後は一度も飛行機旅はしなかった百けん先生ですが、
実をいうと飛行機の世界でも足跡を残しています。

百けんの親友だった琴の巨匠、宮城道雄が刈谷駅付近で
急行「銀河」から転落死したという事件があり、
百けんはこの経緯を「東海道刈谷駅」という作品に書いています。
宮城(視覚障害者でした)がトイレのドアと出入り口のドアを
間違えたのだろうと推定しています。

マイネ(マロネ)40の形式図を見ると、なるほどそういうことがありうると納得します。
さすがは百けん先生、阿房列車で何度もマイネに乗っただけのことはあります。

20系になって走行中出入り口にロックがかかるようになったのは、
宮城の転落を教訓にしたと何かで読みました。

以前読んだことを思い出しながらカキコしてます。間違いがあればご指摘下さい。


投稿者

「ED76109」

投稿日

2008年 6月27日(金)22時58分55秒

タイトル

ありがとうございました

 ど素人様、仙コリ様及びマロネロ38様
 「ED76109」です。様々なご教示ありがとうございます。
   先達の皆様方のお陰で、「蜜柑」における大正時代の
横須賀線二等車の状況がつかめてきました。
実は、小説の中で少女が客車の窓を「下ろした」途端、
隣に座っていた作者の龍之介が「煤煙と風」で噎んでしまうシーンがあり、
「ロングシート」の構造であれば、合点がいく場面であったことから、
マロネロ38様の「ロングシートの2等」という分析で小生納得できました。
昭和47年、九州の親族宅(鹿児島県出水市)を訪問した際、
阿久根から西出水まで乗車した旧客鈍行が「ロングシート」であった記憶があり、
「蜜柑」の二等車もこの客車とほぼ同じような構造であったのではないか
と推察しています。
ありがとうございました。
小生、「乗り鉄」専門であり、車両構造等については疎いところがあります。
これからも色々とご教示下されば幸いです。これからもよろしくお願い致します。

 EF6113様
 「ED76109」です。様々なご教示ありがとうございます。
龍之介らが「木曜会」の繋がりで
横須賀の海軍機関学校の英語指導教官を引き受けたのは、ご指摘のとおりです。
「蜜柑」はその帰路に車内で体験した光景を短編にまとめたものと記憶しています。
(実は小生の卒論テーマが「漱石論」でして・・)
また、龍之介は急行列車の食堂車で出会った「西郷隆盛」と酷似した人物を巡り、
「西南戦争」で戦死した西郷は「替え玉」であったという話を
連れの人物に披露する「西郷隆盛」という短編を
大正末期(だったと思うのですが)に発表しており、
かなり「鉄」分のある近代文学者というイメージを持っています。
「文学と鉄道」に係るテーマ(例えば、国内ミステリー等)で
またお話ができればと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

 なお、「雪だるま様」の後追いになりますが、
明日及び明後日に運転予定の「SL常紋号」に係り、
沿線のオホーツク地方は「低温注意報」が発令されております。
晴天が期待できますが、最高気温は「16℃前後」と肌寒さが予想されますので、
どうぞ温かい服装でご来道ください。

 また、投稿致します。
以上、いよいよ「はやぶさ」乗車の資金が獲得できるか、
「宝塚記念」命のJRならぬ「JRA」フリークの「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 6月28日(土)10時11分56秒

タイトル

東京市場駅

▼理左衛門(バロン)様:
> 今年は臨時北斗星ありませんね…。

せっかくの渡道の機会に「カシオペア」「北斗星」の双方から見放された私としては、
もどかしい限りですね。こうした繁忙期に臨時便が設定されないという事は、尾久に
留置されている寝台客車も、漸次、淘汰されているという事でしょうか。

▼ED76 109様:
> 阿久根から西出水まで乗車した旧客鈍行が「ロングシート」であった記憶があり、

以前にも申し上げた記憶がありますが、1984年、電化前の予讃線(多度津→高松)で
利用した旧客列車(形式失念)が、両端デッキ構造のロング・シート仕様でしたっけ。
もっともこれは、同行の友人によると、元特急車を無理やり改造した産物だそうです。

旧客の横掛けというと、変則的なアコモながら、1990年以前の山陽線・和田岬支線を
連想します。この路線、神戸市営地下鉄海岸線が開業して数年が経つ今日なお健在で、
どの様な「棲み分け」のゆえか、興味深い現象ですね。

> 龍之介らが(中略)横須賀の海軍機関学校の英語指導教官を引き受けた

舞鶴所在と思いきや、関東大震災以前は横須賀に位置したのですね。ここや、広島県
江田島の「兵学校」と共に旧海軍の将校を養成したのが、東京築地の「経理学校」で、
後方支援業務の性質上、前線勤務を忌避した難関大学の出身者が多数集った様ですね。

件の震災で壊滅的な被害を受けた日本橋界隈の魚河岸が移転したのが、上記学校との
関連も見受けられる、築地の旧海軍省所有地でした。画像は、その築地市場を北側の
聖路加タワーから俯瞰したものです。雑魚、もとい鮮魚の高速輸送便「とびうお」も
出入りした旧東京市場駅(1984年廃止)を反映した建物の湾曲振りが良く判りますね。

なおこの展望室からの眺望は絶品ですが、無料開放の為か、床面積は小規模気味な為、
ディープなカップルが一組いると、かなり「息苦しく」なるので、御注意あれ(^^)

> 明日及び明後日に運転予定の「SL常紋号」

運転内容を改めると、エンド交換となる遠軽で往復とも一時間超の長時間停車があり、
この間、臨時便を含む複数の特急と交換するのですね。まあ、二面三線+中線一本と
構内は余裕がありそうですから、然したる問題も無いのでしょう。

>「宝塚記念」命のJRならぬ「JRA」フリークの「中年客車鉄ちゃん」でした。

いよいよ明日開催ですね「御武運」を祈念申し上げます。以上「宝塚記念」を「ヅカ
ジェンヌ」のイベントと勘違いして久しい雑魚でした(^^)


投稿者

EF6113

投稿日

2008年 6月28日(土)19時47分44秒

タイトル

ターナーの汽車絵

>ED76 109様

これは関川夏央の汽車旅放浪記の受け売りも多分にありますが。

草枕を読むと漱石はかなり鉄道というものをネガティブにとらえてます。
個性を殺して、社会全体の効率のみ追求する
近代西欧社会の象徴のようなことを書いています。
しかし鉄道への記述が彼の著作を見ると多いのは
かなり彼が関心があったことが伺えます。

草枕にはターナの汽車絵に関する記述があります。
汽車を題材にした絵に彼はかなり注目しています。
単なる鉄道を輸送の為のシステムととらえるのではなく、
芸術の対象にしていることにかなり関心を寄せてるようです。
転じて、鉄道が視覚など人間の持つ感覚的な部分に強くアピールするものであり、
趣味や芸術の対象になりうるものだということを発見してたのかもしれません。
私自身あまり文学的なものを読まないので間違っているかもしれませんが、
漱石が日本で初めて、鉄道に芸術や趣味の対象になる力をもっていることを
見出した人ではないかと思っています。
彼のロンドン留学時代のイギリスにはそういった鉄道に対するとらえ方が
すでに確立していたのかもしれませんね。

内田百けんの著述の対象は漱石に関連したものが多いのですが、
彼の叙述に鉄道が多いのもおそらく「木曜会」などで
鉄道に関する話題がよくでたのかも、思ってしまいます。

阿房列車で彼が繁茂に九州に行ったのは、漱石が熊本で一時期過ごしたことと
関連が非常にあると思っています。

つまらない発言まことに申し訳ありません。


投稿者

「ED76109」

投稿日

2008年 6月28日(土)22時15分29秒

タイトル

Re.ターナーの汽車絵

EF6113様
>漱石が日本で初めて、鉄道に芸術や趣味の対象になる力を
>もっていることを見出した人ではないか・・
 非常に「専門的」であり、できるだけ「客車倶楽部」に見合う形で
私論を申し上げます。
漱石は、西洋と東洋の接点を日本の近代化の中でとらえようとしました。
しかし、結果として前近代的な(江戸的な)ものは近代化の中で壊されていきます。
例えば、前近代的な人間的結び付きを有していた「宿場町」は
、鉄道という「近代的な西洋」によって破壊されてしまいました。
そのような部分を指して「社会全体の効率のみ追求する近代西欧社会の象徴」として
「鉄道」をとらえていたのかも知れません。
ただ、EF6113様のご指摘のとおり、「三四郎」は熊本から東京までの
列車による上京の描写でスタートしておりますし、
「こゝろ」は主人公の「私」が「先生からの遺書」を
故郷新潟からの列車の中で読み始めるという設定になっています。
つまり、鉄道が小説の中で関わってくる点は、
漱石は他の文学者と比較しても顕著なように思われます。
満鉄総裁であった「中村是公」の招待で満州と朝鮮半島を旅するなど、
旅好きであったことも鉄道に対する関心を高めた要因の一つであるとも考えられます。
漱石の弟子であった百間や龍之介もそのような影響を受けていたことが想像されます。
全くの私論ですので、ご笑覧くだされば幸いであります。
ところで、この書き込みをしていて、
前述の「こゝろ」の主人公「私」は、
どのようなルートで新潟から東京へ向かったのかと考えました。
大正の初期(大正3年ごろ)、上越線はまだ開通していませんので、
「磐越西線・東北本線経由」か、
「信越本線・高崎線経由」のどちらかでしょうが・・。
まあ、あれだけ長い「先生」の遺書を読みこなすには、
どちらの路線を経由しても十分な時間があったでしょう。
おそらく主人公の「私」は、管理人(仙コリ)様ご指摘の
「ホハ12000等の木製中形客車」のシートに身を委ねたのでしょうか。
師の身を案じた辛い旅であったろうと思います。
また、投稿致します。
以上、久しぶりに「文学研究者」もどきの「中年客車鉄ちゃん」でした。


倶楽部メモ(434) 平成20年 6月29日〜 7月 1日


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 6月29日(日)10時09分32秒

タイトル

17-18,7-8 レ

EF5848様
お説の通りです。取り違えて居りました済みません。
7-8レのオイテは京都‐下関間だったと思います。この列車は舞子駅を
7レがお昼頃通過、8レが夕方通過でしたので度々見ましたが、優等車
がもう一つでした。但し食堂車は「洋食」で呉線経由の海軍御用達列車
だった事が解ります。昭和16年の開戦直前(9月)に網干で延着で
停車中の114レに追突して、114レの「ロ」の乗客全員死亡の大事故
をやったのが8レです。1週間後に現場を広島行快速で通過してC53
が半分土中にめりこんだままを見て驚いた経験があります。帰途は何と
114レでしたが、事故で運用が変わっていて、オロ31ではなくオロ36
かオロ40でした。
17‐18レ1.2.等急行は「一番良い車」が使われていたみたいでした。
これも「洋食堂車」が連結されていました。父がよく利用しましたが私は
残念ながら乗車経験がありません。


投稿者

尼港線

投稿日

2008年 6月30日(月)00時31分25秒

タイトル

百間の鉄道好きは幼少時から

> ED76109様
> EF6113様
夏目漱石をめぐるお話の最中の横レス、大変に恐縮です。
小生、内田百間は高校生の頃から愛読しており、
少々気になりました点がございましたので、
ひとこと申し上げさせていただきたく、出て参りました。

文中、夏目漱石の鉄道への興味が、内田百間の鉄道好きに影響したのでは、
とのお話がございましたが。
百間自身は、郷里の岡山在住時代。明治末に湯河原で療養中の漱石に初めて会う、
遥か以前から鉄道に深い興味を持っていたことが、
岡山を描いた様々な随筆から窺えます。
代表的なものに「通過列車」という作品があり、百間が中学生の頃、
山陽本線の長岡駅(現・東岡山駅)まで通過する列車を見に、
自転車をこいで日々通っていた様子が、当時の駅の情景とともに活写されています。
宮脇俊三選、日本ペンクラブ編の「鉄道が好き」(集英社文庫)
にも収められていますので、ご一読をお勧めします。

師の漱石の影響よりも、鉄道の要衝で生まれ育った男の子の一人として鉄道にひかれ
(当時、最先端の山陽鉄道が岡山まで開業したのは百間2歳の時)、
そのまま一生の楽しみが鉄道旅行になった、ということではないかと思います。


投稿者

ED76109

投稿日

2008年 6月30日(月)10時16分29秒

タイトル

ありがとうございます。

 尼港線様
 「ED76109」と申します。御教示ありがとうございます。
 百間の鉄道好きは、小生の言葉足らずであったと反省しています。
 御指摘のとおり、山陽本線の難所「船坂峠」の麓に在していた百間は、
 幼い頃から汽車を眺めることから好きな少年であったわけであり、
 尼港線様が記入されていたとおりです。
 これからも、色々と発言した折、補足等よろしくお願い致します。

 雑魚様
 本日の夜に、いつもの「戯言」を記入致しますので、しばらくお待ちください。

  失礼致します。


投稿者

EF6113

投稿日

2008年 7月 1日(火)00時00分32秒

タイトル

ご教示ありがとうございます

>尼港線さま

たしかにおっしゃるとおりだと思います。

ただし関心のあった鉄道を著作のテーマにしたきっかけは漱石の影響、
あるいは漱石が若干ニュアンスがちがうにしろ
前例を作ってくれたからではないかと思います。

単なる輸送手段である鉄道を手段以外の価値や評価をする事は
今ではあたりまえであり、乱暴な言い方ではありますが、
この掲示板も客車を人の輸送手段以外の価値を認めてる人が
いらっしゃるからこそ成立しています。

しかし、明治の末期にはまだ鉄道に対してそのような見方は
あまり前例がなかったのではないでしょうか?
漱石の存在が百けんが小さな頃から関心のあった「鉄道」を
自らの著作のテーマにすることに少なからず影響をあたえたのではと思います。

こんなふうに考えておりますが、いかがでしょうか?


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