倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
食堂車の思い出・戦前の食堂車


倶楽部メモ(429) 平成20年 6月 8日〜 6月13日


投稿者

「ED76109」

投稿日

2008年 6月 8日(日)23時30分53秒

タイトル

思ひ出すままに・・・

 雑魚様、himeikanai様、雪だるま様をはじめとする先達の皆様方、
北の大地在住の「ED76109」でございます。
豊富な資料や分析等、勉強になる話ばかりです。
特に配線変更の話は興味深く、
「桜島(そういえば「高千穂」は、門司で分割されていました)」で
早暁の門司駅構内を通過する際、交差する線路やポイントの複雑さに
目を窓に擦り付けて眺めていたことを思い出しました。
(そういえば、この話でなぜか大船駅構内での「トカホセ」と「スカ線」との
地上交差の「大ポイント」の振動と独特の通過音をした思い出しました。)
また、懲りずに投稿いたします。
今回は「桜島」号の思い出を綴らせていただきます。
皆様方の何かの話題にしていただければ幸いです。

 1 昭和40年ごろ(?)の春、「鉄」親父が3歳の私を連れての
御殿場線「D52」牽引の旧客鈍行紀行の帰路、
当時の「霧島」に静岡から乗車した際、
小生がグズッて閉口してしまったことがあったのだそうです。
そこで、同行していた母が、食堂車(オシ17でしょうか?)に私を連れて行ったところ、
ガラガラだったのが幸いしたのかウエイトレスの方々が私をあやしてくれ、
東京まで楽しい旅を楽しめたとのこと。
私には全く記憶はないのですが、
ウエイトレスの方々がだっこした途端に小生が「にこっ」としたそうで、
この「経験」が私を「鉄ちゃん」にしたきっかけになったと
両親は信じているようです。

 2 昭和47年の春休み、親類の婚礼に出席した帰路、
「桜島」のG車に西鹿児島から東京まで乗車しました。
深夜の「徳山」(「柳井」であったかもしれません)に停車していた折、
隣のホームを汽笛を鳴らして通過する列車がありました。
「『あかつき』だ」と目をこらした瞬間、
通過したのは「EF66」牽引の「フレートライナー」。
子ども心に「貨物の方が大事なのか。」とがっかりした記憶があります。
(そのとき、「鉄」親父は「鉄道の本来の価値は、旅客ではなくて貨物さ。」と一言。
したり顔でしたねぇ。)

  3 昭和50年の新春、「桜島」の廃止の噂を聞きつけ、
なけなしの小遣いを全額つぎ込み、
浜松から上り「桜島」の最後尾スハフ42に乗り込みました。
(当時、小学6年の小生にできる精一杯のことでした・・・)
東京車掌区のカレチさんは「桜島」に別れを告げにきた小生の話を聞き
(ませたガキでした)、
乗車の記念にと「乗客専務」の赤腕章を手渡してくれました。
品川駅のホームで「ありがとうございました。」と挨拶した私に、
カレチさんはやさしく敬礼してくれました。
「EF58」に牽かれ夕暮れに消えていった「桜島」のテールランプは、
今でもセピア色の思い出として私の脳裏に焼き付いています・・・。

 また投稿致します。
以上、「はやぶさ」のお別れ乗車の資金調達のため、
「宝塚記念」に最後の勝負を賭ける「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 6月 9日(月)10時50分21秒

タイトル

食堂車

> ガラガラだったのが幸いしたのかウエイトレスの方々が私をあやしてくれ、

ウェイトレスというと、最近は「いい齢こいた兄ちゃん&おっさん」が甘えるという、
趣旨違いの「属性」も取り沙汰されていますが、かかる「萌え」動機も視野に入れた
食堂車復活イベントなど、強ちあり得ない話ではない、とも感じます。

さて、私自身の食堂車利用で思い出すのが、1974年の夏、新潟の親類宅への移動の際
利用した 181系「とき」ですね。確か大宮を発車した辺りで親と食堂車に向い、何と
鰻重を奮発したのですが、座席に戻ると何か違和感甚だしく、高崎到着を待たずして
ファイヤー(^^)慌てて熱を測ると実に38度を越え、上越国境前後の素晴らしい山紫
水明を楽しむ事も侭ならず、線路のジョイント音を子守唄に、朦朧としておりました。

それでも旅行中止を進言する親を説得し、翌日、名古屋直通の長距離急行「赤倉」で
長野に移動し(1982年までは完全架線下の気動車便で、廃止された85年春の改正直前、
惜別乗車した 165系便は「佐渡」と共通運用でした)一泊、そして翌日「あさま」で
帰京した次第です。

>「鉄道の本来の価値は、旅客ではなくて貨物さ。」

「だいせん」だったか「さんべ」だったか失念しましたが、山陰線の夜行客車急行が、
松江の近くで普通列車を待避する、という事例を、鉄道誌で一瞥した記憶があります。
大半が単線規格の山陰線にあって、臨時列車は、急行といえども、定期の普通列車に
道を譲らなければならないという、苦しい台所事情が窺える一コマでした。

>「はやぶさ」のお別れ乗車の資金調達のため「宝塚記念」に最後の勝負を賭ける

うろ覚えですが「なはつき」では、惜別企画の一環として当該編成を用いた短距離の
臨時運用を演出したと聞きます。東京口でかかるイベントがあれば有り難いのですが。

経済的にも時間的にも惜別乗車はまず無理なので、せめて切符を購入したい処ですが、
我が家のエンゲル係数では、高額な寝台券購入も侭ならず(せめて特急券と寝台券が
別葉だったら………)そうなると、下り便の立席特急券が精々ですが、現地でないと、
窓口の取扱いが無い、とも聞きます。そもそも、実際に乗りもしないのに購入したら、
繁忙期においてはある種、迷惑行為ですね。

画像は「鉄道博物館」に展示されている「とき」の車内の様子です。隣の「ひばり/
あいづ」と異なり、駅弁の車内飲食は不可でした。


投稿者

下総守こみやさん(^^)

投稿日

2008年 6月12日(木)11時08分53秒

タイトル

食堂車

先日はトンチンカンなカキコをしてしまい申し訳ありません。
雑魚様
 >ウェイトレスというと、最近は「いい齢こいた兄ちゃん&おっさん」が甘えるという
あはは(^^)最近ではネコみみにしっぽが付いています。
このままお菓子を買いに来ています。
メードスタイルは確かに往年を思い出します。(耳と尻尾は当然無かった)
北陸線で電車特急の食堂は利用しました。学生だったのでカレーライス専門(^^)
社会人になり寝台特急ではハンバーグ定食にビール。
ビールはテーブルにグラスを置いたまま注ぐと流出事故を起こすので
片手にグラス片手にびんがお約束(^^;
戦前、特別急行の食堂車は空いていたのでは。
3等客は弁当が主流でしたし富士と燕は洋食堂車だし。1、2等客は限られてますよね。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 6月12日(木)20時21分29秒

タイトル

戦前の食堂車

上総之守さん
私は戦前1032レ「鴎」の洋食堂車しか経験が無いですが、
神戸で乗車三ノ宮を発車すると1等の方から「予約」を取りに来て
「増8」マイネロフ37の私達は11.30だったと想います。
だから「空いていた」とはいえないでしょう。満席でしたよ。
当時の「洋食堂」は「燕」、「鴎」、「富士」、急行17‐18レ、7−8レでした。
戦争中は401-402レ(大阪‐大社)、501レ(大阪‐青森)の3回のみで、2等優先?
行列で「お一人様」とか「お二人様」とかウエイトレスが呼びに来て
何とか食事にありつけました。


投稿者

EF5841

投稿日

2008年 6月12日(木)20時49分45秒

タイトル

食堂車

1等客、2等客の順で予約を取り、殆どの場合有効時間は埋まりました。
3等客は有効時間外であったので、実質的に食堂車へは行けませんでした。


倶楽部メモ(430) 平成20年 6月13日〜 6月16日


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 6月13日(金)15時33分29秒

タイトル

戦前の食堂車-2参等客

EF5841様
必ずしもそうでは無かったと想います。特急は優等車が多いからそうなったでしょ
うが、ローカル急行の場合は精々ロx1+せいぜいスロハ31−32(昼間到達列
車)なので「ハ」の人々も食堂車を利用していました。夕定食時間に大体酒を出さ
ず、終わってから「酒の時間」=昭和17年8月402レでした。
17‐18レは父が東京往復に度々利用していましたがこれは「1.2等急行」、
17−18レは「富士」、「さくら」と反対ダイヤで呉線経由の「海軍列車」?でした
から士官の利用が多く洋食堂車でした。話のついでですが、「富士」、「桜」は関釜
連絡線夜行便で「ひかり」に連絡、17‐18レは「昼便」で「のぞみ」連絡でした。
スジや編成などを考えると当時は「ひかり」の方が「のぞみ」よりも「格上」だった
様です。


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