雑魚様、himeikanai様、雪だるま様をはじめとする先達の皆様方、
北の大地在住の「ED76109」でございます。
豊富な資料や分析等、勉強になる話ばかりです。
特に配線変更の話は興味深く、
「桜島(そういえば「高千穂」は、門司で分割されていました)」で
早暁の門司駅構内を通過する際、交差する線路やポイントの複雑さに
目を窓に擦り付けて眺めていたことを思い出しました。
(そういえば、この話でなぜか大船駅構内での「トカホセ」と「スカ線」との
地上交差の「大ポイント」の振動と独特の通過音をした思い出しました。)
また、懲りずに投稿いたします。
今回は「桜島」号の思い出を綴らせていただきます。
皆様方の何かの話題にしていただければ幸いです。
1 昭和40年ごろ(?)の春、「鉄」親父が3歳の私を連れての
御殿場線「D52」牽引の旧客鈍行紀行の帰路、
当時の「霧島」に静岡から乗車した際、
小生がグズッて閉口してしまったことがあったのだそうです。
そこで、同行していた母が、食堂車(オシ17でしょうか?)に私を連れて行ったところ、
ガラガラだったのが幸いしたのかウエイトレスの方々が私をあやしてくれ、
東京まで楽しい旅を楽しめたとのこと。
私には全く記憶はないのですが、
ウエイトレスの方々がだっこした途端に小生が「にこっ」としたそうで、
この「経験」が私を「鉄ちゃん」にしたきっかけになったと
両親は信じているようです。
2 昭和47年の春休み、親類の婚礼に出席した帰路、
「桜島」のG車に西鹿児島から東京まで乗車しました。
深夜の「徳山」(「柳井」であったかもしれません)に停車していた折、
隣のホームを汽笛を鳴らして通過する列車がありました。
「『あかつき』だ」と目をこらした瞬間、
通過したのは「EF66」牽引の「フレートライナー」。
子ども心に「貨物の方が大事なのか。」とがっかりした記憶があります。
(そのとき、「鉄」親父は「鉄道の本来の価値は、旅客ではなくて貨物さ。」と一言。
したり顔でしたねぇ。)
3 昭和50年の新春、「桜島」の廃止の噂を聞きつけ、
なけなしの小遣いを全額つぎ込み、
浜松から上り「桜島」の最後尾スハフ42に乗り込みました。
(当時、小学6年の小生にできる精一杯のことでした・・・)
東京車掌区のカレチさんは「桜島」に別れを告げにきた小生の話を聞き
(ませたガキでした)、
乗車の記念にと「乗客専務」の赤腕章を手渡してくれました。
品川駅のホームで「ありがとうございました。」と挨拶した私に、
カレチさんはやさしく敬礼してくれました。
「EF58」に牽かれ夕暮れに消えていった「桜島」のテールランプは、
今でもセピア色の思い出として私の脳裏に焼き付いています・・・。
また投稿致します。
以上、「はやぶさ」のお別れ乗車の資金調達のため、
「宝塚記念」に最後の勝負を賭ける「中年客車鉄ちゃん」でした。
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