倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

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50系の運用域
50系客車の運用・編成・乗車経験


倶楽部メモ(415) 平成20年 4月13日〜 4月18日


投稿者

bell

投稿日

2008年 4月13日(日)21時58分0秒

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Re:宇高連絡船

雑魚様 こんばんは。
50系夜行といえば221レですね。私もC寝台(ロングシート)を利用した一人です。
高松発は午前1時前、高知到着は午前5時頃と記憶していますが、
いつの間にかバスに変わってしまいましたね。
JR発足直後の四国には予讃・土讃・高徳・徳島の各線で
50系による客車列車が残っており、高松に100両程度配置されていたと思います。
その中に昭和53年に50系の第一陣として仙台に配置された車両(オハ50 2028ほか)
がいたことを知って四国探訪を試みたのでした。

これらの50系は仙台運転所の中で目立つ存在でしたが、朝はいないのに
午前中いつの間にか車両基地に現れる不思議な車両という印象が強く残っています。

昭和62年2月28日の編成記録
221レ 高松0:53⇒阿波池田2:41
 DE10 1008 高
5 オハフ 50 187 四カマ
6 オハ  50 2028 四カマ
7 オハフ 50  268 四カマ


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月14日(月)13時19分19秒

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仙台の 50系

▼bell様:
> 昭和53年に50系の第一陣として仙台に配置された車両(中略)がいたこと

1984年刊 保育社「国鉄の車両/東北線 1」に、自治体人口 66.7万人、合併前の泉市・
宮城町・秋保町を含む周辺自治体込みで 116万人の一大都市圏が形成されつつあった
当時の仙台近郊における、東北・常磐・仙山各線の通勤輸送事情への言及があります。

当該記事「仙台付近の通勤輸送」によると、新旧の電車・気動車・客車が、総動員で
発着する様子は壮観なるも、客扱い時間と定時ダイヤ確保の整合性において然るべき
仕様が講じられているのは、50系客車・417系電車くらいで、713系の早期大量投入が
望まれると結論付けられています。

当時、仙台地区の交流区間における「通勤電車」といえば、常磐線の「赤電」塗装が
施された 417系が挙げられるも、当時の時刻表を見ると、急行型の充当便を含めても、
電車便の設定自体が朝夕の一部便に限られ、快速「くりこま」を除けば、岩切以北は
全て利府支線で折り返すなど、絶対編成数はかなり少数だった様ですね。

かかる状況下、両端扉仕様ながら、セミ・クロスシート仕様で投入された50系客車の
設計思想は、正に仙台を重点対象地区の一つと見る事にあったのですね。その翌年に
東北線を利用した時は、普通電車(含「月光型」改造車)の運用域が一ノ関まで及び、
そこから盛岡まで 50系、以北は「帯無し」12系という図式で、保育社の主張が 刊行
早々に実現した形になりました。

▼クモイ103様:
>「倶楽部メモ (290)」をご参照下さい。

御教示、有難うございました。参考にさせて頂きます。


投稿者

ホエ7030

投稿日

2008年 4月17日(木)12時15分37秒

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Re:仙台の50系

 ピク誌の50系特集によりますと、50系客車が登場して間もなく、
仙センにはオハ50×5、オハフ50×6が配置され、
昭和53年6月から常磐線で運用開始とされています。
この11両の配置は、昭和59年度末期に50系が仙センから転出するまで変わらず、
手許の運用表を見ますと、常磐線の一往復の列車に限定運用されていたようで、
折角の新車なのに寝ている時間が多く、勿体無いような気がします。
 53.10.2改正では仙台〜原ノ町の246レ・237レ(仙21、8両編成)、
57.11.15改正では仙台〜平の238レ・225レ(仙21、9両編成)で、
いずれも朝夕の列車でした。
我が常磐線の列車とは言え、初めは原ノ町以北の運用であり、後には平まで来ていても、
夜の21時半ごろ到着して早朝の4時半過ぎには下って行ってしまう列車だったため、
私は一度も見たことがありませんでした。
 磐越東線の客車列車晩年にも仙コリの50系が運用されていて、
私は60.2.11に、偶然にDD51608+50系3両の
726レ、729レを撮ることが出来ましたが、
これが、真岡線以外で走行中の50系唯一の記録写真となりました。
この仙コリの50系も、59年度末期(60.3.14改正時)には
仙フクに異動したようです。
 50系の形式写真は、福島、一ノ関、竜華などで撮りましたが、
乗ったことは一度も無く、私にとってはあまり縁の無い客車でした。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月17日(木)15時50分21秒

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50系の運用域

▼ホエ7030様:

常磐線や磐越東線でのこうした運用は、存じませんでした。東北地方で、普通客レが
大幅に淘汰された1993年暮れの改正当時、直前に発行されたRJ誌別冊「JR・民鉄
客車列車大追跡」によると 701系への全面置換を控えていた東北線(盛岡〜青森にも
50系運用あり)奥羽線(山形以南は広軌化。秋田〜青森の一部に12系を充当)を除く
50系運用は、以下の通りです。

○ 函館本線) 小樽〜岩見沢          (二往復)
○ 男 鹿 線) 秋田〜男鹿           (二往復)
○ 八 戸 線) 一戸・八戸〜鮫         (一往復)
○ 磐越西線) 郡山〜会津若松         (二往復)
       会津若松〜新津         (一往復)
○ 筑豊本線) 門司港・門司・若松〜直方・飯塚 (六往復)
       直方・飯塚〜原田        (四往復)
○ 日豊本線) 門司港〜中津・柳ヶ浦・宇佐   (二往復)

大都市圏での通勤輸送対策として、50系の第一陣が投入された主要線区の一つである
芸備線では、この時すでに気動車置換が進み、客レは広島〜三次の二往復のみでした。
なお、奥羽線同様に50系運用が主流だった羽越線では、このとき既に客レ運用が無く、
一足先に 701系化されたのでしたっけ?

その後、一般仕様は 2000年の筑豊線を最後に、快速「海峡」運用は 2002年を最後に、
それぞれ淘汰されました。前者については、同年、筑豊電軌へ移行した区間を除いて
全廃された西鉄北九州線に記念乗車した際、始発駅の直方から、門司港行に乗車する
機会がありました。しかし、平日朝のラッシュは凄まじく、終に黒崎駅で白旗を振り、
後続の「にちりん」に乗り換えてしまった、根性無しの雑魚でした(^^)


投稿者

bell

投稿日

2008年 4月17日(木)23時13分39秒

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Re.50系の運用域

雑魚様 こんばんは。
仙台への50系客車投入背景に関するご投稿興味深く読ませていただきました。
ありがとうございました。
話題変わりますが、筑豊本線の50系について平成12年3月にお別れ乗車を果たしました。
廃止直前にはトイレ対策として12系が一部連結されたようですが、
私が乗車した時点では50系だけの編成でした。
雑魚様が体験されたように、朝の直方発門司港行は北九州への通勤列車ということで、
客車列車には似合わない桁外れの混雑でした。
午後は若松発飯塚行に乗車しましたが、
のんびりとした汽車旅の雰囲気を味わうことができました。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月18日(金)12時48分46秒

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九州での 50系の思い出

▼bell様:
> 午後は若松発飯塚行に乗車しましたが、のんびりとした汽車旅の雰囲気

件の「根性無し事件」の十数年前、筑豊線で50系をまったりと味わった事があります。
当時は専ら「乗り鉄」で、未乗各線を乗り潰すべく「あかつき」ハザ明けで九州入り。
折尾は通過だった為、黒崎下車で一駅「ホーム・ライナー」で繋ぎ(何という贅沢!!)
やって来た気動車で、まず若松へ。

これがそのまま折り返すかと思いきや、若松では50系が待機しており、確か原田まで
直通した様に思います。ガラガラの車中で日の出を迎え、遠くにボタ山らしきを望む
晩秋の朝の風景は良い雰囲気でしたが、原田駅に集結していた廃回待ちの旧型客車の
一団は、より強烈な印象でした。なおこの日は、投宿地に辿り着くまでに、20回近い
乗換えを経て、全く未踏の地だった筑豊地方のJR線を全て消化したのでした。

その前年にも九州を訪れていますが、この時は、友人とB寝台個室「カルテット」を
堪能した「みずほ」を鳥栖で降り、大分に向う久大線で50系を利用。当時の久大線は
確か鳥栖始発が主流で、日田または豊後森(詳細失念)で乗り継いだ大分行も、50系。

しかし当時、同好の仲間内では、自動扉で横掛席もある50系は「電車客車」と呼ばれ、
今ひとつ不人気で、私自身、時間が合えば、急行「由布」での移動を考えた程でした。
大分到着後は、街を見るでもなく、すぐに豊肥線急行「火の山」に繋ぎ、熊本に移動。
当時の四国の急行と同様、G格下げ車を期待しての指定席利用でしたが、キハにG車
座席を転用した代物で、窓割りと座席の間隔がずれ、せっかくの車窓風景も今ひとつ。

当時の「火の山」は、急行または普通扱いで三角まで直通、島原外港へのフェリーに
接続する事で、別府〜大分〜阿蘇〜熊本〜雲仙〜長崎と、国道57号線よろしく、一大
東西軸の一部を形成し、観光地間の連絡に大きく資していました。しかし、三角島原
フェリーは、業績悪化から一昨年に廃止。先日の島原鉄道の部分廃止と併せ、往時を
知る者としては、寂しい限りです。

ちなみに、この日に利用した熊本市内のビジネス・ホテルは、補修の為か仮設建物に
案内されましたが、仕様が劣る事に対するバーターか、客室内の「殿方向け放送」が
無料でしたっけ(^^)


倶楽部メモ(416) 平成20年 4月19日〜 4月21日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月19日(土)09時27分17秒

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50系の乗車経験

話ついでに、東北・四国・九州以外で、50系を利用したのは何処か、記録を改めると、
奥羽線の大曲→横堀および新庄→山形、大曲→横堀、芸備線の新見→三次、山陰線の
益田→長門市→下関のみで、快速「海峡」は14系編成の利用でした。

奥羽線は「青春18切符」で大曲→山形を一気に移動した時のものですが、山形・秋田
県境前後の超閑散区間で接続が無い為、やむなく、横堀→新庄のみ特急を使いました。
乗換えの横堀で居眠りの為、あわや乗り過ごしそうになり、もしそうなれば、終点の
院内で、通過する特急を呆然と見送っていた事でしょう(^^)

この一帯、特に山形県側は好撮影地が多く「こまくさ」撮影で、あちこち歩いた事が
ありますが、それだけ沿線の人口分布は極小の印象でした。山形新幹線区間の延長で、
新庄前後の直通性を失った結果、閑散区間の趣著しく、県境付近の複線区間は素より、
当該区間の列車を陸羽東・西線と共通運用扱いにすれば、新庄〜横堀の電化施設自体、
使わずに済むのではないか、とすら思えます。

芸備線は、津山投宿の翌朝、姫新線の始発便に接続したものですが、当時の津山駅は、
前後で異なる多層建を組む「みささ」に象徴される、風格ある優等列車の要衝でした。
現在、快速に混じり昼行唯一の定期急行が残るのは、幹線経路から外れた地元沿線の
意向ゆえですが、車両内容、運行実態とも輻輳する快速と同じ「遜色急行」の侭では、
遠からず快速化されるものと予想します。

ちなみに三次で接続した広島行の気動車は、急行の間合い運用なのか、各駅停車にも
かかわらず、車内販売があり、何かトクをした気分でした。

十八番の「国鉄の車両/山陽線 1」によると、当時、伯備線の新見以南にも、50系が
設定されています。既に電化されるも、機関車配置区の関係か、DD51の牽引でした。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 4月20日(日)17時25分24秒

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50系

50系は播但線と払い下げ先の樽見鉄道で乗車していますが。アレは冷房取り付け可能
構造で、Push-Pull運転も視野に入れての設計だったそうですね。
オハフ以外にトイレがないのが欠点だったけれど播但はオハフ+オハ+オハフx2の
6両でで636レや寺前折り返しをやっていたのでトイレの事を考慮していたのでしょう。
四国では50系の臨時急行が走ったらしいですが、急行に使用しても乗り心地は遜色な
い車でした(オハ二36に似た感じだったが)。もっと活用できたのに早く廃車になっ
たのは惜しいです。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 4月20日(日)21時00分52秒

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Re:50系

 50系は東北地区で何度か乗車したような気がします。山陰方面でも乗ったかな…

 50系の編成でよく中間にオハフが入っていたのは、
無人駅での集改札のため車掌がしばしばホームへ出る関係で、
編成中のどこにいてもドア操作が出来るようにする配慮だったのではないでしょうか。
 気動車でも、2両固定の運用に片運車+両運車を組み合わせることがよくあった
と聞いたことがあります。
JR四国の111系電車も、中間のモハに乗務員スペースが
設けられていたような気がします。
 JR東日本の新系列気動車では本格的な2両固定編成を組んでいますが、
もはや時代が変わって、ワンマン運転を前提としているのでは?


投稿者

bell

投稿日

2008年 4月21日(月)00時34分31秒

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Re.50系の乗車経験

雑魚様 こんばんは。
昭和57年、『青春18のびのびきっぷ』が発売された時期に
初めて50系客車に乗車して以来、北海道から九州まで50系客車を追いかけてきました。
今は全て思い出の彼方ですが、印象に残っている客車列車を挙げてみます。
稚内−旭川の 324レ(オハフ51が1両のみ)
京都−柘植の2720レ(50系の長大編成が京都−草津間で113系に負けじと疾走)
長門市−門司の841レ(ステンレス機+50系)


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月21日(月)08時51分36秒

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草津線

▼bell様
> 稚内−旭川の 324レ(オハフ51が 1両のみ)

宗谷線での50系運用自体、初耳です。機関車込みで僅か二両編成という事でしょうか。
以前言及した、キハ40単行の急行「大雪」と良い勝負ですが(^^)殆ど客レとしての
意味を成していませんね。

> 京都−柘植の2720レ(50系の長大編成が京都−草津間で 113系に負けじと疾走)

十八番の1984年刊「国鉄の車両/東海道線 3」では、DD51が牽く八両編成の写真が
紹介されており、電化後まもない頃は一日二往復の設定があったそうです。

同書では、甲賀駅で 113系が交換する急行「志摩」も紹介されています。当時は確か、
亀山〜柘植の「加太越え」区間で名古屋〜奈良の「かすが」と多層建てを組んでおり、
僅か20kmの併結は、違和感もあったのですが、スルー交換ができない中在家信号所の
構造を踏まえたダイヤ上の制約や、相互乗換えの需要を考慮した措置かも知れません。

同じ「幹線」同士ながら、非電化線から電化線が分岐する柘植駅は珍しい陣容ですね。
駅を擁する伊賀市では柘植駅周辺に限り、草津線を介して大津・京都方面を志向する
独自の旅客導線があるのでしょうね。

余談ですが、草津駅の案内所では、群馬県の草津温泉と取り違えた遠来の旅客の為に、
同温泉から取り寄せた湯の花を用いた銭湯「草津温泉」を案内しているそうです。


倶楽部メモ(417) 平成20年 4月21日〜 4月28日


投稿者

bell

投稿日

2008年 4月22日(火)22時09分25秒

タイトル

Re.草津線

雑魚様 こんばんは。
コメントいただきました宗谷本線324レの編成は
オハフ51のほか荷物車2両の3両編成でした。

昭和60年3月12日の編成
324レ  稚内 9:46⇒旭川16:33
 DD51 1081 旭
マ ニ36 2222 旭アサ
スユニ50 508 旭アサ
オハフ51  39 旭アサ


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月23日(水)14時33分59秒

タイトル

多摩川橋梁之弐

▼bell様:
> 宗谷本線 324レの編成は オハフ51のほか 荷物車 2両の 3両編成でした。

あ、そういう事でしたか。これは失礼申し上げました(^^)私の稚内駅乗降は、専ら
寝台車込み14系編成でしたが(昼行便は専ら「天北」だったので、未だに利尻富士の
雄姿を見た験しがありません)画像検索から推定するに、現在は配線上、ホームでの
機回し自体が出来なくなった様ですね。

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今回の六郷土手は、良く晴れました。今年は、同僚の都合上、東京での仕事が増える
見込みなので、六郷土手も、期間限定ながら「十八番」の足場になりそうな予感です。
惜しむらくは、橋脚の工事が少し気になりますね。早い処、御仕事を済ませて頂いて、
すっきりした構図にて撮影したいものですが、安全確保に係わる内容ゆえ、急かすと
御叱りを受けそうです。


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