倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
瀬戸大橋20周年
瀬戸大橋・寝台特急「瀬戸」・宇高連絡船


倶楽部メモ(414) 平成20年 3月30日〜 4月12日


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 4月 9日(水)18時56分35秒

タイトル

瀬戸大橋20周年

明日4月10日は瀬戸大橋開通20周年です。
写りが悪くて恐縮ですが、今から20年前の1988年4月10日朝、
東京から初めて四国上陸を果たした「瀬戸」を、
宇多津の街の背後にある青ノ山中腹の展望台から迎え撃ったショットです。
この風景も、今はだいぶ変わっているんでしょうね。


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2008年 4月10日(木)23時59分54秒

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Re:瀬戸大橋開通20周年

今日が瀬戸大橋開通20周年なんですね。
客車「瀬戸」には乗れずじまいで「サンライズ」になってからようやく乗車という
客車ファンとしては情けない状態ですが…
今年は瀬戸大橋とともに青函トンネルも開業20周年ですので、
これを記念して瀬戸大橋と青函トンネルに関する写真を投稿いただければと思います。
特に客車時代の「瀬戸」の写真などを希望いたします。
ある程度の数がそろいましたら、また特別記念写真館を作成したい
とも考えていますので、よろしくお願いいたします。

投稿者のホームページ


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月12日(土)12時00分12秒

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瀬戸大橋所感

▼管理人様:
> 今日が瀬戸大橋開通20周年なんですね。

客車便としての「瀬戸」は、大橋開業の前後に一度ずつ乗りました。最初の乗車時は、
岡山が目的地でしたが、寝台券は宇野まで購入、今となっては貴重な思い出の品です。

それにしても、現在の宇野駅は、かつての要衝振りが信じられない程、簡便化されて
いますね。機回しの都合上、中間駅より構内が広くなる事が多かった街中の終着駅が、
再開発の関連で(時として移転を伴い)縮小した例は全国に数多ありますが(身近な
事例としては、小規模ながら、水郡線常陸太田駅を連想します)宇野駅の変貌振りは、
代表格と申せましょう。

なお、宇野駅の所在自治体は岡山県「玉野市」これは、宇野地区と、少し西側にある
港町・玉地区の合成地名と思われます。三箇所の隧道を介して両者を結ぶ自転車道は、
1972年に廃止された市営電鉄の跡です。宇野駅と造船所を結んでいた専用線を転用し、
のちに琴電に転出した電車が充当されていましたが、赤字対策として、架線や電柱を
残した侭、熊延鉄道などから導入した気動車に置換されました。

同路線が当初、児島までの延伸計画において、接続を意図したであろう下津井電鉄も
既に無く、瀬戸大橋開業当時、JRと下津井電鉄が並走する構図は、今考えると実に
貴重な光景だった様に思います。

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今回は、赤まんと様の真似事です(^^)埼玉での仕事帰り、尾久駅に到着する直前の
車窓風景です。良〜く見ると、奥に「夢空間」がいますね。いつまで永らえる事やら。
構内の上野寄りには、ボンネット型「能登」も留置されていましたが、作業用足場に
阻まれ、撮影不能。早朝・深夜しか稼動しないこの人気被写体、せめて、尾久駅では
もう少し露出度を上げても良いのでは(^^)


投稿者

bell

投稿日

2008年 4月12日(土)22時23分34秒

タイトル

寝台特急『瀬戸』の思い出

管理人様 こんばんは。
青函トンネルと瀬戸大橋は開業20年なんですね。つい先日のような気がしてなりません。
さて、寝台特急『瀬戸』といえば、四国の50系客車列車探訪のアプローチとして
昭和62年2月と平成2年11月の二度利用したことが思い出されます。
平成2年乗車の際は堂々の13両編成。
東京駅のプラットホームも結構混んでいたように記憶しています。
まだまだ、寝台特急が輝いていた時期でした。

平成2年11月6日の記録
瀬戸 13レ 東京21:00−高松7:35
   EF65 1052 田
1  オハネフ25  301 広セキ B寝台・禁煙車
2  オハネ 25  207 広セキ B寝台
3  オロネ 25  305 広セキ A寝台個室
4  スハ  25  302 広セキ ラウンジカー
5  オハネ 25  176 広セキ B寝台
6  オハネ 25  177 広セキ B寝台
7  オハネフ25  147 広セキ B寝台
8  オハネ 25  163 広ヒロ B寝台
9  オハネ 25  170 広ヒロ B寝台
10 オハネ 25  194 広ヒロ B寝台
11 オハネ 25  199 広ヒロ B寝台
12 オハネ 25  169 広ヒロ B寝台
13 オハネフ25  152 広ヒロ B寝台


倶楽部メモ(415) 平成20年 4月13日〜 4月18日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 4月13日(日)17時25分32秒

タイトル

宇高連絡船

瀬戸大橋は、基本的に宇高連絡船を継承したものですが、徳島県出身の知人によると、
本州の畿内以東を志向する徳島県内の旅客需要において、土讃線が通る現・三好市の
界隈を除けば、瀬戸大橋は昔も今も「蚊帳の外」らしく、和歌山〜小松島が事実上の
鉄道連絡船として機能していた、との事でした。

1910年に運行開始した宇高連絡船の構想は、山陽鉄道の讃岐鉄道買収を契機とする為、
徳島県にとって、やや不便な経路に落ち着いたのは、仕方無い事なのでしょう。一方、
南海フェリーの前身が、和歌山〜小松島の航路を開設したのは戦後の事で、本州側の
連絡鉄道が国鉄線だったら、高松は「瀬戸内縦貫路線」の一中間点に留まり、四国の
玄関口として、国税局も擁する程の発展は無かったかも知れないと、反実仮想します。

さて「ウィキペディア」によると宇高連絡船では、1950年から、大阪〜松山・須崎の
準急編成を、乗客を乗せた状態で航送していたそうです。もし、車両外との出入りが
禁止されていたなら、折角の船旅にあって、無粋な事ですね。

同措置は、1955年「紫雲丸事故」で中止。修学旅行の児童が多数犠牲になった教訓が、
瀬戸大橋架設の大きな動機になった訳ですが「紫雲丸」はそれ以前に、四度の事故を
起こしており、1950年の第一回目では沈没、引き揚げの後、運用に復帰したそうです。
上記「乗客ごと列車航送」措置が同年の開始ですが、当時は安全対策以上に、戦後の
混乱期における輸送力の確保が切実な課題だった、という事でしょうか。

▼bell様:
> 四国の50系客車列車探訪のアプローチ

以前にも申し上げたと記憶しますが、四国での50系と言えば、80年代の後半に高松→
高知で利用した夜行便(下りのみ)が思い出されます。元々は高知で接続する中村行
気動車編成(折り返し急行運用)が高松始発で、急行の指定席に充当される元G車を、
特別料金不要で利用できるのが大きな魅力でした。その一方、50系では空いていれば、
ロング・シートが「C寝台」「D寝台」として利用できたものです(^^)

そう言えば、人気を博した 初代「アイランド Exp.」も、50系改造でしたね。色調を
揃えたDLも相まって、一度試して見たい内容でしたが、気がつけば、気動車仕様の
二代目に化けていました。


投稿者

bell

投稿日

2008年 4月13日(日)21時58分0秒

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Re:宇高連絡船

雑魚様 こんばんは。
50系夜行といえば221レですね。私もC寝台(ロングシート)を利用した一人です。
高松発は午前1時前、高知到着は午前5時頃と記憶していますが、
いつの間にかバスに変わってしまいましたね。
JR発足直後の四国には予讃・土讃・高徳・徳島の各線で50系による客車列車が残っており、
高松に100両程度配置されていたと思います。
その中に昭和53年に50系の第一陣として仙台に配置された車両(オハ50 2028ほか)
がいたことを知って四国探訪を試みたのでした。

これらの50系は仙台運転所の中で目立つ存在でしたが、朝はいないのに
午前中いつの間にか車両基地に現れる不思議な車両という印象が強く残っています。

昭和62年2月28日の編成記録
221レ 高松0:53⇒阿波池田2:41
 DE10 1008 高
5 オハフ 50 187 四カマ
6 オハ  50 2028 四カマ
7 オハフ 50  268 四カマ


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 4月13日(日)22時03分57秒

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Re:宇高連絡船

>雑魚様
 宇高連絡船の客車航送については、下総守こみやさん(^^)様のご質問から始まって、
ちょこっと話題になっていますよ。
「倶楽部メモ(290)」をご参照下さい。

 さて、ちょっと長いですが、気になる文献をご紹介します。
出典:「日本国有鉄道百年史」第11巻/第6節 船舶/第10 仁方・堀江間航路
◆引用◆
 昭和7年満州事変の勃発を契機として増大した宇野・高松間の客貨輸送量に対して,
昭和12年ごろから,この航路と並行に本州と四国を結ぶ国鉄連絡船開設の要望が台頭していた。
すなわち,広鉄局において旅客輸送のほかに貨車航送があわせて計画され,
この連絡航路として候補にあがったのは,仁方・伊予北条間であった。
 その後,昭和16年わが国は太平洋戦争に突入し,宇野・高松間航路は輸送のネックとなり,
輸送会議開催のたびごとにこの打開策が取り上げられた。
したがって,宇高航路にはこの応急策として関門トンネル開通のため不要となった
関門丸形船5隻の転属による貨車航送の強化がはかられ,同時に新航路として計画された
仁方・北条間,いわゆる中四航路は一時中断された形となった。
 一方,本州・四国間の貨車航送区間としては,別の新輸送ルートが議題に上り,
この調査が開始された。
すなわち,徳島県小松島港と和歌山もしくは大阪北港を結ぶ航路の構想であって,
この使用船には青函連絡船の新ダイヤに速力の点で適さなくなった
第一・第二青函丸が充当されることとなった。
 この計画に対しては近畿の行政協議会・徳島県輸送課等と幾度も現地調査が行なわれ,
特に徳島県側は,高知県産の木炭等が小松島港に停滞している現状から,
積極的な協力を惜しまなかった。
しかし終戦直前の大空襲に伴う青函連絡船の全滅により,
この計画は実現に至らなかった。(後略)
◆引用終わり◆

 その後、戦後の輸送難に直面して仁方・北条間航路の計画が再浮上します。
そして四国側のターミナルを潮流の関係で堀江港に変更の上、
昭和21年5月1日、国鉄仁堀航路が誕生したのでした。
 一方、国鉄航路の計画が幻と消えた小松島港ですが、
のちにここをターミナルとして発展した南海フェリーは、
南海電鉄の特急列車と接続ダイヤを組み、
難波−小松島港間を一枚の切符で連絡運輸していましたから、立派な鉄道連絡船です。
歴史の妙味ですね(^^)。

 それにしても、小松島港で貨車を積み卸しする第一青函丸…ああっ、妄想が…(爆)


投稿者

下総守こみやさん(^^)

投稿日

2008年 4月13日(日)23時23分16秒

タイトル

瀬戸の思い出

会社の同僚が四国出身。飛行機で行けと言ったのに大橋渡りは先を越されました。
お約束のチキン弁当にシウマイをつまみで一杯(^^)
相模湾の漁火を眺めつつ瀬戸は西下して行きます。
さあいよいよハイライトの瀬戸大橋。朝焼けに写る島々がなんともいえない。
瀬戸は快走してたちまち四国へ上陸しつかの間の絵画でした。
高松に到着し駅でうどんを。いや〜讃岐うどんっておいしいですね(水野晴郎口調)


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 4月17日(木)20時39分46秒

タイトル

宇高連絡船の客車航送他

松山編成がスロハ31(W)で須崎がスロハ32だったのを大阪駅で見ています。
広島行準急に3+3の併結でした。なぜか優等車は後年でも土讃線の方が良かった
ですね。松山編成のハニが、スハ二32か31か?は記憶にありません。
徳島県が和歌山との航路希望は戦前の阿波国共同汽船の航路が、小松島―和歌の浦
―神戸(兵庫)-大阪だった事が証明しています。建造中に関西汽船に買収された
「おとわ丸」など、大阪、徳島、和歌山の頭文字を使用していました。修学旅行船
「ふたば丸」に改造されて一生を終わりましたが---「おとわ丸」時代に乗船した
らハウス部分出入り口の敷居が高くて矢張り紀淡海峡の荒波対策がしてありました。
「南海丸」もこれを見習っていたら沈没全員死亡の悲劇にならなかったのでは?
と想います。


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