国鉄史上空前絶後の106時間21分という大遅延を記録した、
昭和38年1月23日新潟発上野行き704レ急行「越路」。
この列車を発車させたことの問題点について、
鉄道ピクトリアル第304号(1975-3)で瀬古龍雄氏が次のように指摘しています。
−引用−
たしかに23日午後は新潟では無風であったが,
新津ではすでに10m以上の南東風が吹き,風雪でかなり荒れた状態であった.
新津は気象的にかなり問題のある所で,阿賀野川を吹き抜ける南東の局地風
(いわゆるダシの風)の実によく吹く所である.
新津で15〜20m程度のダシの風が吹いても,
新潟三条では無風ということは珍しくない.
しかも,冬場にこのダシの風の吹くときは,
その後北西の季節風をともなった吹雪の前兆になることが多い.
新津の風雪ではとても越路を受けとれる状態ではなかったので,
新津駅では一旦断ったものの、このくらいの風で
(新潟ではダシのことはわからない),何だ頑張れということで
無理に新潟を発車させたことが悲劇の始まりともいわれている.
−引用終わり−
瀬古氏は「越路」の発車を批判する立場で論じているので、
この時の新津と新潟のやりとりが実際にはどのようなニュアンスだったのかは、
一歩引いて読み解く必要があるでしょう。
しかし、輸送を守る現場同士でぎりぎりの判断のせめぎ合いがあったことは
容易に察せられます。
実は瀬古氏はこのあと、青函連絡船洞爺丸の沈没事故を引き合いに出し、
その教訓が生かされていなかったと論じています。
洞爺丸の場合も、一旦弱まった台風15号が勢力を盛り返して
すぐそこに迫っていることを知らず、「無理に」出航したために起きた悲劇…
という点では一見似ています。
しかし、瀬古氏が触れていない大きな違いは、
洞爺丸の場合は「危険の情報」を現場が知る術が無かったことです。
それは当時の気象観測技術の限界でした。
洞爺丸の出航は、その時現場が得ていた情報から適切に判断した結果であり、
悲劇はその情報自体が不完全だったことにありました。
「越路の発車」の場合、「洞爺丸の出航」と違って、
危険の情報はしっかり新津駅から新潟駅に伝えられていたようです。
であるならば、情報を受けてからの「判断」に問題があると見るのが自然でしょう。
そこに「運休は最大の恥辱」という意識が働いていたとすれば、
そこを反省点としてその後雪害対策を見直した国鉄の対応は、
まことに理にかなった大きな改善であるように思います。
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