倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
南海サハ4801の暖房について
南海サハ4801及び国鉄借入車の南海線内での暖房方式は?


倶楽部メモ(351) 平成18年11月20日〜11月24日


投稿者

尼港線

投稿日

11月23日(木)00時09分30秒

タイトル

南海サハ4801及び借入車の暖房

連続投稿、失礼いたします。
今日の、私の本題はこちらの方です。
今、南海電鉄のサハ4801について少々調べているところですが。
題名に書いた通り、暖房をどうしていたのかが分かりませんので、
ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示をお願いいたしたく存じます。

当時の紀勢西線は非電化ですから、当然、走っている国鉄の各客車は蒸気暖房で、
サハ4801も同様であったと考えられます。
では、南海線内では、暖房はどうしていたのでしょうか?
蒸気暖房はあり得ませんから、電車と同様の電気ヒーターを装備し、
牽引する電車から給電していたのか?
まさか“非暖房”であったのか?

南海の紀勢西線乗り入れには、国鉄からの借り入れ客車も使用されていたことが、
鉄道ピクトリアルの「南海特集」に掲載の写真からも伺えます。
では、この借入車も、南海線内の暖房はどうしていたのでしょうか?
こちらの方はそれこそ、南海本線に入ると“非暖房”になってしまっていたように
思えてなりません。

よろしくお願いいたします。


投稿者

クモイ103

投稿日

11月23日(木)07時56分39秒

タイトル

Re:南海サハ4801及び借入車の暖房

尼港線様

 手元の鉄道ピクトリアル第76号(1957-11)
「私鉄車両めぐり(29)南海電鉄[6]」(小林庄三氏筆)によると、
サハ4801には、「国鉄同様の大気圧蒸気暖房装置を取り付けた外,
社線内でモハに連結した時には200V500W電熱器8個を
使用できるようになっている」とのことです。ちゃんと考慮されていたのですね。
 借入車の暖房については記述がありませんでした。

 余談ですが、この直後には「冷房装置がないのが惜しいところ」と述べられています。
これが書かれた昭和32年には20系客車もこだま型電車も登場しておらず、
国鉄の冷房車は1等車と一部の優等寝台車・食堂車だけだったことを考えると、
ものすごい高望みを言っている様にも思えます。
しかし、戦前すでに冷房車を登場させていた南海電鉄に関する記事なればこそ、
文章の流れとしては自然なことと言えましょう。
国鉄は認めなかったと思いますけど(笑)。


投稿者

尼港線

投稿日

11月24日(金)09時54分36秒

タイトル

Re:Re:南海サハ4801及び借入車の暖房

クモイ103様

ご教示ありがとうございます。
サハ4801にはやはり、電車と同じようなヒーターが装備されていたのですね。
いくら温暖な南紀向けの車両とはいえ、大阪でも寒い時はふつうに寒いですし。

国鉄借入車の暖房は、本当にどうしていたのでしょうか。
手元の鉄道ピクトリアル1995-12増刊の「南海電気鉄道特集」には、
なんとナハフ11が借り入れられて南海本線を走っている
貴重な写真が掲載されていますが、
撮影日付を見ると、1968年1月3日となっています。
真冬もいいところですけど、果たしてこういう場合、「非暖房」で割り切られたのか、
あるいは別な手だてが考えられていたのか。
謎は深まりますが、なお調べてみたいと思います。


倶楽部メモ(352) 平成18年11月24日〜12月 5日


投稿者

紀州

投稿日

11月26日(日)16時01分53秒

タイトル

南海線内サハ4801代走の暖房

こんにちは、久しぶりにお邪魔いたします。
尼港線さま、クモイ103さま。
南海線内を国鉄からの借り入れ車がサハ4801の代走をする場合の
冬季の暖房について書き込みされている掲示板をご紹介いたします。
現在は休止されているようですが、kisyuu様管理の和歌山の鉄道掲示板に
このような書き込みを発見いたしましたので貼り付けておきます。
2002.9.28のモハ561さまの書き込みを参考になさって下さいませ。

(注:以下参考サイトのアドレス等は管理人により修正してあります。)

「JA3PLB & FamilyWeb」
アドレスは http://park10.wakwak.com/~kisyuu/index.html
ここから該当ページには
→「Train」
 →「掲示板」
  →「過去の記事リスト45」
と参照して下さい。


投稿者

クモイ103

投稿日

11月26日(日)21時29分0秒

タイトル

Re: 南海線内サハ4801代走の暖房

紀州様
 南海線内での国鉄客車の暖房に関する情報、ありがとうございます。
 暖房は無し。難波行きでは、和歌山市から余熱で乗り切る。
難波発では、住之江検車区でストーブを使って予熱していた…ということですね。
知られざる現場の苦労といった所なのでしょうか。
 短区間のみの無暖房としてはEF10時代の下関−門司間がありましたが、
南海本線全線となると運転時間もそれとは比べものになりません。
はたして余熱がどれくらい持ったのか気になりますね。


投稿者

岩崎安房守義将

投稿日

11月28日(火)03時17分5秒

タイトル

暖欠

 管理人様、皆様、寒くなりましたが如何お過ごしでしょうか?
 さて、元日食乗務員の交通文化連盟某専務理事に確認しましたが、
プルニエ定食???知らないですヨとの回答でしたが・・・
 上野口食堂車は485系電車は「ひばり」が1981(昭和56)年9月末、
「はつかり」は1982(昭和57)年11月14日まで営業しておりました。
 常磐線経由の定期列車食堂車は「はつかり」と同日に廃止された
11M・12M「みちのく」でした。

 さて、話題に暖欠の事がございましたので・・・
 平成元(1989)年3月28日運転の「足尾エクスプレス」の交渉の際に
問題となりましたのがこの「暖欠」。
 25〜27日まで上野〜会津若松〜新津〜上野と周回運転に
在来型一般車4B(スハフ32+オハ47+オハニ36+スエ78)を引っ張りだし、
この「返却回送」を兼ねて足尾線最終日に在来型一般車を入れる
と言うプランに高崎運輸部は原則協力的でしたが・・・
 会津ムーンライトエクスプレスでは編成順序が
大宮方からスハフ32+オハ47となりましたので、
上野〜黒磯間EF5889機を指定し電暖を確保
(電暖ヨロと要請しましたら89機が回って来たのですが・・・)、
逆転となる会津若松〜新津間は蒸暖装備のDD51745機、
新津以降は逆転しまたまた電暖付EF641000番と往路9227列車若松到着まで
オハニとスエは冷えましたが問題になりませんでした。
 しかし、足尾は往路でスエが編成前となり5889機の電暖が届かない
(スエとオハニには電暖引通が無い為)事となり、
尾久で発車前に機関車を上野方へ移し、前夜から「暖めて」おく「予熱措置」を講じ、
高崎には「DE101705機を除く機関車でタム」と要請しましたが・・・
 当日、高崎線を快走した足尾エクスプレスは高崎構内へ・・・
高崎〜桐生間は編成後ろにDEをぶらさげて行く
ここで蒸暖を入れて暖める作戦)事なのに・・・
近付いてくる茶色の内燃機関車・・・
あれあれ!蒸暖抜きの1705機!蒸暖だけに冗談じゃ無い!(笑)
 ここから旅客と乗員の「寒さとの戦い」が始まるのです・・・
 伊勢崎通過時点で車内は息も白く・・・
参加者は盛り上がっていますからスハフ・オハは暖かいものの、
オハニやスエでは手が凍えて「列車内Nゲージ鉄道模型」に挑戦していた
ファン団体もかじかむ〜と辛そうで・・・
そして外は冷たい雨です。
 足尾線水沼では外気と車内気温がほぼ一緒(11度C/スエ)となり、
参加者を急遽オハに避難させて・・・
 結果、桐生に戻り伊勢崎あたりで5889機の電暖が効いてくれるまで
約6時間寒い列車の旅になりました。
 これはその後平成4(1992)年3月29日運行の「わたらせエクスプレス」
(在来型一般車3B)でも同じ事になりまして・・・
事情聴取(と言うか抗議)の結果、
「鉄道マニアの団体がわざわざボロいのを使ってくれるんだから
イベント機(つまりDE101705機)を出してやろう」との親心、
営業サイドからの「1705を除くでタム」は「1705でタム」
と誤認されたのが悲劇の原因でした。
 夏ならまだしも春先3月の山間部は冷えますから・・
もっとも平成2(1990)年5月の「ドリーミング・ムーンライトエクスプレス」では
電暖繋ぎ管が現場に無く、
「私物」を持参して行き、勿論「取付方法も分からなかった」ので
ウチ(北海道鉄道研究会)のメンバーが付けてました。
 冷房は我慢出来ても暖欠は「生命に関わる」課題、
団臨で旅客が多く乗っていたからしのげたものの・・・
ちなみに「暖欠」となって団臨の急行・グリーン料金を返済した「営業事故」もあり、
81型和式が急速に消滅したのはこれも一因と言われております。
 以来、ウチには「もっと稀少価値」な蒸暖繋ぎ管が「常備」されております。

投稿者のホームページ


投稿者

尼港線

投稿日

12月 2日(土)13時34分44秒

タイトル

Re: 南海線内サハ4801代走の暖房

紀州様

ご教示、ありがとうございます。
お礼が遅くなりました。

さっそく、リンク先の掲示板を拝見しました。
子供の頃は南海沿線在住でしたけど、キハ5501はよく知っていても、
サハ4801はさて、見た記憶あるかどうか…
という世代ですので、「謎」が一つ解けたような思いがしております。
上り下りとも、国鉄借り入れ車は「余熱利用」だったのですね。
それでも約1時間強の運転時間に対しては厳しいような気がしますが、
南海としては精一杯の対処だったのでしょう。
寒さのあまり堺や岸和田あたりで、
隣りの電車に「逃げた」客もいたかもしれません(笑)


投稿者

紀州

投稿日

12月 4日(月)19時42分32秒

タイトル

紀勢線を走るサハ4801の思い出

尼港線様 みな様

私は昭和30年代後半の紀勢線をかすかに記憶しております。
母の実家が紀勢線紀伊新庄〜朝来間の線路近くにあって、年に1〜2度
幼い私を連れて里帰りをしておりました。
母の実家では物心がついていたか否かの頃から、列車の音がすれば走って庭に出て
通過する列車を眺めておりました。(50歳近い現在もほぼ同様です)

おそらく昭和40年までのことです。
今になって思えば天王寺行き客車準急「南紀2号」だったと思います。
DL+SL+グリーンのサハ+青帯の一等車、青い客車、茶色の客車
こんな編成が走っていたことがあったように記憶しております。
子供心に『なんとバラエティに富んだ編成なのか!』と感心いたしました。
特に南海サハ4801は2等にもかかわらず、
白いシートカバーが掛けられているのが見え、
2等なのに何と豪華な客車なのか!ぜひ乗ってみたいと思ったものでした。
これが実現したのが9〜10歳の頃でした。
昭和40年以降天王寺行き『南紀2号』はDC化され、
下りのサハ4801の運用は普通123列車となっていました。
準急で帰るのが当然!という母を説得し
紀伊田辺から普通123列車に乗り込みました。
C58221の牽引でした。
内装は近代化改装されたスハ43やナハ10系のような
化粧版ではなくニス塗りでした。
しかしエンジ色の深々としたシートにシートカバー
(これはビニールだったかも知れない)
1等車でもおかしくない!と思いました。
3時間ほどの旅は終わり東和歌山に到着し、
そこから70系快速に乗り継いで帰りました。


倶楽部メモ(353) 平成18年12月 5日〜19年 1月 1日


投稿者

尼港線

投稿日

12月10日(日)09時54分45秒

タイトル Re: 紀勢線を走るサハ4801の思い出

紀州様

貴重なご体験談、ありがとうございます。

> エンジ色の深々としたシートにシートカバー
> 1等車でもおかしくない!と思いました
察するに、かなり国鉄の「並ロ」を意識した内装であったようですね。
国鉄側はさぞ、ピリピリしたことでしょう(笑)

> 化粧版ではなくニス塗りでした
廃車寸前の車内写真が、鉄道ピクトリアル1985年12月増刊の
南海特集号に掲載されていますが。
それを見ると明らかに、化粧板の取り替え、蛍光灯化など、
国鉄の「近代化改装」に準じた改装が行われているのが分かります。
おそらく、国鉄の普通車に準じて(もしくは一歩先んじて?)実施されたのでしょう。

たった1両だけですけど、なかなか奥が深い客車ですね。


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