倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
日中線・喜多方駅
日中線の命名・喜多方駅での分岐点について



倶楽部メモ(338) 平成18年 9月 7日〜 9月 9日

投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 9月 9日(土)09時46分3秒
タイトル たしか日中線でも
C11にスハニ35の編成があったような(^^;
通学時間帯はスハ2両で満席状態だったらしいのに。
客車半室に学生達と一緒に押し込められたらと思うとちょっと(^^;
でも暖かくなると皆自転車通学に切り替えてたみたいですけどね。
何年か前日中線記念館に行ってきました。
なかなかきれいになっていて中には展示物が。
鍵は線路の反対側にある民家で管理しているらしいのですが訪ねてみたら留守でした(-.-;
でもここは熱塩加納村、過去を偲びながらゆっくりした時間を過ごしました(^^)

投稿者 雑魚
投稿日 9月 9日(土)18時23分55秒
タイトル レス 諸々 02
> 客車列車の分割・併合は、今の感覚からするとたいへん手間のかかる「厄介な仕事」

現行の定期列車では、門司での「富士/はやぶさ」と鳥栖での「あかつき/なは」の
二例ですが、上り便の連結作業時における機関車の遣り繰りは、相当複雑そうですね。
実際には、どの様な段取りになるのでしょうか。

> 日中線記念館に行ってきました。なかなかきれいになっていて、中には展示物が。

写真を見ても、整然とした感じが好ましいですね。これで線路が残っていれば、なお
良かったのですけどね。日中線の命名は「日本と中国を結ぶという、壮大な構想」に
由来するという冗談がありましたね(^^)実際には、熱塩北方の日中温泉に由来した
命名ですが、実際に沿線域とはならなかった温泉名を用いる感覚は珍しいと思います。
なお日中温泉は一度、堰堤湖に沈んでいますが、1993年に新源泉を掘り当て、現在に
至っています(一軒宿)

> ここは熱塩加納村、過去を偲びながらゆっくりした時間を過ごしました(^^)

旧熱塩駅の現在の住所は「福島県喜多方市熱塩加納町熱塩」………ややこしいですね。
昨年までは熱塩加納「村」だったのが、広域化した途端に「町」になったというのも
面白いと感じます(^^)

倶楽部メモ(339) 平成18年 9月 9日〜 9月11日

投稿者 クモイ103
投稿日 9月 9日(土)23時36分29秒
タイトル 日中線のこと
>下総守こみやさん(^^)様

 日中線に関しても、倶楽部メモ(98)〜(109)で話題になっています。
管理人様が手間暇かけて特定の話題の書き込みだけを抜き出して作られた「主な話題」で、
「特定線区の話題」の中に「日中線の客車・編成について」としてまとめられています。

>雑魚様
> 実際に沿線域とはならなかった温泉名を用いる感覚は珍しい

 日中線は、もともと現在の野岩鉄道とともに「野岩羽線」(下野、岩代、羽前の旧国名に由来)として計画され、
飯豊山地を越えて山形県の米沢に至る構想があったようです。
日中温泉は計画上の経由地ですから、全通を夢見た命名だったとも解釈できるのではないでしょうか。


投稿者 雑魚
投稿日 9月10日(日)23時33分16秒
タイトル 大峠越え
> 全通を夢見た命名だったとも解釈できるのではないでしょうか(クモイ 103様)

そう考えるのが妥当でしょうね。一方、未成線か否かを問わず、温泉名を国鉄線名に
用いた感覚自体、他に例が思い浮かばず、稀有な事ではないかと感じます。それ程に
名湯だったのか、或いは他に適当な名称が思い浮かばなかったのか………

それ以前に、並行する国道 121号線の大峠越における諸事情(旧道の仕様やバイパス
開通時期)を勘案した時、計画が策定された当時、本当に飯豊連峰を越える物理的な
目処が立っていたのか、という気が致します。こうした、物理的な制約を度外視した
鉄道の敷設計画例は、枚挙に暇が無いのでしょうけれど。

画像は、喜多方駅構内の西側にある電化区間の終端部です。今となっては、日中線の
分岐状況が良く判りません。


倶楽部メモ(340) 平成18年 9月11日〜 9月13日

投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 9月11日(月)23時08分55秒
タイトル おわびm(_ _)m
日中線の件過去ログ拝見しました。管理人様がきれいに整理しておらりました。ごめんなさい。
スハ42、NならGMの帰省臨時急行セットの中に半切妻のスハ35が含まれています。
これをタネにするのが良いのでは。私はガッツが無いので台車振り替えただけですけどね。 f(;^^A

投稿者 クモイ103
投稿日 9月11日(月)23時23分22秒
タイトル 日中線の面影
>雑魚様
 確かに言われてみれば、温泉の名を冠した国鉄路線は珍しいですね。
全通を夢見たなら「岩羽線」でもよかったのでしょうけれど、
そうしなかったのは、もしかしたら地元の意向が関係していたのかもしれませんね。
昭和13年といえば、経済は昭和大恐慌の傷跡も癒え、文化は爛熟期を謳歌していた頃ですから、
鉄道省もそれくらいの度量を見せる余裕があったのではないかと、勝手に想像を膨らませてしまいます。

 喜多方駅での日中線の分岐は、架線の切れる所より手前でした。
1990年8月18日撮影、日中線の線路跡から喜多方駅方向を見たところです。
遠くに駅構内の跨線橋が見えます。


投稿者 クモイ103
投稿日 9月11日(月)23時33分34秒
タイトル 日中線の面影2
ついでに同じ場所の反対側です。
写真の下側は、C11が走っていた頃の1974年9月に撮影した同地点。
よく見ると架線柱が…?まあ気にしないことにしましょう(爆)


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 9月12日(火)03時05分37秒
タイトル 驚愕ですね・・・
管理人様、皆様、毎度お世話になります。
 クモイ103様
 倶楽部メモ拝読致しました。
 スハフ35にも不運の車があったとは・・・
もっとも「在来型一般客車」の名の通り、何でもありが前提の機材群ですから、
特急からローカルまで幅広く活躍し日本の高度経済成長に寄与した、
とも言い換えられますが、座席方向固定のままで・・・御客様も御苦労が(笑)

 雑魚様
 日中線記念館、一度廃止の危機がありましたが熱塩加納村のその後の「方針転換」か何かで
存続→改善工事がなされた筈です。
 日中線の名称について現地の古老と喜多方商工会で同じエピソードを伺った事がありますので、
確度は別として御紹介致します。
 野岩羽線計画が持ち上がった際、喜多方〜米沢間では旧国道121号(米沢街道)に沿ったルートの「大峠線」と、
日中ダムに近い「日中線」の2ルートがあり、結果として鉱物輸送の見込みがあった「日中線」に決定、
それがそのまま路線名称になったというもので、
現在の「大峠トンネル」がある新国道は「日中峠」と近年まで呼ばれていたそうです。
 本来はダム建設や硫黄か何かの鉱物輸送を見込み、喜多方〜日中間で建設されるものが
手前の熱塩で建設が「抑止」されてそのまま廃止となった・・・と言う事です。
 日本のナイチンゲール「瓜生岩子」の御子孫が熱塩温泉で宿を経営されていて、
「会津ムーンライトエクスプレス2」計画の際にお話を伺う機会があり、
それでは当時熱塩に建設事務所や資材基地まで作られ、「日中トンネル」の調査工事も着手され、
米沢延長を前提に熱塩駅裏手に貨物駅・機関区の用地買収があって知り合い等が移転した、との事でした。
 ちなみに日中線が最後まで客車列車を貫いた理由は、この「米沢延長頓挫」が大きく影響している様子で、
地域への感情配慮として原則全線貨物運転路線とされ、
「影」筋でしか無いものの貨物専用便や営業種別も1983年10月23日まで喜多方〜会津加納間で貨物営業を存置、
この貨物便の機関車は旅客便と兼用し「名目上営業」とした為です。
 またこの貨物廃止まで「貨物ダイヤ」があり、
この場合644列車が入換をして貨車を拾う「客載入換」としていたとか・・・
 1984年3月31日限りで廃止となった日中線、7・8度通いました、
と言うお話をしたところ感激して下さってエピソードを伺えた次第で、日中線への熱い思いは未だ消えていない様です。
 同様熱い思いは全国にあったのでしょうが、
私個人の印象では北十勝線(新得〜上士幌〜足寄〜白糠)とここが温度が高かったものであります。

 青列車様、下総守様へ私信
 紆余曲折のレイアウト建設は半分まで参りました。
少しづつですがレポートを弊連盟ページ総合板に載せております、
完成の暁には気動車等御持参頂いてどうかお楽しみ下さいませ。
 なお、こちらで御教示頂いたので威張って(笑)スハニ35をローカル列車に投入します!
 皆様、ありがとうございました!
 草々
投稿者のホームページ

投稿者 雑魚
投稿日 9月12日(火)10時24分52秒
タイトル 遥かなる大峠
> 1990年 8月18日撮影、日中線の線路跡から喜多方駅方向を見たところです。

貴重な「過渡的風景」の画像を有難うございます。こちらは、2002年春の撮影ですが、
駅構内右側の事業所関連の専用線は総て淘汰され、三番線は折返し専用の頭端仕様に
改められるなど、かなりの規模縮小が見受けられます。後方の雪山の陰に、磐梯山の
頂上が一瞥されるのがミソですね(^^)

> よく見ると架線柱が…? まあ気にしないことにしましょう(爆)

これを気にするなという事は、音威子府駅乗降の際に駅ソバを食べるな、と言う事に
等しいのですが(^^)日中線の様な閑散路線でも、こうした「謎の電化区間」は結構
長目に設定されていたのですね。分岐する路線が、本来は非電化の筈なのに、実際は
電化されていた………というのは、車窓風景における、楽しい「サプライズ」ですね。

3月22日に五能線の東能代付近、7月24日に烏山線の宝積寺付近の「謎」を、それぞれ
画像で紹介しておりますので、よろしければ今一度御覧下さい。こうした例としては、
この他、北上線の横手付近、旧川俣線の松川付近、旧赤谷線の新発田付近、大村線の
諫早付近、吉都線の都城付近などが想起されます。

岩崎安房守義将様の四方山話も興味深く拝見しました。結局「日中線」の名称は、経路
選定時の仮称を援用した感覚でしょうか。沿線感情への配慮として、多分に名目的な
客車存置の措置を講じたという話も、同線の閑散振りに鑑みると、寂しい限りですね。

大峠の旧道は現在、部分通行止で通り抜け不可らしく「猫とか、旅とか?」なる頁に
収録されている「国道121号旧道 大峠 1.2.3」の項でレポートが紹介されていますが、
その悪路振りを改めて見るに、日中線が米沢に到達し得る物理的な可能性なぞ、私が
麗しの滝○クリ○テルさんと懇意になる確率と同じ程度だったのではないか、などと
確信するのでした(^^)


投稿者 クモイ103
投稿日 9月12日(火)22時27分31秒
タイトル 喜多方駅
>雑魚様

 喜多方駅のその後の画像、ありがとうございます。随分変わったのですね。
私が最後に訪れた1990年には、日中線ホームもそのままで(線路は無し)
昔日の面影が残っていましたが、今はもう無いのでしょうか。

> 3月22日に五能線の東能代付近、7月24日に烏山線の宝積寺付近の「謎」を、それぞれ
> 画像で紹介しております

 あれは五能線でしたか。立派な複線電化の大幹線に見えます(^^;。
 確かに、電化線から分岐する非電化線が電化されている光景(こう書くと何の事かわからん(爆))は、
あちこちで見たような気がします。
電気車の冒進に備えた安全側線のようなもの…というのは考えすぎでしょうね(笑)。


倶楽部メモ(341) 平成18年 9月13日〜 9月16日

投稿者 雑魚
投稿日 9月13日(水)09時32分47秒
タイトル 更に 喜多方駅
> あれは五能線でしたか。立派な複線電化の大幹線に見えます(^^;。

分岐点のみ見れば、五能線の方が本線格と勘違いするかも知れませんね。能代市では、
現在でも五能線の能代が市代表駅として機能していますが、区間便設定も比較的多い
東能代〜能代に敬意を表して電化計画がある………などとガセを流しても、信憑性を
伴うかも知れませんね(^^)

画像は三年前の喜多方駅の様子です。何度か「北アルプス」で利用した特急気動車を、
会津の地で目にして感慨に耽りましたね。この時点で、三番線は明確に車止めを以て
線路が途切れていますが、御投稿の画像でも、三番線のスルー機能は、雑草の繁茂で、
既に失われていた様に拝察します。

奥に停車しているのは、仙台発着の 583系快速「白虎」です。三番線に物理的制約が
あるのか、スルー構造の二番線を折返し待ちの数時間、塞いだ格好でした、この日は
国鉄色 485系による「ホリデーあいづ」も何度か喜多方で折り返しましたが、それを
勘案してなお、線路の遣り繰りが効くとは、会津若松−喜多方も随分寂しくなったと
感じたものでした。

当該区間は、1967年に郡山〜会津若松と一体的に電化されました。これは沿線人口の
集積性が比較的大きな、会津盆地の事情を考慮したものかと推察しますが、実際には、
大半の便が塩川以外の停留所を通過しており、スイッチ・バック構造の会津若松駅が、
会津地方の中心という事もあって運用上の区切りとなる事が多く、喜多方に発着する
定期電車便は一日三往復。何かと維持費が嵩む電化施設、当該区間での今後の趨勢や
如何に、などと考えてしまうのでした。

喜多方といえば、蔵の街を巡る馬車が有名ですね。以前、駅前で見かけた馬車の右側
側面には「蔵の町喜多方」と右側から書かれており、これを「大多喜町の蔵」と誤読、
なぜ千葉県夷隅地方の馬車がこの様な所に………と、暫く本気で悩みました(^^)


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