倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
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表記について
客車の所属を表す標記方法の変遷について



倶楽部メモ(316) 平成18年 3月29日〜 4月 1日

投稿者 さだお
投稿日 3月30日(木)20時22分47秒
タイトル 表記について教えてください
唐突にすみません。
すごく気になっているのですが、「大ミハソ」とか「東シナ」とか
のあとに、スロ54○○などとなっている写真と、「東シナ」などの下に
スロ54○○などと番号が写っている写真があるのですが、書き方に
何か決まりがあるのでしょうか??
法規か、何かの都合上でしょうか?
ご存知の方、何卒、ご教授をお願いいたします。

投稿者 クモイ103
投稿日 3月31日(金)22時32分31秒
タイトル Re:表記について教えてください
 久々に私の出番(笑)…
 さだお様、はじめまして。客車の所属を表す標記方法は、年代によって変遷しています。

 ご質問にあるような、所属標記が車号標記に隣接していたのは、昭和20年代前半から30年代半ばまでの時期でした。
はじめは左に所属、右に車号が、それぞれ上下2段で書かれていました。
しかし昭和27年8月20日の図面変更により、上段に所属、下段に車号という並び方に変更されました。
なお、その後昭和34年6月には、車両塗色及び標記方式規程の改定に伴って、
所属標記は現在のように車体側面左下隅に移動しています。

 所属標記は、もともと戦前は現在と同じように左下の隅でした。
それが車体中央の目立つところに出てきたのは、実は戦後の混乱期の事情だったのです。
物資が不足していた当時、すり減ったブレーキシューを交換できないまま走り続け、
運用途中で危険と判断され、編成から抜かれて所属区に戻れない客車が続出したといいます。
また、運用上入区してきた他区の編成から状態の良い車輌を抜き取って、
自区の状態不良車と差し替えてしまう…という行為があったとも巷間言われています。
とにかく、「混乱した客車の所属を一目で識別し易くする」ために、標記の方法が変更されたようです。
 昭和34年の規程改定で、戦前と同じ標記方法に戻ったことは、
「もはや戦後ではない」と言われた時代背景と、無縁ではないように思います。

投稿者 さだお
投稿日 4月 1日(土)00時05分30秒
タイトル ありがとうございます
クモイ103様。ご丁寧な解説、ありがとうございました。
時代が偲ばれる改定なのですね。
昭和34年6月といいますと、つばめ、はとが青大将色で
走っていましたよね。
この車両達も、順次、標記が変更されて行ったのでしょうか?
それとも、最後まで変更はなかったのでしょうか?
話しは変わりますが、ナロ10の出入口の表示が、特別2等から
ただの2等になったのも、このときの改定なのでしょうか??
料金にも違いがありそうですね。
また、3等車は3等車のままなのでしょうか?
ほんとに、考えだすと、奥が深くて眠れない思いです。

倶楽部メモ(317) 平成18年 4月 1日〜 4月 4日

投稿者 クモイ103
投稿日 4月 1日(土)21時00分29秒
タイトル 調べる楽しみ
 さだお様、お役に立ててなによりです。

> ほんとに、考えだすと、奥が深くて眠れない思いです。

 一つのことがわかると新しい疑問が湧いてきて、次々と調べていくというのも、鉄道趣味の醍醐味の一つですよね。
さだお様のおっしゃる通り、考えるばかりではきりがありませんから、
文献調査など、こまめに情報を集めて分析し、ぜひご自分の知識の世界を構築なさって下さい。
 ちなみに、特別2等車の制度が廃止されたのは昭和34年6月1日、
塗色規程の改定は同月23日で、同時ではありません。
「特ロ」の廃止は国鉄の営業制度の改定であり(ひょっとして国会承認事項?)、
国鉄部内だけの問題である塗色規程の改定とは、基本的に別ものだろうと思います。

投稿者 さだお
投稿日 4月 1日(土)21時21分28秒
タイトル 狭く深く
クモイ103様のおっしゃる通りですね。
今後も、狭くてもいいから、深く追求して行きたいと
思っております。
塗色改定といえば、ぶどう色1号から2号へ変わった時
という理解でいいのでしょうか。
なぜ、変える必要があったのかなども、気になりますが
気長に調査してみます。
ありがとうございました。また、今後ともよろしくお願いいたします。

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